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リーダーをつくらない小学校 ふり返り366日【08/7/01-2】/昭和15年の変化

 とてもなつかしい響きのある,教師の一言。

 「自分より実力のある人間とつき合いなさい

 とてもメッセージ性の高い言葉です。

 あるブロガーは,自分よりも私の「実力がない」と判断した後,私のこの一言を忠実に守って,この記事へのコメントを入れるのをやめました。

 

「私を論駁なさりたいのであれば,私の指摘した矛盾が成立しないということを同じ論法を用いて証明なさらなければいけません。決して,教育観などに関わる問題ではなく,純粋に貴殿のご主張の論理性の欠如を指摘しています。教育観の差異に関しては,お互いに相容れないことが明白なので,貴殿と議論する価値を感じません」

 ・・・大学の先生と公立学校の現場の教師の話がかみ合わない理由がよく分かる見解ですね。

 なぜ「自分より実力がない」と判断した相手の言いなりにならなければならないのか不思議ですが,以下の誤解があったのも確かでしょう。

 「自分よる実力のない人間とつき合うのはやめなさい

 と言っているわけではないこの言葉に込められた思いは,文字では伝わりにくいようです。

 さて,社会の中で優れたリーダーを養成する仕組みをきちんとした形で担っている組織はどれだけあるでしょうか。

 単純に,テストの点数が高ければリーダーになれてしまう,そういう「秀才信仰」はさすがに消えつつあるかもしれませんが,「利他的リーダー」は自然に生まれてくるものなのかどうか。

 小学校の中には,「学級の代表」をおかないところもあるようです。

 近隣の中学校との話し合い・交流の中で,このような現状はどのように認識されているのでしょうか?

08/7/01 リーダーを育成する学校と教師  「自分より実力のある人間とつき合いなさい」  このことは、「生徒から学ぶ生徒」「生徒が生徒を育てる学校」という伝統がある私の勤務校では、昔から教師が口を酸っぱくして生徒に語りかけてきた言葉です。  この「力」というのは、もちろん「学力」だけとは限りません。たとえ一言で「学力」と言っても、それがさす「力」は非常に広がりがあるものです。  あえて誤解を避けるように言えば、「自分より個性の豊かな人間とつき合いなさい」という表現になるでしょうか。  「実力」「個性」とは、たとえば包容力なんてものもあっていいし、忍耐力、協調性、雑学博士、運動センス、・・・さまざまな「力」が子どもたちには備わっており、また、伸ばしていっているのです。  人は、自分が優越感を感じられるように、自分と同等か、似たようなタイプ、自分が優位に立てる自信があるようなタイプの人間とは容易につき合うことができます。  しかし、自分より優れていると見えてしまう人で、自分が下に見られそうだなと思ってしまうと、自分から近づいていくことは難しくなる。人が人から学ぶというのは、言うのは簡単でも、実際には難しいものです。  自治のさかんな学校というのは、そういう場面がたくさんできるよう、あらかじめプログラムされているというか、代々そういう経験ができるようなしくみができあがっています。  学校が「リーダー育成」を声高に目標に掲げると、「格差拡大を目論むつもりか!」という反論が出てきそうですが、子どもにリーダーシップが備わると、たとえば危険な行動をとっている仲間に対して、子どもの側から「危ないぞ!」「そんなことはやめろ!」という注意が促されるものです。  単純な一例ですが、リーダーがそういう態度に出たとき、「おまえは教師の犬か!」などと非難されるような学級経営をしているようでは、具体的な対案も出さずに世の中を批判することしかできない人間ばかりが増えてしまうことでしょう。  「子どもにそんな責任感をもたせる必要があるのか」と問われると、教師の力量に多大な疑問を抱えている私などにとっては、「あるどころの話ではない。それが学校を救えるかもしれない」とまで言い切ってしまいます。  以前に若干ふれた、「学校再建」「学校正常化」の最大のコツは、そこにありました。教師の力ももちろん必要でしたが、生徒が生徒を救ったのです。  公立中学校にいたときは、「学級委員ができるレベルの生徒が少なくなった」という嘆きをよく耳にしました。  こういうとき、即、「学級委員が育てられる教師が少なくなった」と読み替えられるかどうか。  公立中学校のピンチの背景として、子どもと教師、どちらに大きな比重をおくか。  私のスタンスは、これをあくまでも教師におくという前提で考えをまとめていくというものです。

*********************

昭和15年(1940年)がスタートのもの
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
○全国に先駆け,名古屋でマッチの配給制が始まる。
○全国に先駆け,高知で米の切符配給制が始まる。
○東京・隅田川に,船が通るたびに橋の中央部が跳ね上がる勝鬨橋が完成し,東京名物となる。
○東京市内に「贅沢は敵だ」の立て看板1500本を設置。
○文部省,中学校の制服を男子は国防色(カーキ色),女子は紺色と決める。
○アメリカで最初の高速道路が開通。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
*昭和15年に廃止・中止・禁止されたもの。
 ○調理用電熱器や家庭用電気冷蔵庫など,電気器具の使用が禁止される。
 ○三越,エスカレーターの運転を休止。
 ○東京府の食堂・料理店などで米使用を全面禁止。
 ○列車寝台の貸し浴衣を廃止。
 ○学生の劇場・映画館への平日入場が禁止される。
 ○文部省,修学旅行を制限するよう全国に通達。昭和18年以降は全面禁止。
 ○電力制限で広告灯・ネオンサインがなくなる。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より