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「教師一同」は「考える集団」か? ふり返り366日【08/7/04-2】/昭和16年に始まったのは?

 学校という場では,子どもと大人とで価値観が逆転するケースというのが,かなりたくさんあります。

 子どもは「勉強なんていい,部活がやりたい」と言い,

 教師は「部活はほどほどがいい。勉強が大切」と言う。

 この場合,実は,子どもと教師の心の中は一緒なのかもしれません。

 学校は,子どもの成長を促す場ですが,特に公立学校の中に,「すばらしい子どもの成長」ではなく,「すばらしい教師の指導の成果」をアピールしたくて,「完成形」に近いものを短時間で作りたがるところがあります。

 「完成形」に近い成果は,外見上の「ムダのなさ」に象徴されます。

 しかし,形ばかりが「ムダのない」ものになり,「効率のよさ」というのが中心の価値観になると,実際の子どもはほとんど成長していないまま,外見だけがまともになる場合があります。

 これは,「外見だけはまもとにしてやらなければ」という教師や学校側のあせりが助長しているムードであるとも言えます。

 普通の教師が考える「効率のよい教育」が,実は最も「効率の悪い教育」だったということがあり得るのです。

 教師たちが新しい学校をつくり,それが軌道に乗っていってよい学校になっていく,そのプロセスを考えてみれば容易に分かるように,様々な試行錯誤があり,話し合いがあり,調整があって初めて「大きな成果」がでるのであって,「何々をここに移植すればいい」という安易な発想で効率を重視すると,深く考えなければ「悪くない」ものができてしまいます。そして,その後に荒れが起こった場合,「どうしてか分からない」という声が上がってきそうな予感を抱かせるようなことになります。

 学校改革については,外部からあれこれ言うことは簡単なのです。それに従って教師が動けば,成功できる部分が出てくるかもしれませんが,根本的には,教師が「考える集団」をつくらなければダメなのです。

 「考える集団」をつくろうとしている教師が「考えない集団」の人間では困ります。

 そして,それは教育委員会が悪いとか,親が悪いとか,「人のせいにする」のがプロの教師が混ざっていたら,もっともっと困ることになるでしょう。

08/7/04 道徳的価値に気付かせる教師の役割とは?  「自分より実力のある人間とつき合いなさい」という指導について、読者の方からかなり突っ込んだご意見をいただきました。誠にありがとうございます。  「生徒の善良さや優秀さを前提とした,かなりリスクのある指導法」というのは、一定の評価をいただいたと考えてよろしいのでしょうか。  そして、私が「当たり前の指導言」とよばせていただいた「誰とでも分け隔てなくつきあいなさい」についてなのですが、教師が子どもに「誰とでも」という形で言葉を投げかけたとき、子どもがどんなニュアンスでその「」を受け取る可能性があるか、お考えになったことはありますでしょうか。  子どもが本来のその意味に到達するまで、どのような壁を乗り越えていく必要があるのでしょう。  そして、その壁を乗り越えさせる教師側の指導言とは何でしょうか。  同じ言葉を繰り返し子どもに投げかけることでしょうか。  「貴殿自身が誰とでも分け隔てなくつきあうということの道徳的価値を本当には理解なさっていないから,そう思われるのでは」というご指摘についてですが、私のまわりにはいくつかの壁を越えてそういう道徳的価値をつかみとった子どもたちがいっぱいいますから、ご心配いただく必要はございません。  ストレートにその価値に到達している子どももいます。しかし、私の目からは、壁にぶつかっていない子どもの現状にはあまり楽観視できないものがひそんでいるように見えます。  「誰とでも分け隔てなくつきあう」ためには、何が必要か。  「でも先生、人の悪口ばかり言うあの人とはつきあいたくないですよ」という訴えに、教師はどう答えればよいのでしょうか。  教師の役割は、選挙演説のように当たり前の指導言を連呼することではなくて、そのような道徳的価値に気付かせ、つかみとらせることができる環境を設定することではないでしょうか。     「盗む」という言葉についてです。  悪い言葉は悪い。よい言葉はよい。  このような単純な思考が、子どもから豊かな創造力を奪い、堅い殻をつくったり、物事を固定観念によってとらえたりしているという危惧を私が抱いており、自由で伸びやかな発想力をつけさせるために、利用する言葉のパターンの一つがこの「盗む」というものでしょう。  また、プライドの高い子どもは特に、人の「まね」をすることには一種の抵抗感をいだいています。  泳ぎ方が上手な生徒がいたとして、そうでない生徒に、「まねをすればよい」と言っても、何も始まらないわけです。  よい行いはどんどん「まね」をしていきましょう。これも当たり前の指導言なのですが、こういう言葉は、繰り返し述べるように、「そういうあなたはそれができているのですか?」という質問を受けると困ったことになってしまう人もいる。また、簡単にできる「まね」には創造力が必要ありません。  一方、「盗む」ことは一種の芸術なのです。  これはその道のプロをたたえて表現しているわけではありません。  私は大学まで野球部にいたので、たとえば盗塁をするために、ピッチャーの投球動作の癖を盗むことは必須の課題でした。相手の監督のサインを盗むこともあれば、すきをみて次の塁をねらうというのは、常に選手に要求されている課題です。  「人の所有物を盗む」ことがいけないのは当たり前のことです。  しかし、「心を盗んだ」ルパン三世など、言葉には必ず広がりというものがあるわけです。  私は社会科の教師ですが、漢字の成り立ちについて説明することもよくあります。  「盗」の「次」という字は、本当はにすいではなくさんずいであったこと、それはよだれを示すものであったことなどを話すと言葉へのイメージも広がっていきます。  どうしても子どもに「盗んでもいいものがある」などというなぞなぞみたいな話もさせたくないと思われるのであれば、「まねる」というより「取り入れる」という言葉の方が私のイメージには近いものがあります。  繰り返しになりますが、「これは批判のしようのないいい言葉」「これは口に出して言うことすら忌まわしい悪い言葉」とその価値を固定化することの方が危険であると私は認識しています。

*******************

昭和16年(1941年)がスタートのもの
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
○国民学校令,公布。尋常小学校を国民学校と改称し,義務教育年限を8年に延長。
○肉屋で犬・タツノオトシゴ・オットセイの肉も販売できるようになる。
○日本唯一の太陽観測専門の天文台が奈良・生駒山に完成。
○「備荒動植物」調査の概要がまとまる。げんごろうの天ぷら,とんぼの佃煮など,雑草1000種,動物は100種が食糧に。
○イギリスでレーダーによる雷雨の観測が行われる。レーダー実用化の始まり。
○文部省の児童図書推薦に従って,表紙に「4~5歳向」のような印刷がされるようになる。
○国鉄,アメリカ・キャタピラ社よりブルドーザーを始めて輸入。
○11月30日から,天気図が丸秘扱いとなる。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「奇貨居くべし 黄河編」より
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    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
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    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より