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2009年9月

自尊感情維持テクニックで防ぐ「いじめ」 ふり返り366日【08/7/09-2】/第89問

 現場で見てきた「いじめ」には、比較的親や教師も「予測可能」であるもの・・・つまり起こったときの因果関係に想像がつくパターンのもの=「防ぐ」ことも可能なものと、「予測不可能」なもの・・・これは、第三者が因果関係にすぐには気付けない、「関係性」の中で生じるパターンのものに大別することができます。

 最も難しいのは、「秘する形での関係性」の中で生まれるタイプの「いじめ」です。

 いじめられた本人がだれかに相談するまで、この「いじめ」は発覚しません。

 日本の子どもは、自尊感情が低いというアンケートからのデータがありますが、これは見方を変えればよりレベルの高い自尊感情を望んでいる、あるいは保持している可能性もあり、「自尊感情維持テクニック」を体得することで、「いじめ」の害を軽減することが可能になるかもしれません。

 「自尊感情維持テクニック」は、教師が日頃の教育活動で子どもに育成し続けるべきものですが、なかなかそういう実践は少なそうです。 

08/7/09 いじめは「かわす」のが正解か?  矢部武著「アメリカ発いじめ解決プログラム」(実業之日本社)に、心理学博士のカーラ・ギャリティが考案したHAHASOに基づく寸劇訓練というものが紹介されています。  記事で紹介した「いじめ被害の回避方法」はHAHASO(Help、Assert、Humour、Avoid、Self-talk、Own itの頭文字)のうちの2つでした。   文科省の定義では、精神的な苦痛を自助努力で回避できた生徒への攻撃的な行動が、「いじめ」と認定されないわけですが、たまたまそのときは回避できたとしても、心の傷として残り、それがさまざまな形で後遺症の症状のようにして表れるのではないか、そういう仮説を立てることは可能だと思います。 ①Help=いじめの被害にあったときに、他の生徒や先生、両親などに助けを求めることによって解決できた場合 ②Assert=いじめっ子に対して断固とした態度をとることができた場合、 ③Humour=いじめられてもユーモアのセンスを忘れずに応酬することができた場合、 ④Avoid=いじめにあった現場をすぐに立ち去ることができた場合、 ⑤Self-talk=いじめられた時に意識的に独り言を言って自尊心を維持することができた場合、 ⑥Own it=いじめっ子に意地悪なことを言われても、ムキになって怒らず、「私も同感」などと言って受け入れてしまい、自尊心を守ることができた場合・・・  もしいつか「いじめに関する調査」を行う機会があったら、過去にこのような方法でいじめを回避することができた経験があるかどうかを問うてもらいたいと思います。  著書で紹介されているロールプレイによる訓練を実際にやるとなると、日本では相当の配慮が必要でしょう。  特にユーモア、ジョークで切り返せるような子どもは日本ではあまり想定できません。そもそも対等な関係でないと難しいでしょう。  かえって擬似的ないじめをたのしむ子どもが出てきてしまうおそれがあります。  何も著者がこのような対処方法がいじめ解決の鍵だとまでは思っていないでしょうが、回避できた場合でも後の心のケアに責任をもつべきことを考えると、やはりいじるめ側と、傍観者に対するはたらきかけがいじめの予防には欠かせないことだと思われます。  ただ、個人の「力」を重視するアメリカらしい、戦略的行動がとれる個人の育成という視点も大切であることは言うまでもありません。  このブログも、そのような視点で教師の役割、能力、課題等を考えています。

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昭和の家庭史トリビア?【第89問】 
 昭和18年(1943年)の話です。
 米英語雑誌名が禁止され,『サンデー毎日』は『週刊毎日』に,『オール読物』は『文芸読物』と改称されました。では,『キング』は何と改称されたでしょうか?
 ① 雑誌王
 ② 獅子
 ③ 富士

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ブログランキング 歴史

 【第88問の解答
 ③の「シカゴ」でした。

藤田晋の成長学・教師編21 マネジメント能力を高める

 セオリー№21 平社員でもマネジメントの視点を

 学校というところは、採用1年目から「私はなるべく早く管理職になりたい」などと言えるような場所ではありません。

 大学なら、「なるべく早い時期に教授になりたい」は「あり」かもしれませんが、公立学校でそんな「偉そうなこと」を言おうものなら、「いじめ」を覚悟しなければならないかもしれません。

 学校には、学歴逆差別もあります。真っ平らな組織には、逆に、「」「」の感覚に敏感なところなのです。

 大学院を出て教師をめざす人が増えてきました(採用試験に受からないからとりあえず大学院、という話もあるようですが・・・)。しかし、現場で「使えないな」というレッテルを貼られてしまうと、きついでしょうね。年齢も高くなっているので、期待の大きさとのギャップという背景も・・。

 とにかく現場で実績を出す。一人前と見られることが大事。教育現場はそういうところです。

 もちろん、学歴などに全くこだわらない(あえてだれも触れようとしない・・・そのため、先輩後輩の関係であることを知らない人たちも・・・)学校もあります。履歴書を見ることができるのは管理職まででしょうから・・・。

 教育現場は、いい歳になっても、「管理職はつらそうだから嫌、なりたくない」という人だらけです(それでは困る、という人も少数派です)。

 そういう教育現場でも、「マネジメント」の視点は、現場の「ヒラ教員」にも、絶対に必要なものです。

 このことの実感を得るのは、いくつかの特別の経験を経ないといけないのかもしれません。

 「この点について、校長はどんな決断をするのか。私なら・・・」と考える習慣が全くなく、常に管理職経由が最新情報で、常に「また校長があんなこと言ってら」という「批判専門教員」としての地位を固めている人には、そもそも「マネジメント」の意味も分からないかもしれません。

 ただ、実は教師の仕事は、そもそもそれ自体が非常に高度なマネジメント能力を求められているものなのです。

 教師のコンピテンシーでも紹介してきました。

 もちろん、無理に管理職をめざす必要はありません。

 ただ、仮に管理職になったと仮定して、それで成長がストップしてしまうような人はだめです。
 
 ヒラ教員としても成長できないでしょう。

 「マネジメント」には、そういう個人の「成長戦略」を立てる能力も含まれているです。

藤田晋の成長学・教師編20 ともに成長できる教師集団

 セオリー№20 ロールモデルは「前例」に過ぎない

 私の場合は、たまにしかお会いできない先生からも、多くのことを学べたので、メンターロールモデルの有効性を重視している人間なのですが、藤田社長の言っていることもなるほどと思えてきます。

 人は何といっても身近な存在から最も影響を受けるものです。いくら自分にとってタメになるようないいことを言ってくれる人でも、物理的に遠いところにいる人や自分の仕事からかけ離れた人からは、本当に強い影響、あるいは良い効果というものは、得にくいのではないでしょうか。

 そういう意味では、初任者や2,3年目の教師に、1年だけの先輩教師をメンター兼トレーナーに認定して指導していくシステムをとっている自治体は、なかなか賢いと思います。

 私の経験でも、初任者の指導教諭はベテランよりも若い教師である方が、指導力向上の「相乗効果」も表れて、学校の教育力の向上にも、もってこいの仕組みだと考えています。

 ただ問題は、力量の逆転が容易に起こり得るということであって、上下関係ではなく「学び合い」の関係を重視した方がよい結果になる場合もあります。

 企業社会なので、「ロールモデルがいないということは、それだけチャンスがあるということ」という話が成立しますが、学校教育ではどうしても守・破・離の段階的ステップが大事なような気がします。

 暴力で解決してしまうドラマの教師のようなロールモデルはもちろん必要ありません(というか、害悪です)。

藤田晋の成長学・教師編19 刺激し合える教師集団

 セオリー№19 できる人より志の高い人とつき合おう

 若い教師たちは、どのような先輩教師に、先輩教師のどんなところに魅力を感じるのでしょうか。

 生徒の話を親身になって聞いてあげている、カウンセリングマインドにあふれた教師を見て、「私もああいう信頼しきっている子どもの目で見られたい」と思うのか。

 授業が上手で、生徒も非常に乗っている、そういう教師か。

 部活動の指導とか組合活動に熱心で、「志に燃えている人」か。

 管理職をめざしていて、「こういう学校を創りたい」という理想を掲げている人か。

 苦情も言わず、浮かれた口も聞かず、黙々と毎日の仕事を確実にこなしている教師か。

 教師にも、非常に様々なタイプの人がいますね。

 子どもの感じる教師の魅力と、教師が感じる教師の魅力は異なっていて当然ですが、「子どもの目」で教師を見ようとする姿勢は大切でしょう。

 次に、どのような教師に「仕事を教わる」のか。

 学校現場の場合、仕事は教えてくれること、与えてくれることを待つのではなく、自分から仕事を探す姿勢が非常に大切です。

 優秀な教師ほど、子どもにも同じような態度を要求しますから、どんどん教えてくるようなタイプの教師から学べるものは案外少ないのかもしれません。

 自己成長は、やはり受け身では果たせないことです。

 では、「つき合う」のはできるタイプの教師とがいいのか。

 藤田社長は、つき合うのなら「刺激し合える人」というセオリーを紹介しています。

 確かに、自己成長に燃える教師集団なんて本当に理想的ですね。

 職員室で世間話に興じるか、教育論を戦わせるか。

 これが、ただの正論を聞いて、はい、そうですね。おっしゃる通りです。・・・そんなことをしていても、おそらく自己成長は果たせないでしょう。

 正論らしき主張をして、かつ議論に立ち向かおうとしない教育ブログを読んで、何かためになりましたか?

 物理的な面だろうと精神的な面だろうと、自分が相手に与えられる対価は何なのか。相手より、むしろ自分が、はっきりとそれをつかんでおくことが、人脈作りでは大切でしょう。

ウィキペディアの教科指導版はできるか? ふり返り366日【08/7/09】/第88問

 文部科学省動画チャンネルで、担当課長から新しい学習指導要領についての説明を見ることができるようになったのは、8月13日でした。

 教師が見たいのは、各教科の指導に関する情報(移行措置なども含めて)なので、今後、積極的に公開してほしいものです。

 大きな研究発表に参加してみていつも思うことですが、発表内容に対する質疑応答がとても貧困であり、参加している意味があるのかどうか疑問に思えてしまうものが多いのです。

 このことに影響を与えているのは文科省の教科調査官などからの講演の時間が設定されているからで、ひどいときは時間の都合で質疑応答は中止、なんてこともあります。

 もちろん話を聞くだけでためになることも多いでしょうが、事前にいくらでも勉強して質問も用意できるものを、ただ聞いて帰ってくるだけというのは、社会科教師の場合はいかにも生徒が同じような態度で授業を受けているのだと邪推したくなってしまいます。

 ちょっと硬派の教育雑誌を読めば、ただ同じことをいろんなところで言い換えているだけの、ほとんど参考にならない内容ばかりで、わざわざ購入して落胆するにも限度があるだろうという状況になっています。

 紙資源、学校予算の節約のためにも・・・。
 
 ウィキペディアの教科指導版のようなものはできないでしょうか。

 もちろんある項目についての見方・考え方は様々でしょうから、いくつかのタイプの説明が補足・訂正・加除を繰り返しながら、共通理解が可能なものに近づいていく・・・そういう過程も見える「研究会」がネット上で開かれる日が来るのを待っています。

08/7/09 文科省への提案 ~解説への解説は映像(動画)で~  今私が抱いている教育への危機感の中で、かなり大きな比重を占めている問題について述べてみたいと思います。それは、教科指導の専門性が高い人間からの情報発信力が低下しつつある問題です。  問題の発端は、週刊誌の記事でした。  それは、文部科学省の教科調査官が、多くの出版社から執筆の依頼を受け、多額の原稿料を受け取っていたという問題です。  東京都の場合はこれに先だって、平成15年頃でしたか、同じように指導主事が教科書会社などと結びつきをもち、原稿を書いて副収入を得ていたことが問題となり、以降はほとんど接触することができなくなりました。  教科書会社や教材会社にとっては、よい原稿が書ける教員を探すわけですが、一番いい書き手は、教科指導の専門性が高い指導主事レベルの人材だったわけです。  指導要領の解説本などは、それに携わっていた教科調査官を利用するのが一番てっとり早く、間違いがないということで、今まではそういう本が出るのは当たり前でした。  しかし、中学校でも間もなく学習指導要領解説が公表されますが、今回はそれに関する解説本は別の人が書くしかなくなるように思います。  そもそも、文科省が著作権をもち、一冊100円くらいで売り出される解説自体が不十分な内容だからさらに解説本が出されるのであって、改善の選択肢としては、「解説」の出版はやめてそこから民間にまかせるか、もっと詳しい解説を文科省がつくるかというものが考えられるのです。  後者の方は、ほとんど「国定教科書」のようなものができてしまうと批判されてしまうため、文科省はより簡便な「解説」を出すのにとどめ、教科書づくりも大幅に弾力化させられる方向を目指すという選択肢もあります。  あるいは、文科省できちんとQ&Aを作って、それを公開するか、伝達講習などはやめて、解説の映像をネットで公開して、だれもがその内容を聞いて質問することができるようにすればよいのです。  事務方は、「教科調査官」という人材を、より学校や教科書会社のニーズに合う方で活用しなければいけないのです。今のままでは、東京都に指導主事のなり手がいなくなるのと同じように、教科調査官のなり手もいなくなります。

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昭和の家庭史トリビア?【第88問】 
 昭和17年(1942年)の話です。
 12月2日,アメリカのある都市の原子炉で,ウランの核分裂連鎖反応の実験が成功し,人類初の原子の火がともりました。この都市とは?
 ① ロサンゼルス
 ② ヒューストン
 ③ シカゴ

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ブログランキング 歴史

 【第87問の解答
 ①の「篝火草」でした。「秋桜」はコスモス。「篠懸樹」(すずかけのき)は,プラタナスのこと。

新型インフル対策・文科省通達の威力 ふり返り366日【08/7/08】/第87問

 文科省の通達というのは威力のある、ある意味「究極」の方針で、おそらく学級閉鎖・学年閉鎖に踏み切る小中学校が急激に増えることでしょう。

 成功と言えるか、効果がなく失敗に終わるかは、しばらく様子を見てみないと分かりません。

 子どもにとって気の毒だったのは、この流行のシーズンと運動会、文化祭、部活動では秋の大会(新人戦)が重なってしまったことです。

 また、一度感染した生徒が、「もうインフルエンザにはかからないだろう」と安心できるかどうかは分かりません。

 変異したウイルスが強毒性で、一度感染した人だけは救われる・・・なんて結果になったら、今の不幸が逆転するかもしれません。

 ・・・などと仮説に仮説を、予想に予想を重ねても仕方ありませんね。

 繰り返しになりますが、一番心配なのは、入試のシーズンに大流行していたら・・・ということです。

 大学は「二次試験の実施可能性」を打診されているようですが、中学入試・高校入試はそれに対応することは事実上不可能でしょう。

 どうなることか・・・。

08/7/08 その問いへの究極的な答えとは・・・。  ずい分以前に読んだ本でしたが、スティーブン・R・コヴィー著『原則中心リーダーシップ』(キングベアー出版)を読みかえして、  傍線を引いていた箇所の意味を改めて噛みしめています。

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 恐ろしいほど複雑な世の中で、どうしたら一貫性を持つことができるのだろうか?

 予期せぬ突然の変化によって、優れた地図(戦略とプラン)でさえ役に立たなくなる現代の荒野で、どうしたら方向感覚を失わずにいられるのだろうか?

 どうしたら非難と自己正当化ではなく、同情と理解をもって人間の弱さを見守ることができるのだろうか?

 どうしたら偏見を捨て、尊敬と探求の精神をもって他人の学習と達成を促し、長所をのばすことができるのだろうか?

 どうしたら変化と進化への強い熱意を持つことができるのだろうか?

 多元性と多様性の価値を認め、尊敬の念を持って相手を賞賛できるような人間になるにはどうしたらいいのだろうか?

 何からはじめたらいいのだろうか?どうしたら心のエネルギーを充電して学習、成長、進歩への情熱を持ちつづけることができるのだろうか?
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 これらに共通して言える答えとは・・・。究極的には、教育の世界の私たちは、「子どもの立場」になって常に考える、ということです。
 私が教師に対して常に批判的であるのは、「そんなことを言われたり、書かれたりしたら、子どもはどう考えるのか」「子どもはどんな教師のどんな指導・授業をのぞんでいるのか」という問いから始まってしまうからでしょう。
 もちろん、自分も教師ですから、同僚への「同情や理解」はリアルな世界では非常に優先順位が高いものです。
 しかし、子どもが被害を受けているとしたら話は別です。
 「自分より実力のある生徒とつきあいなさい」という指導言に対してさまざまな直言をいただきましたが、それが言える人間関係・信頼関係の構築にどれだけ力が入れられているかまでは、ネット上では伝えきれません。
 批判的思考力を育ててある子どもというのは、必ず教師の指導言の「意図」を読み取ろうとしてくれています。
 単なる教科書的な知識や社会的な常識だけを教えてくれるのが学校や教師ではないんだなと子どもに実感してもらう教育を目指しています。

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昭和の家庭史トリビア?【第87問】 
 昭和17年(1942年)の話です。
 京都植物園が,「外国語を一掃し,日本語に帰れ」と,園内の花草木1万余りを日本語名に変更しました。
 「シクラメン」は次のうち,どれでしょう。
 ① 篝火(かがりび)草
 ② 秋桜
 ③ 篠懸(すずかけ)

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 【第86問の解答
 ①の56社でした。

自尊心維持システム ふり返り366日【08/7/07】/昭和17年に始まったもの

 いじめを「無」にする「自尊心維持システム」は、幼少期に基本的信頼感を獲得している子どもに特有のものなのか、それとも虐待を受ける子どもにも形成されるものなのか、私の乏しい経験では分かりません。

 親として、学校でのいじめから子どもを守るのは難しいことですが、学校でいじめを受けたとしても、それを無力化する力を子どもにはぐくむことは可能であるかもしれません。

 もちろん、親として、いじめをしない子どもに育てることも可能でしょう。

 難しいのは、同調への圧力が強い集団に入ってしまったときに、子どもが「いじめをしない」方を選択しきれる強さを身に付けられるかどうかです。

 「いじめられている」と周囲に訴えることで、特定の子どもを「いじめる」という「技」も登場しているようですが、早くこの負の連鎖から抜け出てほしいものです。

08/7/07 「強さ」が導く潜在的な「いじめ」  文科省の現在の「いじめ」の定義は、「子どもが一定の人間関係のある者から、心理的・物理的攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」(いじめをするのは仲間や友達)となっています。  今の私の一番の関心は、そのときそのときで、「精神的な苦痛を感じている」と自覚しないように防衛している子どもはどうなるのだろう、という問題です。  「いじめがある」という訴えを受けると、直接の当事者に事情を聞くことになるのですが、「いいえ、いじめられていません」と強く否定する子どもがよく見受けられます。  こういう場合は、「いじめがある」という事実はないことになり、統計上の数字にもなりません。  しかし、こういう場合こそ危ないのではないか、ということに気付いている教師はどのくらいいるのでしょうか。  プライドの高い子どもほど、「自分はいじめられている」ということを認めたがらないものです。 10年くらい前のアメリカのいじめ解決プログラムに、「いじめに遭遇したときに有効な6つの対処方法」というのがあって、その中に、  いじめられてもユーモアのセンスを忘れずに応酬する。  いじめっ子に意地悪なことを言われても、ムキになって怒らず、「私も同感」などと言って受け入れてしまい、自尊心を守ること。 というのがあります。  こういう「自尊心維持システム」を作動してしまうと、そのときの「いじめ」は文科省の定義でいうと存在しないことになってしまうのです。  しかし、実は心はすでに傷ついていて、その傷が痛み始めるのが1年後とか、10年後とかいう場合もあるのではないか。  いじめられたその場で、「弱さ」を発揮してしまう方が、問題は解決しやすい学校が増えているのに、逆に子どもに防衛力がついてしまうと、その「強さ」が後々の大きな悪影響を生む・・・・。  心理学の専門家の先生は、「いじめなんかされていません」という子どもには意識的に寄り添い続けるべきである。そうすると、徐々に本音が出てくるかも知れない・・そのような貴重なアドバイスをいただきました。

*******************

昭和17年(1942年)がスタートのもの
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
○衣料の点数制実施。1年間の点数は都市部で100点。
 背広は50点,国民服・学生服は32点。スカート12点。
 ブラウス8点,ズロース4点など。
 (すぐに衣料切符のヤミ販売が判明する)
○東京に初の空襲警報が発令される。
○日立製作所が電子顕微鏡を製造し,第1号が名古屋大に納入
 される。
○国語審議会が,横書きは左からに,仮名遣いも発音通りを原則として,「てふ」(蝶)は「ちょう」と書くように統一。
○6月1日を「気象記念日」とし,第1回記念式典が開催される。
○高等学校の鉱物および地質科を「地学」と改称。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

藤田晋の成長学・教師編18 目標設定の方法

 セオリー№18 目標は1つに絞り込もう

 学校には本当に数えきれないほどの「目標」がありますね。

 学校教育目標、学年目標、学級目標、班目標、生活指導目標、今月の目標、今週の目標、教科の指導目標、授業での「本時の目標」、・・・・

 ちょっと前からのはやりは、「数値目標」。

 これは具体的な結果をもとに評価しやすくするための工夫です。

 もちろん数値目標になじむものと、そうではないものがある。

 「会議の時間を20%短縮しよう」・・・これはあり。終わりの時間を意識して、スムーズに会が進行する可能性があります。

 一方、「いじめをゼロにする」・・・「いじめ」ほど本当の実態の把握が難しいものはありません。

 藤田社長のセオリーは企業社会に合ったものですが、参考になる部分があるかもしれません。

 どんな目標でもそれに向かって集中し、全力投球できるかどうかが結果を大きく左右するのは言うまでもありません。逆から考えれば、達成に向けて集中できるような目標設定の仕方を工夫することが大事だとも言えます。

 目標を一つに絞り込む・・・というのは「集中して仕事をこなす」上ではなかなかよい戦略かもしれません。

 私は「優先順位」を「重要性」「緊急性」「適時性」を考慮して目標を意識しながら行動していますが、どうしても一つの目標から小さな達成目標が階層化して組織されるような状況が続いています。

 目標を一つに絞って仕事をするときの注意は、それによってより「大切なこと」がおろそかにならないか、ということです。

 これも一時期、「評価活動」に非常に熱心な教師が増えたときがありました。そこでの最大の問題は、おろそかにされる「指導」でした。

 ずっとテストの採点ばかりして、ほとんどが自習のようになってしまう担任では生徒はきついでしょう。

藤田晋の成長学・教師編17 力を抜く教師と手を抜く教師

 セオリー№17 力の抜き方が分かった時が伸び悩みの危機

 分からないこと,困難なことにぶつかったときに,先輩教師にいろいろと質問したり,本を読んだり,指導しながら試行錯誤を繰り返したり・・・そういう「若い時期」を経験した教師の話です。

 若いころから「力を抜いている」というか,「力の入れ方が分からない」教師の話ではありません。

 「力の抜き方が分かる」とは,「このことはAさんに任せておけばよい」とか,「これは教師がやるより子どもにやらせた方がよい」という判断のもと,自分がかかわらなくなることが増える,という意味で,「成長できた」という一面もあるのです。

 ただ,組織体である学校の一員として,他の教師と自分自身の長所や短所を理解した上で,それぞれが最適な活動をし,高いパフォーマンスを実現できるようになるには,相当の時間を要します(その主原因は,管理職が組織を動かせないからで,主幹が導入されてそれがどの程度実現するようになったかはまだ分かりません)。

 一見するとみんなで無駄なことをしているようなことが,実は一人一人の力量を向上させているという好結果になっているということも考えられるので,「効率重視」「仕事の分散」が常に正しいとは言えないのも学校の特色です。

 教育は「人を育てるのが仕事」なのだから,「自分の力量は高まらなくてもよいだろう」という変な理屈も考えられます。

 しかし,子どもは「力を抜いている教師」と「手を抜いている教師」の違いは肌で感じ取ることができるのです。

 「手を抜いている教師」からはそういう態度を学び,伸びようとするのをやめてしまうかもしれません。

 うまく「力を抜いている教師」からは,期待される自己を感じ,伸びようとします。

 力一杯,教育の仕事に取り組む教師から,子どもはどんなことを学べるのでしょう。

どんな「記録」をめざすか ふり返り366日【08/7/06-2】/昭和17年に中止になったもの

 「大記録」にも,いろいろなタイプのものがあることを,子どもに分からせるきっかけになるいいニュースがあります。

 それが,野球で言うと,「○年連続○○本以上の○○」という記録です。

 これを,「年間最多○○記録」という単発のものと比べてみたら,どんなことがいえるでしょうか。

 「お金に置き換える」のは嫌らしい話ですが,目安にはなります。

 大ベストセラーを出した作家の新作が,あまり本屋で見られない・・・そういう例もいくらでもあるでしょう。

 究極の選手,作家とは,毎年毎年,今までの記録を破り続ける・・・そういう人でしょうが,それこそ「究極」であって,実現はなかなか難しい。では,1年限りの記録を目指すか,○○年連続という記録を目指すか・・・?

 教師として,どんな「1年限り」「○○年連続」という記録を打ち立てることができるのでしょうか。

 そんなに難しいものではないのは,○○人以上に見ていただく研究授業を年○回という目標。

 これが毎年伸びていくということは,実力もついていっている証拠になるでしょう。

 もちろん,途中で挫折を経験することがあるかもしれません。

 一度途切れても,あらためて活躍した人に贈られる「カムバック賞」。

 いずれにせよ,だれが「賞」を出すわけでもなく,ひそかに目標を立てて仕事に取り組むのもいいものでしょう。

08/7/06 「売れれば売れるほど失われる信用」の問題  当ブログに対しても私の教師としての資質についても、積極的なご批判をいただいているおかげで、直接的に面と向かって議論や指導をしている相手方の目線に自分自身を置き換えてつつ、話を進めていくくせがついてきました。自分を批判的に見る自分がそこにいることを意識できることはすばらしいことです。  当ブログは、教師が陥りがちな失敗に目を向け、それを改善するために必要なこと、あるべき姿を追究することを目的にしていますので、ここしばらくは願ったり叶ったりの状況が続いています。  私が読者として基本的な対象としているのは教師でありますが、「教師にひどい目にあった」方々が「教育失敗学」というタイトルをふまえてご覧になることも考慮に入れて、なるべく記事を書いていこうと思います。  私自身の理解力や表現力が及ばないために、私の教え子たちまでもが誤解されていることが無念でなりませんが、直接ご紹介して誤解を解くわけにはいきませんので、文章によって認識を改めていただけるよう努力をするしかありません。  ひどい教師がいたら、その教え子はみんなひどい目に合っている、とか、子育てをろくにしない親の子どもは、みんなろくでもない・・・なんてことは決してないのですが、どうしても人間は何かの原因を人のせいにしないと気がすまないというか、そうやって精神の安定を図っていくものなのだと実感しております。  朝令暮改の発想・その6は、「部下は『常に自己正当化する存在』だから追い詰めることも必要」という話です。  教師も単純な話、「何で私がこんなに努力しているのに子どもは言うことを聞くようにならないのか。親はいったいどんなしつけをしているのだ!」と口に出しやすい存在ですが、「はい、そうですね。仕方がないですね」ではどうしようもないわけで、「自分はどのような仕事のやり方をしてきたのか。自分が生徒に教えてきたことを入学当初から整理するとどうなるか。どこに今、子どもが話を聞かない原因があるのか・・・」と追求していく姿勢が大切だと思うのです。そういう姿勢がなく、「そこそこ聞いているからいいでしょう」などという答えを返す教師に対しては、厳しい言葉を返していくことになります。  セブンイレブンのチャーハンについて、部下の自己正当化を鵜呑みにしていたら、質の追求などとうてい不可能だ、という話が紹介されています。
 「(そこそこ)売れているからいいのではない。自分たちが納得できていない味の商品が売れていることにこそ危機感を持たなければならない。セブン-イレブンのチャーハンはこの程度かと思われては、売れれば売れるほど信用は失われていく」
 「教育とは答えを教えることではなく、部下に『気づき』を与えることです。部下が自己正当化を始めたら、本人の中で『これ以上は無理だ』と守りに入る意識が生まれ始めている表れです。しかし、限界を突破できれば自信がつきます。これを繰り返しながら部下は成長していくものです。・・・上司が『仕方がない』と思ったときから部下の成長は止まり、組織も停滞が始まります。」
   私のリーダー育成もふり返ってみれば同じことでした。  しかし、このような働きかけが可能になる程度までまずは一人でも多くの生徒を成長させることが大切なのは、言うまでもありません。

****************
昭和17年に廃止・中止・禁止されたもの。
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 ○外国製乗用車の販売が禁止される。
 ○朝日新聞社,26回にわたり実施されてきた全国中等学校野球大会の中止を発表。
 ○京都製氷組合と飲食店組合が,ぜいたくな氷の消費はやめることを決議。うどん屋・料理店・喫茶店・カフェーなどでの氷使用の廃止。
 ○マヨネーズの製造が中止に。
 ○明治製菓,時局急迫のため,「ミルクチョコレート」の製造を中止。
 ○5万分の1の地図は秘密扱いとなり,販売禁止に。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

受験とインフルエンザ ふり返り366日【08/7/06】/昭和17年のブーム

 子どもの立場ではなく,自分の立場しか考えていないような言動が,「気を抜く」とすぐに露出してくるのが教育界です。

 できるとかできないとか,結果は一切考えなかった。何が何でもやるとか,そういう気負いも悲壮感もなかった。ただ,やる。ダムを作る。考えたのはそれだけです。まあ無我ですね。あとは真っ白です。突撃です。

 戦前・戦時の教育の成果は,「戦争」という極限状況の中では最悪の結果としてあらわれたわけですが,「ダムづくり」の場合は,そういう教育の成果なしでは実現不可能だったのではないかと思ってしまうような言葉です。(今井彰著『プロジェクトX リーダーたちの言葉』文藝春秋・黒四ダム総監督・中村精の言葉より)

 受験生とその保護者にとって,「もし受験当日にインフルエンザにかかってしまったらどうしよう」という心配事があると思いますが,「出席停止扱いの生徒は受験できない」という態度をとられてしまったら,「はい,そうですね」と簡単にあきらめることができるでしょうか。

 39度の熱が出ていて,体調がひどいときには「あきらめる」こともできるでしょうが,「インフルエンザに感染した可能性がある」「熱が下がって1日目」などで出席停止扱いを受けたときに,受験をあきらめることができるかどうか。

 私学の場合には,個別の学校で別室受験という措置がとられるのが普通でしょうが,公立高校ということになると,どこか1校でも「そんな措置はとれない」ということになると,他の100校が可能だと言っても,「不公平だから受験させない」という結論に達する可能性があります。

 「他の受験生のことを考えれば,受験させない措置をとるのが当然だ」という考えもあるでしょうが,では,「もしインフルエンザに感染していることを隠して受験する人がいたらどうするのか,そもそも,疑いがあっても病院に行かない受験生の場合はどうするのか」と聞かれれば,何も答えられなくなります。

 大学入試センター等でも,新型インフルエンザ対策を検討中でしょうが,結果としては,「別室受験措置がどこまで可能か」が焦点となるでしょう。そのときにおこる「学校格差」をどう処理するか。

 こういうとき,公立学校の校長は何の役にも立たない存在であることが露呈します。

08/7/06 新・教員団塊の世代誕生へ向けて  朝令暮改の発想・その5は、「『先手を打つ』より変化に対応して『朝令暮改』ができる方が大切」という考え方です。  本のタイトルに使われている「朝令暮改」の意味は言うまでもないことだとは思いますが、要するに、たとえ朝決めたことであっても、間違いだと気づいたなら、直ちに変更することには、臆することなく徹すべきだということです。  しかし、世の中には、以前の趣旨と違うことを発言すると、「前と意見が違う」ことを理由に朝令暮改を責める人々がいます。著書にあるように、変化の時代だからこそ、むしろ朝令暮改が必要になる(あるいは避けられない)わけです。
世の中がこれほど変化している以上、前に正しかったことがいまも正しいとはかぎりません。雨が降ってきたら傘をさすのが当然です。晴天から雨に変わって傘をさしたからといって、『晴れていたときと違うではないか』と責める人はいないでしょう。
 学校組織にも「朝令暮改」ができる部分が必要だと考える私は、仮説と検証を柔軟に重ねていける学校のあり方こそが、今の教育に求められていると主張しています。  もちろん、企業の商品開発のような超短期のサイクルの話をしているわけではありません。  文部科学省は「朝令暮改」と位置づけている訳ではないのですが、ほぼ10年1サイクルで新しくなる学習指導要領ができあがるまでには、かなりの人数の現場の教師も携わって、さまざまな社会の変化に対応できる内容を検討しているのです。パブリックコメントの募集や集約・公開も進められています。  学習指導要領の改訂が「混乱」の原因だと主張されている方がいらっしゃいますが、私の目から見て、改訂が原因の「忙しさ」をはるかにうわまわる別の「混乱」原因が学校には山積しています。

 もし教師が学習指導要領を読んでいないとしたら、「混乱」の原因はどこにあると言えるのでしょう。
 その山積している問題への対処のあり方について、学習指導要領は、法令に準じるものとしてはかなり限界に近いところまで具体的に表現するようになっています。
 ですから改訂はむしろ停滞している学校改善のカンフル剤としても使えますし、子どもや保護者への「本当に教育したいことは何か」という学校からのメッセージを伝えるのにいい機会にもなっているのです。
 子どもの立場からは「ころころ変わってこまる」という発想は見えてきません。(ただ、移行期間は学校の対応力・教師の指導力による混乱が見られる場合があります。)
 基本的に、改訂の趣旨が十分理解できるものであるなら、改訂するのは当然のことですし、「何があっても改訂しないですむものがほしい」「そもそもなくすべき」という無理な相談は、教師の立場の発想であって、今後ますます変化の激しい社会を生きる「子どもの立場」からの発想ではないでしょう。
 とにかく現実問題として、現行の学習指導要領では、その趣旨(昔からの内容も含めて)をよく理解できずに目標を実現できない学校が多かったことが、改訂の趣旨を考える上では欠かせない前提となっています。
 これまでの繰り返しになりますが、私の大きな関心は、教える側の大きな変化として、「大量採用の団塊の世代」が抜けるのと同じタイミングで採用される「新・教員団塊の世代」が生まれたときの学校がどうなるのか、ということです。
 倍率が下がるだけで、どれだけ資質に課題のある教師が増えていくのか。
 現行の学習指導要領に基づく教育を受けた新規採用の教師たちが、どれだけ「生きる力」を身に付けているか。

 免許更新制は現在の教師の問題だけでなく、将来の資質問題への備えとして想定されますが、行政の側には、「自分たちは教師の資質の向上を保障する場を設けることは設けた」という言い訳ができることになり、「だから教師の資質低下は本人たちの問題だ」ですまされてしまうおそれがあるのです。
 「生きる力」が身に付いている教師なら、そのハードルは容易に乗り越えることができるのでしょうが・・・。
 なお、ある先生は、「総合的な学習の時間の運営については、他校から転任してきた教師より、初任者の方がよっぽど役に立つ」とこぼしていました。
 転任してきた教師の場合、前任校より「手のかかる」総合を実施していると、「めんどうだな」と思われてしまう傾向があるそうです。

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昭和17年(1942年)のブーム・流行・流行語
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○高等学校の理系志望者が激増。
○戦勝祈願のため,三重・伊勢神宮の参拝客が激増。
○東京で唯一の地球儀製作所が大繁盛。特に,占領地に「日の丸」の紅を書き込んだ豆地球儀に人気が集中。
○翌18年の暦に,迷信・まじないを刷ったものが大流行。内務省はそのうちの400種を発禁。
○「負けられません勝つまでは」「頑張れ!敵も必死だ」など,「国民決意の標語」10点が決まる。
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藤田晋の成長学・教師編16 若さが武器になる学校

 セオリー№16 ビジネスの場では若さを隠せ

 教育界では,「若さ」は武器になるのかどうか。

 よく,「若さ」は情熱体力スピード柔軟性という長所と結びつくと思われています。

 ところが,学校の場合,まずこの常識が期待はずれになることがある。

 最も早くそれを見抜き,喜んだりがっかりするのは子どもたちです。

 「若い教師が部活をもたない」「女性が多くてお願いもしにくい」「頭が固い

 中学校の話ですが,多くの地域で耳にした言葉です。

 「若い人では心配」「ベテランの方がいい

 これは,企業社会で生きてきた人と同じとらえ方でしょう。

 「若さを隠せ」というセオリーの「若さ」とは,「経験の浅さ」=「判断力などの未熟さ」という欠点のことでしょう。

 では,学校では,部活をもって子どもと一緒に汗を流し,情熱を注いでいると見えるように,「若々しさ」をアピールし,それで「経験の浅さ」に基づく信頼の低さをカバーすればよいのでしょうか?

 学校が若い教師の「若さ」に頼り出したときは,もう多くの教師がその「賞味期限」を終えようとしているところだと思ってもよいでしょう。

 どんなにベテランの教師でも,その魅力の大きな部分は「若さ」です。

 若いときは,自分のスケジュールを仕事でいっぱいにする・・・そういうセオリーと連動させていくしか,「信頼」を勝ち取る方法はないでしょう。

藤田晋の成長学・教師編15 かつての長所が成長を阻害する

 セオリー№15 効率よりも場数が能力を決める

 教員採用のシステムの大きな問題は,受験学力の低い人が最初のふるいで落とされてしまうことです。
 採用試験に受からない講師の中に,子どもとのコミュニケーションが上手で,(だから)授業もよく分かる・・・という印象を子どもに与えられる人がいます。
 ですからコミュニケーション能力という最重要の資質のふるいから入って,最後にペーパーというのが採用の理想なのですが。
 採用にカネを時間をかけないシステムでは無理でしょう。

 藤田社長も書いていますが,高学歴・高「学校学力」の人の中に,自分のプライドが邪魔をして行動力の鈍さが目立ってしまう人が少なくないというのは,新規採用の教師を見ていると納得できることです。

 採用直後の教師の動きで,その後の「成長速度」が分かるというのも,ベテラン教師なら何となく事例が思いつくのではないでしょうか。

 ペーパーで上位に入れる人間というのは,一定程度,「どのような効率的な方法があるだろうか」という発想をもっているでしょう。つまり,「要領よくやってきた」経験と実績があるのです。

 それを,全く新しい世界で適用できるかどうかは未知数です。

 効率を考える前に,まず場数を踏めるかどうかが大切です。

 このセオリーは,実は子どもの教育活動そのもののセオリーを言っているのと同じです。

 さらに,教師の育成についても全く同じなのです。

 若い教師にたくさん経験させる。
 そういう職場にいる人は,「成長速度」も向上するでしょう。
  
 ベテランが効率よく生徒を動かし,成功させる。そういう学校も少なくありませんが,育成をサボっていると,このベテランがいなくなったとき,多くの学校で悲劇が起こります。

 育成の発想がない学校や学年に所属している場合はどうしたらいいでしょう。

 それは,いつも指導の現場に身をおいて,「私ならどうする」を常に考え続けることでしょう。

 職員室の自分の机に座っている時間がどれだけ短いか。成長速度が決まるポイントかもしれません。

 私の場合は変な子ども時代を送っていて,このことを小学校のときから考えていました。
 もちろん教師になろうなんて思わなかったときからです。

 地域の中学校がひどい荒れで親が「とても通わせられない」と考えたときから,すでに公立学校不信は始まっていました。

 働きかけをするかどうかは別として,最低限,「見えるところ」「聞こえるところ」に身をおけるかどうか。それが大切です。

「見る」ことの意義 ふり返り366日【08/7/05-2】/第86問

 組織が大きくなれば大きくなるほど,課題に気付いたときに「すぐに対応する」ことが難しい。

 カレンダー上で設定されている会議の日まで待っているうちに,課題がかなり深く進行してしまって,手遅れになる場合もあります。
 また,数人の教師が「気付いている」のに「放置している」と生徒に受け止められ,そのメッセージがさらに大きな問題を生む・・・。

 学校現場というところは,あまりの問題の多さに教師の側では感度を下げざるを得なくなってしまうというケースもありますが,もともと「アンテナに入ってこない」「レーダーに映らない」タイプの問題の糸口になるものを見逃してしまうと,「今の子どもは分からない」というあきらめにつながってしまう恐れもあります。

 アンテナレーダー性能が,教育力の源泉の一つです。

 それを磨いていくためには,小さなことを見逃さない習慣をつけなければなりません。

 無反応ではなく,「おや?」という表情を生徒に見せるだけでも,それが有効な「対応」になっていることがあります。

 「見る」という行為の教育的意義についての分析をしてみるのもおもしろいかもしれません。

08/7/05 反対意見へのアンテナ 朝令暮改の発想・その4は「本を読みながら傍線を引くなら『反対意見』に引く」です。  ブログや自己啓発本などで自分も同感に思える意見に出会えば、心地よく、さらに共感するメッセージを相手に伝えることによって、交友の幅が広がったりもします。  ただ、共感しているということは、自分もその考え方の域に達しているわけなので、そこから得るものは少なく、それ以上の自己の発展はあまり期待できない、というのが著書の考え方です。  過去の成功体験によりかかり、それを鵜呑みにしている限り、自分自身も過去の経験から抜け出せなくなる可能性がある。  一方、自分と異なる意見、反対意見と出会ったときは、  どこが異なるのか、  なぜそう考えるのか、  根拠は何か、  ひるがえって自分はなぜこう考えるのか   などということを考えつつ、さらに自分を発展させたり、補正したり、補強したりすることができる。  ・・・これは、本の読み方についての考え方の一つです。  私の場合は、教育者の失敗事例に最大の関心があり、逆コンピテンシーを整理したいと考えているので、そのような情報に自然と目が行くようになってしまっています。  アンテナにひっかかってくる情報の多くは、自己責任回避のパターン、「子どもの立場」での思考になっていないパターン、評論家的・抽象的で自分自身が何をしたいのかが伝わってこないパターンなどがあります。  「もっと自分のことを考えろ」というご指摘もいただいておりますが、学校内でこのような指摘が双方向に行き交うことで、あるべき実践の本質が見えてきているように思います。これはあくまでも私の実感です。  同じ指導言でも、性格や能力等の異なる子どもへの伝わり方は十人十色であり、能力を過信したり内面まで見通せなかったりすると、その指導は失敗に終わります。  しかし、多くの道徳授業のように、いつまでも「失敗しないための指導」を続けていても、目標は達成されにくい。問題行動がおこってからスタートする「守りの生活指導」では、同じ問題は何度も繰り返されるでしょう。  いずれにせよ、子どもへ「本当に成長してほしい」「強く正しい人になってほしい」「実力を伸ばしてほしい」というメッセージが響いていく指導ができるかどうか。それが成否の鍵を握っていると思います。  テレビドラマの学園ものを私もよく批判していますが、この点だけは正しいかもしれない。  子どもに「本当にこの先生は自分たちを成長させようと真剣に考えている」ことが伝わるかどうか。  暴力に訴えるなど方法は大間違いでも、結果として上記の満足感が得られるので視聴率がとれる。  むしろ失敗の危険性がある指導の方が、成功に結びつく可能性をもっているとも言えるのかもしれません。  ただ、けっして失敗をおこしてはいけないので、リスクをコントロールするための人や道具を増やしておく必要があります。これは「同僚性」とか「チームワーク」とか「一枚岩の組織」とか呼ばれているものです。道具とは、指導法です。  私の場合は、自分対数人の生徒(ここにはいくつかのタイプの生徒を選んでおく)で指導を行う場合、伝えたいことを伝え終え、個別に意見を聞き終えたら、生徒に話し合わせて再度生徒たちの意見を聞くようにしています。  子どもなりにふり返る時間と機会を与えることが、リスクをコントロールする方法の一つになっています。  指導の失敗も、子どもたち自身の自己教育力で救われたこともありました。  10回の指導場面があれば、教師としても10回の学びの機会があり、数多くの学びがあります。

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昭和の家庭史トリビア?【第86問】 
 昭和17年(1942年)の話です。
 新聞が1県1紙制となりました。104社あった新聞社は統合されて何社になったでしょうか?
 ① 56社
 ② 50社
 ③ 47社

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 【第85問の解答
 軍服着用による,②の手榴弾投げでした。

消極的行動で積極的にメッセージを伝える教師 ふり返り366日【08/7/05】/第85問

 子どもの立場で考える習慣をつけると,「こんな注意は受けたくないな」と思っている生徒に注意をするとき,そこに「子どもに伝わるメッセージ」がこめられるきっかけになります。

 「こんな注意は受けたくないな」と思っているだろう生徒に「注意をしない」という選択肢をとる教師もいるでしょうが,今度は「それが子どものため」か?という問いが必要になります。

 「指導しない」「注意しない」という消極的行動が,実は非常に積極的に,特定のメッセージを子どもに伝えていることに,気が付かない教師がいるのは残念でなりません。

 「子どものため」を考えること,「子どもの立場」で考えること,これをうまく組み合わせて生徒指導にあたることが大切だと思われます。

 場合によっては一方を優先し,違うケースでは他方を重視する。その使い分けのコツも,経験の中から見つけ出していくものでしょう。

08/7/05 「子どものために」ではなく「子どもの立場」で考える  前回の記事の補足ということになりますが、私は「自分より実力のある人間とつき合いなさい」という指導をすべての学校で導入してほしい、などとは考えておりません。  教育課程編成におけるこの大きな原則、「創意工夫を生かした特色ある教育活動を展開」すること、「生徒の発達の段階を考慮して、適切な指導を行う」ことができずに、単なるものまねで失敗したり、無理な要求を子どもにも教師にもしてしまったりと、最初のボタンから掛け違えている学校というのがあるのです。  このタイプの失敗をしてしまう学校の共通点は、子どもの視点からの検討が欠けているということです。  ある指導言によって、子どもは何を感じるのか。何を学べるのか。それはなぜか。  この問いを絶えず繰り返していくなかで、「子どものための」というより「子どもの立場を重視した」教育が展開していくのが理想だと思います。  「朝令暮改の発想・その3」ということになりますが、「子どものために」ではなく「子どもの立場」で考える理由は、「子どものために」と教師たちが考えていながら、ほとんど目的は達成できないようなとき、たいていは、過去の経験などをもとにした「子どもとはこういうものだ(こういうものを求めているはずだ)」という思い込みや決めつけが背景になっていることが予想されるからです。  「子どものために」とはあくまでも教師からの視点であって、生身の「子ども」が不在のまま主張が展開されてしまうおそれもあります。  一方の「子どもの立場」で考えれば、たとえばこんな授業ならいらない、とか、こういう当たり前の話を聞くのはだるい、という発想が出てくるわけです。そういう発想を生かして授業改善に結びつけたり、生徒の誤解であるならそれを解いていきながら、子どもに持たせたいと教師が願っている力に気付かせる。  ここに、各学校の創意工夫、生徒の実態に応じた教育が可能になるわけです。  これはあくまでも視点を変えることで挑戦する価値が見えてくる例の紹介なので、「子どものため」という視点はもたなくてもよい、と言っているわけではありません。  ただ、子どもの視点でものを書いている人と、「子どものために」という教師の視点だけで書いている人との意見はすれ違うばかりなので、私も考えなければならないと思っています。

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昭和の家庭史トリビア?【第85問】 
 昭和17年(1942年)の話です。
 東京・後楽園球場の第1回巨人VS大洋定期戦で,アトラクションとして実施されたのは?
 ① 戦車の行進
 ② 手榴弾投げ
 ③ 軍人たちによる綱引

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 【第84問の解答
 ①の3軒でした。予想よりも,みんな押しつけられたルールを守っていた?

「教師一同」は「考える集団」か? ふり返り366日【08/7/04-2】/昭和16年に始まったのは?

 学校という場では,子どもと大人とで価値観が逆転するケースというのが,かなりたくさんあります。

 子どもは「勉強なんていい,部活がやりたい」と言い,

 教師は「部活はほどほどがいい。勉強が大切」と言う。

 この場合,実は,子どもと教師の心の中は一緒なのかもしれません。

 学校は,子どもの成長を促す場ですが,特に公立学校の中に,「すばらしい子どもの成長」ではなく,「すばらしい教師の指導の成果」をアピールしたくて,「完成形」に近いものを短時間で作りたがるところがあります。

 「完成形」に近い成果は,外見上の「ムダのなさ」に象徴されます。

 しかし,形ばかりが「ムダのない」ものになり,「効率のよさ」というのが中心の価値観になると,実際の子どもはほとんど成長していないまま,外見だけがまともになる場合があります。

 これは,「外見だけはまもとにしてやらなければ」という教師や学校側のあせりが助長しているムードであるとも言えます。

 普通の教師が考える「効率のよい教育」が,実は最も「効率の悪い教育」だったということがあり得るのです。

 教師たちが新しい学校をつくり,それが軌道に乗っていってよい学校になっていく,そのプロセスを考えてみれば容易に分かるように,様々な試行錯誤があり,話し合いがあり,調整があって初めて「大きな成果」がでるのであって,「何々をここに移植すればいい」という安易な発想で効率を重視すると,深く考えなければ「悪くない」ものができてしまいます。そして,その後に荒れが起こった場合,「どうしてか分からない」という声が上がってきそうな予感を抱かせるようなことになります。

 学校改革については,外部からあれこれ言うことは簡単なのです。それに従って教師が動けば,成功できる部分が出てくるかもしれませんが,根本的には,教師が「考える集団」をつくらなければダメなのです。

 「考える集団」をつくろうとしている教師が「考えない集団」の人間では困ります。

 そして,それは教育委員会が悪いとか,親が悪いとか,「人のせいにする」のがプロの教師が混ざっていたら,もっともっと困ることになるでしょう。

08/7/04 道徳的価値に気付かせる教師の役割とは?  「自分より実力のある人間とつき合いなさい」という指導について、読者の方からかなり突っ込んだご意見をいただきました。誠にありがとうございます。  「生徒の善良さや優秀さを前提とした,かなりリスクのある指導法」というのは、一定の評価をいただいたと考えてよろしいのでしょうか。  そして、私が「当たり前の指導言」とよばせていただいた「誰とでも分け隔てなくつきあいなさい」についてなのですが、教師が子どもに「誰とでも」という形で言葉を投げかけたとき、子どもがどんなニュアンスでその「」を受け取る可能性があるか、お考えになったことはありますでしょうか。  子どもが本来のその意味に到達するまで、どのような壁を乗り越えていく必要があるのでしょう。  そして、その壁を乗り越えさせる教師側の指導言とは何でしょうか。  同じ言葉を繰り返し子どもに投げかけることでしょうか。  「貴殿自身が誰とでも分け隔てなくつきあうということの道徳的価値を本当には理解なさっていないから,そう思われるのでは」というご指摘についてですが、私のまわりにはいくつかの壁を越えてそういう道徳的価値をつかみとった子どもたちがいっぱいいますから、ご心配いただく必要はございません。  ストレートにその価値に到達している子どももいます。しかし、私の目からは、壁にぶつかっていない子どもの現状にはあまり楽観視できないものがひそんでいるように見えます。  「誰とでも分け隔てなくつきあう」ためには、何が必要か。  「でも先生、人の悪口ばかり言うあの人とはつきあいたくないですよ」という訴えに、教師はどう答えればよいのでしょうか。  教師の役割は、選挙演説のように当たり前の指導言を連呼することではなくて、そのような道徳的価値に気付かせ、つかみとらせることができる環境を設定することではないでしょうか。     「盗む」という言葉についてです。  悪い言葉は悪い。よい言葉はよい。  このような単純な思考が、子どもから豊かな創造力を奪い、堅い殻をつくったり、物事を固定観念によってとらえたりしているという危惧を私が抱いており、自由で伸びやかな発想力をつけさせるために、利用する言葉のパターンの一つがこの「盗む」というものでしょう。  また、プライドの高い子どもは特に、人の「まね」をすることには一種の抵抗感をいだいています。  泳ぎ方が上手な生徒がいたとして、そうでない生徒に、「まねをすればよい」と言っても、何も始まらないわけです。  よい行いはどんどん「まね」をしていきましょう。これも当たり前の指導言なのですが、こういう言葉は、繰り返し述べるように、「そういうあなたはそれができているのですか?」という質問を受けると困ったことになってしまう人もいる。また、簡単にできる「まね」には創造力が必要ありません。  一方、「盗む」ことは一種の芸術なのです。  これはその道のプロをたたえて表現しているわけではありません。  私は大学まで野球部にいたので、たとえば盗塁をするために、ピッチャーの投球動作の癖を盗むことは必須の課題でした。相手の監督のサインを盗むこともあれば、すきをみて次の塁をねらうというのは、常に選手に要求されている課題です。  「人の所有物を盗む」ことがいけないのは当たり前のことです。  しかし、「心を盗んだ」ルパン三世など、言葉には必ず広がりというものがあるわけです。  私は社会科の教師ですが、漢字の成り立ちについて説明することもよくあります。  「盗」の「次」という字は、本当はにすいではなくさんずいであったこと、それはよだれを示すものであったことなどを話すと言葉へのイメージも広がっていきます。  どうしても子どもに「盗んでもいいものがある」などというなぞなぞみたいな話もさせたくないと思われるのであれば、「まねる」というより「取り入れる」という言葉の方が私のイメージには近いものがあります。  繰り返しになりますが、「これは批判のしようのないいい言葉」「これは口に出して言うことすら忌まわしい悪い言葉」とその価値を固定化することの方が危険であると私は認識しています。

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昭和16年(1941年)がスタートのもの
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
○国民学校令,公布。尋常小学校を国民学校と改称し,義務教育年限を8年に延長。
○肉屋で犬・タツノオトシゴ・オットセイの肉も販売できるようになる。
○日本唯一の太陽観測専門の天文台が奈良・生駒山に完成。
○「備荒動植物」調査の概要がまとまる。げんごろうの天ぷら,とんぼの佃煮など,雑草1000種,動物は100種が食糧に。
○イギリスでレーダーによる雷雨の観測が行われる。レーダー実用化の始まり。
○文部省の児童図書推薦に従って,表紙に「4~5歳向」のような印刷がされるようになる。
○国鉄,アメリカ・キャタピラ社よりブルドーザーを始めて輸入。
○11月30日から,天気図が丸秘扱いとなる。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

子どもが道徳の時間に学んでいること ふり返り366日【08/7/04】/昭和16年に変わったもの

 長男の担任は,「道徳の時間が嫌いだ」と公言しているようです。

 そういう教師が「登場人物の気持ちになりきって」迫真の「演技」を授業でしている・・・。

 子どもの価値観は,どのように育っていくのでしょう。

 「道徳教育」という言葉があり,「道徳の時間」があるために,教師たちは学習指導要領に示された様々な「価値」を教えようと努力するわけですが,それが「どのような努力」「何のための努力」かを子どもが知ってしまうと,全くねらいとかけ離れた教育が営まれることになります。
 
 子どもたちにとって,「大人たちのずるさ」「建前重視の日本社会」を学ぶのが道徳の時間になってはいないでしょうか。 

08/7/04 子どもが自らつかむ道徳的価値とは?  道徳の副読本や「心のノート」には,ごくごく当たり前の指導言が書かれており,これに反対する人は一人もいないと思います。  しかし、そう教師に言われた子どもが、みんなそのように学び合う関係をつくっていけるか。  それができたら「教育改革」なんて必要ありません。  教師は、「道徳で教えたでしょ!その通りにしなさい」などとは言わないでしょうが、そんな感覚を抱く人は少なくないと思います。

 子どもは、大人の「ごく当たり前の指導言」に出くわすと、何と思うか。
 「きれいごとばかり言って!」「大人のあなたはそういう関係がつくれているのですか?
 道徳の授業が苦手な教師が多く、道徳の時間がくるのが待ち遠しいという生徒が少ない理由は、教師でなくても考えればわかることです。
 ポイントは、子ども自らが道徳的価値に気付けるような指導となっているかどうか。
 道徳の成否は、ごく当たり前の、常識的なことをわざとらしく答えなければならない授業ではなくて、それが「自ら学んだ」「自分で獲得した」価値となったかどうかにかかっています。
 
 なぜ「自分より実力のある人間とつき合いなさい」などと教師が言うのか。
 子どもたちにも、必ず考えてもらいたい問いなのです。
 本当に素直にこの言葉を受け取って、じっくりと人間観察を始める子どももいます。
 なぜ「誰とでも分け隔てなくつきあいなさい」という当たり前のことを言わないのか。そこに疑問や興味を感じる子どももいます。
 とりあえず、「自分より実力のある人間とつき合う」努力をしてみると、どんなことがわかるのか。
 自分は、「実力」を固定的にとらえていないか。
 勉強のできる子ばかりを探そうとしていないか。
 その幅の広がりに目が向いているか。
 自分は豊かな人間観・友人観をもっているか。 
 子どもたちは、さまざまなことを気付かされるのです。
 生徒たちに限らず、大人でも、自分より優れたものをもっている人とのつきあい方が上手でないために、損している人はたくさんいます。
 環境自体が誰とでも分け隔てなく活動するようなシステムになっている私の学校では、子どもに強調する第一点が、「長所を学び、盗んでいこう」ということになります。
 わざわざ、「あなたの長所をまねしたいのですが、いいですか」などと、断る必要はありません。
 どんどん盗んでいいのです。
 発表するとき、たとえや図を使いながら説明すると意味が伝わりやすいんだな。
 発言するときは、先生の方ではなく、教室の中央に向かって話すという方法もあるんだな。
 みんなの注目を集めるときは、ちょっとだけでもジェスチャーを入れるのが効果的なんだな。
 友達の失敗のフォローって、こうすると相手が傷つかないですむんだな。
 先生に質問するときは、あらかじめこういうメモをつくっておくといいんだな。
 テストで出そうな内容を質問するときのポイントはこれだな。
 この人のノートは見やすいっていうけど、ポイントはこのスペースの使い方なんだな。
 この人の話し方は、なんだか安心感を相手に与える。そのこつは笑顔とタイミングのいいうなずきかな。
 ・・・「学び慣れ」していくと、加速度的に長所が盗めるようになっていきます
 そして、最も「学び上手」の生徒が、よきリーダーとして育っていきます。
 さらに、「学び方」がわかってくると、それを他の生徒に教えることも得意になってきます。
 「気の合う」友達づきあいというのは、黙っていても子どもは勝手に始めるものですし、その中ですでに「学び合い」をしているかもしれません。
 また、「つきあい」には、メル友になるようなレベルのものもあるでしょうが、班、係、委員会、部活動、当番活動・・・など、子どもたちには「つきあい」だらけの毎日を過ごします。
 ただ、惰性のつきあいをしていると、子どもの中には、相手の欠点ばかりに目がいって、ときにはそれを攻撃の材料にしたり、自分と共通した欠点を互いに慰め合う材料にしたりするものです。
 いじめ問題も、多くの場合、「相手より優位に立ちたい(立ち続けたい)」という願望が引き起こしていると私は考えています。
 ですからあえて教師の側では、「力のある生徒とつきあおう」というわけです。
 自尊心が高すぎる生徒にはその鼻の高さを調整する指導を入れることがありますし、理想が高すぎて自己肯定感が弱い生徒には、友だちからのはたらきかけによってその感覚を高めさせる指導を入れることもあります。
 「長所に目を向けさせる」教育。
 子どもによっては、それが短所への攻撃性を高める原因になっているとお感じかもしれませんが、もし実際の攻撃があったときこそ、その生徒への「人間教育」の指導の糸口になるのです。
 人間が対等であるとか、敬意をはらうべき対象であるということは、子どもたちが道徳的実践の中で自ら気付いていくものです。「そういうものなんだから・・・」では、子どもを変えることはできません。
 「そんな言い方、おかしんじゃないか?」という興味・関心をひくことができただけでも、このような指導法の効果を実感していただけるのではないでしょうか。

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昭和16年に廃止・中止・禁止されたもの。
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 ○米屋の自由営業が廃止される。
 ○横浜市,食糧増産のため,市内の桑畑をつぶして米麦生産へ。
  (このころ,全国で桑畑の整理盛ん)
 ○一般者のガソリン使用が禁止される。
 ○マネキン人形の青い目を黒に,金髪も黒髪に変更。
 ○明治34年に開校した東京・目黒のアメリカン・スクールが閉鎖される。
 ○内務省が「迷信暦」の発売を禁止。友引・仏滅などの「日の縁起」などを取り締まる。
 ○作付統制令により,スイカ・マクワウリ・イチゴなどが不急作物として栽培抑制,次いで禁止扱いとなる。 
 ○一般用扇風機の製造が禁止。敗戦まで扇風機は海軍艦船用のみとなる。
 ○飛行機に1人でも多く客を乗せるため,「エアガール」が姿を消す。
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藤田晋の成長学・教師編14 「経験」の落とし穴/昭和16年の流行語

 セオリー№14 入社段階で既に差がついている

 教師の場合,新規採用の段階で,すでに「講師経験」がある人は何%くらいいるのでしょう。

 講師で「教師のつもり」でいた人たちが採用後悩むのは,その仕事量の多さと,「(厳しい目で自分を見てこなかった場合,)経験はそれほど役に立たない」ということでしょう。

 まさか,教材研究をするのが夜中の2時3時になってしまうなんて,考えてもいないことだったはずです。

 講師経験のある人が陥る可能性のある最大の落とし穴は,こういうとき,「講師のときのストックで何とかやっておけばいいや」と思ってしまうことです。

 そういう人などよりは,大学を卒業したばかりの教師の方が,はるかに「伸びる」可能性をもっていると考えられます。

 それは,授業の技量の向上と組織の一員としての仕事力の向上がセットで進行していくからです。

 授業の技量がある程度そなわっているという幻想で,組織の一員として動き始めると,すぐに歯車がかみ合わなくなってくるので,何が原因かがよく分かります。

 藤田社長は,以下のような「入社段階の社員観」をもっており,そういう目からすると,「講師経験者は有利だろう」と思われるかもしれません。

 

大抵の人は,新入社員として会社に入り,そこで初めてビジネスを経験します。私はここで,いつも不思議に思うことがあります。それは,多くの人が「スタートラインはみんな一緒」だと思っていることです。入社時,同期の間に力の差なんてないと思っていませんか。
 実はそれが,キャリアを積むうえでの間違いの第一歩なのです。

 教師にとって最重要の姿勢は,子どもと一緒です。
 それは「学ぶ姿勢」であり,それが子どもをひきつける大きな力になるのです。

 スタート段階のその姿勢の美しさと,意欲の高さが,それほど遠くない未来の差を生み出すもとになります。

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昭和16年(1941年)のブーム・流行・流行語
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○国民学校の正課として取り入れられた模型飛行機作りが全国的ブームに。
○キャベツが急速に普及。1個で大勢が食べられるため。
○「月月火水木金金」
○「進め!一億火の玉だ」
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「主体的な学習」を語るのはだれか ふり返り366日【08/7/03-2】/第84問

 「子どもが主体的に取り組む学習」というのを,教師はどのようなものだと想定しているのでしょうか。

 以前にも書いたかもしれませんが,私にとっての「主体的な学習」とは,自分が興味・関心を持ったテーマについて,主に本を読むというものでした。ただ,これはとにかく学校の宿題とかテスト勉強にとっては非常にネックになるものでした。

 だいたい,1日に1冊のペースで読まないと気がすまなかった時期は,バスと電車の中ではとにかく一所懸命に読んだ記憶があります。中学校時代のテーマは自然科学,高校時代のテーマは環境問題でした。

 高校時代は新聞のスクラップもかなり時間を取られたので,宿題をやるのはたいてい学校の休み時間。

 私の尊敬する教師は,何かのことに興味を持たせてくれるというタイプで,「自分が教えている今の単元よりも生徒が学ぼうとしているテーマを優先すべき」という空気は,心地のよいものでした。

 受験とか試験とかのことになると,「穴があく」。

 ただ,塾のような場所には死んでも行きたくなかったし,経済的にも行けなかった(お年玉を本代にするのは「財産」が貯まっていく実感がありましたが,「講習」で使ってしまうのはお金を捨ててしまうような感覚がありました)。

 たまたま,大学は自分の「主体的な学習」のスタイルがぴったり合った問題を出してくれるところがあったので,そこに進学することができ,そして中・高と同じような教師のスタイルだったので同じように学ぶことができたのです。

 ・・・という経験がある人間がもし「主体的な学習」を語ろうとしたら,それは「学習指導要領」の理念には合わないのかもしれません。そこが,教育の悲しさです。

08/7/03 総則の冒頭に改訂のエッセンスがあります  教育制度改革についての具体的な提言をするわけでもなく、ただ現行の学習指導要領等に対する不満(批判ではない?)が述べられている記事が散見されますが、このこと自体が、現在の学校教育が抱えている大きな問題の顕著な傾向であると考えられます。  教育課程編成の大原則を理解せずに(下手をすると自分の学校の教育課程も知らずに)、そしてその内容への批判や自己評価をせずに、現在そして近未来の学校教育の課題を語ることに意味はあるのでしょうか。  現行の学習指導要領の総則の1「教育課程編成の一般方針」では、「学校の教育活動を進めるに当たっては、各学校において、生徒に生きる力をはぐくむことを目指し、創意工夫を生かし特色ある教育活動を展開する中で、自ら学び自ら考える力の育成を図るとともに、基礎的・基本的な内容の確実な定着を図り、個性を生かす教育の充実に努めなければならない」とありました。  ところが、「自ら学び自ら考える力の育成」の具現化が十分に図れなかったばかりか、内容を減らした基礎的・基本的な内容も確実に定着させられないことが明らかになったため、「自ら学び・・・」の部分が、以下のように改訂されるようになりました。  ・・・創意工夫を生かした特色ある教育活動を展開する中で、基礎的・基本的な知識及び技能を確実に習得させ、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくむとともに、主体的に学習に取り組む姿勢を養い、個性を生かす教育の充実に・・・  「定着」が「習得」に、「自ら学び自ら考える力」が「基礎的・基本的な知識及び技能を活用して課題を解決する力」=「思考力、判断力、表現力その他の能力」、「主体的に学習に取り組む態度」となり、  さらに、  「生徒の発達の段階を考慮して、生徒の言語活動を充実するとともに、家庭との連携を図りながら、生徒の学習習慣が確立するよう配慮しなければならない」 という文言が加えられました。キーワードは、「言語活動」の充実と「学習習慣」の確立です。  学習指導要領総則の「教育課程編成の一般方針」の第一に掲げられたこの内容については、学校だけではなく、家庭にも周知されるよう、文部科学省及び各教育委員会、学校は努力すべきであることは言うまでもありません。  「習得」と「活用」への理解に関する課題は、これまでも記事にしてきましたが、また後日ふれることがあると思います。

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昭和の家庭史トリビア?【第84問】 
 昭和16年(1941年)の話です。
 愛知県西尾町で,町内400戸の家庭の飯ビツが一斉点検されました。麦の混ぜ具合を調査するのが目的だったそうです。このとき,白米だけの「不心得者」が見つかったそうですが,その軒数は?
 ① 3軒
 ② 30軒
 ③ 150軒 

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 【第83問の解答
 ③でした。8ポイントから9ポイントに活字が大きくされた理由は,「国民の視力保護」のためだそうです。

官僚と政治家の関係と教育の失敗 ふり返り366日【08/7/03】/第83問

 教育の中で「自治活動」を重視するとき,教師が子どもに丸投げしてしまうと,「自治活動」がない学校での教師と子どもとの関係(子どもが教師を頼る)と似たようなものが,子どもと子どもとの間にもできてしまいます。

 ですから,あるときは子どものリーダーシップが物を言う場面をつくり,表面的ではないことが多いですが別のところでは教師による強力なリーダーシップが必要になるのが,学校現場というものです。

 これは,政治家官僚の関係に非常に似ているかもしれません。

 官僚主導=いたれり尽くせりの学校で,子どもの自治活動,民主主義は必要なくなります。

 政治家主導=子どもたちによる自治が重視されますが,未熟だったり対立を生んだりして,ただただ混乱するだけでみんなが損をする結果に陥ることがあります。
 
 どのような関係がよりよい学校づくり,国づくりにつながるのか・・・・そのためにどのような関係づくりをするのか・・・・教育の失敗が今の政治を生んでいるという仮説が成り立つでしょうか。

08/7/03 「しつけの問題」?・・・子どもの行動を左右するものとは  はるえもんさんのブログで、「しつけの問題」って言われても・・・(1)という記事がUPされていたので、その趣旨を受けつつ、以下のようなコメントさせていただきました。

>はじめまして。
私は小学生と赤ん坊の父親で、教師です。
教師による教育ブログでも、このような発言(「しつけの問題」)が散見されますよね。
教師が「親の」しつけの問題、親が「教師の」指導力の問題として子どもの課題を捉えてしまえば、「教育」という行為はそこに生まれません。
問題は、親が自分のしつけの問題、教師も自分の指導力の問題だと気付いたときに、この親と教師にはどのような会話が成り立つのかということです。
私が実際に経験した三者面談で、保護者と私が互いに謝り合うという場面がありました。
間に入った子どもの表情は、うれしいような、恥ずかしいような、微妙なものでしたが、両者が自分のことに責任を感じて教育してくれているんだなあということを肌で実感してくれたのでしょう。
ある時期まで「手がつけられなかった」子どもは、「生まれ変わった」「見違える」ように頼もしく成長していきました。
保護者として、教師として、今後もそういう関係づくりをしていきたいと考えています。

 私が接してきた子どもの場合は、親や教師のはたらきかけよりも、小さい頃からの友達関係、交友関係によって、その行動がかなり大きく左右されているようでした。
 本当に荒れて荒れて仕方がなかった男子も、ちょっと優等生っぽい彼女ができてからは、何だかお行儀よくなってみたり。
 そこでもともとリーダー性の高かったその女子生徒を学年のまとめ役として鍛え上げ、「教師の指示は聞けなくても、○○さんの言うことなら聞く」という環境の中で、(直接的には見えない教師の働きかけで)本来中学生が学んでいくべきことを積み上げていった経験がありました。
 要は、「○○の問題」として片づけずに、「自分なら何ができるか」「自分以外のだれならうまくいくか」を考え抜いていく習慣が必要だということでしょう。

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昭和の家庭史トリビア?【第83問】 
 昭和16年(1941年)の話です。
 岩波文庫の活字の大きさが変更になりました。何ポイントから何ポイントへでしょう。
 ① 9→10
 ② 10→9
 ③ 8→9

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 【第82問の解答
 ③の1000万機でした。

気付いたことに気付く時期 ふり返り366日【08/7/02-3】/第82問

 自分が率いているチームを褒められるのは,普通,悪い気がしないものです。

 しかし,褒めるのも仕事にしている教師にとっては,何を褒めてくれるかに相手の力量をくみとることができます。

 自分が最も力を入れているところを褒めてくれる教師と,単なる社交辞令として褒める教師がいます。

 かつて,「学校始まって依頼のすばらしい学年」と評価してもらえる期間を二度経験しました。

 「すばらしくて当然」という時期を除いての話ですが。

 そのような評価を口にする教師には,やはり「分かっている人」と「分かっていない人」の二つのタイプがいました。

 「分かっていない人」にも細かく分ければたくさんタイプがありますが,そのうち困ったのは子どもが見えていないタイプが評価するときです。

 「関係性」で教育を語れない人が実は現場にはたいへん多い。

 このブログでも「個」の力量だけを対象にしているように勘違いしてしまうために,先に進めないのが手に取るように分かるコメントをいただいた例がありましたが,そういう「失敗事例」が意識化できると現場は変わるでしょう。

 「子どもを変える」のも,「子どもに気付かせる」ことしか方法はありません。・・・・いつの間にか変わっていることが多いですが,「気付いたこと」に気付くのはたいてい変わってからではあるのですが。

08/7/02 教育ブログでのスタンス  「強き」リーダーを鍛え抜いている場面を見られ、「どうしてそこまで厳しくするの」と問われることがあります。  私が厳しく指導するポイントはその生徒が自信をもっており、その部分をよりピカピカに磨いていこうとするときに行うことです。  リーダーの中にもある弱い部分には、しっかり寄り添って自信に変える指導を行うようにしています。  ただ、それぞれの指導にはタイムラグがあるので、「教師間の協力的指導」というのが威力を発揮するわけです。  強さと弱さが同居しているのが人間であり、子どもならそのアンバランスさが心の不安定さも招いています。  「弱い」部分を支えることに注力しすぎたために、いつも手助けを必要としてしまうような依存心の強い子どもが生まれるのだという批判を私も受けたことがありました。  「強い」部分には度合いに応じた適当な刺激を。  これが私のモットーであり、教育ブログの中でのスタンスでもあります。

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昭和の家庭史トリビア?【第82問】 
 昭和16年(1941年)の話です。
 国民学校の正課として取り入れられた模型飛行機作りが,全国的ブームに。教材としての使用だけで,どのくらいの数があったでしょう?
 ① 10万機 
 ② 100万機
 ③ 1000万機

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 【第81問の解答
 ③の20000人でした。紙芝居業者は,東京に1581人,大阪930人,群馬726人,山口には620人いたそうです。

教師のオーラが届く範囲とは?/第81問




コネタマ参加中: 学校の座席。マイ・ベスト・ポジション!を教えて

 学校の座席のベストポジションについては,「絶対的好位置」と「相対的好位置」という二つの考え方があると思いますが,ネタの趣旨としては,「絶対的好位置」のことなのでしょう。

 たとえば,「教師の死角になる」→「内職・居眠りなどがしやすくなる」として,最前列の両端とか・・・。
 (ただしここは先生が邪魔で黒板が見えなかったり,黒板の逆側が角度があり過ぎて見えにくいというデメリットもありますね)

 一般的には,「集中して授業を受けたい」生徒が前を希望する傾向があります。

 「席が後ろから前に変わると成績が上がるジンクス」などを紹介すると,前を希望する生徒が増えたりします。

 学級全体が落ち着いていれば,全員が今,何をしているかが見渡せる「最後列」とか・・・。

 寒い冬には陽が当たる窓側とか・・・。

 一方で,「教師がどのように授業を展開しているのか」が分かる面もあって,興味深く読める記事もありました。

 授業中,教師は教室のどこを見て主に話をしているのでしょう。

 よくあるのは,うなずいたり,微笑んだり,動きや表情の豊かな生徒に目が行くパターンです。

 逆に,授業中,教師と目が合わない生徒というのは,「興味・関心・評価の対象外」という立場なのかもしれませんね。もしそれが座席の位置で固定的に決まってしまっているようなら,いい位置に移動したいところです。

 教師のオーラが届く範囲は前から何番目までなのでしょう?

 教室内をけっこう動き回る教師もたまにいますね。

 ところで,席替えで「マイ・ベスト・ポジション」に座れる確率というのはどのくらいあるのでしょうか?

 ちなみに,私が「席替え」で採用している方法は,希望の位置を第三希望まで書いてもらい,重なったときに一定のルールで優先順位を決めるための数字をそえた用紙を集めて調整するものです。

 これをやると,常に低位置,という生徒も出てくるのと,だいたい3分の1から2分の1くらいの生徒は第一希望で決まるのでおもしろいところです。

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昭和の家庭史トリビア?【第81問】 
 昭和16年(1941年)の話です。
 紙芝居を児童教育に役立てようという運動が高まり,スパイ防止を呼びかけるなどの紙芝居も登場しました。この頃,全国にいた紙芝居業者の人数は?
 ① 1500人 
 ② 2000人
 ③ 20000人

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 【第80問の解答
 ③の忠犬ハチ公前でした。ハチ公の「終生変わらぬ忠節」にあやかるためだとか。

藤田晋の成長学・教師編13 学校嫌いの合理性

 セオリー№13 起業に必要な資質などない

 教師にはもともと,「総合力」が問われています。

 コンピテンシーの分析をしてみると,その責務の重さをひしひしと感じることになります。

 そういう「総合力」に恵まれた教師なら,「起業」も夢ではないのかもしれません。

 藤田社長の見解は,起業家として成功するために必要なのは,特別な資質や能力ではなく,バランス感覚だということです。

 

起業は総力戦なので,体力,精神力,行動力,決断力,統率力,コミュニケーション力など,いくつもの力が必要になるからです。

 ただ,ここまで読まれてみても,「教師」と「起業家」というのは,多くの人にとって,どうしてもイメージとして結びつかないのでしょうね。

 せいぜい,教師を辞めて「教育評論家」「塾の経営者」になるくらいの話か・・・?程度の認識しかもてないのかもしれません。

 その原因は,収入が安定している多くの教師にとって,「経営者になろう」というハングリー精神とか,反骨精神が欠けていることがあるのは確かでしょう。

 反抗精神は旺盛でも,自分が管理職になって学校を変える!という意欲がある人は少ない。

 文科省の教育理念には賛同できないから,私が私学を立ち上げる・・・と本気で考える人もいない。

 もし教育関係の仕事を選ぶとすると,そもそも「マーケット」としての魅力はないだろう・・・そう考えてしまうことも「起業家」への道が開けない原因であるかもしれません。

 教育はあくまでも公的な営みであり,競争で生き抜いていく企業の仕事ではないのだ,という考え方もあるかもしれません。

 そういうことを総合的に考えると,学校という教育機関で学んでいること,教師という特殊な職業の人間とずっと一緒に生活しているということ自体が,様々な面で人間を成長させていながら,別の面では「大事な成長を阻害している」のだという,恐ろしい仮説が生まれてきてしまいます。

 「学校嫌い」というスタンス,「不登校」というスタイルが,実はその阻害要因を避けるための合理的判断・行動だったら・・・?

 実社会では当然のようにある,様々な矛盾の中で生活させ,鍛えていくという発想・・・実は,多くの伝統校では,そういうものが根付いているため,見た目にはだらしなかったり,力がないように見えてしまうのかもしれません・・・。
 
 子どもを真の意味で成長させるための教師にとっての成長とは何か。
 そう簡単に答えは出そうにありません。

歴史学習の苦手意識 ふり返り366日【08/7/02-2】/第80問

 小学生にとっての歴史学習で「苦手意識」が高まるのは,「近現代」を扱うときです。

 小学生にとって,ということは,6年生で歴史を学び始めますから,中学校1年生にとっても同じことで,「人気のある時代」というのは,戦国時代,江戸時代,平安時代となっています。

 その理由は,あることを調べろ,と言われたとき,対象となる人物が限られていることと,何をしたかが理解しやすいこと,そしてその評価がかなり定まっていることにあるようです。

 一方で,幕末から明治維新,そして戦争の20世紀に入っていくと,「できごとが多すぎて分かりにくくなる」という印象から,「苦手意識」が高まっていくのです。

 小学生にとっての人物を中心とした学習というのは,その人の行動から時代の中でのはたらきやその意義を考える活動であって,同時期に複数の人間が登場してくると,「情報量が多くなる」という実感から,拒否反応が表れ出すわけです。

 人物だけでなく,複数の「外国」がかかわり始める近代では,混乱するばかりになってしまう・・・。

 このような実態からは,小中学校の社会科で学ぶ「知識」面の順序性の課題も明らかになってくる。

 あとは,発達段階を考慮して,どのタイミングから「関連性の理解」「共通点や相違点の発見」を重視する学習を導入し始めるべきか,ということが課題になります。

 算数→数学などと違って,社会科の得意・不得意を分けるメカニズムはまだ十分に分かっているとは言えません。

 この解明に力を注ぎながら,次の次の学習指導要領を考える段階に入っています。

08/7/02 歴史学習における名脇役と主役  特定の課題の調査結果から、「主に学習過程でより強い印象をもった歴史的事象に引きつけられたこと」による習得場面での失敗が指摘されています。  ある教科の1時間の授業で学べたことを家に帰って一言で表現させると、社会科などは、教師の雑談や脱線した内容しか覚えておらず、肝心の「習得すべき内容」がおろそかになっているのがわかることがよくあります。  ここで大切なのはノートなのですが、ノート指導ができない小学校教師が担任になってしまっていたらもうおしまいです。  小学校の教師は、子どもに「あきさせない」ために、さまざまな工夫をしてくれることがあるのですが、それが導入にとどまらず、主要な展開部分でも余計な話が入ることがあるため、学習内容に焦点があたらず、子どもも何が大切なのか、何をこの授業で学ぶべきだったのかがわからず、ピンぼけのまま終わってしまうことが多いのです。  もちろん「話術」で子どもを引きつける中学校の社会科教師にも似たようなことが言えるでしょう。  しかし、さすがに中学校ではノートをとらずに授業が終わるということはめったにないので、最低限、どのような用語が理解できていればいいのか、どのような概念がわかっていればいいのかが一目で復習できるようなしくみになっています。  特定の課題の調査結果では、中学校の歴史的分野で、「関係図にまとめる学習を行っている生徒は正答率が高い傾向がある」ことが明らかになりました。これは、教師の指導の有無による影響が多いことは言うまでもないでしょう。  関係図では、丸や四角、矢印の意味を明確にしておかないとかえって誤解を生む場合もありますが、それが書かれて初めて理解できるような内容もあるわけです。  話を元に戻しますが、歴史学習では、非常に印象深い場面、絵画資料、エピソードなどが豊富にあります。  それらを学習の主役ではなく、「特別出演」「友情出演」のような扱いにし、習得すべき学習内容の名脇役として子どもに認識させるような指導が求められているのだと言えます。  もちろん、小学校段階では、「歴史的事象に興味・関心をもてるようになること」だけでも十分な気もしますが、学習指導要領に示された内容を重点的に指導し、簡単に子どもに説明させられるような授業を展開してほしいと思います。

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昭和の家庭史トリビア?【第80問】 
 昭和16年(1941年)の話です。
 東京のある場所の前でのお見合いがはやりました。その場所とは?
 ① 皇居前
 ② 交番前
 ③ 忠犬ハチ公前

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 【第79問の解答
 ③のトウモロコシでした。

社会科のテストはどう変わるか? ふり返り366日【08/7/02】/第79問

 「説明文から用語を選択する問題」より,「用語から説明文を選択する問題」の方が,得点が低い・・・これはつまり,短文で聞かれ,「単語」で答える=一問一答式の学習ばかりが行われていることを示しているわけでしょう。

 「言語活動の充実」が改訂の要点に入った以上,「単語」で答えて評価されてしまうような試験問題はなくなります・・・こういう単純なところから,「学力向上」は実現できるのかもしれません。

08/7/02 特定の課題に関する調査(社会)結果が公表されています  国立教育政策研究所から、「特定の課題に関する調査(社会)」結果が公開されています。  この調査は、 ①社会科における基礎・基本となる知識・概念②問題解決的な学習 に焦点を当てた調査を実施したもので、ペーパーテストの結果と学習に対する意識や学校における指導の実際等に関する質問紙調査の結果との関連も考察しています。  学習指導要領の解説も出されてきますので、指導の改善に役立てる資料と捉えるならよいタイミングでしょう。  基礎・基本に関する調査結果では、たとえば、中学校の歴史的分野の場合、正解率が高かった(80%以上)ものには、次の3つの特徴が挙げられています。 1.時代の転換にかかわる歴史的事象・・・鎌倉幕府太平洋戦争など。 2.用語から内容が推察されやすいもの・・・刀狩廃藩置県富国強兵世界恐慌冷戦など。 3.歴史的事象が視覚的にとらえやすいもの・・・甲骨文字古墳東大寺南大門の金剛力士像など。  一方、正解率が低かった(60%以下)ものは、 1.主に語意や概念が似ている誤答と混同したと考えられるもの・・・国際連合に対する誤答は国際連盟。 2.主に時期が接近している歴史的事象同士で、歴史の流れや内容の理解が不十分であるために混同したと考えられるもの・・・サンフランシスコ平和条約に対する誤答は日米安全保障条約。 3.主に学習過程でより強い印象をもった歴史的事象に引きつけられたと考えられるもの・・・大和朝廷に対する誤答は邪馬台国。 4.主に覚え間違いや曖昧なままの理解を続けていると考えられるもの・・・○世紀の意味。 などの特徴が指摘されています。  質問紙調査からは、教師の指導方法によって子どもの理解度への影響が見られる内容があり、このような調査結果が現場の教師までわかりやすく伝えられる手段というのも求められていると考えられます。  ちょっと読み続けるにはしんどいページ数がありますが、「ポイント」でおおまかな内容は判断できそうです。  指導上の改善に役立てる内容もごくわずかですから、参考にしていただきたいと思います。

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昭和の家庭史トリビア?【第79問】 
 昭和16年(1941年)の話です。
 食糧増産のため,国鉄の線路脇に植えられることになったのは,どれでしょうか?
 ① 大根
 ② サツマイモ
 ③ トウモロコシ

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 【第78問の解答
 マネージャーは,②の「秘書」でした。

リーダーをつくらない小学校 ふり返り366日【08/7/01-2】/昭和15年の変化

 とてもなつかしい響きのある,教師の一言。

 「自分より実力のある人間とつき合いなさい

 とてもメッセージ性の高い言葉です。

 あるブロガーは,自分よりも私の「実力がない」と判断した後,私のこの一言を忠実に守って,この記事へのコメントを入れるのをやめました。

 

「私を論駁なさりたいのであれば,私の指摘した矛盾が成立しないということを同じ論法を用いて証明なさらなければいけません。決して,教育観などに関わる問題ではなく,純粋に貴殿のご主張の論理性の欠如を指摘しています。教育観の差異に関しては,お互いに相容れないことが明白なので,貴殿と議論する価値を感じません」

 ・・・大学の先生と公立学校の現場の教師の話がかみ合わない理由がよく分かる見解ですね。

 なぜ「自分より実力がない」と判断した相手の言いなりにならなければならないのか不思議ですが,以下の誤解があったのも確かでしょう。

 「自分よる実力のない人間とつき合うのはやめなさい

 と言っているわけではないこの言葉に込められた思いは,文字では伝わりにくいようです。

 さて,社会の中で優れたリーダーを養成する仕組みをきちんとした形で担っている組織はどれだけあるでしょうか。

 単純に,テストの点数が高ければリーダーになれてしまう,そういう「秀才信仰」はさすがに消えつつあるかもしれませんが,「利他的リーダー」は自然に生まれてくるものなのかどうか。

 小学校の中には,「学級の代表」をおかないところもあるようです。

 近隣の中学校との話し合い・交流の中で,このような現状はどのように認識されているのでしょうか?

08/7/01 リーダーを育成する学校と教師  「自分より実力のある人間とつき合いなさい」  このことは、「生徒から学ぶ生徒」「生徒が生徒を育てる学校」という伝統がある私の勤務校では、昔から教師が口を酸っぱくして生徒に語りかけてきた言葉です。  この「力」というのは、もちろん「学力」だけとは限りません。たとえ一言で「学力」と言っても、それがさす「力」は非常に広がりがあるものです。  あえて誤解を避けるように言えば、「自分より個性の豊かな人間とつき合いなさい」という表現になるでしょうか。  「実力」「個性」とは、たとえば包容力なんてものもあっていいし、忍耐力、協調性、雑学博士、運動センス、・・・さまざまな「力」が子どもたちには備わっており、また、伸ばしていっているのです。  人は、自分が優越感を感じられるように、自分と同等か、似たようなタイプ、自分が優位に立てる自信があるようなタイプの人間とは容易につき合うことができます。  しかし、自分より優れていると見えてしまう人で、自分が下に見られそうだなと思ってしまうと、自分から近づいていくことは難しくなる。人が人から学ぶというのは、言うのは簡単でも、実際には難しいものです。  自治のさかんな学校というのは、そういう場面がたくさんできるよう、あらかじめプログラムされているというか、代々そういう経験ができるようなしくみができあがっています。  学校が「リーダー育成」を声高に目標に掲げると、「格差拡大を目論むつもりか!」という反論が出てきそうですが、子どもにリーダーシップが備わると、たとえば危険な行動をとっている仲間に対して、子どもの側から「危ないぞ!」「そんなことはやめろ!」という注意が促されるものです。  単純な一例ですが、リーダーがそういう態度に出たとき、「おまえは教師の犬か!」などと非難されるような学級経営をしているようでは、具体的な対案も出さずに世の中を批判することしかできない人間ばかりが増えてしまうことでしょう。  「子どもにそんな責任感をもたせる必要があるのか」と問われると、教師の力量に多大な疑問を抱えている私などにとっては、「あるどころの話ではない。それが学校を救えるかもしれない」とまで言い切ってしまいます。  以前に若干ふれた、「学校再建」「学校正常化」の最大のコツは、そこにありました。教師の力ももちろん必要でしたが、生徒が生徒を救ったのです。  公立中学校にいたときは、「学級委員ができるレベルの生徒が少なくなった」という嘆きをよく耳にしました。  こういうとき、即、「学級委員が育てられる教師が少なくなった」と読み替えられるかどうか。  公立中学校のピンチの背景として、子どもと教師、どちらに大きな比重をおくか。  私のスタンスは、これをあくまでも教師におくという前提で考えをまとめていくというものです。

*********************

昭和15年(1940年)がスタートのもの
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
○全国に先駆け,名古屋でマッチの配給制が始まる。
○全国に先駆け,高知で米の切符配給制が始まる。
○東京・隅田川に,船が通るたびに橋の中央部が跳ね上がる勝鬨橋が完成し,東京名物となる。
○東京市内に「贅沢は敵だ」の立て看板1500本を設置。
○文部省,中学校の制服を男子は国防色(カーキ色),女子は紺色と決める。
○アメリカで最初の高速道路が開通。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
*昭和15年に廃止・中止・禁止されたもの。
 ○調理用電熱器や家庭用電気冷蔵庫など,電気器具の使用が禁止される。
 ○三越,エスカレーターの運転を休止。
 ○東京府の食堂・料理店などで米使用を全面禁止。
 ○列車寝台の貸し浴衣を廃止。
 ○学生の劇場・映画館への平日入場が禁止される。
 ○文部省,修学旅行を制限するよう全国に通達。昭和18年以降は全面禁止。
 ○電力制限で広告灯・ネオンサインがなくなる。

藤田晋の成長学・教師編12 好感度を高めるには

 セオリー№12 採用面接では自分を飾るな

 私が受けた教員採用試験の面接官の印象をありのままに申し上げると,「この人が面接官だったおかげでよい受け答えができた=合格できたのだ」というものでした。

 藤田社長は,面接のとき,「世間話をして相手の緊張を解き」,リラックスしたときの「その人の“地”」が見たい,と書いています。

 中には,面接が終わって,ほっとしたときの「背中」を見て決めた,という人もいるようですが・・・。

 要するに,緊張感の中での受け答えというのは,面接をする立場からすると,どうしても「ウソっぽく見えてしまう」「虚飾を見ても仕方がない」という面があるようで,「飾らない」姿勢=「本物っぽく」見せる工夫が大事なようです。

 公立学校の教員にも,複数の職層が生まれてきそうです。

 そういうときの面接は,逆に,「素を見せない」コツも非常に重要な要素になりそうですが,その話はここではやめておこうと思います。

 この章の中で,以下の文章はたいへん参考になります。

 

・・・「自分を好きになってほしかったら,まず自分がその人を好きになれ」と言われるのと同じ理屈です。能力のアピールより相手への関心がいかに高いかを示す方が,好意を得るのには早道なのです。

教員の人数を増やすよりも効果的なことは? ふり返り366日【08/7/01】/昭和15年のブーム

 いよいよ,教師にとってはその使命感が問われる時代になっていきそうです。

 「給料が下がることで教職を志望する人の質が下がるのではないか

 という危惧を抱いている人がいるようですが,少なくとも,「高い給与・職の安定性」だけを目当てに志望する人が減るのはよい効果かもしれません。

 低い給与でも子どものために汗水たらして精一杯働きたい,という若い人がいてくれることはいいことでしょう。

 給与を減らせば,教員を増やすことができます

 そして,教員を増やしたいと主張する人は,1学級の子どもの数を少なくすることを実現したい,とも考えています。

 しかし残念ながら,学級の子どもの数が少ないほど効果的な教育が展開できる,という主張に十分な根拠があるとは言い切れません。

 少人数ならではの問題に悩んでいる,へき地の学校も多いのです。

 少人数指導を行って苦手教科を克服させたいというのなら別ですが,人数が多い方が活気があり,切磋琢磨があり,協力関係があり,複雑な人間関係の中で調整能力がつき・・・などの教育効果も捨て去りにくい面があります。

 また,少人数指導は,準備に非常に時間と労力が必要になります。実は負担感はかなり増大することが考えられます。

 それは「児童が学習内容を確実に身に付けることができるよう」にする責務がより明確になるから,という側面もあるからです。

 本気で仕事をしている人にとっては,教員を増やすよりも,教育課程の編成をより柔軟に行えるようにしてくれた方が,よほど子どものためになると考えていることでしょう。

 そのときネックになるのは,「本気」の加減が一律ではないことです。

 管理職が「本気」になると,「やる気のなくなる」教師が増えるのも困った問題です。

 それより,管理職が「無気力」な方が教師の「やる気」が高まるという今の学校の仕組み自体を考え直した方がいいのかもしれません。

ふり返り366日【08/7/01】 小学校学習指導要領解説が公開されています

 「少人数指導」というのは通称で、学習指導要領では「グループ別指導」とよんでいる指導のことです。
 「少人数」と言ってしまうと、それは何人以下の指導のことなのか、などと説明しなければならないのを避けるためでしょう。
 それは相対的な見方もできて、児童・生徒数が少ない学校で、学年に数人しかいない場合、40人学級から見れば常に少人数に見えてしまう学習集団が「グループ別指導」を行おうとすれば、3人と4人に分けたりすることができます。
 小学校学習指導要領総則で「指導計画の作成等に当たって配慮すべき事項」の一つとして示されている「指導方法や指導体制の工夫改善など個に応じた指導の充実」については、現行と改訂版にほとんど変化はありません。(「教師」→「教師間」だけかな?)
 引用すると、以下の通りです。

*******************
 各教科等の指導に当たっては、児童が学習内容を確実に身に付けることができるよう、学校や児童の実態に応じ、個別指導やグループ別指導、繰り返し指導、学習内容の習熟の程度に応じた指導、児童の興味・関心等に応じた課題学習、補充的な学習や発展的な学習などの学習活動を取り入れた指導、教師間の協力的な指導など指導方法や指導体制を工夫改善し、個に応じた指導の充実を図ること。
*******************

 本日、文部科学省のHPに、小学校学習指導要領の解説がUPされました。
 よたよたあひるさんもふれている、「少人数指導」への配慮事項として、解説には以下のような内容があります。
 

こうした指導方法の工夫はすべての児童に対応するものであるが,学習の遅れがちな児童には特に配慮する必要がある。

 各学校で学習内容の習熟の程度に応じた指導を実施する際には,児童に優越感や劣等感を生じさせたり,学習集団による学習内容の分化が長期化・固定化するなどして学習意欲を低下させたりすることのないように十分留意する必要がある。また,学習集団の編成の際は,教師が一方的に児童を割り振るのではなく,児童の興味・関心等に配慮し,自分で課題や集団を選ぶことができるよう配慮することも重要である。その際,児童が自分の能力・適性に全く合致しない課題や集団を選ぶようであれば,教師は適切な助言を行うなどの工夫を行うことが大切である。
 また,保護者に対しては,指導内容・指導方法の工夫改善等を示した指導計画,期待される学習の充実に係る効果,導入の理由等を事前に説明するなどの配慮が望まれる。


 一般の方は学習指導要領の解説までは読まれないと思いますが、小中学校の教師でも、「総合的な学習の時間」の担当者以外で、総則の解説を読み込んでいる人はきっと少ないでしょう。
 各学校は独自の「教育課程」を編成しなければならないのですが、学習指導要領をしっかり読み込んでいかないと、教育委員会が受理するときにつっこまれた質問をされて答えられなくなってしまいます。
 受理する時、指導主事は、解説までしっかり読み込んでおかないと、つっこんだ質問ができません。
 学校が教育課程を編成するとき、教務主任や副校長だけが練るのではなく、学年や研究部の教師の意見がどれだけ反映できる仕組みになっているかが問われなければなりません。
 解説の以下の部分を知らないということにならないよう、徹底してほしいものです。
 かなりつっこんだ学校の指導体制のあり方を述べています。もちろん法改正の趣旨をふまえた内容です。
 昔からしっかりやってこれている伝統があるところは慌てる必要はないのですが。

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 指導体制の工夫改善を進める上で校長の果たす役割は大きいので,校長は指導力を発揮して,指導体制の活性化を図るよう努めることが必要である。また,校長や副校長,教頭が授業の指導を行ったり参加したり,学習指導について経験豊かな指導教諭などの教師が他の学級の授業を支援したりするなど,様々な工夫をすること
が求められる。さらに,指導案の作成,授業研究などを学年会や教科部会,学校全体などで行い,広く意見を交わし合い,教師間で情報の共有を図るような機会を設けたり,それぞれの役割分担を明確にすることも,より効果的な指導を行うためには大切である。なお,教師が教材研究,指導の打合せ,地域との連絡調整などに充てる時間を可能な限り確保できるよう,会議の持ち方や時間割の工夫など時間の効果的・効率的な利用等に配慮することも重要であろう。
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昭和15年(1940年)のブーム・流行
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○野草食が流行し,雑草のパンや桑の葉パンなども登場。
○雑木をガスで焼いた焼きゲタが流行。
○大阪で真綿で作った鏡餅が流行。
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 *流行語
  「バスに乗り遅れるな」「紀元2600年」
  「八紘一宇」「南進」「一億一心」「節米」
  「万世一系」「さあ働こう」「大政翼賛」

藤田晋の成長学・教師編11 理想的な異動とは?

 セオリー№11 不満がある時の転職は失敗する

 社会人が「転職」をするケースについては,それを斡旋する会社が様々なデータをもっているのでしょうが,

 「よりよい待遇(給料)を求めて
 「より自分らしさを生かせる職を求めて

 などが勧誘する立場からはアピールしたいことでしょう。

 ただ,中学生でも「そんなに生易しいものではない」ことは想像がつくはずです。

 電車広告などでも,「転職は慎重に」のようなコピーを目にすることがあります。

 「不満がある時の転職」がうまくいかないのはなぜでしょうか。

 それは,転職によって「不満から逃げる」という体質が,「嫌な仕事から逃げる」という職業倫理そのものにかかわってくるからではないでしょうか。

 つぶしがきかない教員の場合,ここでは「転職」は「異動」と置き換えてみましょう。

 勤務校に対する不満がもとで「異動希望」を出す人は少なくないと思われます。

 校内事情ではなく,「家から遠い」とか,「交通が不便」とか,全く自分の都合がもとになっている場合があるかもしれませんが,それは置いておきます。

 「管理職が自分と合わない
 「学年のメンバーとうまくいかない

 そういう人間関係系の悩みについては,人間関係の築き方を教える教師自身が苦手では困ったものなのですが,「相手が変われば状況は自分の望ましい方向へ変わる」という判断は非常に甘いものです。これは,管理職側にとっても必要な認識です。「やっかい払い」は結局,因果応報でさらにパワーアップした問題を抱えることになりがちです。

 異動というのは,どういうタイミングでなされるのが一番ベストかというと,やはり「この人はこの学校に欠かせない」という評価が得られたときでしょう。

 未練が残る異動というのが,私はベストだと考えています。

 「望んだとおりの異動」というのは公立学校の場合,めったにないことだと思いますが,それは本当に本人を幸福にするきっかけになるのかどうか,ちょっと考えてみてはいかがでしょうか。

藤田晋の成長学・教師編10 異動後の振る舞い

 セオリー№10 望まない異動で腐らないために
 
 優秀な教師を一校に固めることができないのが公立学校の仕組みです。逆のことも同じです。

  希望通りの異動というのは,なかなかありません。

 都立高校は進学重点校勤務希望の教師を公募したりして,「選ばれた教師の学校」をつくることができますが,小中学校では難しい。

 ただ,行政が「特色」を生み出そうとすると,「選ばれた教師の小中学校」ができなくもないのです。

 さて,教師にとっての異動は,環境を変え,古い体質から脱皮するなど,「生まれ変わる」一つのきっかけになるものです。そして,多くの場合は,同じ公立学校でもこんなに違うものなのか,ということを実感することになります。
 
 異動で悩む教師は,慣れた環境で続けたい,しかし,学年の途中で子どもと分かれなければならないなど,一つはそのタイミングの問題というのがあります。

 学校にとって必要な場合は,基本的に本人の希望が通りやすくなっていると思いますが,その判断はシビアなところです。

 私の場合は,2度の異動が1年担任と1年学年主任券担任のときでした。

 町で会った時,相手は気付くのですがこちらが名前を思い出すまでちょっと時間がかかるのが,この「1年間のお付き合い」があった子どもたちです。相手には悪いのですが,中学生は2・3年生でぐっと成長するので,3年間一緒にいて卒業した生徒よりは,印象が薄くなってしまうのです。

 そして,この子どもたちには悪いのですが,この異動の後,自分でも信じられないくらいの環境の変化,自分自身の成長を体験しました。

 2度の異動がなかったなら,今の自分はないでしょう。

 ・・・・などというような,「異動の意義や目的」を上司からきちんと説明を受けなさい,というのが藤田社長のすすめです。

 そして,異動後はとにかく仕事に打ち込むこと。そして仕事で結果を出すこと

 周囲に認めてもらうこと

 職場の教師たちは,「転任教師」には少なくとも「子どもを大事にしてほしい」という願いを向けると思います。

 異動後,「前の学校の生徒たちは・・・」などとすぐに異動先の生徒と比較して,ほめたりけなしたりする教師がいますが,兄弟で比べるコメントをしてはいけないという鉄則と同じような理由で,セオリーとしてはタブーの行動です。

 なかには,異動してきたのに「この学校は・・・」「この学校の生徒は・・・」などと他人のような口のきき方をする教師もいます。

 異動後,食事に誘われたりする機会もあるでしょうが,これを「わざわざそんな歓迎をしていただく必要は・・・」と拒否する教師もいるようですが,誘っている側は,「どんな人間なのか」を知りたくて誘うという面もあるわけであり,これで断っていたら,そういう人間だと思われて先に進めなくなります。

 よく,会議よりも飲み会の話の方がよほど教育的な役に立つ,という言い方がされますが,歓迎会の参加は絶対に必要なことでしょう。

学校での三角関係 ふり返り366日【08/6/30】/第78問

 指導主事のころですが,少人数指導で課題がある教師に対して指導するときに,そこに管理職の先生もいて話を聞いているという状況は,なかなかやりにくいものでした。

 なぜなら,管理職が大事なことに気付いていないことを指摘するようなものだからです。

 ごくまれに,自分は(嫌われるから)教師たちに言いたいことは言えないが,たまにしか来ない指導主事からは,どんどん(自分が言いたくて言えなかったことを含めて)言ってほしい,そういう考え方の管理職がいるようです。

 状況から察することができるので,望みどおりに,そしてとても大事なことを,該当の教師に対して指摘するわけですが,学校として,仮に教師が変わっていくとしても,同じことばかりを言われ続けるというのはおかしな話です。

 こういう問題について,教育委員会の事務局,いわゆる教員ではなく,事務方の係長や教育長なども,理解を示してくれる・・・ということは,校長の評価が低くなる・・・こともあるでしょうが,親からの苦情とか,何か直接的な「形」になっているもののみを「問題」ととらえ,単純な低学力は「問題」とはとらえない,そんなムードがあるところが多いのではないでしょうか。

 「主幹」「指導教諭」がやるべきことは,確かにたくさんあると思いますし,このタイプの「指導」も必要だと思いますが,やはり「校長」「副校長」の一言は重い・・・はずなのです。

 管理職・指導主事・教諭,管理職・主幹や指導教諭・教諭の三角関係は悩ましい問題です。

 教師たちの機嫌をとってばかりの管理職ではなく,教師をきちんと指導できる,ということは子どもをきちんと指導できる環境をつくる,そういう管理職が増えてくれることを期待しています。

08/6/30 少人数指導のあり方にも注意と関心を!

 小学校における少人数指導の問題点を保護者の立場からも指摘しておきたいと思います。
 転落事故がおこった小学校ではどうだったかわかりませんが、2学級を3グループに分けるような算数の少人数指導を行う場合、当然担任外の教師が指導に加わることになります。
 新聞発表では、「担任教諭」ではなく「女性教諭(なぜ「女性」「男性」と断る習慣があるのかよくわかりませんが)」と表現されているので、もしや、と思いました。

 私が授業観察させていただいた学校だけでなく、子どもの通う学校にも、児童の能力・性格・行動の特性はおろか名前までわからずに「一斉指導」形式の授業をしている教師がいました。
 当然指導主事の時代には指摘せざるを得ないケースでした(これは、学校の教育課程で示していることと反することになり、校長の責任で改善してもらうべき重要な点だからです)。

 「少人数指導」というのは、少なくとも「一人一人の児童・生徒にきめの細かい指導を実施する」ことが目的であり、それができて、子どもの能力が高まることが最大のメリットなのですが、40人のときと変わらない指導では意味がないのです。それどころか、名前やクラスまで覚えていないというのは大問題です。
 今回の事故を通しては、このような指導のあり方にも目を向ける必要があるかもしれません。

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昭和の家庭史トリビア?【第78問】 
 昭和15年(1940年)の話です。
 日本野球連盟,監督・選手の呼称をやめ,教士・選士と改称しました。では,マネージャーは?
 ① 助手 
 ② 秘書
 ③ 助士

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 【第77問の解答
 ②の「弾丸ライナー」でした。阪神戦の実況で野球評論家の大和球士がそのように表現してから,川上選手の代名詞になったそうです。

無駄を有益とする有害な人 ふり返り366日【08/6/29-4】/第77問

 学校には,職員会議という,かなりの無駄な時間が費やされる拘束場所があります。

 職員会議で分かることというのは,結局,準備がよくできていないとか,根回しが不十分であるとか,理解していないとか,そういう「失敗」に気付くこと,そういうことばかりです。

 「失敗」状況に気付かずに,ただよくも分かっていない目標に向かってまい進するのはいつかのどこかの国と同じ態度であって,それはそれで避けなければならないとすると,結局,会議は必要である,ということになってしまう。

 無駄な時間をつくっている原因がどこにあるかについて共通理解をつくって,それを解決する手段を講ずれば,会議の時間は短くなるのです。

 でも,「無駄」は「無駄」なりに「有益」だという「有害」な人もいるので,この「無駄」は簡単にはなくせません。

 堂々巡りをたつ方法はただ一つ。教師の成長です。

08/6/29 豊富なメニュー【「朝令暮改の発想」その2】

 教師の逆コンピテンシーにも共通する「朝令暮改の発想」のメニューは非常に豊富で、どのように料理すべきか迷うほどです。
 「時間の無駄の典型は成果に結びつかない会議と資料づくり」
 「人間は『○○』のせいにして自分が納得しやすい話をつくりたがる」
 「『○○のせい』にして責任逃れをしたときからすべては終わる」
 「『できない』という間に『できない理由』になっているか考える」
 「『なあなあ』『まあまあ』に流れたときから停滞が始まる」
 「口先だけの『評論家』をやめ、仕事のできる『実務家』になろう」
 「『真の競争相手』は同業他社ではなく『絶えず変化する顧客ニーズ』である」
 「『顧客のために』ではなく『顧客の立場』で考える」
 「『素人の強さ』をあなどってはならない」
 「『本当にそうだろうか』と常に問い直し、ものごとの本質をつかむ」
 「目的と手段をはき違えてはならない」
 「『基本の徹底』ができないと『変化対応』もできない」
 「部下は『常に自己正当化する存在』だから追い詰めることも必要」
 「上司はいざというときは部下にかわって『答え』を出さなければならない」
 「『悪い情報は知りたくない』と思う人間には真実はつかめない」
 「人は『変えること』に抵抗をする」
 「『自分を守ろうとする心理』に妥協しない」
 厳しく教育現場を見つめ直してみたいと思います。

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昭和の家庭史トリビア?【第77問】 
 昭和15年(1940年)の話です。
 巨人の川上哲治1塁手のニックネームになった言葉とは?
 ① 打撃の神様
 ② 弾丸ライナー
 ③ 若き大砲

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 【第76問の解答
 ③の火葬場の残灰でした。金歯や指輪を取り出して,3200円の収入になったそうです。

荒れの中でたくましく育つ子ども ふり返り366日【08/6/29-3】/第76問

 プロ野球でも,ピンチのときこそ力を発揮する,そういうタイプが一流選手となって,長くグラウンドに立っていられるわけです。

 高校野球や少年野球などでは,「ピンチに耐える」プレーができず,がたがたに崩れてしまうチームも見かけられます。いかにも練習をしてこなかったんだなという空気が伝わってくるものです。
 
 では,ピンチに強い人間になるためには,地道に努力を怠らないでがんばっていればいいのか,というと,そう簡単にはいかないのも現実社会です。

 新しい学習指導要領では,「習得」だけでなく「活用」を,そのためにも「言語活動の充実」を求めるようになっています。

 これは,ちょっと状況が変わるだけで,自分の力が出せなくなるような柔な人間ではなく,多少の状況変化には適切に対応して,それまで培ってきた力を発揮できるような人間になることを求めている,そういうイメージとしてとらえればよいわけでしょう。

 よく,学校が荒れた状態の中で,一方でとても立派な生徒が育っていくという状況を目にしてきました。

 これはあくまでも,教師がその荒れに適切に対応して,飲み込まれない状態が維持できた場合に限ってのことです。

 教師が荒れに流されたり,生徒に媚を売ることによって生き残りを図ったりするような学校では,決して起こらない現象です。

 平穏な状況が続く中でも,変化に対応できる生徒を育成するには,常により高い水準の要求を続けていくことが求められます。

 しかし,向上意欲の育成が不十分だと,「去年より厳しい」という愚痴になってしまいます。

 教師が子どもに対して見せつけるべき重要なことは「向上心」です。

 これを実践し,これこそが道徳教育とよべる学校が,どれだけあるでしょうか。

08/6/29 逆風のときに問われる力量【「朝令暮改の発想」より(その1)】

 私はこれまで、企業経営者の本を読んでも、あまく多くの共感を得ることはありませんでした。
 ただ、最近手にした鈴木敏文(セブン&アイ・ホールディングス代表取締役会長・CEO)著『朝令暮改の発想 ~仕事の壁を突破する95の直言~』(新潮社)には、教育失敗学にそのまま適用できる考えばかりが紹介されており、ここで取り上げる価値があると思うようになりました。
 さっと読んでこの本を購入することにしたきっかけは、「はじめに」の中で、

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 チャンスをつかめるかどうかは、才能ではなく、ものの見方や、仕事の取り組み方にかかっています。世の中でいわれていることを鵜呑みにするのではなく、「なぜ、そうなのか」と常に問題意識を持ってクエスチョンを発し続け、自分で掘り下げて考える習慣を身につけることです。そうすると、日々起きるさまざまな出来事に対し、自分なりに理解力がついてきます。

 アゲンストのときこそ、取り組み方の差が大きく表れる。自分の仕事のフォームをもう一度見直す上で、この本が一つのヒントになれば、何よりの幸いです。
*********************

とあったこと。
 また、「仕事は毎日が瀬戸際」というフレーズ。
 まさに今の私は文字通り、瀬戸際です。ルーチンワークを除き、校務関係、教科関係、外部関係、合わせて約20のプロジェクトが同時進行で、常に結果が求められています。
 「人間は一度仕事でうまくいくと、その喜びの余韻にいつまでも浸ろうとする習性があること」、「仕事の中で惰性に陥る人がいること」は教師の世界でもよくあてはまり、惰性や妥協をなくさない限り、問題の解決は図れないという考えにも共感できます。
 「去年と同じ(内容、レベル、・・・意味はさまざま)でいいのでは」と言われることがありますが、それでは決して満足できません。
 冒頭のゴルフのたとえは秀逸でした。

 ゴルフでフォローからアゲンストに風が変わると、普通の人は「ついていない」と思う。
 アゲンストのときはボールの中心を打たないと、どこに飛んでいくかわからない。
 ということは、実力が結果にストレートにあらわれる。
 日ごろから熱心に練習し、正しいフォームを身につけて、技術を磨いていれば、アゲンストのときほど努力が報われ、努力を怠っていた人が出せないような成果が出せる。
 
 ただ、ゴルフは競技で一緒にプレーしていた人と競うスポーツですが、教育現場はそうはいきません。
 アゲンストになるともろくも崩れ去るような弱体化した教師集団では困るのです。
 「95の直言」の中には、当たり前のこともたくさんあるのですが(その当たり前ができずに苦しむ場合も)、教師の逆コンピテンシーにかかわる部分を取り出して考えてみたいと思います。

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昭和の家庭史トリビア?【第76問】 
 昭和15年(1940年)の話です。
 このころになると,「節約ネタ」ばかりになります。
 大阪市が,資源確保のために捨てるのをやめたものとは?
 ① 役所や学校での使用済みの紙
 ② 動物の死骸
 ③ 火葬場の残灰

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 【第75問の解答
 ②の20倍,125万人でした。

なぜ学習指導要領準拠の入試問題ができないか ふり返り366日【08/6/29-2】/第75問

 入試にも大きな影響がある教科の評価が「目標準拠評価」(いわゆる絶対評価)になった以上,学習指導要領の目標や内容を理解しない限り,適正な評価はできないことになっています。

 しかし,入試における学力検査しか頭にない人たちは,「どういう問題が出るか」「どういう範囲で出るか」という視点ばかりを重視するので,「過去問」をもとに同じような指導を繰り返すことになります。

 入試をつくる側にとっての悩みは,「短時間で,だれが採点しても同じ採点結果がでるような問題が望まれている」ことです。

 全国学力調査の活用問題のようなものばかり出題されると,採点に時間がかかる,そのために,結局は「学力のごく一面を問う」問題になってしまう。

 授業も一面,入試問題も一面では,「目標」の意味がない。

 しかし入学選抜ではそれが実情でしょう。

 「問題が解けるようになればそれでいいだろう」という極論もあるでしょうが,こういう人たちに限って,「学力検査の結果で評価するのはおかしい」などという主張をするのであり,本当にチグハグなことになっています。

 教育政策の動向は,政治の変動とも無関係ではありません。

 教育への関心自体が高まっていくであろうことは,ある意味ではとてもよいことです。

08/6/29 学習指導要領改訂による混乱とは?

 新しい学習指導要領が、かなりの期間及び相当の回数の検討を経てできあがることは、中教審の答申や教育課程部会の審議内容を読まない教師はよく知らないと思います。
 学習指導要領の各教科編には、「改訂の経緯」や「改訂の趣旨」「改善具体的事項」「改訂の要点」等が冒頭に示されています。
そこを読めば、今回の改訂がなぜ行われたのかを知ることができます。
 一部に、学習指導要領の改訂が教育の混乱を招いてきたと考えている人がいますが、改訂されてもあまりその趣旨を理解せずに昔ながらの授業を実践している教師が多いのは、学習指導要領があくまでも基準を示したものだからです。

 一方で、たしかに「混乱」する部分があると言えるのは、たとえば教科書会社が、新しい学習指導要領の趣旨に沿うように新しい教科書を作らなければならないのですが、具体的にこう教えろとは学習指導要領は書いていないものですから、「どうやってつくったらいいか」と悩むわけです。編集者、執筆者の中には「混乱」している人がいるかもしれません。

 また、授業時数がかわるので、新しい時間割づくりなど、現場が苦労することはあります。
 教育政策へのスタンスは、非常に長いスパンが必要である部分と、「豊かな人間性をはぐくむべき時期の教育に様々な課題が生じている」以上、それらの「課題に適切に対応していくことが、これからの教育に求められている」こと、また、国際化、情報化、科学技術の発展、環境問題、高齢化・少子化等の様々な面における大きな変化は、10年先のことも十分に見通せないため、今後の変化を踏まえた新しい時代の教育をしっかり検討し、それを学校教育でも反映していくような短いスパンで実践すべき部分があるのは当然のことです。
 学習指導要領そのものも問い直すべきではないかという意見もありますが、たとえば今回の改訂では、いわゆる「はどめ規定」が見直されるなど、さらに学校の裁量が増え、自由な教育ができるように改善されています。
 (ただ、はどめ規定が示された現行の学習指導要領の趣旨をふまえると、内容を厳選して「これだけは身に付けさせて」ということが結局は実現できなかったため、今後は指導者や学習集団の力量による格差が拡大することは避けられないことが予想されます)
 学習指導要領の具体的な内容については、私も批判したいことはたくさんあります。ただ、もし公務員が法令に準じる学習指導要領を自主的に、そして批判的に読む習慣を失っているとすれば、公教育への信頼は失われていくばかりだと考えれます。
 (現実に、学習指導要領を読まなくても、それに準拠した教科書が作られて、文部科学省の検定で合格させている以上は、それをもとに教えれば、教育は成り立ちます。しかし、学習指導要領の改訂の趣旨を踏まえないことで、マイナスの要素が生まれることは多いと思います。)

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第75問】 
 昭和15年(1940年)の話です。
 この年は「皇紀2600年」。「国史劇」「神社めぐり」が盛んになりました。
 奈良・橿原神宮の正月三が日の参拝者は,前年の何倍になったでしょうか。 
 ① 10倍
 ② 20倍
 ③ 200倍

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 【第74問の解答
 ②の金歯でした。「金」が調査の対象になったため,各家庭の金歯からキセルの口金まで強制申告させられることになりました。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より