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消極的行動で積極的にメッセージを伝える教師 ふり返り366日【08/7/05】/第85問

 子どもの立場で考える習慣をつけると,「こんな注意は受けたくないな」と思っている生徒に注意をするとき,そこに「子どもに伝わるメッセージ」がこめられるきっかけになります。

 「こんな注意は受けたくないな」と思っているだろう生徒に「注意をしない」という選択肢をとる教師もいるでしょうが,今度は「それが子どものため」か?という問いが必要になります。

 「指導しない」「注意しない」という消極的行動が,実は非常に積極的に,特定のメッセージを子どもに伝えていることに,気が付かない教師がいるのは残念でなりません。

 「子どものため」を考えること,「子どもの立場」で考えること,これをうまく組み合わせて生徒指導にあたることが大切だと思われます。

 場合によっては一方を優先し,違うケースでは他方を重視する。その使い分けのコツも,経験の中から見つけ出していくものでしょう。

08/7/05 「子どものために」ではなく「子どもの立場」で考える  前回の記事の補足ということになりますが、私は「自分より実力のある人間とつき合いなさい」という指導をすべての学校で導入してほしい、などとは考えておりません。  教育課程編成におけるこの大きな原則、「創意工夫を生かした特色ある教育活動を展開」すること、「生徒の発達の段階を考慮して、適切な指導を行う」ことができずに、単なるものまねで失敗したり、無理な要求を子どもにも教師にもしてしまったりと、最初のボタンから掛け違えている学校というのがあるのです。  このタイプの失敗をしてしまう学校の共通点は、子どもの視点からの検討が欠けているということです。  ある指導言によって、子どもは何を感じるのか。何を学べるのか。それはなぜか。  この問いを絶えず繰り返していくなかで、「子どものための」というより「子どもの立場を重視した」教育が展開していくのが理想だと思います。  「朝令暮改の発想・その3」ということになりますが、「子どものために」ではなく「子どもの立場」で考える理由は、「子どものために」と教師たちが考えていながら、ほとんど目的は達成できないようなとき、たいていは、過去の経験などをもとにした「子どもとはこういうものだ(こういうものを求めているはずだ)」という思い込みや決めつけが背景になっていることが予想されるからです。  「子どものために」とはあくまでも教師からの視点であって、生身の「子ども」が不在のまま主張が展開されてしまうおそれもあります。  一方の「子どもの立場」で考えれば、たとえばこんな授業ならいらない、とか、こういう当たり前の話を聞くのはだるい、という発想が出てくるわけです。そういう発想を生かして授業改善に結びつけたり、生徒の誤解であるならそれを解いていきながら、子どもに持たせたいと教師が願っている力に気付かせる。  ここに、各学校の創意工夫、生徒の実態に応じた教育が可能になるわけです。  これはあくまでも視点を変えることで挑戦する価値が見えてくる例の紹介なので、「子どものため」という視点はもたなくてもよい、と言っているわけではありません。  ただ、子どもの視点でものを書いている人と、「子どものために」という教師の視点だけで書いている人との意見はすれ違うばかりなので、私も考えなければならないと思っています。

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昭和の家庭史トリビア?【第85問】 
 昭和17年(1942年)の話です。
 東京・後楽園球場の第1回巨人VS大洋定期戦で,アトラクションとして実施されたのは?
 ① 戦車の行進
 ② 手榴弾投げ
 ③ 軍人たちによる綱引

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 【第84問の解答
 ①の3軒でした。予想よりも,みんな押しつけられたルールを守っていた?

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より