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藤田晋の成長学・教師編1 攻めの姿勢

 このシリーズは,「藤田晋の仕事学~自己成長を促す77の新セオリー」(日経BP社)より,教師として学べそうな(あるいは人を育てるのに使えそうな)ものをピックアップしていこうとするものです。

 ブログでのタイトルは,内容から,「成長学」に変更することにしました。

 並行して,生徒編・・・学習者の立場としての「成長のセオリー」を「学習失敗学から学習創造学へ」でまとめていきます。

 第1章は,「職場に不満がある人に」です。

 教師にとっての「職場」とは,まさしく学校,教室,職員室がそのイメージとぴったり合うでしょう。

 ただ私の場合は,「職場」は学校を含んだ「地域全体」として考えることにしていました。

 公務員であるという理由もありますが,自分の住んでいる町の学校を特に職場として希望して,それがかないましたから,生徒のため,学校のため,地域のために働こうと考えたわけです。

 あることのために精一杯努力しているつもりが,広い視野から見れば全体の足を引っ張っていることにつながっている,・・・そんな勘違いをしないようにすることが,それまでの経験から学んだことでした。

 一つの「学校」という限られた視野ではなく,一つの地域の数ある学校の中の一つ,ということを子どもにも感じさせることで,学校再建が可能になる場合もあるのです。

 さて,第1回は「怒鳴られた時こそ前進しよう」です。8月3日の記事を再掲します。

*********************

 セオリー№1 怒鳴られた時こそ前進しよう

 教育実習生や若い教師が,指導の立場にある教師から「怒鳴られる」経験はまずしないでしょうが,そういう経験が全くない教師の中に,子どもが喧嘩で「怒鳴り合って」いたり,親が「怒鳴り込んでくる」とパニックになってしまう人がいます。そして余計なことを口走ってしまい,問題の溝をますます深くする・・・。

 結局,組織内で厳しく同僚を鍛えていく空気がないことが,「弱い企業」の「弱み」であり,それと似ているのが学校現場ということでしょうか。

 指導者側が「怒鳴ればよい」という問題ではもちろんないのですが,そこまで厳しくして育てられた社員というのは,もしものときに動じず,すぐ次の行動を起こせる「強さ」を手にしている「希望」が持てます。そして,実際,そういう社員が会社を牽引していくことになるのでしょう。
 
 「怒鳴られるくらいで動じない力」・・・そういう反発力に期待する「成長のさせ方」が,まだ通用する会社があるということに安心感を覚えました。

*********************

 私が保護者から受けた苦情の中で,比較的短い時間で逆に「感謝」されるようになったのは,「学級委員」を叱ったケースでした。まだ異動してきたばかりの中3だったので,4月から来たばかりの教師になぜ叱られなければならないのか(今まで同じようなケースで学級委員が叱られたことはなかったのに)という気持ちも強かったのでしょう。

 保護者の言い分(それはイコール,学級委員であった生徒の言い分でした)は,「なぜ学級委員だけが叱られなければならないのか」というものでした。

 私の言い分は,「学級委員だから叱る対象になった」というもので,「せまい視野」を捨てて,本来,学級委員はどうあるべきか,「生徒としての王道を歩んでいってほしい」・・・等々の正論で徹底的に押しまくったところ,「そこまで言ってくれる先生はいなかった」と納得してもらうところまでこぎつけました。

 「怒鳴られた時こそ前進」するためには,ただ相手の言い分を聞いているだけではだめで,こちらの「使命感」「責任感」「愛情」「成長させるという執念」を正面からぶつけてみることも必要な場合があるということです。

 そういう場面で「逃げる」教師を見てしまった子どもは,それを同じように「まねぶ」ことになるのでしょう。
 「くじける」「折れる」教師を見てしまった子どもは,幻滅するか,軽蔑することになるでしょう。

 完全にこちらの間違いが原因で「怒鳴られた」ときも,誠意をこめて謝罪しながら,こちらの「使命感」「責任感」「愛情」「成長させるという執念」を語ることが重要です。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より