ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »

2009年8月

教科書会社の負担 ふり返り366日【08/6/29】/昭和14年にできたもの

 学習指導要領,そしてその解説も,版を大きくしたり,体裁を考えたりと「読ませる」ための工夫をたくさんしているのですが,教員採用試験の前には読む指導要領も,採用された後は読んだことがない,という教師が少なくないかもしれません。

 特に小学校の教師は全科ですから,読まなければならない解説のページ数は大量です。

 しかも,「解説の解説」が出版されるくらい,実は解説というのは「分かる人」が読まないと「分からない」内容になっているので,ますます読むことから遠ざけてしまう原因になっています。

 小学校では平成23年度から,小学校では24年度から完全実施ですが,移行はもう始まっています。

 教科書もできていないから,「まだ先の話」と言い切ることはできません。

 ところで,学習指導要領やその解説本の弱点は表紙が薄いことと,読むときに紙の表面が光って見えないことがあることです。

 教科書会社に負担をかけて安く仕上げるのはやめて,30年版にはもっと本らしい本に工夫されることを期待します。

08/6/29 学習指導要領を読まない教師    学習指導要領の趣旨を誤解している方たちがいます。  「生きる力」とか、「新しい学力観」など、改訂に際してのキーワードの意味すら認識していない教師もたくさんいます。(なお、新しい学習指導要領は、現行の学習指導要領の理念を引き継ぎつつ、教育基本法や学校教育法の改正もふまえ、その理念の実現するための具体的な手立てを確立する観点からの改訂です。)  「移行措置」についても、「教科書会社が資料を作ってくれるだろう」と頼り切っている教師が多いことでしょう。  新聞などのマスコミからの情報を鵜呑みにしている教師もいます。  学習指導要領というのは、内容の基準を示すものであって、細かな内容や教育方法については現場や地域の特色に応じた創意工夫にまかされている部分が大きいものです。  そのため、「どうやって教えたらいいか分からない」という先生方のためにさまざまな研修が実施されています。  私は基本的に、50年たっても教師の教え方はそれほど変化していないのではないかと考えています。  内容の増減はあっても、20~30年前の教師と、今の教師を比べて、何がどれだけ変わったというのでしょう。  教師はほぼ10年ごとに学習指導要領が変わって、10年区切りの世代が引退していきますが、特別リニューアルされるわけでもなく、昔のスタイルを引き継いでいる部分が多いのではないでしょうか。  学習指導要領では、各学校がその特色に応じて工夫すべき点をたくさん示してあります。  本当に目の前にいる子どもたちのために工夫している教師が多いのかどうか、それを問うべきときだと考えています。  学習指導要領の改訂ごとに、現場がしっかり教育内容、教育方法についてふり返り、よかったことを引き継ぎつつ、課題があったことを改善していく。このサイクルは、「もっと短い方がいい」という意見もあるのですが、私は10年がいい区切りだと考えています。  学習指導要領には、細かい具体的内容や方法は示されていません。それは、それを示すと国定教科書ができてしまうからです。  現場の困惑は、よりよい指導法を編み出し、教科の専門性を磨くための産みの苦しみだと捉えています。  私は「学び直し」「目標と内容、その構成の再検討」の機会として、積極的に改訂を捉えています。  人から説明されるのをただ待つのではなく、具体的な質問ができるくらい読みこなせる教師が求められていると考えます。

******************
昭和14年(1939年)がスタートのもの
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
○文部省が中等学校に支那語(中国語)を正科として開設することを訓令。
○早稲田大学,本科に女子学生の入学を許可。
○文部省,第1回児童図書を推薦。新村出『イソップ物語』などが推薦される。
○百貨店食堂の見本料理,毎日捨てるのはもったいないと,以後絵や写真になる。
○大日本吹奏楽連盟が結成される。
○大日本音楽著作権協会が設立される。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
*昭和14年に廃止・中止されたもの。
 ○日本学生水上競技連盟,日本式泳法強化のためバタフライ泳法を禁止。
 ○文部省,男子学生には緊褌一番・長髪廃止・禁酒禁煙の断行を指示。
  女生徒には,口紅・白粉・頬紅・パーマネントを禁止。
 ○文部省,学生の運動競技を休日・土曜日の午後以外は禁止に。
 ○中学校で制服の金ボタン禁止。
 ○全国中等学校の入学試験を廃止。小学校長の報告書・人物考査・身体検査の3つの総合判定にする。
 ○デパートの年末贈答品の大売出しや配達が廃止,門松も全廃となる。

気付いてほしい教師の「役」意識 ふり返り366日【08/6/28-1】/昭和14年のブーム

 職場の親の姿を見ることは,なかなか難しいのですが,親が地域でも何かの「ヤク」=「」(たとえば自治会長とかPTA役員とか)についていれば,その「」の責任を果たすときの態度というのを目にすることができます。
 しかし,そういう機会もやはり,なかなか持てない。

 どうしても限られた子どもだけということになります。
 
 子どもにも,「選ばれる」役というものを経験してほしいのですが,多くの場合は自分で「選ぶ」役でありたがる。
 
 「選ぶ」責任も軽いわけではありませんが,「選ばれてついた」役の責任と比べると,大きな違いがあります。

 すべての子どもが同じように感じ取るチャンスがある身近な大人の「役」意識は,どう考えても教師のそれしかありません。
 教師が示す「役」意識のバリエーションが,そのまま子どもの「役」感覚の涵養に役立ちます。

 なぜA先生は,○○のときと△△のときでは,態度に違いがあるのだろう・・・こういうことに思考が向くような子どもを育てておかないと,教師は「恨まれるばかり」の存在になってしまいます。

 ・・・こういう話は,なかなか教員研修では聞かないものだと思いますが・・・・。

08/6/28 「役」意識を喪失し始めた日本人(序)

 学校で発生する事件や事故は、ネグレクト系、虐待系の親が多いから増えている、という単純なものではないようです。
 確かにそういう親は増えているかもしれませんが、そういう親の子どもでも、学校生活だけはしっかりできている場合があります。
 それは、教師集団の力というものもあるかもしれませんが、子ども集団というものが、「いじめ」にも向かえるような強いエネルギーを「良い面」にも発揮できる力をもっているからだと考えられます。
 行事のときの子どもの姿を見ればよくわかります。

 指導力のない教師より、よほど子どもは自分が認めた子どもの言うことをよく聞きます
 ですから、教師は子ども集団に適切なはたらきかけをして、よきリーダーを育てることを大切にしてほしいものです。私も、近く学校で「リーダー講習会」を企画します(クラブの責任者は必修、その他の生徒も参加自由)。
 親の話に戻れば、本当にしっかり子どもをしつけている親でも、必ず反抗期の洗礼を受けるものです。「うちの子に限って・・・」なんていう話は、ドラマに限らず現実でもいまだによく聞きます。
 子どもとはそういうものだと捉えることが第一歩です。
 だから、家庭では親が、学校では教師が、地域では地域の人々が、子どもにあたたかい目を向けてあげていてほしいのです。
 学校でおこった問題を、「親が・・・だから」という話でしめくくるのだけはやめてほしいと思います。
 息子の学校近くの自治会で「挨拶運動」を毎朝してくださっている方々には、本当に頭が下がります。
 そして、学校に入ったら挨拶をしない・・・なんてことは本当に悲しくて見ていられません。

*********************
昭和14年(1939年)のブーム・流行・広まり
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
○制服・制帽などを卒業生から新入生へ贈る運動が広まる。
○「日の丸弁当」が登場し,あっという間に全国に広まる。
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

藤田晋の成長学・教師編9 「ぶつける」タイミング

 セオリー№9 不満はため込まずその都度ぶつけよう

 ここでの「不満」は,ただの「イラつき」のことではなくて,「正当性」のある「不平・不満」のことをさすようです。

 教育の世界では,180度「信念」が違う人が存在しますから,いつでもどこでも「正当性」のある「不平・不満」は転がっているものです。

 ただ,それを「ぶつけて」みても始まらないことがわかっているので,普通は何事も起こりません。

 それでも「今ぶつけないと,相手の教師(またはそのときの子ども)がダメになる」といった場合には,ときと場所を考えて,できるだけタイミングを逃さずに「ぶつける」ことが重要になってきます。

 生徒指導についても全く同じですが,ずっと前に言われるべきことを今ごろどうして言うの?・・・という理由で反発をくらう教師がいます。

 いくつか問題点をためておいて,まとめて「ぶつける」ケースも。

 それはまずいわけです。

 「その都度ぶつける」のは,自分にとっても,相手にとってもストレスがかからないコツになっているようです。

 あとは,「不満をぶつけている自分」をイメージで外から眺めて見て,思いとどまる(解消する),という方法もありますが,なかに,それで自己満足の世界に入れる人がいるのはやっかいなことです。

 相手にストレスを与えている自分というのが意識できない人には,あまりお薦めできないセオリーですね。

ニュースにならない学力調査 ふり返り366日【08/6/28】/第74問

 全国学力調査の結果だけで指導の成果を見るな,という主張は,「責任問題」としてふれられたことを受けて起こったもののようですが,一方で生活習慣と学力の関係を,二つのデータの相関だけで語る記事もある・・・。

 新聞に目を通すと,改めて,選挙後を織り込んでの「記事づくり」が中心であることがわかります。

 今までの調査と同じような結果=活用力に課題がある・・・ではつまらない・・・新聞記者の立場というのもよくわかるのですが,記者自身に目のつけどころがないので,「橋下知事」の話題でも出さないと「ニュースらしくない」新聞になってしまっているわけです。

 まさか「ニュース」にならないから学力調査は今年でやめろ,と言えるわけではないのでしょうが,「やめる」ことが織り込まれているようです。

 学力調査は無駄なのか役立っているのか,という比較は,そう簡単にできるものではありませんし,以前にも書いたとおり,「無駄」にしようと思えば,手を抜けばいいだけですから,「どう生かすか」が記事にならないかぎり,・・・これは結果を公表するかどうか,ばかりが話題ですが・・・・最終的には現場次第なのです。

 ただ,新聞記事だけ読むと,税金の負担者には「無駄」と判断したくなる気持ちばかりが高まっていくことになるのでしょう。
 「世論」に勝てるものはなかなかありません。

 ということは,「世論」をつくっているところが一番強い力をもつ・・・のは確かなことでしょう。

08/6/28 ~だからこそ必要な指導

 学校事故を根絶することは難しいと思いますが、その発生を少しでも減らし、安全・安心な学校づくりをするために、教師ができることをぜひもう一度しっかり考えてほしいと思います。
 先生方は、3階の教室の窓から身を乗り出して1階の友達と話をしている生徒をすぐに注意していますか。
 混雑している校庭で危険なボールの扱いをしている子どもを注意していますか。
 そもそもそのような休み時間に、だれか一人でも生徒の安全確認をしている教師はいますか。
 「危険を察知する能力が今の子どもには身に付いていない」という認識があるのならばなおさらのこと、「忙しい」「他に用事がある」という言い訳をせずに、安全確保のために努力すべきなのです。
 杉並区と杉並区教育委員会は、すでに訴訟対策をとっているようです。
 教師の監督責任について、公的には一切言及していません。
 教師自身もたいへんなショックを受けていると思いますので、心のケアは最大限行っていくことが必要でしょうが、短い間隔で「二人目」を出さないためにも、うちうちではしっかり声をかけているのでしょう。
 繰り返しますが、今の子どもに「危険を察知する能力が欠如している」認識があるのなら、「ですから事故発生の確率は昔より高くなっていますよ」ではなく、事故を減らすための努力をこれまで以上にしようとする姿勢がほしい。
 どんなに対策を講じていても、事故が起こってしまえば、どんな学校でも教師でも「悔いが残る」結果になるでしょうが、「起こっていたかもしれない事故が防げている」感覚を努力の中から感じ取っていける教師集団でありたいものです。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第74問】 
 昭和14年(1939年)の話です。
 政府による国勢調査では,あるものも調査の対象になりました。「あるもの」とは?
 ① 鍋
 ② 金歯
 ③ 金庫

*******************
ブログランキング 歴史

 【第73問の解答
 ②の10人でした。陸軍では,子どもの数によって月給を考慮する「子宝ボーナス」が始められました。

ストレスと報酬 ふり返り366日【08/6/27】/第73問

 教師には,ストレスなどの重圧をはねかえすのに余りある報酬を受け取ることがあります。

 その報酬とは,「子どもの成長」です。

 親と同じ話ではないか,と思われる方がいらっしゃるかもしれませんが,毎日一緒に生活している親というのは,成長している部分より,成長していない部分の方ばかりが気になってしまって,喜んでもいられないわけです。
 (もちろん,育児ブログなどを拝見すると日々楽しんでいらっしゃる方も多いようですが)

 教師の場合は,たとえば夏休み中,ほとんど顔を合わせなかった生徒に久しぶりに会って,その成長ぶりに驚くことがあります。

 また,卒業して何年かたって会ったりすると,見かけはどうしても学校時代の面影がかぶって「子ども」のように見えても,考え方とか話し方,容姿はすっかり大人になった「元子ども」に驚くわけです。

 もちろん短期的にも,さっきまでできなかったことができる喜びを子どもと共有することもできるし,その「できた!」「わかった!」「なるほど!」という子どもの表情見たさに一所懸命教材研究する教師もいるのです。

 つまりストレス解消の最高の方法は本来の仕事をすることなのですが・・・。

08/6/27 教師のストレスの原因

 教職というのは、確かに精神的なストレスを抱えやすい職業です。
 休職者のデータもそれを物語っています。
 休職者を減らす取り組みを行政が考えたとき、「ストレスを取り除く」施策は大切だと思いますが、一部で、近年の業績評価人事考課制度、管理職による指導等が教職員のストレスを助長しているという見解があります。

 自分の職務の成果を直視しなければならない人事効果制度は、たとえば責任感が強く、目標が高く、自分を責める傾向が強い人にとっては、ストレスの原因になることは考えられます。
 しかし、この制度をしっかり浸透させることによって、教師が仕事のどこでどのように悩んでいるか、同僚との協力関係はどうか、生活指導ではどうか、教科の専門性ではどうかなど、具体的な問題点を管理職が把握し、学校運営の改善に生かしたり、相談にのったり医療機関や研修先を紹介したりするチャンスも増えます。

 教師のストレスは「一人で抱え込まない」ことが大切で、360度のフォローの体制が必要です。そういう共通理解があれば、極端な話、自己申告書をオープンにして本物の360度評価を実施することも不可能ではありません。最も関心を呼ぶべきなのは、中学校ではあまり共通理解がないと思われるその教師の教科の専門性について。どんな研究をして、どのような成果を残してきた人なのか。専門以外にもどんな分野に関心があり、どんな興味を抱いているのか。普通の人物像を超えた「人間観」の共通理解ができるのは、たとえば大学附属のように、毎年研究発表をしているような学校では可能です。それを全公立学校に求めようとは思いませんが、「意外」と言っては失礼かもしれませんが、おもしろい発見がたくさんあるかもしれません。

 さて、ストレス対策ですが、ある地域では、スクールカウンセラーの仕事は生徒ではなく教師の話を聞くことだろうと思ったこともありました。
 人とのコミュニケーションとか社会性の欠如によっても教師が精神的に追い込まれるケースがありますが、これは「社会性を実社会で身に付けてきたはずの社会人」を教師に登用した場合でも実際に起こっています。
 教師というのは、その立場が公的であるがゆえに責任も重く、全体の奉仕者としてどのようなことに価値を見出していくべきか、常に追求していかなければなりません。ストレスがかかるのは当然の仕事なのであり、それに強くなる自己防衛システムがあることは、教師の資質として欠かせないものと言えるかもしれません。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第73問】 
 昭和14年(1939年)の話です。
 厚生省が,多子家庭の大臣表彰を決定しました(第1回表彰式は翌年11月)。何人以上で表彰の対象に?
 ① 8人
 ② 10人
 ③ 13人

*******************
ブログランキング 歴史

 【第72問の解答
 ③のキツネ・タヌキでした。養殖実験を行った結果,「有望」という判断が下されたようです。

選挙直前に発表された学力調査結果 ふり返り366日【08/6/26】/第72問

 地震,新型インフルエンザ・・・命にかかわる可能性のあるこれらへの対応に,新学期早々,追いかけられるような毎日が始まりそうです。

 選挙直前に発表された全国学力調査の結果・・・官僚側の意図も様々な読み方ができますが,選挙のことはさておき,NHKでは学力上位の子どもに見られる傾向として,朝食をとる,家で学校でのできごとを話す,ノートをきれいにとる・・・などの共通点があることを報道していましたが,これらがすべてできても上位に入らない子どもや,家庭の事情でそれができない子どももいるので,統計上のデータの示し方というのは,特にすべての人が知ることになる情報には,配慮する必要がありそうです。

 統計上では,学力下位の子どもにそれらの傾向がみられにくいということが言えるのかもしれませんが,それが勝手に想像されてしまうという面もあります。

 公立中の校長がインタビューに答え,「家庭でのコミュニケーションが大切」というまっとうな言葉の部分が報道されました。 
 
 今後のアンケート調査では,教師への質問紙回答で,「成績がよい自治体の回答」に見られる傾向に近いことを書こうとしてしまうという問題も出てきそうです。

 教師ごとの質問紙調査回答履歴がとれれば,授業改善の様子なども追っていくことができそうですが,それが実施できるとしたら,都道府県レベルです。国が主導で行っているこの制度をどう活用するかは,各学校と,区市町村,都道府県のそれぞれのレベルでふさわしい対応を考えていくことが大切です。

08/6/26 批判の海への航海で求めるもの

 よたよたあひるさん、コメントありがとうございます。
 私の場合は、現場のときも教育委員会のときも、主義・主張、法令遵守の立場というのを徹底していましたから、そこへの批判は当然覚悟の上で、場合によっては相手に考えを変えてもらうために必死になって説得するようなこともします。そのおしつけがましさを「傲慢な態度」と受け取られ、それが原因で聞く耳をもたなくさせてしまうというのは、明らかに失敗なのですが、私にはどうしても「孫子の兵法」を使いたくないケースがあるわけです。
 (今回の一連の批判がそれです。同じ意見のブロガーもいらっしゃいます。)
 さまざまな質の批判を受けますが、それにくじけないのは、さまざまなバックグラウンド(特に全国民が必ず学校という場を経験してさまざまな教師に接してきているがゆえに)がある人をしっかり想定し、こういう人ならこう言ってくるだろう、それに対してはどう対応したらいいだろうと常に頭を回転させているからだと思います。行政のときに身に付いた癖と言ってもいいかもしれません。いわゆる「想定問答集」を頭の中につくる癖です。
 しかしそれは、行政の場だけで役に立つものではなく(実際にはほとんどの質問はされませんからかなりの部分が無駄になるのですが、だから紙には書かず、頭の中に入れておくのです)子どもに対する指導のあり方と重なる部分が非常に多い
 反抗的な態度、権威やプライドを傷付けようとする攻撃的な態度が表れる裏には、子ども自身がさまざまな人から受けてきた傷があるわけで、批判を受けながらその深さを感じ取ろうとする余裕が教師には必要なのですね。
 現場と違って教育委員会というところは、基本的には法令に沿って上司の指示に従って職務を遂行するところですから、批判を受けたとき、「それは私のせいではないんですが・・・」という思いが頭をよぎってしまいがちになり、対応に誠意を込められなくなる原因になるのですが、とにかく「特定の人の利益を追求する立場ではなく、あくまでも全体の奉仕者として、公共の利益という価値を追求する立場として仕事をしている」感覚を忘れないように努力しました。
 主義・主張というのは、自分自身がつくりあげてきた「価値」へのこだわりだと思います。
 けっして与えられた「価値」ではなく、信じきることができるようになった「価値」へのこだわりです。与えられた「価値」で動く教師では子どもは動かせません。
 道徳の学習の生命線もここにあります。
 もっと言えば授業の生命線でもあり、教育活動の生命線です。
 東京都教育委員会教育長から来た区市町村教育委員会教育長宛の通知文に、「写」と判を押して、ただ機械的に各学校に送るのではなく、たとえばその文書の送付状に、一言だけでも「子どもの命にかかわる重大な問題です。周知徹底をお願いします」と加え、「念を込める」「魂を込める」だけでも、紙一枚の重さは違ってくると信じていました。
 もしこの通知文一枚で、数百校のうち1校でも改善箇所が見つかり、措置が講じられれば、無駄にはならなかったことになります。
 安全点検というのは、定期的に行うこと、繰り返すことが大切で、前回は何となく通り過ぎてしまった箇所が、今回は何だか危険に見えてきた、壁に浮いている釘を発見した、などということが実際にあるわけです。
 そういう趣旨を、通知を送るときには一緒に伝えたい。
 こういう姿勢は、テスト問題一つとっても、「どういう力をつけてほしいのか」が明確に伝わるような工夫をすることに結びついています。
 自分がよって立つ価値の源泉。
 私の場合は、宮城谷昌光の小説がベースの一つになっています。
 よって立つ価値は、「人から学べる」ものが非常に多い。
 だから批判というのはその中からダイヤが見つかるかもしれない鉱脈だと考え、あえて自分から掘っていくこともしたいと考えています。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第72問】 
 昭和14年(1939年)の話です。
 大阪営林局が農家の副業に有望として,奨励に乗り出した動物とは?
 ① イヌ・ネコ
 ② ウサギ・イノシシ
 ③ キツネ・タヌキ

*******************
ブログランキング 歴史

 【第71問の解答
 ①の「食糧自給のため」でした。

よき伝統と悪しき因襲 ふり返り366日【08/6/25】/第71問

 私の恩師は,小学校の教師が最高水準の給料で,中・高・大学にいくほど基本給は低くてよい,そのような主張をお持ちのようでした。

 もし個人単位で教科も含めた教育書を買うとすると,扱っている教科が多いので,ばく大なお金が必要そうですね。ただ,小学校の場合は本の売れ行きは中学校等に比べると良いようで,役に立つかどうかは別として,それだけ「勉強する気がある」教師か,「マニュアル本を読まなければ分からない」教師が多いということです。

 教師は基本的に,「どう教えるか」を教わったことが土台になっているわけではなく,「どう教わったか」が土台になっているので,よい伝統なら受け継ぎ,悪しき因襲なら打破していく,そういう見きわめが教師になってからは重要になってきます。

 最大の問題は,その見きわめの基準が目の前の子どもではなく,「売れている本」とか「名人の言うこと」になってしまうことです。「よい伝統」と言われていることが実は「悪しき因襲」で,「悪しき因襲」が本当は「よき伝統」だったことに気付いている部分が実際にあるかもしれません。

 昔から,「きれいな板書」が最も気がかりです。

 情報量が非常に限られているからです。
 単純に,子どもが視聴している1時間番組と,1時間の授業で扱われる情報量がどのくらい違うか,比較してみるとわかります。

 もちろん,授業では子どもの思考の過程やその結果のアウトプットの量が重要になってくるわけですが,きれいな板書を写している時間が,アウトプットを行う時間を制限していきます。

 「きれいな板書」を子どもがきれいに写しても,書写の時間を除いては,学力が向上しないことは経験的によく分かっていることでしょう。

 50分の中で,個別のアウトプットだけでなく,インプットされる情報量について分析した研究はないものでしょうか。

08/6/25 小学校教師の専門性が高まらない理由

 Psycheさん、まずろさん、コメントありがとうございます。
 どこかでどなたかが指摘されていたかもしれませんが、教師は非常に「打たれ弱く」なってきています。
 「目の敵にされている」意識をもっているだけならまだ大丈夫ですが、実際に批判・追及されるとそれから逃れようと必死になり、関係のないことで紛らわせるような行動にでる。
 よく小学校の教師の授業力が向上しない原因として、授業で失敗しても、それを挽回する(授業のやり直しやフォローができる教師もいますが)チャンスは次に新しい学年をもったときまではやって来ないことがあげられます。
 そして、次の授業の準備に追われているので、その失敗の分析・反省もままならないうちにもう次の失敗を犯している。
 教科担任制を導入している小学校では、次のような効果が期待できます。
 中学校なら、4クラスの教科担任なら、最低でも4回は同じ単元の授業が繰り返せる。
 中には「4回同じことができてうらやましい」と思う小学校教師がいるかもしれませんが、中学校の授業はクラスごとに本当に独立したものになっています。板書や説明の内容は同じでも、生徒の反応はクラスによって全く違う。発言する子どもが違うのは当然ですが、AというクラスでのBというはたらきかけでCがでても、Dというクラスで同じことになるとは限らない。常に新しい何かが発見できるのです。
 短期間で、指導の改善が実施できます。だから専門性も向上させやすい。
 最も効くのが、授業の批判をしてもらうことです。(しかし、批判に耐えうるバックグラウンドや精神的な強さが・・・)
 小学校の場合は、「次の単元は何とか成功させよう」と考えているうちに目の前の授業を失敗する。
 そのときは覚えていた改善の方法も、何年かたってまたその単元を教えるときにはもう忘れている。
 「教育失敗学」では、「えっ、そんなことも失敗に入るの?」というレベルの話をしていますから、教師には厳しい内容になっていますが、授業での本当の成功を味わう難しさは、中学校の教師ならだれでもわかるはずです。
 短いスパンでの業務改善システム、授業力改善システムを実行できる学校でありたいものです。
 超短期、短期、中期、長期、超長期とスパンを分け、何をどう改善できるかを明らかにすることが学校のつとめです。
 そのためには、評価規準、評価者が必要
 究極的には子どもが評価者であり、被評価者です。
 子どもを見れば、その学校の教育がわかる。
 「親の質が・・・だから、仕方がないですよ」なんて陰で慰め合っている教師が多い学校には子どもを通わせたくないですよね。
 子どものとった行動と、教師が行った指導をしっかり結びつけて記録し、一人あたりどのくらいの量、「言ったけど子どもはやらなかった」「教えたけど子どもは理解していない」ことがあるか、考えてみてほしいものです。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第71問】 
 昭和14年(1939年)の話です。
 静岡県が農山村の小学校にウサギの飼育を奨励しましたが,その理由とは?
 ① 食糧自給のため
 ② 動物愛護精神を高めるため
 ③ 輸出による外貨獲得のため

*******************
ブログランキング 歴史

 【第70問の解答
 ①の「全員丸刈りにすること」でした。②は大蔵省,③は文部省が中等学校の制服について申し渡したこと。

学級閉鎖中の学力保障 ふり返り366日【08/6/24】/第70問

 いよいよ新型インフルエンザの流行に拍車がかかる,「学校生活」のスタートです。

 部分的に非常にうるさくしていながら,ちょっとしたところを見逃し,それがうるさくしていた分の苦労を水の泡にする,そんなことにならないための対策が必要です。

 公立学校では,生徒が「出席停止」などで休んだときの授業について,そのフォローをどのように実施しているのでしょう。

 「友達のノートを借りたり見せてもらったりする
 「プリントをもらって課題を解く
 「分からないところは教師に質問する

 こういう方法によって,受講できなかった授業の内容はきちんと習得できるのでしょうか

 不登校生徒の学力保障も含めて,学校がその責任上,見落としてはいけない部分であると思われます。

 塾では,当たり前のように「欠席フォロー」というのが存在するところがありますね。

 各教科担任の教師や担任教師といった個別の対応では,非常に負担が重いものになります。学校としての組織的な対応が求められます。

 一つの対応策としては,大学のようなシラバスを徹底し,家庭にいても授業で問われるのと同じような課題に取り組むことができる,「本日の授業のポイント」のようなものがあれば・・・ということが考えられますが,授業は「生きもの」であって難しいのと,もしそのような形でも学力が向上してしまうのなら,学校に行く必要はない・・・なんてことになりかねませんね。

 ただ,学級閉鎖等による家庭学習の時間が長くなることを踏まえると,「そんなことはできない」などとは言ってられなくなりそうです。

 場合によっては,高校での未履修問題の対応のように,小中学校でも「補習」というのがどんどん増える学校が出てくるかもしれません。

08/6/24 学校の危機管理体制のチェック方法

 6月18日の小学6年生の転落死亡事故を受けて、翌日付の「幼児・児童・生徒の安全確保について」という通知文が、東京都教育委員会教育長から都立学校長、区市町村教育委員会教育長宛に出されました。
 通常、公立小中学校へは、教育委員会からそのまま「写」の通知文として配付されます。
 この文書では、留意事項として、次の4点が示されています。
1 学校施設の安全点検を徹底し、危険箇所が発見された場合には早急に改善の措置を講じる。
2 幼児・児童・生徒に対して、学校施設の安全な利用について指導をするとともに、自ら危険を予測し、回避する能力を身に付けさせる安全教育の指導を徹底する。
3 学習指導に当たっては、安全に十分に配慮した活動内容・形態とする。
4 学校の全教職員が安全管理の共通理解について再確認し、学校の安全管理体制を組織的に強化する。

 以上の内容を、公立小中学校の先生方はお読みになったのでしょうか。
 「次の校長会のときに資料として出せばそれでいいや」という教育委員会があり、校長が都教委のHPをチェックしていなければ、校長もまだ知らないことになります。
 校長や副校長レベルだと、あのような重大事故が発生した場合は、必ずすぐに通知文が出されるのを知っていますから、届かなければ教育委員会に請求することもできます。
 学校には、まずはこのような通知がすぐに全教職員に周知できる体制が整っているかどうかをチェックすべきです。
 昔ながらの「上意下達」を批判的に考える人もいるでしょうが、もし通知文にあったような留意事項をすぐに実行していないのであれば、現場の教師が「今何をすべきか」という当たり前のことを知らせるこのような文書は絶対に必要なわけです。
 二度とこのような重大事故を起こさないためです。
 このような通知文を教育委員会が出すとき、教育長としては、「保護者にも危険回避能力を身に付けさせるように促すべき」だとは考えても、死亡した児童の保護者の立場や心痛を考慮して、そのことに触れないのは常識的なことです。2番の留意事項の中に、そのことも含めて教師が取り組むべきことを促しているわけです。
 通知文が、副校長のところで眠っていないか、次の職員会議まで出てこないのか。
 学校の危機管理体制をチェックするいい機会かもしれません。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第70問】 
 昭和13年(1938年)の話です。
 名古屋市が男子職員に通告したこととは?
 ① 全員丸刈りにすること
 ② ゲタばきでの登庁を認めること
 ③ 服の新調を禁止すること

*******************
ブログランキング 歴史

 【第69問の解答
 ②の「学校の工作で使われるようになった」ことでした。

職員室の異様な光景 ふり返り366日【08/6/23】/別れのブルース

 小学校の先生で,「毎日学級便り」を発行している方というのは何%くらいいらっしゃるのでしょうか。

 私はそういう教師に育てられてしまったからか,中学校の教師でも学級便り(学年主任になってからは学年便り)を出すのが仕事ではなく,趣味でした。

 学校で発行されるお便りは,不特定多数の人が読めるものではないはずなので,表彰された生徒の名前など,良いことについてはバンバン個人名が登場していましたが,たとえば保護者の中にPDFファイルをつくってネットで公開されるような方が出てくると,そんな通信を発行するのは難しくなってしまいます。

 最近のはやりは,ブログでの通信,メール配信なんていうのもあるようですが,やはり個人情報の扱いには注意が必要そうですね。管理職のチェックも短時間で済みそうですし,これが一番簡単そうなのですが・・・。

 ただ,みんながパソコンの画面に向かって黙々と仕事をしているような職員室よりも,配達人にように職員室の机に学年便りを置いていきながら簡単な会話や情報交換を行う・・・そんな光景のある職員室の方がいいですね。

 私がちょっと気になっているのは,帰宅途中に前を通りかかる塾の職員の様子です。

 常にパソコンの画面にかじりついています。

 授業のチェックでもしているのでしょうか?

08/6/23 ブログから想像される教師像

 教師たちは、もし見ず知らずの人から、「あなたのクラスではいじめがよくおこっているでしょう」「子どもを自分のコントロール下に置くことに重きをおくような過保護・管理主義的な態度が、現在の教育的諸問題の根源ではないか」「子どもに対してレッテルを貼りをしているのではないか」「自分があなたのクラスだったら不登校になる」と言われたら、どのように対応するのでしょう。
 
 まず、学級担任の影響力が過大に捉えられる傾向があるのは、組織的・計画的に学年経営がなされていない学校が多いからでしょうか。それとも学級担任があまりに多くの問題をおこしてしまうからでしょうか。
 学年主任を数年間つとめていた私の経験から言うと、中学校では、学級担任一人ではなく、学年の教師たちの影響力がまんべんなく全クラスに行き渡るような工夫を繰り返し行いました。
 小学校の悪しき「学級王国」習慣を崩す意図もありますが、最大のポイントはみんなで一人一人を育てるという自覚を高め、できるだけ実践するということです。
 たまたま、現任校もまさにそのスタイルで教育実践に臨む伝統があり、子どもは「担任べったり」という習慣がいっさいありません(一応、行事の場面などではそれなりに立ててくれたりもしますが、あまりにも教師を教師と思わない態度が露骨になるのが困る場面もあります)。
 子どもは誰にでも相談できますし、クラスの子どもが他の教員に相談に行ったからと言って、担任も気にしません。
 保護者の意識としては、やはり担任を頼ろうとする気持ちが強いのかもしれませんが、自分が教えている教科ならともなく、他教科が苦手で困っていると相談されたら、自分はこうやって勉強した、とかいうアドバイスもやろうと思えばできますが、ぜひその教科の先生と面談を!としか言いようがありません。こういうことを「血も涙もない」と批判する子どもはいません。
 子どもも少しずつ、厳しい実社会に出て行くための準備を整えていくのです。
 すずめ先生は「スタッフワークが大切」とおっしゃっていますが、その点については私も全く同感で、だから上に述べたような実践をしてきているわけです。
 学年の教師たちがみんながみんな、単一のキャラだったら、子どもはおもしろくもなんともないでしょう。
 ですからキャラの役割分担というのもあるのです。
 現任校の話ではありませんが、それぞれキャラに名称をつけて、今年はこれで行く!と盛り上がる4月が何度かありました。
 私は一貫してかなり厳しいことを要求する教師だったと思いますが、子どもが「当たり前のことを当たり前に行う価値」に気付く段階でほとんどその役割は終え、教科指導に集中することができました。
 教育については、ドラマで作られる歪んだイメージが強かったり、自分の体験が強烈だったりして、誤解を受けていることが多いですが、少なくとも小学校より、中学校というのは担任の影響力は弱く、子どもはより頼りがいのある教師(部活だったり、教科だったり・・・)を支えに、成長してくれます。
 ・・・といろいろ申し上げても、ご理解いただくには難しいかもしれませんが・・・。

*******************
ブログランキング 歴史

昭和13年(1938年)のブーム・流行
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
○淡谷のり子の『別れのブルース』が爆発的に売れる。
 (喫茶店にたむろする若者から火がついたもの。なお,この年,警視庁が管内80署の警官を新宿や銀座などの盛り場へ動員,緊迫した時局を忘れて浮かれ回る学生をチェックし,3日間で3486人が検挙しました。)
○満州への分村熱が高まる。計画中のところが100町村,検討中が720町村に。
○関東で「ドンテッテ」というメンコに似た遊び,関西ではお手玉を足で蹴るジャンケリ遊びが流行。
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

「話し合い」主義 ふり返り366日【08/6/22】/昭和13年の初登場

 「話し合いによる決定」は,聖徳太子の十七条憲法や明治新政府の五箇条の御誓文でも重視されていることなので,学校教育でもなるべくそのような機会を設けたいのですが,それがあまり実践されない理由は二つです。

 1.時間がない
 2.(学校にとって)望まない結果になる場合が多い

 時間の問題は教師の「言い訳」にしやすいものでもありますが,直接民主制のような形でことを進めようとすれば,時間はいくらあっても足りないということになってしまいます。

 たとえば,「学校へのお菓子の持ち込み」ということを話し合いで進めようとしたら,どんなことになりそうでしょうか。
 そして,「話し合いをする」必要性が生まれているということは,多くの場合,「禁止を解除する」ことなので,「今まで禁止してきた理由」がある場合は,簡単には認めにくいわけです。

 ところで,「憲法十七条」と言えば,役人の心得を説いたものだと説明されますが,有名な最初の三つ以外を,私たち教師,あるいは,もうすぐ選挙で選ばれようとしている人たちなどは,どう考えていったらよいのでしょうか。

 4.役人は,礼儀を重んじなさい。
 5.裁判は,公正に行いなさい。
 6.をすすめ,をこらしめることをたてまえとしなさい。
 7.役人を採用するときは,任務にふさわしい人を求めなさい。
 8.役人は,朝早く出勤し,おそく退庁しなさい。
 9.すべてのことに真心をもってあたりなさい。
10.寛容な心をもってことにのぞみなさい。
11.功績と失敗を見分けて賞罰を行いなさい。
12.役人は,農民に重税をかけてはならない。
13.自分の仕事の内容をよく理解しなさい。
14.他人に嫉妬の心をもたないようにしなさい。
15.私欲を捨て,公私の区別をつけなさい。
16.農民を労役に使うときは,農業のひまな時期にしなさい。
17.ものごとは,一人で決めず,よく議論してから決めなさい。

08/6/22 ルールづくりを通してのよりよい「社会」づくり

 よたよたあひるさんから、法教育、法関連教育を推進する立場の人、生徒会活動などの自治によって「生きる力」を身に付けることが必要だと考えている人には、たいへん参考になる具体的事例を紹介していただいたので、記事の方にコピーします。

>娘達の学年は、入学当初から落ち着いたいい子たちではありましたが、先月の修学旅行では、「規則なしの修学旅行」を先生方から提案され、生徒達は「これまでやってこれたんだからなんとかできるんじゃないか」「いや、せっかくこれまでうまくやってきたのを修学旅行で失敗したら残念だからやっぱり共通ルールを作ったほうがいいんじゃないか」と大激論の結果、「YES OR NO ポケットに仏像を入れますか?」というスローガンを立て、持ち物の規則などはつくらない、でも、皆が気持ちよく過ごせる修学旅行にしよう、ということになったそうです。・・「仏像をポケットに」はありえない比喩ですが、要するに、学校で決めた紙に書かれた規則ではなく、常識を基準に自分達で判断しよう、ということですよね。
 ただし、日中の活動は制服着用、ということになっていました。これも学校が、というよりも生徒が決めたことだそうです。うちの娘などはかなりがっかりしていましたし、多くの保護者もそれまで修学旅行は私服が続いていましたからちょっとびっくりしていました。
 結果、なかなか良い旅行だったようです。
 
 ある立場の人たちに言わせると、「制服」か「私服」かにそろえること自体、憲法違反だ!ということになってしまいますが、常識的に考えて、同じ時間帯の話ならどちらかに統一するのは当然のことでしょう。
 学年という「社会集団」の生活から学べることは何でしょう。
 社会集団のルールづくりを考えるときには、まず「なぜそのようなルールをつくることが必要なのか」という問いからスタートします。「人に迷惑をかけないように」「自分勝手な行動をおこす人が出ないように」など、子どもでもさまざまな視点からのルールづくりへの価値観が確認できると思います。
 日中は制服で、宿舎では私服。
 これは、日常生活と同じルールを適用するという趣旨でしょう。
 日中は、公的な場で、公的な活動をしている。そのことを自ら示し、他の人からも認識してもらうために制服であることが必要である。
 私の言い方だと、「公共空間」の中に「私共(わたくしども)空間」が生まれないようにする、最も簡単な歯止めの方策ということになります。
 宿舎では、公的な集団としてお世話になっているとは言っても、部屋割などもあって、一種の家族生活のような少人数の単位の集団生活となる。緊張を和らげ、リラックスして自由時間などを過ごすためには、私服が最適であろう。・・・このような価値観による判断が下されたのでしょう。
 次に、ルールをつくるという選択肢以外に、問題を解決する方法はないか、議論させる。そして、ルールをつくってしまったときのデメリットを考える。

 そこで、「皆が気持ちよく過ごせる修学旅行にしよう」という目標を立て、自主・自律の精神でルールではなくそれまで培ってきた互いの信頼関係を重視し、目標の実現を図る。そういう選択肢が生まれたのですね。
 「私共空間」を生まないようにする方策としては、理想に近いものです。
 「みんながつくったルールは、みんなで守る」「みんなのための目標は、みんなでその実現を図ろうと努力する」・・・そういう価値観が共有できた学年は理想的な集団になりますね。
 ただ、規範意識に課題がある生徒については、教師ではなく、生徒集団からの強い圧迫感を受けることになります。「少数意見は尊重すべきなのだから、多数決で決まったことも守る必要はない」という「強い個人主義」の持ち主です。
 民主主義は全体主義に結びつきやすい傾向があることは、多くの人が感じ取っていることでしょう。ですから「民主主義」は究極のしくみではない。(朝鮮「民主主義」人民共和国を見ればわかりやすい?)
 中学校段階では、まず価値観というのが多様であること、だから当然「対立」という現象が生まれること。どうしたらその「対立」を「調整」できるか。「妥協点」をどこに見出すか。どうしたら「協調」できるか。・・・そんなことを考える習慣をつけさせることが必要です。
 すべての問題について「日本国憲法」を盾にする人たちが最もやっかいなのですが、そこを解決する教育が「法教育」「法関連教育」であり、その実践事例も徐々に蓄積されていくだろうと考えています。

*******************
ブログランキング 歴史

昭和13年(1938年)がスタートのもの
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
○東京市バスに木炭自動車が初登場。
○東京市の町会規約に初めて「隣組」が表記される。
○東京・銀座にホットドッグの屋台が登場。
○東京・有楽町の東京日日新聞社(現・毎日新聞)屋上に東京初のプラネタリウムが開設。
○アメリカ・デュポン社がナイロンストッキングを発表。
○おもちゃの「ハシゴ付き自動車(消防車)」登場。
○岩波新書刊行。第1弾は斎藤茂吉『万葉秀歌』など。
○大阪市立運動場に,わが国初のアンツーカーが設置される。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
*昭和13年に廃止・中止・禁止されたもの。
 ○東京駅構内の人力車,車におされて廃業。
 ○産児制限相談所が警察命令で閉鎖に。
 ○学習院初等科,英語授業を全廃し,修身授業を増やす。
 ○資生堂,原材料事情悪化で化粧品114品目の製造を中止。
 ○官庁,夏期半日制を廃止。
 ○映画俳優や少女歌劇などのスターにサインをねだることを禁止。

「過保護」の意味も多様 ふり返り366日【08/6/21】/セメダインと言えば・・・?

 この記事から,「すずめ先生」ファンの読者からさかんにコメントが入るようになりました。
 しばらくして,「特定の役」を演じ続けることにしました(そもそもスタートからそういうブログでした)が,相手の方は予想以上の勢いでその「」の「相手方」をつとめていただきました。「ふり返り」では「ふれない」記事も多くなりますが,バックナンバーでコメントのやりとりも読めますので,興味のある方はご覧ください。
 「太田総理」が登場する番組のようなやり取りを望まれた方も多かったかもしれません。
 「役」の通りにつとめることに終始していたため,ブログに収まる程度の穏やかな内容で物足りなかったと思われますが,教育の話題は,現場を知っていただくのが一番・・・これに尽きますので,残念ながら限界がありました。
 それはこれからも変わることはないでしょう。

08/6/21 他ブログ内での批判に応えて >そのようにして親の責任にするのが教師の同僚性というものですか・・・。 身近にも、「私はやめろと注意したんですけど子どもが聞かなくて・・・」と言い訳をする教師がいました。 それは「指導」ではなくて「指(ゆび)」ですねと指摘せざるを得ません。 言い訳であることが自覚できない教師は多いのでしょう。 何よりも危険な遊びで命を落とした子どもや保護者は不憫でなりませんが、そういう結果を導いた教師の日常がどのように「同情」を導くか、それとも「怒り」の矛先となるかは、事実関係次第でしょう。

 すずめ先生の記事に以上のようなコメントをした私に対して、以下のような批判が寄せられました。

1 私の記事は攻撃的である。
2 子どもに危険を察知する能力が育たないのは、管理主義や過保護が原因ではないか。
3 能力主義的で、やってできない人の痛みがわかっているのか。
4 すぐにレッテル貼りをする。そのレッテルを鬱陶しく思う人の心がわかるのか。
5 他のクラスよりいじめや登校拒否が多いのではないか。
6 あたたかい集団が見えてこない。

 この場で簡単にお答えいたしますと、
 1については、教師の問題点を指摘すること=攻撃という意味なら、確かに攻撃的かもしれませんね。
 2については、私の使う「管理」という用語の中には、リスクコントロール(危機管理)という意味も含まれており、そのノウハウを子どもや教師が徹底できれば、今回の事故は防げたと思います。本当に過保護だったら、危険な場所にいる子どもをだっこして安全な場所に移動させてあげるでしょう。
 3については、やってできないことを悩んでいる教師ならまだ救われますが、そのことを完全に棚上げし、子どもや保護者のせいにする教師にはそういう教師に教育されて伸び悩んでいる子どもや保護者の痛みをぜひわかってほしいと熱望します。
 4については、大人ならば、つけられてしまったレッテルが誤りであることを証明すればそれで終わりでしょう。
 組合に入るのが当然の地域と、組合に入ることを望まない教師が多い地域がありますよね。ですから組合を総括して批判することはできませんし、そもそもその内部事情は組合の種類によっても全然違うでしょうから、「組合」というものに何かのレッテルを貼ることはいたしません。
 すずめ先生へのコメントにも書きましたが、私がそこに書き込んだのは、すずめ先生個人への意見を公表しただけで、組合の人たちへの意見ではありません。
 5・6については、担任をもっていればという仮定の話ですね。私は、一部の教師のように、現任校の子どもの具体的な様子や指導の概要をこのブログで公表するつもりはいっさいありません。守秘義務違反とまでは言いませんが、もし子どもや保護者に読んでもらうとしても、ためになる情報を提供しようと考えています。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第69問】 
 昭和13年(1938年)の話です。
 この年,接着剤としてセメダインCが爆発的に売れました。そのきっかけは?
 ① 家の補修のために使われるようになった。
 ② 学校の工作で使われるようになった。
 ③ CMに起用された喜劇俳優の影響。

*******************
ブログランキング 歴史

 【第68問の解答
 ①の「金魚が泳いでも死なないため」でした。この年,水を8割入れた酒が出回るようになってしまったそうです。

藤田晋の成長学・教師編8 褒める効果は絶大

 セオリー№8 ダメ上司は「褒め殺し」でうまく使おう

 教師による管理職への愚痴というのもよく耳にしました。
 多くの場合は「どっちもどっち」か,教師に対して「自分の考えをもっとぶつけてみたら?」という印象が強かったのですが,「目をつけられたくない」「憎まれたくない」=「望まない地域に異動させられたくない」という気持ちが強いせいか,なかなか直言は難しい・・・そういうわけで,「お願いだから伝えてください」というタイプのものもあったのでしょう。

 藤田社長は,自分に全く問題がないのなら,「まず腹をくくれ」と書いています。

 具体策の一つ目は,「褒め殺し」。

 ただこれも,教師の側が管理職に「話を聞いてもらう」ための前提であり,褒めて本当に殺してしまったら意味がありません。

 管理職とコミュニケーションをとることを避ける傾向が強い教師たちは,

 1.上司の上司=教育長に相談する
 2.同僚と手を組んで(組合の力で)管理職に対抗する

 という手段に出ることがあります。しかし,「権力」をもっている側に勝つのは困難であり,自滅を呼ぶ恐れが大いにあるので注意が必要,ということです。

 このような対立関係は,だれにとってマイナスかというと,結局は損をするのは子どもだということを忘れてはいけません。

 学校では,問題が起こったときに,「校長が責任をとってくれればいい」と考えている教師がたまにいます。

 校長も教師の機嫌をとるときには,「何かあったら私が責任をとります」と言っていればよいのです。

 ただ,本当に「何かがあった」場合には,そんな「社交辞令」はすっ飛ばして,とにかく問題の解決を第一にしなければならないのに,おろおろするばかりで何もできない組織になってしまう最大の原因は,コミュニケーション不足です。

 日常的に体罰を繰り返している教師を見ている管理職は,「問題化」する前に改善させられればよいのですが,教師の側も際どいバランスで仕事が成り立っているような,余裕のないときには声もかけにくいものです。
 しかし,それを怠れば,「私の在任中だけは・・・」なんて甘い考えていたことを後悔することになるのが落ちです。

 「褒める」行為の効果は,単純な怒りからくる体罰を減らしたり,長期的に見れば指導の改善に生きる策だということです。

 異動サイクルが短い管理職への「長期戦略」は難しいのですが,そこは「どうせわずかな時間で別れ別れになるのだから・・・」と腹をくくって,とにかくコミュニケーションをとることが大切でしょう。

自由と迷惑 ふり返り366日【08/6/20】/金魚酒とは?

 煙草を吸う権利を要求する中学生にはほとほとまいりました。

 しかし,こういう行為にも非常に甘い日本ですから,「家で吸っていて人に迷惑をかけないならいいだろう」という親の言い分にも,毅然とした態度がとれない教師が多かったのです。

 薬物乱用の問題についても,犯罪被害者という立場を経験しない限り,その防止活動の意義が自覚できる教師・親は少ないかもしれません。

 薬物乱用防止教室というのを実施している学校はどのくらいあるのでしょうか。
 
 芸能人の逮捕の陰に隠れてしまっていますが,東京都の公立中学校の副校長も逮捕されています。

 人への「迷惑」がどんなことなのか,「自由」を求める自分の心への反省をどう促したらいいのか,・・・それは時間やお金に換算するのではなく,「心」や「気持ち」の問題として扱うという教育のスタンスは大切なのですが,結局効果がないまま,変化がないまま子どもが成長してしまうのなら・・・と舵がきられる日が来るのもそう遠くないかもしれません。

08/6/20 自由によって何を達成したいのかを問う教育  よたよたあひるさんからのコメントをいただいて、公立中での「ラッキーなこと」とは何か、と考えてみました。  生活指導のうち、服装指導は、一つの学校の中でも徹底するのは難しいものです。  よく生活指導のレベルは学校から生徒が帰ったあとの靴箱を見れば一目瞭然だと言われますが、きっと服装をいじっていない生徒が多い学年は、靴のかかとをふんでいる生徒も少ないことでしょう。  このような指導は、教師の中でも逃げたがる人が多く、学校全体がよくなるというのは異動がある公立学校では一時的な現象かもしれません。その分、荒れたときの修復にも時間がかかるものです。  どうしてそこまでして服装指導にこだわるのかと聞かれれば、「だらしない格好や汚らしい身なりを嫌悪する人間が社会にはいるものだ」ということを子どもにわからせるためです。  「自由の獲得」が目的になってしまっている人には、何を言っても無駄で、議論にはなりません。  「自由を獲得する目的」を明確にして、その自由が何を達成するための手段であるかを問う教育が求められているのだと私は考えています。  これはまだデータ数が少ないので仮説の段階ですが、同じ能力をもっていて、成績が高くならない生徒の共通点は、規範意識に問題があることです。  これが実証されれば、教師だけでなく保護者にも、規範意識を高めるような教育に力を入れるようになるかもしれません。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第68問】 
 昭和13年(1938年)の話です。
 市場に「金魚酒」というお酒が出回るようになりました。この名前の由来は?
 ① 金魚が泳いでも死なないため
 ② 金魚の養殖の業者が製造したため
 ③ 空前の「金魚」ブームが起こったため

*******************
ブログランキング 歴史

 【第67問の解答
 ②の大阪府でした。

大学から発信可能なこと ふり返り366日【08/6/20】

 教育ブログにおける教師の愚痴の中で最もむごいのは,生徒の低学力問題でしょう。
 材料は無尽蔵にあるわけですから・・・。
 内田樹も自分のところの院生の愚痴をこぼしていますが,大学はおろか大学院の「有難さ」までも喪失されてしまいそうな日本はそれで国際比較されると非常に厳しいでしょうね。
 学問(と言えるかどうかという問題もあるでしょうが・・・「学問の自由」という最終兵器に守らるのが大学でしょうから・・・)の「大衆化」という尺度では日本はかなり上位になるはずで,その傾向は「高校生に授業をする大学教授がそれを題材に本を出す」という面に表れているようです。

 大学の先生が今一番嫌な思いをしているのは,「出来が悪い」と嘆く学生からもらっている「授業評価」でしょう。

 以前から書いているとおり,この評価を最大限活かして,人・物・カネを動かさなかければならないというプレッシャーを経営側にかけれるかどうかが重要なのですが・・・。

 いずれにせよ,「40人学級」というわけにはいかない大学の授業で「学力向上」が図れるかどうかは疑問ですが,「こうすれば効果が出る」というアピールが特に「指導困難大学」から出されれば,それが義務教育の改善に役に立つかもしれません。

 「教科教育法」の研究者が幅を利かせている大学が,こういう分野でリードできればいいのでしょうが,なかなかこういう大学から教師になれる人も少ないと聞きました。

08/6/20 教師の愚痴のパターンは教育ブログを参考に! >ブログを通して感じるのは、教員は愚痴を言う傾向が強いということです。ハードルの高いブログですらこうなのですから、日常会話の中ではもっと酷いと考えるのが自然というもの。愚痴の中に愛情があればいいのですが、なかなかそういうわけでもない。    このような psycheさんからのコメントをいただいてから、こういう類の記事がないか探してみたら・・・、次々に見つかりますね・・・・。教師は傷をなめ合うというか、慰め合うというか、かばい合うというか、本当に記録にとって文字におこしたものを冷静に読んでみたら、自分がどれほど取り返しのつかないことを言っているかが自覚できるようなことを、平気で垂れ流しているものです。(自分の記事にも・・・ほとんどが愚痴と言ってしまえば愚痴ですね・・・)  ブログはともかく、勤務時間中に長々と愚痴を言うことができるのは、空き時間というものを持っていて、そのメンバーが一カ所にかたまるような環境のある教員に特有なものかもしれません。  最近紹介した本の著者は「そういう場合は聞かないふりをしろ、またはその場から立ち去れ」というのを「すごい習慣」としていますが、ついつい興味がわいて聞いてしまうのがこのタイプの話でしょう。  こういう教師たちの悪習は、そっくりそのまま子どももやっているのが笑えないところです。  自分の学校の教師たちは、職員室で愚痴ばかり言っているかどうか、よく知っているのは生徒たちでしょう。  空き時間に職務専念義務違反を犯して世間話に没頭できてしまうような学校は危ないのです。  教師の愚痴のパターン調べは、教育ブログを参考にしてみましょう。

数字のこわさ/昭和13年に宿題を全廃した自治体とは?

 読書ブログ 「100ページの1文」に,『数字の比較でわかるトンデモ日本』(主婦の友社)の一部を紹介しました。(→「数字の比較で見えてくるもの」)

 数字,統計,データというのは,文字情報の中では際立ってインパクトのあるもので,「日本人の平均年齢は世界の人の平均年齢より高い」と言われても「ああそうでしょうね」で終わってしまいますが,

 日本人の平均年齢は44歳
 世界全体の平均年齢は28歳

 こういうものを見せられると,「超高齢化」の進展でこの数字はさらに・・・と思うと,何だか落ち着かない気持ちになるから不思議です。

 学力調査国際ランキングも,ずばり○位とか,○位低下,とか書かれると,インパクトがあるものです。

 高校生の硬式野球部員は17万人
 そのうち,甲子園に出られるのは990人
 (平成20年)

 夏の甲子園に出られるのは,166人に1人。狭き門です。
 県別比較で有名なのは,人口の少ない鳥取県は予選に25校しか出ないのに対し,神奈川県は193校出ます。「1票の格差」ではありませんが,調整は難しそうです。

 日本の不登校の子どもは13万人
 初等教育を受けられない世界の子どもは1億2000万人以上

 なんだか誤解を生む比較の仕方ですが,その当たり,解説ではふれています。

 以下の二つの比較を並べると,「学力低下」問題は大人にも無関係ではない?

 30代男性の新聞を読んでいる割合
   1975年は80%
   2005年は29%

 小学生の1ヶ月間の平均読書冊数
   1976年は 4.3冊
   2008年は11.4冊

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第67問】 
 昭和13年(1938年)の話です。
 夏休み以降,中等学校・小学校の宿題を全廃し,いっさいの受験準備を厳禁するとした自治体はどこ?
 ① 東京市
 ② 大阪府
 ③ 京都府

*******************
ブログランキング 歴史

 【第66問の解答
 ③のスキージャンプでした。わが国初の全日本ボブスレー大会も,同年,札幌で開催されています。

藤田晋の成長学・教師編7 溝をなくす

 セオリー№7 評価されないのは上司を見ていないから

 →上司ときちんとコンセンサスを取りながら仕事をすること。そういうアドバイスです。

 能力開発型の人事考課制度が定着すれば,こういう問題は解消しますね。

 教師には自分の仕事に対する強い使命感を持つことが求められていますが,「学校としてどうしたいのか」「組織として何を訴えたいのか」という発想に欠けるタイプの教師がいます。
 
 独断専行,独走型の人です。

 「使命感」に満ちて仕事をしているこのような教師には,周囲の人もなかなか物が言いにくいのでやっかいです。

 それでも「言える」のが本物の上司・管理職なのでしょうが。

 私も指導主事を経験して分かったことなのですが,管理職の先生というのは,この話とは逆に,「部下である教師たちから評価されていない」「管理職の意図をくみとってくれない」ことを悩んでいる人が多いようです。

 この場合も,基本的にはコミュニケーションしか解決方法はありません。
 
 学校の管理職は,一日に何分くらい,部下である教師たちと話をしているのか。
 1週間では? 1ヶ月では?
 「週案」などという「紙」の上でのコミュニケーションではなく,面と向かっての話です。

 これが苦手というか,本当に「苦」になっている管理職が少なくないことが,今の学校の抱える問題の一つでもあるでしょう。

 やはり,相手を見て,自分も相手からよく見えるように行動することが,「理解し合う」「正しい評価をする」「正しく評価される」上での大前提でしょう。

 これは,イデオロギーが異なるとか,組合だからとか,そういう問題とは別で,非常に大事なことだと思います。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第66問】 
 昭和13年(1938年)の話です。
 東京・後楽園で第1回全日本選抜大会が開かれた競技は?
 ① 自転車
 ② ボブスレー
 ③ スキージャンプ

*******************
ブログランキング 歴史

 【第65問の解答
 ②の旗キキンでした。時局を背景に陸軍旗・日の丸がよく売れて,品不足に。

「良い授業」実践の法則? ふり返り366日【08/6/13-1】

 「良い授業」の本当のイメージは,「良い授業」を受けない限り分からない・・・それは私の思い込みかもしれませんが,確かな実感です。

 大学生になって,授業論などを研究し,授業参観をし,分析をして「これが良い授業の要素だ」と理解できたとしても,そして,仮にそれが機械的に表現可能なものだとしても・・・・「良い授業」というのはなかなかできないでしょう。

 「良い授業」を本当に理解するのは,大学生になってからでは遅いのです。

 自分が生徒の頃に受けた授業が,「良い授業」であり,それに自分ならどこまで近づけるか,という実感が湧くかどうかで,「良い授業」が実践できるかどうかが決まる・・・。

 というのがもし正しいと,いろいろと困ったことが起こりそうです。

08/6/13 プロの教師と生徒のプロで創る授業 その1  プロは、見事なスタイルをもっています。

 授業の導入・展開・まとめのコツ。

 板書のポイント。

 発問のタイミング

 トピックの効果的な活用。

 快適なテンポ(リズム)。

 ターゲットを明確にした指導と教材の精選・・・。

 教師のスタイルは、生徒の学びのスタイルにも影響を与えていきます。

 生徒のプロとアマチュアの違いは、授業に臨む姿勢で決まります。

 能動的か、受動的か。

 前時の復習は、ノートをさっと眺めて済ませる。

 授業の展開部では、今日のテーマを見切ります。

 教師がつけたタイトルよりも適切なものはないか、探します。

 今日の授業のポイントを、一言で表現することができます。

 授業の終了間際には、今日は何が新しく身に付いたのか、あとで何に取り組めばその授業の力が伸びるか、わからなかったことは何か、質問すべきことは何か、などを整理します。
 板書と説明が同時の場合は、説明を聞いて理解することを優先します。
 発問には、他の生徒が答えても、自分なりの答えを想定します。
 自分ならどの話題と組み合わせて説明できるか考えます。
 このような学習のスタイルで、自分の力を磨いていく。それがプロと教師と生徒のプロがつくる授業の基本です。
 生徒のプロは、アマチュアの教師=教育実習生を育てます。

口より頭を動かす学習 ふり返り366日【08/6/19-3】/昭和12年のキキン

 「主体的な学習態度」というものへの誤解がなかなか解けません。

 授業で教師が多くの「質問」を子どもに投げかけ,ほとんどの子どもが分かる(=聞く必要もない程度の)質問なので,多くの子どもが「発言の独占権の許可」を得たくて手を挙げる。

 教師は,「発言の独占権」をできるだけ分散させようとする(いくら分散させても,一度に一人しか発言できないのは,独占状態を認めているということです)。

 授業が終わった後,「みんな活発に発言していましたね」「生き生きとしていましたね」・・・そういう「表面的」な部分にばかり目がいってしまって,肝心なこと・・・目標はどのくらい実現できたのか,その目標は適切だったのか・・・などについては手がかりになることがあまりに少ない・・・そういうことがあります。

 何か「書かれたもの」をもとに分析しようにも,子どもはノートをとっていない,参観者で詳細のメモをとっている人がいない・・・・そんな状況では,「印象」で語るばかり。

 そして,何を勘違いされているのか,本当に子どもは「主体的に学習する態度が身に付いていますね」などという感想がアンケートに書かれることもある・・・「主体的に」???

 教師がバンバン質問して,それに子どもたちがはりきって答えている「受身の学習」「質問対応型学習」の光景が,「主体的な学習」に見えてしまうのはなぜか・・・・?

 「主体的な学習」は,前に挙げた言葉の反対語から示せば,「能動的な学習」「質問創造型学習」になるはずです。

 グループ学習は別として,こういう「主体的な学習」には,40人が無言でしっかり思考している,テストのときのような空気も必要なのでは?・・・そして,ノートにまとまった文章を書いた上で,グループで読み合うとか,めぼしい子どもの作品をいくつか読んで,論争になりそうな題材がある子どもの作品を全員の前で読ませてそれをもとに考えるとか,そういう時間があってもよいのでは?と思うのですが,実は,これをやってしまうと,実力格差が如実に表れてしまうのでしょう。そういう「結果」がはっきり表れるものを,小学校の教師は嫌うのではないでしょうか?

 それをなくすためには,だれでも100点が取れてしまいそうな,業者の簡単な確認テストをやめることです。

 (・・・あのテストのために,100点を取れなかったときにどれだけ家で叱られたか・・・それは別の話です)

 教師の質問→間髪をおかず子どもがハイハイハイと手を挙げる「条件反射」・・・そういう問題を出すのを抑えて,もっと「考えさせる」ことを・・・。

 そういう「研究」をやっていた小学校はあったのですが,次の年はまた「基礎学力」がテーマ・・・?

 校内研究も,6年間という長いスパンで(1年入学当初から卒業まで,データを取り続けて検証するために)研究できる土壌はつくれないものでしょうか。 

08/6/19 小学校の授業参観で常に感じる疑問  以前にも書いたかもしれませんが、小学校の授業参観でいつも気になるのは、たいしたことのない質問をして、すぐ何かと手を挙げて発言させたがる教師が多いことです。  なぜ、じっくり考えたことをノートに書かせるような活動が小学校で定着しないのでしょうか。  その原因は、基礎・基本の「習得」場面で「活用させることで習得を促す」機会が少ないことが問題なのでしょう。  そして、「主体的な活動」というのを、「ただ子どもが手足を動かしていること」と誤解している教師が多いからでしょう。  じっくり教師の話を聞きながら、自分の頭の中で類似の題材を考え、整理し、ノートに書いて表現する、これも派手な動きはなくても非常に活発な「主体的な学習活動」と言えます。  中学校も似たようなものかもしれませんが、思考が柔軟な小学生への教育が変われば、PISAの結果などにはすぐに反映されると思います。いかがでしょうか。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第65問】 
 昭和12年(1937年)の話です。
 この年に起こった「飢饉」とは何「キキン」?
 ① 白米キキン
 ② 旗キキン
 ③ 鉄キキン

*******************
ブログランキング 歴史

 【第64問の解答
 ③の水原茂。「打撃の神様」とよばれるようになった川上哲治はこの年まだ17歳。

藤田晋の成長学・教師編6 部活動の顧問

 セオリー№6 嫌な仕事に縛られない方法

 藤田社長にも,「テレビの生出演」の仕事は苦手であり,断っているといいます。

 多くの教師にとって,「嫌な仕事」とは何でしょう。

 そのうち,「大切でない仕事」とは何でしょう。

 教育の世界には,「誰の目から見ても大切ではない」と言い切れる仕事というのが非常に少なくて,そのことが『心の病』の発症者が多い,という職業的な特質に結びついているのかもしれません。

 教師には,「断れる仕事」というのは,あるのでしょうか。

 たとえば,異動先の学校で依頼されることが多い「部活動の顧問」。

 最悪なのは,どの生徒や保護者にも非常に慕われていた教師が異動してしまった後の顧問に・・・しかも自分が専門でも何でもない部活動の顧問になることでしょうか。

 この部活動の顧問というものほど,「教育愛」だけではどうにもならないものなのです。

 しかも,その活動の価値が認識されていながら,教育課程の中には位置付けられていない・・・「仕事」なのか,「ボランティア」なのか・・・? それだけ微妙なものに,しかも優秀な指導者の後釜に指名されるなど・・・。

 さらに最悪の状況を考えれば,協力してくれそうな教師がその学校に一人もいない場合です。

 「あなたが引き受けてくれないと,部活動そのものの存続が・・・」などと脅される場合も・・・。

 本当に部活動をもたされる寸前までいった教師が,退職してしまった・・・という話を聞いたこともあります。

 小学校の先生方にはあまりピンと来ない話かもしれませんが,部活動の指導に「特に熱心」という定評がある中学校教師と結婚されると,その実態が本当によくお分かりになるかもしれません。

 部活指導が「生きがい」の教師が,どれだけいることか・・・。(・・・この意味が最近変わりかけているかもしれませんが・・・。「どれだけたくさんいることか」のつもりで書いたのですが,「どれだけいることか,本当にいなくなってしまった」と解釈されるかもしれない状況?)

 「あんな人と比べられたくない

 「あんな人と一緒にしないでほしい

 と思っても,「あの新しい先生がYESと言わないと,自分たちはピンチだ・・・(すでに自分たちを育ててくれた顧問がいなくなっているわけで,十分ピンチであることは確かなのですが)」。

 そういう目で見られる教師。

 大量採用の時代には,さすがに「若いうちは経験だ」で「ハイ」としか言えなかったのかもしれませんが,今では・・・?

 断るにしても,居心地の悪い思いがずーっと続くつらさがあるわけで,それと比べて,「では,名前だけでも・・・試合の引率だけなら・・・」という形で「顧問」になってしまう方が楽だ・・・という判断に落ち着くのが多くの場合でしょうか。

 問題は,その後です。

 部活動の「顧問」になったら,何をすべきか。

 この大原則が,「学校任せ」「伝統の引継ぎ」になってしまっている現状を,何とかすべきなのです。

 「価値のあるもの」とほとんどの教師が感じておきながら,「私はそれにかかわりたくない」・・・

 この図式は,総合的な学習の時間の指導と教師の関係と同じようなものでしょう。

 ただ,大きな違いは,学校のカリキュラムから総合的な学習の時間が外れても,それほど違和感がないかもしれないのと,子どもの生活から学校での部活動がなくなることの衝撃の落差です。

 話をもとに戻すと,部活動の顧問になったら,何をなすべきか。

 リーダーを育てることです。
 自己管理を子どもに徹底させることです。
 学校の管理職の視点から,その運営を考えることです。

 この点についての大きな原則を,都道府県レベルで打ちたてるべきでしょう。

藤田晋の成長学・教師編5 暗黙の前提?

 セオリー№5 上司に期待しない方が成長できる 

 生徒編では,部下=子ども,上司=教師という図式で,互いにどのような影響を及ぼしあうことが効果的なのかについて述べました。

 教師編では,部下=教師,上司=管理職でかまわないでしょう。主幹教諭を上司としたときの関係も考察すべきでしょうが,ここでは簡単に上司=管理職の場合の結論だけ。

 管理職に期待していることは何ですか・・・・

 こういうアンケートを現役教師に投げかけてみたら,建前では,そして,ホンネでは,それぞれどのような答えが集まると思われますか?

 ある現役小学校校長は,「校長の価値は次にどれだけいい小学校に異動させられるかで決まる」とおっしゃっていました。

 「いい小学校」とは何か・・・これも話せば長くなりますが,だいたい,「地区」別の異動希望の偏りを見ればわかることでしょう。

 中学校でも,「どのような戦力を引っ張ってきてくれたか?」で評価は左右しそうです。

 現実的に,教師の世界には,「管理職に期待しない方が成長できる」というアドバイスはあまり効き目がなさそうです。

 「管理職にやる気を出させるのは危険だ」と考えている教師・・・研究推進校などもって来るなよ!仕事を増やさせるな!という人たちにとっては,授業見学もせずにただ黙々と校庭の草取りをしてくれていた方が「安全」「安心」なのでしょうから・・・。

 ビジネスの世界では「みんなが成長したいと願っている」という暗黙の前提があるようですが,教育の世界ではまずそれを「前提」にできるような努力が必要なのかもしれません。

「反抗」の口実としての「自由」 ふり返り366日【08/6/19-2】/後楽園球場初ホームラン

 「自由」に関する議論の中で,私が繰り返し述べていたことは,他者に制御されていることに気付かず,自分の意思のつもりで自由」を求めているケースが多い,ということでした。

 他者からのプレッシャーであることは気付いていても,「自由」を求めようとする行動の目的は,「自由」そのものではなくて「反抗すること」の方にある,そういう解釈もできます。

 「反抗すること」が目的だから,一つの「自由」要求が叶ってしまうと,直ちに次の要求を探さなければならない・・・どんどん要求がエスカレートしていく・・・本当に荒れた学校に勤めていた教師なら,その悪循環を経験しているはずです。

 子どもたちは「自由」を求めたがっているのではなく,「反抗」によって相手の「困惑」を目の当たりにすることを求めている・・・。
 それを,子どもたちには「自由」というものの価値のすばらしさを味わわせてあげたい・・・というわけのわからない理屈で放置していた教師たちの「誤解」は,物が盗まれ,壊され,人が傷つけられてもなかなか解消しませんでした。「革命運動」か何かと勘違いしていたのでしょうか?困り果てる管理職をあざ笑っていたのは,子どもたちだけではなかったのかもしれません。

 こういうタイプの荒れの解消は簡単な話で,「反抗」=不可能,「自由」の主張=可能という図式を分からせることで十分でした。

 なぜ学校が荒れる(荒れた)のか,それがどの程度までの話なのか,なぜ食い止めることができない(できなかった)のか,理由はまだまだたくさんあるのでしょうが,こういうことと無縁な世界で生きてきた教師も多いようで,非常にうらやましい限りです。

08/6/19 「自由」を追求する論理  退職校長先生のブログの中で、「就職した企業の制服のスカート丈を短くして勤務した女性と、その女性に頼まれて丈をつめた母親」の話が紹介されていました。  これも「幸福追求権」の行き着く先でしょうか。  企業の経営者が、「学校の制服のスカート丈が自由だから、こんなことになる。何とかしてくれ」という要望をしたということですが、この件で、「学校」や「企業」という社会的な場が、個人の欲望を消費する空間に取り込まれている様子がはっきりとわかりました。  私自身の考えでは、スカート丈を極端にいじった場合は、その服は制服ではなく私服であると判断できます。  「他の人よりかわいく見られたい」という欲望や衝動が強い子どもはどこにでも必ずいますから、「規制」「制限」「制度」「制御」の「制」がつく「制服」を少しでも大きくはずしにかかり、自己をアピールをします。  昔からそういうことをしないと客がつかない職業がありましたから、市場原理から言っても決して不自然な行動ではありません。  ただ、「社会通念」「常識」から逸脱し出す子どもが出てくるのは自然な現象だからと言って、ただ指をくわえて見ているしかできない大人や教師は、「常識」重視の世界で生きている子どもの目から見ると軽蔑の対象になるでしょう。  学校で「自由」を満喫した子どもたちは、社会人になってもその「自由」は絶対的なものになってしまうのでしょうか。  学校では何を教えればいいのでしょう。  スカート丈を短くしすぎるな、というのは指導として当然の行為ですが、学校が教えるべきことは、その行為の目的や意味、意義に関する課題意識です。  目的と手段・条件の混同が、教育の世界でもさまざまな場面にあふれていることが、ブログを読んでいるうちによくわかってきました。  リベラリズムは、自由そのものに価値をおいてしまっているために、現実社会の具体的状況や社会通念から乖離してしまいがちなのです。  自由そのものに価値があるのではなく、その自由によって意義のある何をなすのか、それこそが重要なのです。 「意義のあるどんなこと」を追求しない「自由」は、目的についての意味を失わせ、人間から社会観や世界観を奪っていくのです。  公立学校が特に、このような問題に蝕まれていることを、論理的に説明できている人はいるのでしょうか。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第64問】 
 昭和12年(1937年)の話です。
 後楽園球場が開場した日のプロ野球オールスター記念試合で,初回に後楽園初のホームランを打ったバッターは?
 ① 川上哲治
 ② 三原 脩
 ③ 水原 茂

*******************
ブログランキング 歴史

 【第63問の解答
 ③のミッキーマウス・トレインでした。

藤田晋の成長学・教師編4 心の病を癒す生徒

 セオリー№4 職場のストレス発散はブログで

 仕事にストレスを感じている人で,それが仕事に悪影響を与えている自覚がある人は,できるだけ早くストレスは発散してしまうべきでしょう。ただ,ストレスの発散・解消というのが,なかなか難しい。

 読んではいないのですが,幻冬舎新書に「境界性パーソナリティ障害」(岡田尊司著)という本があります。

 新刊紹介の文章に,「優秀でまじめな人が犯罪まがいの行動をする」・・・「こまった性格」のあの人,実はビョウキだった!・・・というものがあり,たとえば教師の犯罪が報道でよく取り上げられるのを見ると,そして,校長などが(さすがにふだんから怪しかった・・・とは言えないでしょうが)「真面目な先生だったのに」と釈明をする場面もよくあることから考えると,これもビョウキのせいなのか?と思えてきます。

 ただ,この「ビョウキ」が困った病気なのは,新たな被害者を生んでしまう,ということです。被害者とは,学校なら主には子どもです。

 学校には「心の病」と診断されることになる状態で職場を離れている教師がたくさんいることは,新聞でも定期的に報道されていますから,子どもでも分かっていることです。

 自分が通っている学校に,「心配だ」と感じられる教師がいる・・・たとえば,よく遅刻してくる教師(たとえば月曜日には必ず遅刻する),欠席が多い教師(それが突発的な欠席であるため,授業変更ができず,自習になってしまうケースが多い)などがいたとしたら,ほとんど赤に変わりかけた黄色信号です。

 子どもの中には本当に「思いやり」のある生徒というか,「調整能力」「治癒力」のある生徒というのがいて,このような教師に何かを声をかけて,「安定化」を図ってくれることがあります。

 逆じゃないか,と思われるかもしれませんが,実はカウンセラーよりよほど貢献しているのが子どもです。

 子どもと話すこと自体,子どもと接すること自体がストレスになるという教師は,すぐにでも辞めた方がよいでしょう・・・それなのに辞められない・・・現場では,このことが最大の悲劇なのでしょう。

 ブログでストレスを発散するのもよいですが,「そんな時間が教師にあるわけないだろう」と言われるのであれば,短い時間でも子どもとのコミュニケーションを大事にする,それが最良のストレス発散方法でしょうか。

自由研究のアイデア ふり返り366日【08/6/19-1】/おとぎ列車

 「自由研究」という「宿題」がありますが,これは「自由」なのか「強制」なのか?

 「宿題」だから「強制」でしょうね・・・。

 子どもが「自由研究」の題材探しに迷って,親があわてて「自由研究の本」を書店に探しにいくようでは,現行の学習指導要領の趣旨は明らかに学校で教育され,身についてはいなかったことが証明されます。

 もし「自由研究」の題材探しに困ったら,まず取り組んでみるのは「マインドマップ」(フィンランド語ではアヤトゥス・カルタ)づくりでしょうか。

 「昨日の食事」からマインドマップをつくるとしたら・・・?

 ハンバーグ→肉→オーストラリア→えさ→・・・・

         肉→牛肉→国産→畜産県→鹿児島→・・・

                国産→食料自給率
                     →やや高まっている理由は?・・

 にんじん→農家→冷夏?→

            冷夏→消費の低下→企業の収益への影響・・・

 マインドマップ作成手帳なんて家庭に一冊あるとおもしろいのでは?

 (例) 父・・・ニュースからの連想
     母・・・1週間のメニューづくり

08/6/19 夏休みの塾ライフ  公立学校の教師がのんびりデスクワークをしたり研修に出かけたり書類を作っている間に、進学塾はかき入れ時になります。  その受講料が半端でなく高い。  「あんたに今までいくらかけてきたと思っているの!」とカツを入れられる将来を恐れながら、夏期講習に通う生徒たちは、決められたメニューをただ黙々とこなしていく・・・。夜は夜で通常の塾の学習・・・・。  だれがどう考えても、公立で言えば学校に支払う6年間分の教材費より高い受講料をひと夏につかって、長時間学習をする生徒と、伸び伸び外で遊んだりプールに行ったりゲーム三昧で過ごす生徒とでは当然のように学力差が開くでしょう。

 しかし、夏休みというものが、信じられないほど苦痛の毎日になるであろう子どもたちを想像するだけでも本当に寒気がします。
 一方では、経済的に恵まれないために、友達がみんな塾に通っているのに、そこで一緒の時間を過ごせない子どももいます。
 夏は遊んだ経験と8月下旬に宿題に追われる経験しかない自分にとって、もし家庭に経済力があり、塾に通うような学校生活を送っていたら、どんな人間になっていたのだろうかと考えると、どちらかというと嫌な予想が先に来ます。
 夏に入る前に、塾に通わない生徒から、「夏休みはどんな勉強をすればいいのですか」と聞かれることがあるのですが、私は必ず「どんな勉強がしたいの?」と聞き返すようにしています。
 「学校は何も教えてくれない」とお叱りをいただきそうですが、学べる題材はいたるところに転がっていることを常に教えているつもりなのですが・・・。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第63問】 
 昭和12年(1937年)の話です。
 8月25日に,国鉄がある「おとぎ列車」を走らせました。その名称は?
 ① かぐや姫・トレイン
 ② 白雪姫・トレイン
 ③ ミッキーマウス・トレイン

*******************
ブログランキング 歴史

 【第62問の解答
 ①の神風号でした。

藤田晋の成長学・教師編3 やりがいのある学校

 セオリー№3 人手不足の職場は評価を高める好機

 以前にも,現行の人事考課制度では,仕事はできるのが当たり前なのでいい評価を得るのは難しいのですが,「課題の多い学校」に異動して,難易度が高い目標をクリアすることで,高い評価を受けることは可能であることを紹介しました。

 よく学校も「人手が足りない」という言い方をされる場合がありますが,では「新規採用○人つけよう」と言われたら,即刻断る学校も多いのです。
 それは,簡単な話,人が増えれば問題が解決する,・・・学校はそんな単純な職場ではないからです。
 また,新規採用の教師の場合は,指導教諭がついて研修に付き合ったり,初任者研修を受けるために校外に出て行ったりと,職場にずっとはりついているわけにもいかないところが,学校の中には「重荷」になるところもあるわけです。

 つまり,学校で「人手がほしい」と言ったときには,ベテランのやり手がほしい,ということに他なりません。

 でもそう簡単にはいかないので,・・・・簡単にいかないからこそ・・・・一人一人の教師たちに成長のチャンスがまわってくるわけです。

 人手は足りないと言いながら,ほとんど発言しない教師がいるような会議が学校にはないか,どうか。

 学校は,それぞれ独自に,無駄を省くための努力をどのくらいしているのでしょうか。

 企業でも,事業をまわしていくときに,人数が多すぎて失敗した,という場合があるようです。

 「人手が足りない」ということが特に強調されるのは,いつか・・・そういうことを確認したことはあるでしょうか。

 これはつまり,その「忙しさ」が恒常的なものなのか,一時的(季節的)なものなのか,一過性のものなのか・・・そういう見極めがきちんとできているかどうかということです。

 学校は,みんながみんな同じような責任をもってみんなでやっていく・・・そういう文化があるから,会議に余計な時間ばかりかかるのです。

 みんながみんな同じように責任をもってやっていく気があるのなら,会議に提出するような書類は前の日までに作って配っておき,それぞれが読んで理解した状態で会議に入るべきです。

 一人が書類を作ったり,読んだりする時間はけっこうかかるように感じますが,全体で集まったときに説明したり読んだりするより,ずっと短い時間で済みます。

 会議の見直しは全学校に共通する課題だと思われます。

 特定の提案に対してだれが責任を負うのかはっきりしない状況が,学校の無責任体質を助長しています。

 その提案のほとんどが管理職から出され,一部の職員の反対意見がくどくどと出される職員会議ほど,無駄なものはありません。

 できるだけ一人にかかる責任が重くなるように(そしてそれが適材適所に分散されるように)することが,一人一人の力量UPにもつながり,異動しても自信をもって「○○と◇◇はできます」と言えるような教師になれるわけです。

 だれかに多くの仕事が集中するような仕組みがあると,「人手不足の職場は評価を高める好機」とは,嫌らしく聞こえる言葉に過ぎなくなるでしょう。

教師の「飢え」とは? ふり返り366日【08/6/18-2】/第62問

 どうでもよい失敗をさけたがる一方で,大きな成功ばかり望んでいる・・・そういうちぐはぐさは,宝くじを買う人の心理などを解明している「行動経済学」の本を読むと納得してしまうことが書いてあります。

 さて,その「失敗」についてですが,村上龍は「無趣味のすすめ」(幻冬舎)の中で,こんな考え方を紹介しています。

 成功者の「輝ける失敗」と,
 罵られるだけで終わる「ただの失敗」
 の間には,埋めようのない溝がある。

 失敗を糧として成功する人は本当にごくわずか

 何かを得ることができるのは,挑戦する価値があることに全力で取り組んだが知識や経験や情報が不足していて失敗した,という場合だけ

 ここで,はっとさせられる一文に遭遇します。

 そもそもたいていの人は,挑戦する価値のある機会に遭遇できない。

 確かに,公務員などの場合は,「挑戦する価値のある機会は?」と聞いても,「昇進・昇任のための試験」くらいのことしか返ってこない人がいるかもしれません。

 村上龍は挑戦する何かに出会うための条件は,「飢え」があること,と言いますが,確かに「公務員が何かに飢えている」とは考えにくい・・・。

 ・・・ただ,私のスタンスとしては(他の世界を知らないからかもしれませんが),「公務員の中でも,教育の世界だけは別だろう」というものです。

 別に大きな「財」をもたらすような仕事はしていませんが,それを作り出すもとの「人材」を育てるのが教育の仕事です。ほとんどの子どもが「勝手に育つ」環境に恵まれているならそんな大きなことは言わなくてもすむのでしょうが,決してそうではない以上,やはり「育てる」働きかけが重要になってくるでしょう。

 教師にとっての「飢え」とは,「飢餓状態にある目の前の子どもをどうにかしなければ」という使命感のことと理解します。
 人間力の向上という成果への「飢え」というのもあるかもしれません。

 子どもが何に飢えているかと言えば,それこそさまざまなものがあるでしょう。

 愛情,知識,成長の機会・・・・

 そういう気持ちでいる教師なら,「他人の悪口を言っている教師がいる職員室からは静かに離れていく・・・」なんていう「知恵」が大事なものなのかどうか,判断できるのでは?

08/6/18 問題から逃げることを勧める教師  山中伸之著「できる教師のすごい習慣」(学陽書房)をamazonで購入したのですが、またやられてしまいました。  教育書の不親切な点として、読者のターゲットが明示されていないこと、漠然とした題名をつけておきながら、実はテーマが絞られているということがあります。  著者ではなく、これは出版社側の責任でしょう。  買ってみて初めてわかったのですが、この本の帯には、「時間を生み出す仕事術」という明らかな「サブタイトル」があります。
ちょっとした工夫や努力で時間はつくれる、驚くほど作業がはかどる。誰でも実践できる、仕事が早く正確で学級経営の上手な「できる教師」になるためのアイディア66項目
とあります。  そして、ここが一番大切なことですが、この本は小学校の教師を対象にした本です。  「下校は速やかにさせよ」何ていう「すごい習慣」はその典型的なものです。  この本のタイトルである「できる教師」の意味が今一つ不明でしたが、若い教師が働いていくときの指針としては、初任者研修のつもりで読むことがお薦めできます。  いずれにせよ、「できる教師」は、「教育関係の本は必ず本屋で買う」という習慣をもっている必要があります。  さて、教師のコンピテンシーを研究している私としては、少々気になる「すごい習慣」があります。  それは、本の中で、「(職員室内で、教師による同僚や保護者への)悪口が出たら席をはずす」という「すすめ」です。  「そんな話に関わっていると、同じ考えだと思われたり、一緒に非難していたと思われてしまうこともあります。そんなふうに思われていいことは一つもありません」「その場を離れれば、自分の仕事もはかどる」  この著書の「問題解決法の問題」 は子どもにでもわかるでしょう。  私の場合は、その話の要点を記録にとり、文書にして非難していた教師に渡します。そうすれば二度と(少なくとも自分の前で聞こえるようには)非難の言葉は出なくなるでしょう。  子どもにもこんな話をしたことがあります。  隣の席のだれだれが、人の悪口ばかりを言っていてとても嫌な気持ちになる。どうにかしてほしい。  私のアドバイスは、「その悪口の記録をとっておいてください」というものでした。  以前にも書いたことですが、教師が飲んでタクシーに乗って、保護者の悪口を言っていたら、運転手も同じ自治体の学校に子どもを通わせている保護者で、とても嫌な気持ちになるとともに、学校への信頼を完全に失ったということがありました。  ブログでも教師や保護者、生徒への悪口、批判、非難が散見されますが、ただの不満の垂れ流しではなく、教育の質の向上を目指したい教師ならば、できれば対象の人間に自分自身がどういうはたらきかけをしたのかを示してほしいものです。  そういう話を聞き流す、垂れ流す教師にはいじめの発見や解決は困難でしょう。そういう教師の態度が同じような子どもを育てていることを「教育失敗学」では再三にわたって主張してきています。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第62問】 
 昭和12年(1937年)の話です。
 東京朝日新聞の飛行機がロンドンに到着。94時間17分56秒の世界記録を出しました。この飛行機の名前は?
 ① 神風号
 ② 日の丸号
 ③ ひかり号

*******************
ブログランキング 歴史

 【第61問の解答
 ①のうろこでした。合計58枚が盗まれたようです。

大胆なノート ふり返り366日【08/6/18-1】/名古屋城の金鯱

 学力向上策を子どもに直接訴えるとき,私は「ノートへのこだわり」を第一優先にしています。

 これは,担当している教科だけでなく,どんな学習にも適用(応用)できることだからです。

 今までにも紹介しているかもしれませんが,ノートは,「大胆に使う」。

 一般的には「余白を大きく,後で書き込めるように」という指導がありますが,「大胆さ」というのは,それに限ったことではありません。

 ときには,一つのテーマでノート1冊を埋め尽くしてしまう

 私は,「石油資源」というテーマで新聞のスクラップを中心にした100枚ノートを2冊作ったことがありました。

 エネルギー・環境教育は,今後の学校教育でもさまざまな場面で扱われるものになるでしょうが,一つのテーマにこだわってとことん資料を集め,「何かをつかむ」経験が,いろんなところで生きていくでしょう。

 「大胆さ」は,教科によって,書き方をどんどん変える

 あるいは,同じ教科でも,単元によって,どんどん変える

 そんなノートの中から将来,「○○がつくった必勝ノート」などというタイトルで商品になるものが出てくるかもしれない・・・なんて幻想を抱きながら,オリジナルを目指して工夫する・・・。

 内容がほとんど頭に入らないような「整理されたノート」ではなく,内容が頭の中に整理されていく過程が見えるような「動態的なノート」というのが,「大胆なノート」の真骨頂です。

08/6/18 プロの教師と生徒のプロで創る授業 その4 本人なりのこだわりが必要   プロには、遊びと仕事の境目がありません。  プロの極みは道楽にあるとも言えます。  どんなに時間がかかろうとも、こだわるところにはこだわり抜く。  どんなに労力がかかろうとも、気持ち的に、全く苦にならない。  本物のプロは、人から指示を受ける前に、自分ですべきことができる存在です。  今日の日経の「文化」面には、写真では本物にしか見えない紙の甲冑づくりの名人の話が掲載されていました。  本業はうどん屋さん。  「注文を受けることもあるが、丁重にお断りしている。プロではないので頼まれ仕事は苦手で、強い衝動がないと作れない。」  丹精こめた作品が国宝の神社などに納められ、大切にされると、本当にやりがいが感じられると言います。  「頼まれ仕事は苦手」といっても、プロに負けない「強い衝動」で優れた作品が生み出されていく現場の空気を、ぜひ子どもたちに感じる機会を設けていただきたいと思います。

 学校の勉強を、うまく「趣味の世界」に重ねていくことが、生徒のプロです。
 生徒のプロは、大勢で一人の教師に向かって学習しながらも、自分の流儀の何かを実践しています。
 そして、最も集中してその流儀を実行できるのは、一人で机に向かっているときでしょう。
 どうしてそんなことに時間を使うのか、他人にはよく理解できないことに没頭できる内容をもっている生徒はどんどん伸びていくものです。
 それが本来の目標に近づくのに最短距離でなかったとしても、目標にしていたことの定着度が格段に違います。

 最短距離だけを教える塾では生徒のプロをつくれませんが、まわり道をたくさん知っている多くの講師に恵まれている塾は伸びる生徒を育成できるでしょう。
 私が教育実習生に簡単に「よい授業」をさせない理由はここにありますし、簡単にできる「よい授業」の仕方を聞いている人を軽蔑する理由もここにあります。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第61問】 
 昭和12年(1937年)の話です。
 1月4日に名古屋城のあるものが盗まれました。それは何?
 ① 金鯱のうろこ 
 ② 金鯱の尾ひれ
 ③ 金鯱の目玉

*******************
ブログランキング 歴史

 【第60問の解答
 ③のシーツでした。結婚ブームで新婚さんが使用したことから普及したようです。①は昭和2年頃,②は昭和7年のことでした。

藤田晋の成長学・教師編2 多忙感をおぼえるレベルで成長度が変わる

 8月4日の記事を再掲します。

 セオリー№2 忙しい時ほど平常心とマイペース
*********************

 とことん追い込まれてしまった状態になっているのに,「笑っている」人がいます。

 「こんな状況で,不謹慎な!」という怒りはもっともかもしれませんが,実はその「」が,「困難を乗り切る最善策を導く条件」をつくっているとは,なかなか気付かれにくかったのではないでしょうか。

 「怖さを忘れようとしたければ,あえて『笑う』『笑顔の表情をつくる』・・・

 そんな「技」(割り箸を歯でくわえるなど)を教えているTV番組もありました。脳生理学とかの学者もTV業界ではひっぱりだこのようです。

 「忙しい時ほど平常心とマイペース」(13頁)では,似たような「新セオリー」が紹介されています。

 ビジネスマンにとっては,以下のような言葉が参考になりそうです。

 

優先事項は目標のために最重要なものは何か,肌感覚で直感的に決めています。頭や理屈で考えると間違えますから。
 
 仕事がやたらに忙しいという時は,投げやりになっていないか自分の心に問いかけてほしいと思います。丁寧にきちんと仕事をするよう心がけてみてください。
 
 忙しい時は一番大事な目標の確認をあえてしてみる。

 教師の心構えとしてこのブログで過去に記した原則と同じです。
 生徒に「忙しそう」という印象を与えないことが,いざというときのつながりを保つ秘訣です。
 もちろん,わざと「忙しそうにする」ことであることに気付かせるという行動をとることもありますが・・・。優先順位が低いことを無理やり割り込ませようとする態度に対する指導です。
 そのときも,非常に冷静に,「忙しそう」にするのがポイントなのですが・・・。

*********************

 教師の場合,最も長い時間,子どもに向き合っているのは「学習指導」の場面です。

 学習指導という仕事がどんなに忙しくても,それがやりたくて教師になっている(はずの)人は,「多忙感」を覚えないものです。

 教師が「忙しい」という感情をもって「職場に不満」をおぼえるのは,持ちたくもない部活動の顧問をさせられてめんどうをみるとき,書きたくもない行政の文書を書かされているときなど,さまざまなケースがあります。

 いつもは「子どもたちのために!」と息巻いておきながら,部活動の話になると急に人が変わったようになる教師がいますが,これはある意味,無理のないことでしょう。他に影響が出てしまうのであれば,中途半端にやられるより,「できないことはできない」と言ってくれたほうが後の問題を抑制する効果もあるからです。

 ただ,あえてここで書きたかったことは,特に若い教師の場合,自分の本当のキャパを知るためにも,どんどんいろんな経験を踏んで実力をつけておくことが,10年後以降の成長のスピードを保障してくれるということです。

 事務的な文書については,多少のミスは管理職や学校事務の方が指摘してくれますから,その処理速度を若いうちに速いものにしておくのが重要でしょう。処理速度を上げるには,量をこなすのが一番です。

 今はエクセルなどでさくさく仕事がはかどりますから,成績処理などはどんどん引き受けるべきです。

 単なる事務文書ではなく,公開授業,研究授業の指導案づくりなども同じです。

 若いうちは質より量です。

 いろいろやってみると,実質的に「締め切りに追われる」のは,毎日の授業準備だけです。

 教材研究も本格的に取り組み始めればきりがありません。

 ある学校では夜の9時,10時まで教師たちが教材研究に没頭しているので,管理職は「どうしたら早く帰宅させられるか」ということにすごく悩んだそうです。未婚の教師は特に難しい。

 ・・・ただ,そういう理由かどうかは分かりませんが,やたらと同業者の見合い話ばかり持ってくる管理職も考え物ですが・・・。

藤田晋の成長学・教師編1 攻めの姿勢

 このシリーズは,「藤田晋の仕事学~自己成長を促す77の新セオリー」(日経BP社)より,教師として学べそうな(あるいは人を育てるのに使えそうな)ものをピックアップしていこうとするものです。

 ブログでのタイトルは,内容から,「成長学」に変更することにしました。

 並行して,生徒編・・・学習者の立場としての「成長のセオリー」を「学習失敗学から学習創造学へ」でまとめていきます。

 第1章は,「職場に不満がある人に」です。

 教師にとっての「職場」とは,まさしく学校,教室,職員室がそのイメージとぴったり合うでしょう。

 ただ私の場合は,「職場」は学校を含んだ「地域全体」として考えることにしていました。

 公務員であるという理由もありますが,自分の住んでいる町の学校を特に職場として希望して,それがかないましたから,生徒のため,学校のため,地域のために働こうと考えたわけです。

 あることのために精一杯努力しているつもりが,広い視野から見れば全体の足を引っ張っていることにつながっている,・・・そんな勘違いをしないようにすることが,それまでの経験から学んだことでした。

 一つの「学校」という限られた視野ではなく,一つの地域の数ある学校の中の一つ,ということを子どもにも感じさせることで,学校再建が可能になる場合もあるのです。

 さて,第1回は「怒鳴られた時こそ前進しよう」です。8月3日の記事を再掲します。

*********************

 セオリー№1 怒鳴られた時こそ前進しよう

 教育実習生や若い教師が,指導の立場にある教師から「怒鳴られる」経験はまずしないでしょうが,そういう経験が全くない教師の中に,子どもが喧嘩で「怒鳴り合って」いたり,親が「怒鳴り込んでくる」とパニックになってしまう人がいます。そして余計なことを口走ってしまい,問題の溝をますます深くする・・・。

 結局,組織内で厳しく同僚を鍛えていく空気がないことが,「弱い企業」の「弱み」であり,それと似ているのが学校現場ということでしょうか。

 指導者側が「怒鳴ればよい」という問題ではもちろんないのですが,そこまで厳しくして育てられた社員というのは,もしものときに動じず,すぐ次の行動を起こせる「強さ」を手にしている「希望」が持てます。そして,実際,そういう社員が会社を牽引していくことになるのでしょう。
 
 「怒鳴られるくらいで動じない力」・・・そういう反発力に期待する「成長のさせ方」が,まだ通用する会社があるということに安心感を覚えました。

*********************

 私が保護者から受けた苦情の中で,比較的短い時間で逆に「感謝」されるようになったのは,「学級委員」を叱ったケースでした。まだ異動してきたばかりの中3だったので,4月から来たばかりの教師になぜ叱られなければならないのか(今まで同じようなケースで学級委員が叱られたことはなかったのに)という気持ちも強かったのでしょう。

 保護者の言い分(それはイコール,学級委員であった生徒の言い分でした)は,「なぜ学級委員だけが叱られなければならないのか」というものでした。

 私の言い分は,「学級委員だから叱る対象になった」というもので,「せまい視野」を捨てて,本来,学級委員はどうあるべきか,「生徒としての王道を歩んでいってほしい」・・・等々の正論で徹底的に押しまくったところ,「そこまで言ってくれる先生はいなかった」と納得してもらうところまでこぎつけました。

 「怒鳴られた時こそ前進」するためには,ただ相手の言い分を聞いているだけではだめで,こちらの「使命感」「責任感」「愛情」「成長させるという執念」を正面からぶつけてみることも必要な場合があるということです。

 そういう場面で「逃げる」教師を見てしまった子どもは,それを同じように「まねぶ」ことになるのでしょう。
 「くじける」「折れる」教師を見てしまった子どもは,幻滅するか,軽蔑することになるでしょう。

 完全にこちらの間違いが原因で「怒鳴られた」ときも,誠意をこめて謝罪しながら,こちらの「使命感」「責任感」「愛情」「成長させるという執念」を語ることが重要です。

二重に不幸な子どもたち ふり返り366日【08/6/17-2】/昭和12年のブーム

 不安感というのが,成長のプラスになる人と,マイナスになる人に分かれてしまう決定的な背景は何でしょうか。

 それは,「恵まれない環境」で育ったかどうか・・・そんなところに落ち着くのかもしれません。

 「100%肯定の恵まれきった環境」で育った子どもは,「」がつくのを極端に嫌ったり,怖れたりします。
 
 ですから「完全肯定」「完全受容状態」でないと気がすみません。

 本当に気の毒なことです。こういう子どもを成長させるのはなかなか困難でしょう。

 もっと気の毒なことは,そういう生徒を親以上に?受容するのが信条だとカタル教師がいることです。

 子どもは浮かばれません。

 ごくまれに,恵まれない環境からスタートし,大きな目標を達成した後,「不安感」がなくなってしまうほど勘違いする人間も出てきます。
 「油断」が生じ,身を滅ぼすもとになります。

08/6/17 低レベルを許さないプロ意識  梅田望夫の世界観は、「基本的に、ものごとというのは、だいたいのことはうまくいかない」というものだそうです。  私も「だからこそ、うまくいくようにもっていくこと」が努力のしがいのあることであり、うまくいったときの達成感自己有用感がかけがえのない成長の原動力になっていると考えています。  「一個でも何かいいことがあったら大喜び」  「加点主義というか、一個でもいいことがあったら、そこをしゃぶりつくす」  「一つでもいいことがあれば、その人を肯定する」 ・・・梅田望夫のような考え方ができるのは少数派でしょうか。  このような世界観が生まれた背景を、彼は「根本的な安心感というものが、今までの成育歴のなかで少ないのかもしれない」と分析しています。

 愛情過多の環境で育った人間の場合の落とし穴は、何かの行為を否定されたときに見えてきます。

 たとえば、ある問題解決への提案は、その提案者の全人格ではありません。全く別のものなのに、中には提案の否定を人格の否定だと受け取ってしまう人がいる。

 「全人格を完全に肯定されていないと不満である・不安である症候群」。
 その解決には、「なぜあのとき否定されたのかが、後になって実感できる」チャンスをつくることが必要です。
 その実感は、よりよい提案による成功体験ができるかどうかが鍵です。
 否定せずにあえて失敗させ、そこから学ばせる「強気の待ち」ができるタイプではないので、子どもはそういうタイプの人ともつき合えると「人を育てる」難しさがわかるかもしれません。
 「えさをちらつかせてハッパをかける」ことの気楽さは誰でもよく理解できると思いますが、「自分の力でやり遂げた」という達成感を味わわせる教育は決して易しいものではありません。
 プロである教師は、低レベルを許さない人でありたいものです。

*******************

昭和12年(1937年)のブーム・流行
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
○訪問着にも,飛行機模様が登場するなど,軍国調のものが登場。
○迷彩色のタンク・鉄砲など,戦争おもちゃが人気。
○全国で,千人針・慰問袋作りが盛んに。
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
ブログランキング 歴史

教師に求められる素人くささ ふり返り366日【08/6/17-1】/昭和12年のデータ

 教師には,プロの根性を燃やしつつ,プロらしさは内に秘めておく,そういうことが必要な場面というのがあります。

 プロらしさをひけらかすことで,いかにも「いやらしい」感じになっていることが分からない教師も少なからず存在します(教師嫌い・学校嫌いの大人や子どもならよく分かることでしょう)。

 教師をやめた人か,現役の教師が書いている「教育書」には,だいたい「子どもが教えてくれた・・・」「子どもとともに学んだ私」というような美談が載っていますが,ある見方からすると,そういう美談はたまたま訪れるものではなく,毎年同じように繰り返される必要というのもあるわけです。

 望んでもそういう結果が得られなかった場合も多いわけで,「こういう成功がありました」よりも,なぜ「失敗したのか」「成功しない条件とは何だったのか」が明らかにされない限り,あまり参考にはならないのです。

 教師というのは,プロっぽいムードを出せば出すほど嫌ってくる対象がいる(それは子どもに限らず同僚にも)職業であり,そういう対象には,相手の方に教師を掌で操っているように思わせるという方法で,上手く教師の掌で操るような行動が必要になり,そのために表面上は「素人くささ」を匂わせることができるというのも,成功に近付ける資質であるように思います。

08/6/17 プロ根性  昨日、本日と、毎年お世話になっている宿舎の社長さんと打ち合わせをしてきました。  この社長さんから改めてプロ根性を学ばせていただきました。  後日、記事にするかもしれませんが、いくつか挙げさせていただきます。

 プロはサービス精神の塊である。
 プロは仕事へのこだわりを捨てない。
 プロは地球が職場である。
 プロは人を集め、人気を集める
 プロはトライし続ける
 プロはすぐ始める
 プロはすべてから学ぶ
 プロは途中でやめない
 プロは予測し続ける
 プロは着地点を見ている
 プロはヒットでもホームランでも打てる
 プロはとてつもない情熱をもっている。

 このようなプロ根性を学ばせていただけるだけでも、教師としての自分には財産になります。
 そして子どもたちもきっとよい影響を受けるでしょう。

********************

昭和12年(1937年)のデータ
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
○兵役法施行令が改正され,徴兵検査合格の身長基準が5㎝引き下げられる。
○東京市内のうどん・そば(もり・かけ)の値段が,8銭から10銭に値上がり。(好景気)
○ハガキが5厘値上がりし2銭に。封書は1銭値上がりし4銭に。37年ぶりの値上げ。
○東京の浴場,大人5銭から6銭に値上げ。
○国鉄,子どもの無賃扱い年齢を4歳未満から6歳未満に引き上げ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ブログランキング 歴史

指示に従っても学力が向上しない場合 ふり返り366日【08/6/16】/昭和12年に登場

 昨年,「関心・意欲・態度」についての誤った評価方法をご紹介していますが,これは学習指導要領に示された「目標」には適合していないものの,教師自身が独自に達成させようとしている「目標」には適合しているものであり,その行動自体が無意味なものとは限りません

 ただ,この例では,取り組ませたいことは「それをやれば終わり」というものではないので,やはり「全員に取り組ませること」=全員にAがつくまで指導(強制)することが必要になるでしょう。それが達成できなければ,「その次」の目標(それは明らかではありませんが)を達成することができないと教師が考えているはずだからです。

 中学校ではあまり一般的ではないと思われますが,小学校でこわいのは,知識・理解面,思考・判断面はしっかり習得できていて,その活用も十分にでき,探究的な学習にも踏み込めるのに,他の生徒と同じように「ノートづくり」の指導ばかりに力を入れられて,それができていないだけで「関心・意欲・態度」の評価が低くなり,結果,評定が低くなる・・・そういうことがないか,という危惧が持たれています。

 学習指導要領が示した目標ではなく,教師が示した目標をもとに行われている評価がどの程度存在するのか,厳密な資料収集・分析は行われていないでしょう。
 保護者の側は,そのような評価に対しては修正が要求できますが,もともと何を目標としていたのかが分からなければ,手も足も出ません。

 下の例は,厳密には「教師の指示通り行動できるかどうか」が評価の基準であり,教師の評価活動は容易(時間はかかるが)なものです。

 問題は,指示通り行動できているのに学習指導要領に示された目標が達成されていない場合,評価活動とは何のためにあるのか?ということに子どもが気付いたらどうするのか,ということです。・・・いいえ,もうすでに子どもは気付いており,合理的な行動をとっているのかもしれません。

08/6/16 評価に対する無知と無関心  先日もらった教育資料の中に、毎時間の小テストによって成果を残したという方の実践が紹介されていました。  毎回の得点を記録させ、小テストノートを作らせているこの教師は、観点別評価の「関心・意欲・態度」の評価を、以下の4つの規準で行っているといいます。  ・しっかりと問題に取り組み、  ・○付けと訂正をしっかりやっているか、  ・きちんと貼って管理しているか、  ・毎回のテストの得点を記録欄に記入しているか  言うまでもないことですが、これは教科の目標に準拠した評価の観点ではありません。  社会科で言えば、「社会的事象への関心・意欲・態度」が評価の規準であるべきで、たとえば中学校の地理的分野で扱う「世界の地域構成」では、「生活舞台としての地球に対する関心を高め、地球上の位置関係と水陸の分布、国々の構成と地域区分を意欲的に追究し、世界の地域構成をとらえようとしている」ことがこの観点の評価規準です。  この教師は、おそらく教科書の太文字で書かれたような用語を理解して覚えていることが「基礎」だと勘違いし、観点そのものについてはほとんど理解していないようです。  問題はこれだけにとどまらず、「現任校では、・・・私ともう一人の教員が同じ学年の社会科を分け合って担当した。定期考査は同じ問題で実施したが、ほぼ毎回、私が担当したクラスの方が平均点がよかった。証拠は何もないが、私は小テストが大きな原因ではないかと密かに自負している」といいます。  実験校ならともかく、公立の中学校でこのような教師の実践が行われないようにすることが管理職のつとめであり、問題の解決には人事考課制度や学校評価が機能する必要があります。

*********************

昭和12年(1937年)がスタートのもの
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
○母子保護法が公布され,13歳以下の子どもをかかえる貧困の母または祖母の生活扶助などを規定。
○防空法が公布され,鉄骨・鉄筋コンクリート造りの建造物が増加する。
○保健所法が公布され,初めて保健所の名称が使われる。
○東京・明治座で,劇場初の冷房装置が設置される。
○横浜ヨットハーバーが完成。
○和光堂,わが国初の離乳食「グリスメール」を発売。
○東京の尋常小学校で,結核のレントゲン検査が始まる。
○9月11日,東京・後楽園球場が開場。
○第1回関東ハンドバール選手権大会が開かれる。ハンドボール初の正式試合。
○アメリカにプラスチックボトル登場。
○デンマークの体育大学で学んだ広田兼敏がバドミントンを紹介。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

8・10 ひやりハットぼうしの日 ふり返り366日【08/6/15-2】

 8月10日は,「健康ハートの日」(8と10でハー・トと読めることから,心臓病と脳卒中の予防や制圧を願って財団法人日本心臓財団が制定),「帽子の日」(8と10でハッ・トと読めることから,帽子業界の振興を目的に全日本帽子協会が制定),「宿の日」(8・10をヤ・ドと読むことから,全国旅館環境衛生同業組合連合会が制定)とされています。

 「ハット=帽子」の日であるなら,「ひやりハットぼうし(防止)」の日・・・というものありでしょうか・・・?

 自動車・バス等の運転手,薬剤師や医師などには,「ひやりハット防止のマニュアル」というのがあるようです。

 教師にとっては,「言葉かけ」のひやりハットがいくつかあります。

 最も重大なものは人権関係のもので,特定の背景をもつ子どもの心を深く傷つけるような言葉というのがあります。
 
 だいたい,口に出して,そのときの空気で気付くものなのですが,子どもと密着しすぎてしまうと,その空気も当然のものとなり得るので注意が必要になります。

 子どもの目を見ながら話すことで,たいていのことは防げるようなのですが・・・。

08/6/15 プロの教師と生徒のプロで創る授業 その3 笑顔のアイコンタクト  プロは、いい笑顔をもっています。  教師の笑顔の効果は絶大です。  子どもは安心感期待感を抱くことができます。  自分の存在が受け入れられているということを子どもは実感します。  正しい行動を促すはたらきがあります。  無数のメッセージを送る(贈る)ことができます。  これから出題しようとしている問題の難易度を、笑顔で表現することができます。  それによって生徒にさまざまな段階の心構えを促します。  教師は、笑顔に驚き、歓喜、熟考などの感情や行動をアレンジして、授業に躍動感をもたせることができます。  教師はいろいろな子どものさまざまな笑顔を作り出すクリエーターです。  授業の中で教師がふと熟考モードに入ってしまったとき、即応モードに戻してくれるのは生徒の笑顔です。  生徒は理解度を笑顔で表現することができます。  真剣なまなざしの後にくる生徒の笑顔は格別なものです。  笑顔をはじめとした表情が豊かな生徒は、心も豊かです。  豊かな表情の基本は、やはり笑顔です。  「スマイル=0」を売りにしている店の人。  本当の笑顔でしょうか。  笑顔をつくる以前の問題として、人の顔、目を見て話をすることができない店員もいます。  笑顔と笑顔でアイコンタクト。  それがプロと教師と生徒のプロがつくる授業の基本です。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第60問】 
 昭和11年(1936年)の話です。
 この頃,社会で一般化したこととは,次のうちのどれ?
 ① メリヤス(寝巻・ステテコ・サルマタなど)が全盛に
 ② 東京の浴場に温水器が設置される
 ③ 寝具ふとんにシーツをかけること

*******************
ブログランキング 歴史

 【第59問の解答
 ③の7人でした。

「いい学校」「いい会社」の意味 ふり返り366日【08/6/14-2】/1婦○児主義

 「学習」というものが生活の中にどう位置付いていくのか,「学習意欲」はその見通しがたった段階で高まるものではないでしょうか。

 「いい学校に進学し」「いい会社に就職し」・・・という発想が本物の学習意欲を高めることにならないのは仕方がないとして,一方で,本物の「いい学校」は本物の「学習」とは何かを気付かせてくれるし,本物の「いい会社」は,非常に質が高い「学習」の習慣を身に付けさせてくれるかもしれない・・・それが,あながち「いい学校」「いい会社」に進むための準備的な「学習」の動機付けになり得ないとも言えない・・・・そういう気もします。

 だいたい,「学習」の本当の意味は個性的なものかもしれませんし,それに気付くのはずっと後になってから,ということもあり得ます。

 伊能忠敬などの例を引くまでもなく,「学習」への動機,達成への意欲は年齢を重ねてから芽生えたり成長したりすることもあるでしょう。

 問題は,そのような「学習」への価値観について,まだ「学習」とは何かもわかっていないような子どものそれと,子どもがとる態度については,だれが責任を負うべきなのか,ということです。

 「子どもの自己責任だ」と教師の側が言い切れば,それは「単なる責任逃れ」と受け止められるばかりでなく,まさにその通りの行動を容認するきっかけにもなってしまう。

 では,「それは教師の側の責任だ」と言い切れば,子どもの教育に最も責任を負うべきなのは親だろう,という反論が待っている。

 ということは,教師の側には,親が子どもの教育への責任を負いやすいような条件を整える,そういう役割が考えられるということになります。

 そして,経済的に恵まれた家庭の子どもほどその条件が有利だということになれば,公立学校の使命は自然と導き出されることになります。

 ただ問題は,公立学校がそれを最も実現しにくい条件を同時に抱えているということでしょう。
 この問題を克服するためには,新しい「公立」らしさを追究するしかありません。

 そういう「学習」が今,教育界には最も求められています。

 まず手始めは,「右肩上がり」の時代ではなくなり,「給料が下がる」時代になったことを利用して,打てる手を迅速に打つべきでしょう。

08/6/14 プロの教師と生徒のプロで創る授業 その2 未来の学習の指定席  プロは、余裕を感じさせます。  急がず、慌てずに行える明確な指示。  間を効果的に使った発問。  生徒からの意外な質問への対応。  急な予定の変更への落ち着いた対応。  生徒が動き出すまでの「待ち」の姿勢。  教師の余裕は、生徒たちの余裕によってさらに広がりと深みが増します。  余裕のある生徒は、いつ、何を、どのくらいの時間で処理できるか、あらかじめ整理できます。だから取りかかりから慌てません。適度なペースを守ることができます。  余裕のある生徒は、ノートも余裕をもって取ります。  時間的なずれの余裕。後で書くべきこと、調べるべきことを忘れません。  ノートの空間的な余裕も持たせます。  ノートに書いたことは、その時間の学習内容のすべてかもしれませんが、その学習の内容のすべてではありません。何がそこからさらに学べるか、空白が想像力と創造力を保障してくれます。未来の学習の指定席がそこにあります。  余裕のある教師の下では、本当のゆとりの教育が行われます。  それがプロと教師と生徒のプロがつくる授業の基本です。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第59問】 
 昭和11年(1936年)の話です。
 ドイツのナチス党大会で,ヒトラーが「1婦○児主義」を強調したそうです。○にあてはまる子どもの数は?
 ① 5
 ② 6
 ③ 7

*******************
ブログランキング 歴史

 【第58問の解答
 ②の28歳(27.9歳)でした。妻は23.9歳。

半世紀前と同じ議論 ふり返り366日【08/6/14-1】/昭和初期の結婚年齢

 今,終戦後すぐから昭和30年代はじめころの教育雑誌に目を通しているのですが,そこで議論されていることは,現在とほとんど変わらないか,今よりとことん議論されている,そんな印象をもちます。

 まだこの頃の方が,「どうしたら学力を向上させられるか」について非常に高い意欲をもって議論されていたことも分かります。・・・時代は下り,親の年収の影響が強い・・・なんて結果ばかりが記事になっているようでは,昔の苦労は何だったのか・・・という話になるのでしょう。

 昭和30年頃のもう一つの特徴は,「民主主義」社会に移行したばかりの勢いがあったからでしょうか,教科書や教育界に対する「保護者」の要望,「世論」が非常に大きな力をもっていました

 初期社会科の改訂はまさにその「世論」に完全に背中を押された形で,経験主義から系統主義へ,大きく舵がきられました。

 そこにこめられたメッセージは,「意欲を高めたり自ら学ぼうとする力を伸ばしてくれたりするのはけっこうだが,最低限と思われる知識量や理解力は保障してくれ」というものでした。(今と同じです。)

 ということはつまり,何を理解すればいいのか,こういうテストが出されたら,どのくらいの点数が取れればいいのかが客観的に明らかになるような教育を,そういう願いだったわけです。

 今,それを実現できるのは塾や予備校などの教育産業であり,公教育は本来,数値化が困難な「関心・意欲・態度」の観点までA・B・Cで評価し,それが信頼できないためにますますペーパーテストの「能力判定機能」に期待が寄せられています。

 では,公立学校(現行の学習指導要領)が目指しているのは間違っていることなのかというと,そうとも言い切れず,塾や予備校で高めている能力は,将来の労働市場ではその需要がなくなろうとしている人材のための能力であることも指摘されています。

 経験主義と系統主義の綱引きは,まだまだ続きそうですが,社会の様相が激変しない限り大きな方向へは動かないのが日本の特徴なので,半世紀前の議論は終わることがないのでしょう。

08/6/14 学ぶ意欲の格差が問題なのは子どもだけか?  齋藤孝著「なぜ日本人は学ばなくなったのか」(講談社現代新書)に対する私のamazonへのレビューに、今のところ、17人中13人の方が「参考になった」としています。  レビューの内容は、「強制がないから」という「落ちない落ち」であることを批判したものでした。  以前に「教育力」(岩波新書)の中での多くの部分を日記で引用し、教師のコンピテンシーを考えさせてもらいました。  「なぜ日本人は~」については、こちらが先で「教育力」が後に出たのならわかるのですが、「教育力」が出版されてから「なぜ日本人は~」が書かれたとすると、「教育学者」ならわかるものの「教育者」としてのスタンスは現場から離れてしまったのかなあというのが率直な印象です。  学ばない子どもたち、学べない子どもたちに対して、現場はどのようにしたら教育という機能が有効にはたらくのかについて知恵をしぼっているわけですが、そこへのアドバイスが、子どもたちの「あこがれ」を誘発する「あこがれの矢」となってほしい、では、『日本人の「学びの情熱曲線」が下向きから上向きに転じる転機の一助』に本書がなるのは難しいでしょう。  ぜひ、「なぜ子どもたちに学ぶ喜びをもたせられない教師が多いのか」を究明し、では教師の教育はどうあるべきか、という方向での著作を期待したいと思います。  「学ぶ意欲の格差」は、子どもにあることは確かですが、もしかしたら教師集団の方が大きいかもしれません。  教師には、いくらでも言い訳ができますが、よくよく考えてみたら、それらは子どもの言い訳の質とほとんど変わらないものでしょう。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第58問】 
 昭和11年(1936年)の話です。
 この年の,初婚の平均婚姻年齢は夫で何歳でしょうか。
 ① 25歳
 ② 28歳
 ③ 31歳

*******************
ブログランキング 歴史

 【第57問の解答
 ①のレストラン「横綱」でした。

集中力と学習の満足度 ふり返り366日【08/6/13-2】/ジンギスカン鍋

 ゲームに熱中しているときの「集中力」と,たとえばバッターボックスで投球を待っているとき,周囲の音が聞こえなくなるほどの「集中力」とは,心理学的には,あるいは脳生理学的には,同じなのでしょうか,違うのでしょうか。

 人間は,集中力が高まったときにある特定の成功体験をすると,より「満足度」「快感度」が増すのではないかと考えられます。
 
 気が散った中での成功というのが何を想定しているのかよく分からない・・・たとえば,競馬で当てたとき,買った馬が1着になった瞬間だけテレビやラジオから離れてしまっていたというのは?・・・のですが,逆に,集中しているのに失敗すると・・・・たとえば,UFOキャッチャーで引っかかったのに途中で落ちてしまったときなど?・・・・それだけショックが大きくなるものでしょうか?

 バッティングで,普通の球を打ち損なったとき,いい形で打てたときの記憶は残るのですが,絶好球を打ち損なったとき,「本当に完璧な形」で打てた(と後で思えるような)ときは「どう打ったか全く覚えていない」ということがあります。

 話は飛びますが,その当たりの連想から,学校の授業,あるいはテストで本当の満足感,充実感を持たせるのに,その生徒の最大限の能力を発揮して常に正解が出せる,満点が取れるような材料を提供するような仕組みが考え出せると,「最も効率のよい学習・学力を伸ばす学習」が実現できるかもしれません。

 導入の段階で,壁にぶつかって問題が解けなかったり,分からない・・・という不安状況が学習意欲を高める効果もありますが,まとめの段階では,基本的には「解決可能」な課題をもとにした授業・テストの構成が必要なのではないでしょうか。

 ただ,学校教育の授業等の研究では,「学級集団」を基本としたもので,「個別学習」の実践研究は進んでいません(おそらく塾の方が「進んでいる」のでしょう)。

 完全習得学習は,新しい学習指導要領が理念としては求めているものですが,その実践や実現にはまだほど遠い状況にあるのが公立学校です(そこが最も求められる場所なのですが)。

08/6/13 居心地のよい仮想空間  ゲームに熱中する子どもの脳には、麻薬を打ったときと同じ物質が分泌されているというのは真説かどうか知りませんが、携帯をもつ人たちにも同じような現象がおこっているのでしょうか。  電車内では、とても集中してメールやゲームに没頭している人が大勢います。  昔、「マン・ウォッチング」という本を読んでから、電車内の人間の生態観察を欠かさずに20年以上経っていますが、ときどき、これは「初めて見た!」という人に出くわします。  今日は、エナメルバッグを肩にさげた40歳後半から50歳代くらいの男性が、格闘系のゲームに熱中している場面に地下鉄の車内で出会いました。何だか同業者っぽいオーラを感じる人でした。  格闘系なので、非常にさかんにボタンを押していくため、けっこう大きな音がします。  体も左右に動くときがあります。  いくら何でも、それに熱中している様子を大勢に見られていても平気でいられるほど、ゲームというのは人間を支配してしまうものでしょうか。  そのうち、画面が大きい高齢者用の携帯ゲーム機も登場するのでしょうか。  「脳トレ」ブームは終わったのかどうか、わかりませんが、仮想空間の方が居心地のよい社会というのは悲しいものです。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第57問】 
 昭和11年(1936年)の話です。
 札幌にジンギスカン鍋の元祖となる店がオープンしました。そのレストランの名は?
 ① 横綱
 ② 関取
 ③ 大相撲

*******************
ブログランキング 歴史

 【第56問の解答
 正解は①でした。

2・26事件があった昭和11年(1936)とはどんな年?

 教育の世界では,外国語の授業が廃止または時間削減になったり,中学の入試が国史1科目とされる(大阪)ようになったりと,教科書で習っているような世相を反映したことが起こっていますが,社会全体としては・・・?

昭和11年(1936年)がスタートのもの
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
○三菱重工,木炭自動車の製造開始。
○わが国初の海底トンネル,関門トンネルが着工。全長3600m余。
○群馬・高崎駅構内にそば店が開業。駅そばの第1号か?
○アメリカで蛍光灯が初めて実用化。
○3枚羽根の扇風機が登場。子どもが指を入れないよう,羽根の前にモチ網を張りめぐらせ人気。
○ドイツでフォルクスワーゲンの試作車が完成。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

昭和11年(1936年)のブーム・流行
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
○酒の甘口(関東)・辛口(関西)の区別がなくなり,全体的に甘くなる。
○登山ブームが起こる。日本アルプスへ5万人が押し寄せる。
○森永製菓,キャラメルの紙中函に色刷りの昆虫漫画を付けて人気。
○学生や工員の間にアルマイトの弁当箱が大流行。
○キューピー人形ブーム。
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

昭和11年(1936年)のデータ
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
○東京地方に35.5㎝の積雪。明治14年以来54年ぶり。
○富山県で正月3日から連続55日間のなが雪。
○宝塚音楽学校の競争率は15倍。
○静岡・浜松第一中学校の運動会で2201人が大福餅で食中毒,44人が死亡。
○長野県軽井沢の別荘が1000戸を超える。
○前年度の人口自然増が110万人に迫り,空前の人口増加。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

ブログランキング 歴史

ブログ村を去った理由

 ブログ村の登録をきって,読者の方にご迷惑をおかけしたかなと心配していましたが,アクセス状況から判断する限り,問題はなさそうなのでほっとしています。

 ブログ村の「教育ブログ」には興味深いものがたくさん並んでいます。

 教師の問題の典型的な側面をわざわざ露出してくれているブログもあり,それだけに,タイトルを見てしまうとどうしても批判の対象にせざるを得なくなってしまう(たとえば批判を封じるような「逃げ専門」の教師のようなもの)ので,・・・本当はそういう教育の課題をより身近な社会的問題として知ってもらうというブログの趣旨はあるのですが・・・批判が来るのを怖がってつまらない記事ばかりになってしまうのもまずいと思ったので,しばらく近づかないように心がけることにしました。

 公教育への信頼がどうとか,そのレベルからほとんど関心もなくなっている話かもしれませんが,政権交代があれば,否が応でも話題になってくるに違いない「社会問題」です。

 今は,「嵐の前の静けさ」といったところでしょう。 

「褒める指導」のネックとなる「減退する自尊感情」 ふり返り366日【08/6/11-2】/プロ野球初専用球場の課題

 もし生徒に「自ら伸びる力」が備わっているのであれば,教師は「伸ばす」きっかけを与えればよい,という話になります。

 そしてほとんどの教師は,「褒めることで人は伸びる」という,よく言われることにすぐに同意し,実行にうつそうとしますが,中学校の場合(そして小学校の学級でもおそらくは),そもそも生徒一人一人を「褒める」タイミングというのは,そうは存在しません。

 「褒める」ためにはその理由に当たる行為態度姿勢を示すという「きっかけ」が必要なのですが,意識的にその「」をつくらない限り,「わざとらしさ」だけが目立ったり,「褒めるために褒めている」ことがばれてしまったりという最悪の結果になります。

 教師に備わっているここでのマイナス要因は,自分自身が気に入られたいという欲求,衝動,自分が仕事しているぞ,という自己顕示欲が強いせいか,「褒める」主体になりたがるという傾向があることです。

 子どもから,「褒めてほしい人」と認定されるほど価値を置かれている教師ならよいのですが,そうでない場合,「褒める」行為が逆に子どもの成長の足を引っ張る恐れすらあるわけです。
 荒れた学校に勤務した経験のおかげで,その当たりの微妙な空気がよくわかりました。

 小学生なら,「教師に褒められたい一心で教師の目の前で褒められるような行動をし,近寄ってきて『早く褒めて!』と言わんばかりの態度」を示す子どもが一目瞭然なのですが,中学生になると,全く変わってきます。

 最も大きな課題は,年齢が進むに従って減退していく自尊感情のレベルが,「褒める指導」のネックになっていくということです。

 褒めるよりも先に教師が心がけるべきは,「自分で自分を褒めてあげたくなるような自尊感情」を子どもに持たせることであり,それはさまざまな活動を通しての成功体験を持たせる,ということに他なりません。

 教師にとって最も大切なのは,根拠のある自尊感情を子どもに持たせることです。

 それが子どもに備わっていれば,「褒める指導」は一般的な効果が期待できるでしょう。

08/6/11 荒れた学校を建て直すときの原則  指導主事を経験すると、人から嫌われることに慣れていきます。  現場の教師たちからの露骨な敵視を浴びることが多くなるからです。  現場の教師たちへの不満を全く面識のない保護者や地域の方から電話で伺うこともありますが、話されている方の攻撃性は明らかに教育委員会にも向けられています。  「なぜあんなのが教師をしていられるのか」「給料泥棒だろう」「おまえは役所に座って何をしてるんだ!しっかり学校へ行って指導しろ!」「早くあの教師をクビにしろ!」  こういう言葉を何ごともなかったかのように聞き流すことができるのも行政マンとしての大切な資質で、「敵」扱いされることを何とも思わない能力は、当然、教師の立場でも役に立ちます。  生徒にとっては耳の痛い正論を堂々とぶつけることができるからです。  しかし、現場には、明らかに「子どもから嫌われたくない」「親にも気に入られていたい」という教師がいます。  うまくバランスが保てている学校は問題がないのですが、後者のタイプの教師(生徒にとって非常に都合がいい教師)が多い学校では、さまざまな指導が後手後手にまわり、問題行動もよく発生します。  生徒から嫌われることをいとわない教師は、問題行動を繰り返す生徒からは嫌われるかもしれませんが、そうでない生徒からは信頼されます。  一方、問題行動を繰り返す生徒にとって都合がいい教師は、多くの生徒から信頼されません。  私の経験則では、荒れた学校を建て直すとき、まず信頼を獲得するターゲットは、学校生活に対して前向きな生徒と、後ろ向きの生徒に引っ張られながらも何とか普通が保てている生徒に絞るべきです。  この指導法が、一部の有名人の教師とは全く異なっている点かもしれません。  荒れている学校では、問題行動を繰り返す生徒ばかりに教員の関心や実際の指導の力が集中して、そうでない生徒は置いてきぼりになっていることが多い。  「私はこんなにあなたに対する教育愛をもっているのだから、その期待に応えて下さい」という文字を絵に描いたような行動をする教師がいますが、もっと他にするべきことがあるでしょう。  学校の建て直しを図るには、生徒自身の力を借り、その力によって新しい集団のマナーやルールが守られるようにすることが大切で、教師は決してヒーローになってはいけません(そこまで強く言う必要はないかもしれませんが、テレビドラマがひどい誤解を招いているのであえてそう言います)。  生徒が立ち直るとき、本当に納得するきっかけは、そこにあるのだと思います。  嫌われてしまいそうな言葉を、あえて投げかけている教師の本心に気付くのは、その後で十分です。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第56問】 
 昭和11年(1936年)の話です。
 プロ野球初の専用球場として,東京・洲崎球場が完成しましたが,ある問題を抱えていました。その問題とは?
 ① 東京湾が満潮になると海水が浸入してゲーム続行が不可能となる。
 ② たびたび停電が起こり,プレーの中断時間が長いため,試合時間が延びる。
 ③ 客席がほとんどないため,採算が合わない。

*******************
ブログランキング 歴史

 【第55問の解答
 ①の立教大学でした。

教師に望まれる最重要の資質・能力とは?【@nifty投票】より

 @nifty投票へのご協力ありがとうございます。
 小学校については32名,中学校は29名の方々に投票していただいております。
 現在のところ,ともに「使命感」を選んだ方が多いですが,小学校では「子どもとの心の触れ合い」,中学校では「専門的知識・指導力」が,比較をしてみると目立っております。中学校では,やや票がばらけているな,という印象もあります。
 一度投票していただくと,その後はグラフで表示されるようですので,まだお選びいただいていない方は,ぜひともクリックをお願いいたします。

心構えができないのに体構えだけできている生徒の問題 ふり返り366日【08/6/11-1】/ヒマラヤ初登頂

 世間一般では,「体構え」ができていなければ(平たく言えば,だらしないかっこう・ろくでもないかっこうでいれば),「ろくな心構えもできていないだろう」と考えられているでしょう。

 電車内の出入り口に集団で座って,乗客に迷惑をかけている女子高生を蹴ったために,逮捕されてしまった人への同情が紹介されている記事がありましたが,目を覆いたくなるような学生の服装・姿勢・態度に不満を抱いている人は少なくないのではないでしょうか。

 不満解消は,現実世界ではなかなか難しいので,フィクションの世界で果たされることになります。

 たとえば,学園ものドラマの定番は,生徒の「体構えができていない」=「心構えができていない」ところから出発して,何かをきっかけに「心構えができてきて」→「体構えもできる」ようになっておしまい,という流れをたどります。
 最終回は,「立派になったように見える」・・・極めつけは,次のシリーズで教師になって帰ってくる・・・そんな設定になっています。

 ただ,教育現場で実際に起こっている問題は,そんな単純なケースだけではありません。

 指導をしていて悲しくなってくるのは,「心構えができていないのに,それが気付かれないように体構えだけつくる」生徒が増えていることです。

 外見的には問題がなさそうでも,時間をおって,「だらしない」ことがどんどん露呈してきます。

 そういうタイプの子どもの「体構え」は,基本的に「指示待ち」の姿勢であり,ロボットと一緒です。指示が出なければ,「だれかがやってくれるだろうと思って何もしない」=結局,だれも何もしない・・・・ということになります。
 
 「反抗的で悪い人間だとは思われないようにしよう」という程度の「心構え」しかないのです。

 このような生徒は,もともと「体構えができていない」生徒とは違って,劇的に変化する,ということはありえません。じわじわと指導を浸透させていくしかないのです。

 本当の学校現場というのは,ドラマなどにはできない,とても地味な職場と言うこともできるでしょう。

08/6/11 「体構え」が指導できる学校  「心構え」ではなく「体構え」という言葉は耳慣れないかもしれませんが、指導には形から入るものが多いことはよく知られています。  たとえばその第一歩は制服の着用です。  しかし、見た目が同じユニフォームほど、人と違うことをし出すと目立つものはありません。  一部の教師は指導することに対して嫌悪感を持っていることかもしれませんが、服装等に見られる「だらしなさ」に対しては、指導を行うべきだというのが一般的な考え方でしょう。  「だらしない」服装をするのも生徒の「幸福追求権」「自己決定権」に含まれるのであって、それに対する指導は人権侵害である、という主張に賛同する人は少ないでしょう。  しかし、荒れている学校では、指導するにしても、本当にきりがありません。  ほとんどの女子生徒がミニスカート。男性生徒はシャツを出している。  かかとを踏んで、いつ洗ったのかわからないほどぼろぼろの靴を履いている。  ある一定の数を超えると、きちんとしていることが「おまえ、おかしいぞ」という批判の目にさらされるようになり、まじめに生きていくことが困難になります。

 すべては、初期指導にかかっていると言えます。
 一度見逃せば、後からきちんとさせるのはたいへんな苦労が必要になります。
 だから、学校改革には最低でも3年はかかると言われています。
 入学した1年生が3年生になるまで、何とか「体構え」のできる生徒を維持できれば、学校は立ち直ります。
 途中でどこかの学年がくじければ、振り出しに戻ります
 もちろん一番難しいのは、3学年がだらしないまま生き残っているときのまじめな2学年です。
 どんな3学年でも、さすがに進路が近づけば、「心構え」を変えようとしますが、「体構え」ができていないとそれは実現できません

 これは、子どもにとって、不幸なことです。
 なぜなら、「心構え」の指導などは誰にでもできるものではないですが、「体構え」の指導は、だれにでもできることだからです。
 指導できない教師が多い学校では、生徒はその多数派教師に「承認された」ものと判断し、それを正当性の根拠にして指導を行う教師に立ち向かってきます。
 現場に一年でも立っていれば誰でもわかることなのですが、「体構え」ができれば自然と「心構え」も育ってきます。スーパーの朝礼で行っている挨拶練習など、大人社会でも「体構え」を第一歩にしているところは多いのではないでしょうか。
 教師社会は、電話の出方ですら問題視されることがあります。雑誌の特集で、「危ない塾の見分け方」というのがありましたが、ほとんどが学校にもあてはまるものでした。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第55問】 
 昭和11年(1936年)の話です。
 この年,日本初のヒマラヤ登頂を果たしたのは,どの大学の登山隊だったでしょうか。
 ① 立教大学
 ② 明治大学
 ③ 京都大学

*******************
ブログランキング 歴史
にほんブログ村 歴史ブログ 近代・現代史(日本史)へ

 【第54問の解答
 ①の36回でした。

指導技術は子どもにも伝えるもの ふり返り366日【08/6/10-2】/前畑ガンバレ

 分かりやすい授業を展開するために必要な教師の能力について考えるときに,どうしても忘れてはいけないことは,教師というのは「自分ができる」ことがゴールではなく,そういう能力を子どもに身に付けさせるのが仕事であるということです。

 スポーツの監督やコーチの中にも,ときどき自分はプレーヤーとしてはほとんど注目されることはなかったが,指導者としてはピカイチであるという人もいるかもしれませんが,やはり「監督やコーチはできた」「実績がある」ことは,プレーヤーとしては安心できる材料になるでしょう。

 教師には,そのように子どもを「安心」させる指導力を発揮することが求められているのであり,ゴールを誤解しないように・・・能力開発型の業績評価制度の落とし穴にはまらないように・・・留意しておくことが大切です。

 実際の指導では,能力が高い子どもは技を自ら盗んでいきますが,教えてあげなければできない子どもがほとんどでしょう。

 「なぜ(何のために)このような教え方(学び方)をしているのか」を理解させることも,授業開きなどでは重要でしょう。

08/6/10 わかりやすい授業の条件  教師の授業力を構成する「聞き手を納得させるプレゼン能力」。7つのポイントのうち、残った5つについてです。 その3 要点は、手を変え品を替え、何回も繰り返す。  教育実習生の授業ではよくあることなのですが、あることの説明、解説をしているかと思ったら、いつの間にか質問になっていた。何かを答えなければならないと気が付いたときには、もう教師の問いは終わっている。  同様に、「もう一度、質問して下さい」と生徒から言われたことがある教師は多いのではないでしょうか。  生徒の方では、指名されてから初めて考えるモードに入るパターンが定着している場合があるので、教師によっては、指名してから問うのを授業のスタイルにしている人もいます。  また、中心発問のようなもの、大きな課題については、あらかじめカードに書いておき、説明した後、黒板にはっていくというパターンが、特に小学校では多く見られます。  要点にあたる部分はわざといつも繰り返しながら話す教師もいました。  授業の中での「繰り返し」は子どもの理解を定着させようとするねらいがあるわけですが、教師だけが表現する立場にならないように配慮することも大切かもしれません。

その4 まず全体を話し、それから部分へ移り、最後にもう一度、全体へ戻る。
 俯瞰(ふかん)→注視→再俯瞰
 清掃活動を例にとって説明しましたが、授業の中でも、たとえば導入部分とまとめ(整理)の部分における「俯瞰」は大切な要素です。
 全体像が分かった上で、部分の分析に入り、その分析結果を用いて全体を見たときに、改めて全体像の理解が深まる、そのような授業を、たとえば歴史的分野の学習ではよく行います。
 集団を相手に全体指導を行う場合、たとえば一人はみ出ている生徒がいるとしたら、いきなりその生徒に問題を投げかけるのではなくて、まずは「全体的にほぼきちんと整列できています」と「多くの人にはかかわらないことだけど・・・」というニュアンスの言葉を入れておいてから、「あなたが少し~すれば完璧ですね」と指導する。
 そして、「これで全体、整いました」としめくくる。
 10秒程度の指導なのですが、個別から全体に入るより、全体から個別に入って全体に戻った方が、ほとんどの生徒に残る印象は悪いものではなくなるはずです。
 授業でもこのような場面はたくさんあるでしょう。

その5 図解で示す。ビジュアルな整理は情報を共有し、聞き手のレベルも上がる。
 図解は教師の中でも得意不得意があるかもしれません。
 研究推進校の指定を受けたり、研究大会で発表しなければならないときなどは、よく研究の構造図が作られますが、やはり箇条書き、文章よりも図の方が頭に入っていきやすいでしょう。
 ただ、たとえば→の意味や、囲みの部分の使い方などは、自己流で行われると、かえって意味がわからなくなってしまいかねません。
 また、図は基本的に単純化されたものですから、理解面でいうと大きな落とし穴になっている可能性があり、注意が必要です。

その6 箇条書きで話す。「3」を使用する
  (問題は3つあります。まずは、・・・)。
 
 3分とか5分の長さの話をするときには、必ず用いたいフレーズですね。
 「3」の魔力についてはいつかふれたかもしれません。
 ちょっと話はそれますが、なぜ三人寄ると、「文殊の知恵」が出るのでしょうか。
 なぜメダルは金・銀・銅だけで、四位以下の人にはでないのでしょうか。
 三大~のように「三点セット」にする発想は、どこから生まれたのでしょうか。
 研究してみたいテーマです。

その7 ポイントになる人を見分け、その人に語り、要所要所でうなずかせる。
 授業では、内容が理解されているかどうかの判断は、生徒の表情でほぼわかるものですが、中には「うなずき上手」の生徒がいるので注意が必要です。あまり信用してはいけません。初めは見分けるのが難しいのですが、実際に問いをぶつけてみれば、わかっていたのかどうかがすぐに判断できます。
 これら5つのポイントは、「わかりやすい授業とは何か」という問いのヒントや解答になっている部分があるので、整理してみるといいかもしれません。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第54問】 
 昭和11年(1936年)の話です。
 ベルリンオリンピックでは,女子200m平泳ぎで前畑秀子が優勝。アナウンサーによる「前畑ガンバレ」の叫び声で話題となりました。「前畑ガンバレ」は何回叫ばれたのでしょうか。
 ① 36回
 ② 56回
 ③ 106回

*******************
ブログランキング 歴史
にほんブログ村 歴史ブログ 近代・現代史(日本史)へ

 【第53問の解答
 ②のベルリンです。発案者はヒトラーでした。

学校教育の換気機能 ふり返り366日【08/6/10-1】/五輪初の聖火リレー

 学校教育の現場というところは,基本的には「新しいものを創造していく」世界というよりも,「今までにやってきたことを間違いのないように繰り返す」世界というイメージが,教師の側にも子どもや保護者の側にも強いものだと思われます。

 これが,荒れた学校だと,「新しい秩序の創造」がテーマになって活性化が期待できるのですが,そこそこ安定した環境だと,「去年はこうだから」「例年こうだから」などという理由で,新しいアイデアはボツにされてしまうことが多いものです。
 
 しかし,何のために「異動」があるかを考えたとき,積極的・能動的な利点は,「よりよい教育実践への進歩が期待できる」ことにあるわけで,「前の人と同じようにやること」だけが大事なら,そもそも異動の必要はなくなってしまうわけです。

 転勤を経験されない会社員の家庭の方など,一般の方には,なぜ公立の教師たちには異動があるのか,不思議に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが,これは,毎年同じ時期に出される「異動希望」の集計表なんかを見れば一瞬にして理解されてしまうでしょう。

 こういう数字を見せられるだけで,公立学校というのはなかなか難しい(この程度の表現に抑えておきますが)ところだというのがよくわかります。

 それでも「信頼される学校」を目指すためには,「何か新しいこと」が実現できそうな,そんな期待感を子どもだけでなく教師も抱けるような環境にするべきでしょう。

 毎年の学校評価を見返してみれば,変えるべきことはいくらでもあるわけですから。 

 とりあえず一年間は,「新戦力」に活躍の場を持たせてみる,そんな余裕が学校にはほしいところです。

08/6/10 日本の教師式「チームワーク」の落とし穴  梅田望夫著「ウェブ時代 5つの定理」(文藝春秋)に紹介された「第2定理」は「チーム力」です。  人事考課制度に反対している人が、「競争によって人間関係が悪くなること」をデメリットとしてあげていますが、そういう教師たちの資質に関連することが、著書の中では次のように述べられています。  
いいチームとは何か。どうすれば最高の仕事を成し遂げる最高のチームができるか。そういったことを順に考えていきたいと思います。  日本の場合、「チームワーク」という概念に、「優秀な個」という前提が自動的にはビルトインされていないところが落とし穴だと思います。「チームワーク」といえば、「メンバーの痛みを理解できる」「困っている他のメンバーを助けてやる」といった相互扶助の概念と紙一重になります。ややもするとそれは、日本人特有の「群れたがり」「つるみたがり」への指向性とも重なってしまう。
 中学校や高校の教師の場合は、「異分野のその道のプロ」であるわけですが、教師集団が相乗効果をたたき出す「プロフェッショナルチーム」になれるかどうかは、一つには本物のプロであるかどうか、もう一つは、「相乗効果」を出すためのノウハウがあるかどうかにかかっています。  教師に「プロ意識」をもたせ、「優秀な個」による教育実践ができることを目標とした研究会等がたくさんありますが、現場では、「生活指導のプロ」とか、「教科指導のプロ」といった分類がされることがあり、これが成果が上がらない原因になっていることに気付かない人が多い。  ~の仕事は~さんのもの、と割り切ってしまうと、~さんがいないときに混乱して収拾がつかなくなってしまうおそれがある。  ビジョナリー(*)の考える「チーム力」と、多くの教師が望んでいる「チーム力」のギャップについては、単純な比較をすることは難しいかもしれませんが、ビジョナリーが失敗と捉えている問題の中から、学べる点があるかどうかを検討してみたいと思います。  ビジョナリー(*)・・・テクノロジー業界の最先端を走る起業家や投資家、「普通の人」よりも何歩も先をゆく天才的技術者、日々の濃密な体験から世界を俯瞰して眺めている企業経営者、複数の専門性を極めた大学教授といった人たちの中で、とりわけ言語表現能力が高い人々のこと。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第53問】 
 昭和11年(1936年)の話です。
 この年のオリンピックから,聖火リレーが始まりました。開催地はどこ?
 ① ロサンゼルス
 ② ベルリン
 ③ アテネ

*******************
ブログランキング 歴史
にほんブログ村 歴史ブログ 近代・現代史(日本史)へ

 【第52問の解答
 ②の赤バイでした。

集団の活動効率の低下 ふり返り366日【08/6/9-2】/白バイの前身は?

 清掃活動の昔と今を比べたとき,最近,あることに気付きました。

 一人の生徒に,あることを指示すると,その生徒は指示されたとおりにしっかりと清掃をこなすのです。

 また,日直などの立場で,一人で整理・整頓の責任を持たされたときも,かなりの確率でいい仕事をします。

 ただ,これが数人で構成される班で行う清掃だと,途端にできが悪くなってしまう

 そのできの悪さが,際立ってきたのです。

 チームとしての動きができなくなってきている。
 一人に全部任せてしまった方がまともにできそうだというレベルまで来ている。

 これは,リーダーを養成するという大きな教育目標の下位目標と具体的な指導方針がなかったことが原因だったと考えられます。

 責任の所在があいまいな集団の活動では,だれも責任をとろうとしないというのは,どの国にもあてはまる傾向なのでしょうか?当たり前のことでしょうか・・・?

 照れ隠しとかそういうレベルの感情の影響でパフォーマンスが下がる場面はいくらでも見てきましたが,それとは質的に異なっています。連帯責任がどうとか,そういうレベルでもありません。

 チームとしての活動効率の低下は,あらゆる場面の教育の成果に影響を与えそうな気がしてなりません。

 小学校などが大好きな「学び合い」が機能しなくなっているのでしょうか。 

 共同作業による成功体験は,「社会参画」にのぞむための重要な財産になることが考えられます。「やらされている感」を減らすためのよいパフォーマンスが集団内のリーダー等に求められています。

08/6/9 清掃指導にも適用できる生徒指導の大原則  清掃指導についての記事があったのでコメントを書き込んだのですが、何のリアクションもなかったので、消される前に自分の日記に写しておこうと思います。  
掃除の指導に限らず、生活指導には大きな原則があって、全体から個別へ、そして全体へ、という流れが大切です。  記事にあるような子どもの場合は特に、心のステップアップのためのハードルが高いですから、いきなり個へのはたらきかけというのはあまり効果が期待できません。  まずは全体のムードを動かしにかかります。  授業で教室に入ったとき、黒板がいつもよりきれいだったら、「今日はぴかぴかだな!チョークで書くのがもったいないよ」などと教師が喜んでみせる。  ゴミが落ちていなかったら、「このクラスはゴミを見つけた人が拾う習慣があるんだね」と刺激する。  「きれいな状態」「きれいでない状態」に対する関心を高めるところが、掃除指導の最初のボタンかけだと私は考えています。  そして掃除の途中で、箒の使い方が上手な子どもや、雑巾がけの丁寧な子どもに直接声をかけて、まわりの子どもにも観察させたりする。  だれの箒の使い方、雑巾の絞り方が一番上手かを競わせたりする。  なぜ清掃活動が大事なのかは、集団の中である程度関心を高め、一定の体験を経た上でないと、議論させても深まりません。  競争のような協掃。  クラスごとに、自分の組の清掃のこだわりを美化係に提言させたり、週ごとの重点目標を決めたりして、自治活動の中に清掃をしっかり組み込んでいくことが教師の役割であると考えます。
 このような提案ができる生徒(自治の学校の場合は教師が提案することは望ましくないので・・・)を育てたいものです。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第52問】 
 昭和11年(1936年)の話です。
 この年,警視庁に白バイが登場しました。それまでは何だったのでしょうか。
 ① 青バイ
 ② 赤バイ
 ③ 黒バイ

*******************
ブログランキング 歴史
にほんブログ村 歴史ブログ 近代・現代史(日本史)へ

 【第51問の解答
 ②のコンニャク屋さんでした。

藤田晋の仕事学ーセオリー№2 マイペース ふり返り366日【08/6/9-1】

[仕事力] ブログ村キーワード

 とことん追い込まれてしまった状態になっているのに,「笑っている」人がいます。

 「こんな状況で,不謹慎な!」という怒りはもっともかもしれませんが,実はその「技」が,「困難を乗り切る最善策を導く条件」をつくっているとは,なかなか気付かれにくかったのではないでしょうか。

 「怖さを忘れようとしたければ,あえて『笑う』『笑顔の表情をつくる』・・・」

 そんな「技」(割り箸を歯でくわえるなど)を教えているTV番組もありました。脳生理学とかの学者もTV業界ではひっぱりだこのようです。

 「忙しい時ほど平常心とマイペース」(13頁)では,似たような「新セオリー」が紹介されています。

 ビジネスマンにとっては,以下のような言葉が参考になりそうです。

 

優先事項は目標のために最重要なものは何か,肌感覚で直感的に決めています。頭や理屈で考えると間違えますから。

 
仕事がやたらに忙しいという時は,投げやりになっていないか自分の心に問いかけてほしいと思います。丁寧にきちんと仕事をするよう心がけてみてください。

 
忙しい時は一番大事な目標の確認をあえてしてみる。

 教師の心構えとしてこのブログで過去に記した原則と同じです。
 生徒に「忙しそう」という印象を与えないことが,いざというときのつながりを保つ秘訣です。
 もちろん,わざと「忙しそうにする」ことであることに気付かせるという行動をとることもありますが・・・。優先順位が低いことを無理やり割り込ませようとする態度に対する指導です。
 そのときも,非常に冷静に,「忙しそう」にするのがポイントなのですが・・・。

08/6/9 笑いはどこから引き出すか?  聞き手を納得させるプレゼン能力。これを教師の授業力という観点から見ると・・・  7つのポイントについての考えを述べます。(今回はその1とその2) その1 必ず一度は笑いをとる  (笑いは最大の肯定的コミュニケーション)。  笑いのある授業。私にとってもこれは第一義的に重視している要素です。  建前だけを振りかざしてくる教師を生徒は軽蔑するもの。  生徒は、本音の部分をくすぐられると、共感する思いから自然の笑いがおこってきます。笑ってリラックスしている体と心には、さまざまな情報が素直に入りやすくなります。  授業中の笑いには、緊張からの解放を誘うような刺激によるもの、好奇心を誘発して知識欲・理解欲を高める刺激によるものなどがあります。  私の恩師は、もう40年も前にこのような笑いを誘う授業の「おもしろさ」を様々な角度から検証した論文を発表されました。  私が作り出したい笑いの源泉は、すべて子どもの個性にあります。  下手をすると笑いの震源地になる子どもが傷ついたり、いじめの対象になってしまったりすることがあるので、「いじり」にも限度がありますが、子どもが持っているマグマはそれこそ無尽蔵で、コントロールするのは困難です。  昔ある若い先生に、授業のじゃまをしてくるような低学力の子どもをどう扱ったらいいのでしょうか、と問われて、「一瞬でも、その子を主役にしてください」とお願いした記憶があります。  そのような生徒には、心からの笑顔を表現してもらう。そうすると、教師から見たその生徒への印象も、変わっていくでしょう。子どもの笑顔を見て、「憎たらしい」と思う親はいないはず。それと同じです。  自分が生徒への愛情を失っていると思ったら、生徒への愛情をかき立てるような役割をその生徒に担ってもらえばよいのです。

その2 大きな声で、明るく、自信をもって、前向きに話す。 
 講義の内容自体に惹かれる教師なら、小さい声でも、暗くても、ネガティブな感じがしても、集中して学ぶ空間ができます。
 大きな声とか明るい声は、「子どもにとっての聞きとりやすさ」ということもありますが、どちらかというと子どもの持っているエネルギーを超越しておかないと、そのパワーに飲み込まれてしまう教師の防衛策であるという気もしています。
 よく学園ドラマでは、自信のなさそうな教師が生徒にいじめられるシーンが出てきますが、大人の場合、「この先生をいじめちゃだめでしょ!」とかばえないところが難しい。
 はったりでも、子どもの前では前向きでいてほしいものです。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第51問】 
 昭和11年(1936年)の話です。
 東京,荒川区のある人の提唱により,ある店の副業として,アイスキャンデーの製造小売が始まりました。ある店とは?
 ① 豆腐屋さん 
 ② コンニャク屋さん
 ③ 肉屋さん

*******************
ブログランキング 歴史
にほんブログ村 歴史ブログ 近代・現代史(日本史)へ

 【第50問の解答
 ②の金鯱でした。巨人軍など7チームが参加して結成されたのが「日本職業野球連盟」でした。

叱りやすく褒めやすい指導の場とは? ふり返り366日【08/6/8】/プロ野球第1戦

 集団指導という場を嫌う教師がいるのは,その能力がないということとは別に,そこに「強制」感がつきまとうから・・・という理由のためかもしれません。
 だれかの号令一つ,合図一つで,すべての生徒が全く同じ動きをしてしまうのは,まるでロボットのようで嫌だと・・・。
 運動会の行進も,登山の隊列も,全校集会での整列も・・・・。

 しかし,「号令に合わせる」という意識よりも,「みんなに合わせる」,「みんなに迷惑をかけない」,「みんなと一体となる」などの意識が集団のパワーを高めることも,みんな知っていることです。

 賢い学校は,指示の出所をできるだけ分散させて,教師だけでなく,生徒たちの指示による集団行動が図れるように指導します。

 この集団指導の場というのは,「叱る」チャンスが至るところに転がっている,「成長の宝庫」(叱る側にとっても叱られる側にとっても)なのです。
 たいしたことでなくても「叱る」ことが可能なのは全体指導をしている場です。
 そして,その後,すぐに改善し,結果が出やすいために「褒める」指導もしやすい。

 安易な「達成感」「一体感」ですが,この小さな積み重ねが,行動の規範をかたちづくるのです。
 

08/6/8
全体指導ができる教師と子どもの財産
 全体指導が入りにくくなっている、集団行動がとれない、指示が通らない子どもが増えているなどの指摘が複数の教育ブログに見られるようになりました。そこで、私の考えをコメントとして入れさせていただきました。
 集団行動の指導は、中学校1年生の入学時から1ヶ月間がすべて(いわゆる「初期指導」)です。
 私が過去にかかわった学年ではすべて、この初期指導に失敗した例はありません。
 1学年をもった年に異動したことが2回ありますが、その学年は3年間、いずれも「よい学年である」という実感と誇りをもって生活してくれたようです。
 入学当初から、かなり厳しい要求を子どもにすることになりますが、避難訓練ではなく本当の災害に襲われたとき、その指導の成果がより明確に表れるかもしれません。
 公の場というものがどういうものか、集団行動の場面で自分勝手にふるまうとだれがどのような迷惑を被るのか、このことを、5月に校外での活動を行う前に、しっかりと校内で実践できるようにしておき、集団行動が校外でもきちんとできるかどうかをたしかめるという課題を与えることができるようにするのです。
 ときどき、「校外に出たら人目を気にして、ちゃんとするだろうからそこまでやる必要はないのでは」と思う人がいるかもしれませんが、そういう態度でいることが、校内の集団行動の乱れを甘く見て、荒れを生み出すことになりやすいことは言うまでもありません。
 さて、全体指導が通りにくくなっている理由ですが、少子化によって、学級数が減り、学年に所属する教員の数が減り、ノウハウをきちんと身に付けて指導ができる教員が学年に入っていないケースが増えていることが原因であるような気がしています。
 同じ学校でも、学年(学級)による集団行動のはやさ、正確さ、秩序正しさに格差が生じ、言葉での指示が通りにくい学年(学級)が出てきてしまうことがあります。
 学級数が多い学校では、生徒総数が多いから乱れがちかというとそうではなくて、むしろ小規模校の方が話が聞けない学年が多いというのはあり得る話です。
 全体指導の絶対的な原則の例として、
 全体の場での移動のとき、話をさせない。
 生徒が騒いでいる間は、教師は話さない(集中した状態で話し出す)。
 集合、開始時刻を守らせる。
 「整列」させるときは、列が整っていなければならない。

 何だか当たり前のようなことばかりですが、こんな簡単そうに聞こえることでも、できない人にはできない。
 40人ならどうにかできても、200人、300人を一斉に動かすのは難しいことではあります。
 人間は、習慣の奴隷です。 最初の一ヶ月間に身に付けた習慣は、集団行動が求められる場面での一生の財産になります。
 そして実は、集団行動がとれる人というのは個性のない、集団主義の人かというと、私の調査した結果では、他者に対する思いやりがもてるばかりでなく、個人の能力をより高めやすい人であることがわかっています。
 人を大切にするということは自分を大切にするということであり、自分を大切にするということは人を大切にするということです。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第50問】 
 昭和11年(1936年)の話です。
 この年,名古屋の鳴海球場で巨人対あるチームのプロ野球第1戦が行われました。そのチーム名とは?
 ① 阪神
 ② 金鯱
 ③ 青竜

*******************
ブログランキング 歴史
にほんブログ村 歴史ブログ 近代・現代史(日本史)へ

 【第49問の解答
 ①のデマでした。事件前の不穏な空気を反映したものといわれています。なお,江戸川乱歩の「怪人二十面相」が『少年倶楽部』で連載開始になったのがこの年の1月でした。

満たされないから努力する?苦情を言う? ふり返り366日【08/6/7-2】/昭和11年2月のデマ

 「幸福感」ばかりに満たされながら成長した人は,さらなる「幸福」をどのように満たそうと考えるのでしょうか。
 「幸福感」とは,人から与えられるものでしょうか,自ら獲得するものでしょうか。みんなで共有するものでしょうか。
 「幸福感」にいたるハードルが,どんどん高くなっていることに教師たちは気付いているのでしょうか。
 それに気付きながら,対応しようと努力しているのでしょうか。
 
 「かわいい子には・・・」という姿勢は教育の場では死んでしまったのかもしれません。

08/6/7 幸福追求権のストライクゾーンと国民の禁止事項  私は教育現場と行政の経験から、幸福追求権のストライクゾーンについては、中高生ほど余計に小さくとる必要があると考えています。  ただでさえ幸福追求権は、以前に述べたような捉え方があるのと、憲法でいうと第12条の規定である「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、・・・(中略)・・国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」ことが、第13条の前にあることをしっかり教える必要があるからです。  「憲法で示されている国民の禁止事項は何か?」  「憲法で示されている国民の責任とは何か?」 という質問に、大人でもこの第12条をすぐに答えられる人は少ないのではないでしょうか。  公共の福祉のことは議論されていますが、この「国民による自由及び権利の濫用の禁止」はなぜ必要なのかということについて、理解できている大人が少ないために、数多くの問題がおこっています。  「定められた制服を着用しない」ことは、私の造語でいうと「私共(わたくしども)空間」の論理です。「公」と「私」の区別ができなくなり、「公共の精神」が失われていることが、学習指導だけでなく生活指導を非常に負担の重いものにしているのです。  そのような問題を解決する任務をもつ「公教育」には、「公共性を自覚させるという意味でもフォーマルな服装を定め、それを着用することを求める権利がある」と考えています。  自己決定権についても、違憲審査基準において、服装の問題は人格的生存の核心部分にあたるものではありません。  中心はあくまでも安楽死や尊厳死、子どもを生む・生まない自由などの問題です。  服装について、幸福追求権を拡大解釈する最大のデメリットは、学校が「公」の空間であることがさらに認識されづらくなり、コントロールが難しい「私共空間」に移行してしまうことだと思います。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第49問】 
 昭和11年(1936年)の話です。
 この年と言えば,2・26事件です。事件の5日前,つまり2月21日に,あるデマが東京で流されました。そのデマとは?
 ① 大阪の商店街が地震で全滅した
 ② 今上(昭和)天皇が暗殺された
 ③ ある衆議院議員が怪人二十面相だった

*******************
ブログランキング 歴史
にほんブログ村 歴史ブログ 近代・現代史(日本史)へ

 【第48問の解答
 驚かれるかもしれませんが,③が正解です。内務省が,続発する自殺を防ぐためにとった措置です。それまでは,青酸カリは簡単に手に入る「薬」だったようです。

藤田晋の仕事学ーセオリー№1 ふり返り366日【08/6/7-1】/危険な?昆虫採集

[仕事力] ブログ村キーワード

 ビジネスマンの自己成長と,以下の「教育実習生」のそれを同じレベルで語ることはできませんが,「早い時期に経験しておくべきこと」の代表格を藤田晋が「藤田晋の仕事学」(日経BP社)で紹介していたので,関連性を述べておきたいと思います。

 各章のタイトルは以下のとおりで,その中で紹介されている「自己成長を促す77の新セオリー」に勝手に通し番号をつけさせていただきました。今回考えるのは第1章の最初の「セオリー」です。

 第1章 職場に不満がある人に
 第2章 成長速度を上げたい人に
 第3章 円滑な意思疎通のために
 第4章 初めて上司となる人に
 第5章 自ら考え実現するために
 第6章 今すぐ結果を出すために
 第7章 オフにも成長するために

 いかにも,現役教師にも求められているものが書かれていそうな雰囲気が漂ってきませんか・・・。

 セオリー№1 怒鳴られた時こそ前進しよう

 教育実習生や若い教師が,指導の立場にある教師から「怒鳴られる」経験はまずしないでしょうが,そういう経験が全くない教師の中に,子どもが喧嘩で「怒鳴り合って」いたり,親が「怒鳴り込んでくる」とパニックになってしまう人がいます。そして余計なことを口走ってしまい,問題の溝をますます深くする・・・。

 結局,組織内で厳しく同僚を鍛えていく空気がないことが,「弱い企業」の「弱み」であり,それと似ているのが学校現場ということでしょうか。

 指導者側が「怒鳴ればよい」という問題ではもちろんないのですが,そこまで厳しくして育てられた社員というのは,もしものときに動じず,すぐ次の行動を起こせる「強さ」を手にしている「希望」が持てます。そして,実際,そういう社員が会社を牽引していくことになるのでしょう。
 
 「怒鳴られるくらいで動じない力」・・・そういう反発力に期待する「成長のさせ方」が,まだ通用する会社があるということに安心感を覚えました。
 

2008/6/7
教育実習期間中のステップアップ
 3週間の教育実習期間を、指導者としての私は次のように捉えています。
 1週間目は、実習生が自分の課題に気付く時期。授業が批判にさらされて、課題があることに初めて気付く時期です。
 2週目は、その解決に向けてさまざまな方策を行うが、なかなか問題が解決しない時期。自分の授業への批判はよくわかるようになりますが、他の人の授業を見ても、まだそこにある問題を指摘できない時期。
 そして3週間目には、なぜ問題が解決しないかということに気付く時期。そして、他の人の授業の批判ができるようになる時期。
 何年か実習指導を繰り返しているうちに、この法則にあてはまる実習生が多いことがわかってきました。
 ということは、もし4週間目があれば、自分の問題解決が実現できるようになるかもしれません
 しかし、実際には3週間という規定なので、目標達成への時間不足を補うために、私は3週間分の範囲の試験問題をつくってもらい、これを主な評価材料とするようにしています。
 これまで何度も繰り返し書いていますが、その指導者の力量というのは、どのような問いかけで生徒の能力を測っているか、そしてたとえテストでもその問いかけの中で新しい能力を伸ばせているか、ということで評価できます。試験の問いかけは少なくとも授業より質が高くないと、生徒の力は伸ばせません。
 「質が高い」ということが、解く上での「難易度が高い」わけではないことが理解できるようになるためにも多くの時間と実践が必要ですが、さすがに教育実習ではそこまでは期待できません。
 ただ、指導者の立場からすると、実習生がつくる試験問題の質が、自分の指導の質として問われることになるのは確かです。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第48問】 
 昭和11年(1936年)の話です。
 内務省が続発するある事件を防ぐために,ある行為を禁止しました。それは何でしょう。
 ① 学童が保護者の付き添いなしで昆虫採集を行うこと 
 ② 学童が採集した昆虫を問屋に売り歩くこと
 ③ 学童に昆虫採集用の青酸カリを販売すること

*******************
ブログランキング 歴史
にほんブログ村 歴史ブログ 近代・現代史(日本史)へ

 【第47問の解答
 ②の「暁の超特急」でした。

「弱さ」が気になる教師と「強さ」が気になる子ども

 よく,「弱い」ところは「強い」ところでカバーしよう・・・
なんて言われますね。
 障碍でも,視力が弱ければ聴力で・・・や,
 国語が苦手なら,○○をがんばろう・・・など。

 これも,結局「強い」ことが大切だ,という意味になってしまうでしょうか。

 「強制」「強引」などという熟語にすると「」・「」のイメージありますが,「強力」,「補強」という熟語ではプラスの意味か・・・?

 教育現場でもさまざまな「強弱」があり,たいてい「弱さ」に足を引っ張られることになりますが,「強さ」だけでもうまくはいかず,「強弱」のバランスは非常に大切なところがあります。

 「強弱」と言ったときにはどうしても「」に軍配が上がってしまいそうですが,「硬・軟」「温・冷」「剛・柔」「緩・急」など,組織の中でのバランス,自分の中でのバランス,そして波。
 そういう「動態的」なものを人間関係の中で感じ,学び,調整していく営みが大切なのではないかと思いました。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村

ブログランキング 学校と教育全般

プレゼンのスキル以前の問題 ふり返り366日【08/6/6】/短距離世界新

 あるとき,非常に注意深く教師の話を聞いている集団に出会ったときがあります。
 
 その教師のプレゼン能力がとても高いとは思えなかったので,優秀な生徒たちだなと観察していたら,その理由がよく分かりました。

 プレゼンの中で,間違いが頻繁に起こるのです。

 その間違いは何かのきっかけで訂正されるのですが,しっかり聞いてかなり正確に聞いておかないと,どこからどこまでが訂正になったのかもよく分からないのです。

 なかなか質問はしにくい空気もありました。

 質問が出ると,前の話からは矛盾する内容の説明がなされ,頭が混乱してしまう。

 音声言語による指示等の伝達というのは,意外と難しいものです。

 話す方は「分かったつもり」程度のレベルで話すのでは,相手にはなかなか正確に「言いたいこと」が伝わりません。

 プレゼンのスキル以前の問題の解決というのが,学校現場にとってはけっこうな重みとしてのしかかっています。

08/6/6 教師のプレゼン能力向上指針 その1

 一般的な公立学校では教師が行ってしまう役割の多くを、伝統的に自治活動がさかんな私の勤務校では、生徒が担っています。そして、その役割は上級生から下級生へ、先輩から後輩へと脈々と受け継がれているもので、むしろ教師は邪魔な存在になることすらあります。
 行事の準備や運営はその代表的なもので、生徒が担い、努力し、実行する分、成功したときのやりがいはひとしおなのでしょうが、やはり中学生だけの力では、今ひとつ質が高まらないという欠点もあります。
 それでも、そういう経験をした子どもたちの多くが高校、大学、行政や企業等で、かけがえのないリーダーとして活躍してくれることを信じて、その基礎作りを徹底して行います
 リーダーとしての基礎のうち、中学校段階でもかなり鍛えられるのが「プレゼン能力」です。
 プレゼン能力は、教科等の学習活動でもしっかり生徒に定着させるように配慮されたカリキュラムになっており、道徳と同じように教育活動全般にわたって伸ばしていける能力なのですが、行事の役員になると、それが自然に養成され、磨かれていくことになります。
 プレゼン能力と一言で表現しても、たとえば教師のコンピテンシーモデルではかなり横断的な能力となるので、ここでは分析的に考えるのではなく、優先順位の高そうなことからまとめ、子どもたちに要求するとともに、はたして教師はその能力がしっかり発揮できているのかを自らに問いかけていってほしいと思います(もちろん自分自身も含めてです)。
 なお、しばらくは谷口正和著「プレゼンの成功法則」(東洋経済新報社)からいくつかをアレンジして紹介したいと思います。
 まず、どうしたら相手を納得させることができるか。
その1 必ず一度は笑いをとる。笑いは最大の肯定的コミュニケーションです。
その2 大きな声で、明るく、自信をもって、前向きに話す。
その3 要点は、手を変え品を替え、何回も繰り返す
その4 まず全体を話し、それから部分へ移り、最後にもう一度、全体へ戻る。
     俯瞰(ふかん)→注視→再俯瞰
その5 図解で示す。ビジュアルな整理は情報を共有し、聞き手のレベルも上がる。
その6 箇条書きで話す。「3」を使用する(問題は3つあります。まずは、・・・)。
その7 ポイントになる人を見分け、その人に語り、要所要所でうなずかせる。
 そのこころは・・・・。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第47問】 
 昭和10年(1935年)の話です。
 吉岡隆徳という人が,兵庫・甲子園で100m走に10秒3の世界タイ記録を出しました。何というニックネームで呼ばれるようになったでしょう?
 ① 昭和の韋駄天 
 ② 暁の超特急
 ③ 風の忍者

*******************
ブログランキング 歴史
にほんブログ村 歴史ブログ 近代・現代史(日本史)へ

 【第46問の解答
 ②の慶応大でした。何でも,渡欧途中の船上で40日間,甲板で倒立の練習をしていたそうで・・・大会1日目は強風で倒れる選手が続出するなか,慶大チームは倒れなかったことが勝因になったそうです。

梅雨空が続く学校教育 ふり返り366日【08/6/5-2】/体操ニッポンの草分け

 早くに梅雨明けした東京ですが,他の地域と同様の状態が続いているので,「梅雨戻り」宣言が出されてもよい気がします。

 さて,誕生から1世紀半を迎えようとしている学校教育ですが,一般的な「教育」の理想が,「学校教育」という制度の中で語られると,さまざまな矛盾が表れてきます。

 子どもの年齢が低く,その矛盾が表面化しにくい小学校で蓄積されたものが,その後,どのような形で問題化してくるのか,このブログでもときどきふれていました。

 教育の理想を考えれば考えるほど,「学校教育」で「教育」できることがかなり限定的であることがわかるはずです。その役割すら十分に果たせないでいる最大の原因は何でしょうか。

 「教育による成果が何であるか」がよくわかっていない子どもたち(親を見てそれが何だか「わかっている」子どももいる・・・?)に,「教育が何の役に立つか」が語れない(語る必要がないと主張している人もいます)教師が遠慮して,媚びるような教育実践を積み重ねてきたこと,「子どものため」にしてきたと信じていたことが,実は子どもをスポイルしてきたことに他ならないことは,本来「実証」したくはない「教育の失敗」なのですが,正常に近づけるためにはやむを得ないことでしょう。

08/6/5 個人の自由と教育による規制

 前の記事の解答は、①行動、②今日、③やり抜く、④思いやり、⑤会社(企業)、⑥自分、⑦捨てる・・・でした。
 今回の記事は、文月さんにブログでご説明いただいた「私はズボン強制校則は憲法違反で無効であると確信しております」という主張に対する私の意見を述べたものです。
 「自由」をめぐる問題については、かねてより中学生くらいからきちんと議論し合い、公正な判断ができるようにしてほしいと現場では考えております。「ルールだから守れ」というのは中1には言えるとしても、中2、中3には通用しません。
 中1ではまだ、「なぜこんな規則があるのか」という反発心が冷静な思考を働かせるのを邪魔してしまう時期であり、議論し出すのは中2くらいが適切だと思われます。
 このとき、「憲法が自由及び幸福追求権を定めているから」という理由で議論に参加しないようになる態度だけは否定しなければなりません。
 憲法では、「自由及び幸福追求権」を絶対的に保障すると言っているわけではなく、「公共の福祉に反しない限り、・・・最大の尊重を必要とする」としているのです。
 私なりの人権尊重という考え方は、無条件で自由が保障される、というものではなく、きちんと尊重はするが、公共の福祉に反する場合や、本人の自由意思によるものではない内容については、制限されることがある、というものです。制限はしても、尊重することには変わりはない。尊重するからこそ、制限する場合がある。そんなニュアンスです。
 リベラリズムの立場からすると、たとえば、「自由」についての標準的な合意は、佐伯啓思著「自由とは何か 『自己責任論』から『理由なき殺人』まで」(講談社現代新書)によれば、次のようなものです。

 人は、他人の干渉や強制を受けずに自分の意思である目的を追求することができる。その人なりの「善き生き方」を追求する権利である。この権利は、基本的に他人や社会に対して深刻な害を及ぼさない限り、原則的に尊重されるべきである。要するに、他人の迷惑にならない限りで、個人の選択、個人の意思は最大限に尊重されるべきだというのである。

 文月さんの主張も、この原則と同じだと考えられますがいかがでしょうか。
 学校教育の現場では、この原則に反するような規制がさまざまに加えられています。
 スカート丈の指導もその一つでしょう。
 文月さんは、憲法の原則にしたがって反対派。私は現場の立場では賛成派、推進派です。
 私などが問題としていることは、そもそも「個人の選択」というものが、果たして純粋に「個人の意思」によるものなのかどうか、「自立した意思決定」が行われているのかどうか、ということがまずあります。
 リベラリストが、「意思決定が誰によっても強制されていない、他者の介入を受けていない、という理由で自立的で自発的なものだとする」のに対し、私の考え方は、特に学校という社会の中では、子どもを取り巻く集団による影響力が強く、個人としての自立的な生き方という考えに基づく行動はほとんどなくて、さまざまな環境、社会性の中で作り出されているものである、というものです。
 ほんとうは学校が決めたAという選択肢を取りたいのだけれど、みんながBを選んでしまっているので自分だけAを選ぶことはできない。似たような事例はたくさんあります。いじめへの荷担も同様にしておこります。
 リベラリズムは、理念化された世界へ現実を押し込んで解釈しようとします。憲法のみに従った主張というのも同様です。そのために、常識などからの大きな隔たりが生じてしまいます。
 「自分(私)」にとって、「家族」と「自分(私)自身」はどちらの方が大切か。学校と自分ではどうか。仲間と自分ではどうか。こういう問いを考えると、自分(私)に自由な選択ができるとは考えにくい。
 その選択に与える悪い影響を断ち切ってしまうことが、見かけ上は個人の自由を制限しているようですが、実はその個人の幸福追求権を尊重した結果だと言えるようになるかもしれません。
 ズボンの問題も同じです。 
 さらに、教育権をもつ保護者の意向というのもあります。
 一揆の防止策という主目的をもつ刀狩を例にとると、戦国時代には、もしかしたら好きで一揆に加わっていたのではない人がいたかもしれません。しかし「一揆」は文字通り集団主義なので、加わりたくなくても加わらざるを得ない。そこに「刀狩令」が出て、武器・武具をさしだしたため、一揆に加わらなくてもよいという望ましい状態になる。
 自分はゲームをしているときが一番幸福なのだから、授業中もゲームをしていて何が悪い
 理念的にはOKになってしまいますが、現実にはゲームをさせないことがその生徒にとっては有益なことです。
 スカート丈もズボンの問題も、おそらくどこでも議論を通して決定、あるいは議論をして問題を見つめることをしていると思いますが、「憲法違反だからダメ、以上」という原理主義的な態度は、教育的でもないし、その考えでは、現実的な利害が交錯する社会を生き抜いていくのは難しいことになるだろうと考えられます。
 リベラリズムの問題は、その人がどういう生き方をしてきたか、どういう人生を送ることになるのか、ということよりも、その都度の状況で、個人が自由に選択できるという条件を確保することの方を優先することにあります。
 文月さんは反対されているそうですが、援助交際の女子中高生がその後どのような人生を送ることになるかということは、リベラリズムとは関係がないことなのです。
 教育は、「自由な選択の機会を保障する」ことには最大限の配慮をして個人の権利を尊重しながらも、規制が必要な部分については規制し、将来やその時の全体への悪影響を防ぐ役割を果たすべきだと考えています。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第46問】 
 昭和10年(1935年)の話です。
 ハンガリーのブダペストで第6回国際学生競技会(今のユニバーシアード)が開かれました。ここで,日本のある大学チームが2位入賞を果たし,体操ニッポンへの道を開きました。ある大学とは?
 ① 早稲田大 
 ② 慶応大
 ③ 日体大

*******************
ブログランキング 歴史
にほんブログ村 歴史ブログ 近代・現代史(日本史)へ

 【第45問の解答
 締め出されたのは,③のショートパンツをはいた女性たちでした。理由は「良俗」に反するため。

「真剣さを感じない」感性 ふり返り366日【08/6/5-1】/昭和10年のデータ

 中学校の生徒指導(ここでは問題行動への指導という意味)は相当に気をつかって行うのが一般的になっています。
 「昔の感覚」を信じての指導では,なかなかうまくいかなくなっていることを,第一線の教師たちは感じ取っていることでしょう。

 多くの教師は,自分が生徒だった頃までイメージをさかのぼってしまうこともあり,生徒指導では必ず一度は大きな失敗をしてしまうものです。

 昔,よく言われていたことに,「本気で叱ってくれたことに感謝する」と感じてくれる生徒が多かった,ということがあります。(もちろん,今もそういう生徒はいるでしょうが)

 ここでの「本気で」という言葉の意味は,「仕事だから」とか「きまりだから」という態度ではなくて,「その生徒のためを思って」とか,「学校の伝統を守るため」とか,生徒が「筋が通っている」と実感できるもの,ということです。
 
 「真剣さ」が伝わる指導,というのは,場合によっては,ほとんど経験せずに生きてきた人もいるでしょう。

 ですから何が「本気」で「真剣」なのか,どこで線引きできるのか,という問いが生まれてしまうかもしれませんが,これこそ「感性」によるものです。

 「感じない感性」というものもあるわけです。

 こういうとき,指導は完全な空回りになるので,空しいというか惨めなものです。

 「本気」のよさが取り戻せる学校づくり,というのも,案外「改革」の決め手になるかもしれません。

08/6/5 「本気」でチャレンジしよう!

 ブログを通してお知り合いになれた、Z会のTさんのブログの記事、あなたにとって「本気」とは?には子どもたちにもぜひ読んでもらいたい内容(引用・・・FaithホールディングスのHPから)がありました。
 6つの「本気」、穴埋め問題にしてみますが答えがわかるでしょうか。

 1.本気とは“言葉”ではなく“(  )”である。
 2.本気とは“明日”ではなく“(  )”始めることである。
 3.本気とは“始める”ことではなく“(  )”ことである。
 4.本気とは“独りよがり”ではなく相手を動かす“(  )”である。
 5.本気とは“(  )のため”ではなく“(  )のため”である。
 6.本気とは“何かを得る”ではなく“何かを(  )”ことである。

 ①は、どんなリーダーに人はついていくか、考えてみて下さい。
 ②は、いつも言われていることですね。
 ③は、「続ける」よりもっと強い言葉です。
 ④も、リーダーにとって大切な資質です。
 ⑤と⑥は、組織と個人、どちらが優先されるのでしょうか。自分の責任を逃れるための言動にならないようにするためには、⑤と⑥にそれぞれ何が入ればいいのでしょう。
 ⑦は奥が深い話かも。普通、人の努力というものは、何かを得るためにしていると考えられます。
 しかし、あるレベルまで達すると、⑦が大事になります。
 ⑦ができない私などは、今、こんなことに時間を費やしています。

昭和10年(1935年)のデータ
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
○北海道北見のハッカ生産が世界市場の7割を占める。
○明治神宮体育大会のマラソンで,孫基禎が2時間26分42秒の世界最高記録。
○警視庁が紙芝居の内容・業者の統制に乗り出す。東京の紙芝居業者は約2500人。
○幼稚園児の好むおやつの順位。1位:ビスケット,2位:おかき,3位:せんべい。
○佐渡金山,新しい採金法で採金率が40%から85%に。
○米式蹴球(アメリカン・フットボール)の第1戦が東京・明治神宮外苑で行われ,横浜選抜が在日外国人チームを26-0で破る。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ブログランキング 歴史
にほんブログ村 歴史ブログ 近代・現代史(日本史)へ

「労働」で人間形成の基礎ができない子どもたち ふり返り366日【08/6/4-4】

 息子の場合は,妻の実家に庭があって,草取りなどをする「お手伝い」をすることができるのですが,今,考えてみると,「労働」に値するくらいのことが,「家庭」という生活の場でできることは本当に限られてしまっているか,ほとんどなくなってしまっているのが現状でしょうか。

 子どもがこのような「労働」を「家」の中でする機会がなくなってしまったことを教育の荒廃の原因の一つに数えているのが内田樹です。

 学校での給食指導はまだしも,清掃指導でとても苦労する(というか,ほとんど手とり足とり教えないとできない,あるいは,ついていなとすぐにサボる)背景には,学校以外でそれを経験するチャンスがない,という背景もあるのでしょう。単に,公共の意識の低下とか,そういう言葉では説明しきれないものがありそうです。

 子どもが「働く」ことで大人に認められ,自己を確立するための材料の一つにする,そんな機会が失われてきたことが,ニートの増加を生んでいる・・・全くの検討はずれの考え方ではなさそうな気がします。

 そこに,「親の働く立派な姿」というのが目に映っているかどうか,そういうことも影響しそうです。

 学校における清掃などの「労働」の強制が気に入らない,といった人には,どんな言葉で説得していったらよいのでしょうか。

08/6/4 息子への金融教育

 母の日の前日のことですが、小学生の息子が二人の祖母に自分のお金で花を買って贈りたいと言い始めました。
 そして、たまたま銀行に預金しようとしていた、貯まったお小遣い5000円札を手に、何と2000円以上する鉢を二つも買ってきたのでした。残ったおつりはわずかでした。
 この思い切りのよさというか気前のよさに呆れたり心配になったりしていたのですが、花を贈った後はちゃっかりとまたお小遣いをもらって資金は回収してきたようです。
 親の目からは、投資をしてもうけをねらったようには見えず、朝早くおきて、純粋に二人の祖母の喜ぶ顔が見たいようで飛ぶように出かけていったのでした。
 今は、小学校などで実施されている金融教育のテキストはあまり見せたくない気がしています。
 大きな金額を動かそうとする小学生を見ると少しぞっとします。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第45問】 
 昭和10年(1935年)の話です。
 大阪のテニススクールで,ある女性たちが他の会員から締め出されるという出来事がありました。その理由は?
 ① おしゃべりばかりでテニスをしないから
 ② 会費の滞納が続いたから
 ③ ショートパンツという服装だったから

*******************
ブログランキング 歴史
にほんブログ村 歴史ブログ 近代・現代史(日本史)へ

 【第44問の解答
 ③の「保険金殺人」でした。母親が日大生の息子に保険金6万6000円を掛けて殺害したものです。母親と共犯の妹は自殺。

齋藤孝の影響力 ふり返り366日【08/6/4-3】

 学者というのは,孤独な環境でも仕事ができる人ではないと勤まらない職業でしょう。

 本を1冊書くというだけでも,壮絶な「1人の戦い」が繰り広げられているものだと想像できます。

 齋藤孝はここのところTVを通しての露出があるようですが,きっとどこかで「もったいない時間を過ごしているな」と感じていると思います。

 ゲストがTVで発言できる「意見や考えのまとまり」はたかが知れています。いかに短く気のきいたコメントが言えるかが勝負で,台本がないケースではどきどきものでしょう。

 教育の現場で働いている私のような人間は,少し子どもと会わないだけでも,あるいは,ちょっと授業の間隔があくと,言い知れない禁断症状が襲ってきます。

 原稿を書くために1週間とか缶詰になる,なんて考えられません。

 また,テレビの本番に備えて1時間前に局に入る,なんてことも考えられません。

 まあ,その「待ち時間」の中でも次の本の構想などを考えているのかもしれませんが。

 一年前から,学者が教育現場への影響力をもてるようになるまでのプロセスをながめてみたい気がしています。

08/6/4 齋藤孝をネットの世界に引き込む目的

 齋藤孝をネットの世界に引き込むために、辛口の意見を続けようと思います。
 引用は、「私塾のすすめ」からです。
 齋藤孝は自分が梅田望夫とともに「見晴らしのいい場所」にいると「はじめに」で書いていますが、私から見れば、雲がかかってばかりいる山の頂上付近にいるわけで、そこから落とされてくるものは下で受け止められますが、決して出所が見えない。
 「僕は大学の空間ではオープンなのですが」とありますが、大学の空間自体は閉鎖空間ですから、家の中ではいきいきしている内弁慶と一緒です。
 梅田氏が「斎藤さんが『福沢諭吉と自分が似ている』というのを、過去の無限ともいうべき人物の中から、書物を通して見つけ出されたわけですが、ウェブは、現在の生身の人間の中から探すことができる道具だと思うんですよ。」と語っていますが、これは本当に痛烈な批判でしょう。
 これに対して齋藤は、なるほどと同意しつつ、学級の人数が少なかったり、固定化しているので「あこがれ」を共感する人を見つけるのは難しいといって議論をかわして逃げています。そしてだから「いじめが起きやすい」ととんでもない方向に話が向かってしまっています。編集者のチェックもれでしょう。
 この本は、随所に考えの相違があったことは、主に梅田氏の「基本的には同じ」という表現の繰り返しによって想像できます。
 それこそ基本的には、齋藤孝は閉じた空間が好き。本が好き。自分で読み取ったものに価値を感じる。過去にやられてきたことを再現し、繰り返すことが好き。「無理やり」が好き。 梅田望夫は開かれた空間が好き。人から寄せられる有用な情報が好き。そして人がやったことは、もう自分はしたくなくなる。新しいものにチャレンジしたくなる。
 どうにか議論が進んでいったのは、両者がプロジェクトのリーダーに欠かせない資質が「情熱」と「没頭」であることを信じ抜いているからでしょう。
 志向性の共同体を主体的に集まってくるメンバーだけでなくて、たまたまそこにいる人、いやいやそこにいさせられている人に対しても、「ポジティブな空気」の発生によって、何とか同じ志向性をもたせられないか。
 特に公教育はそこが課題になっているわけで、齋藤孝をそこまで引きずりおろしたいわけです。
 無志向性の共同体の改革には、情熱をもったリーダーが必要です。
 私塾にこもらないで、オープンな世界に入って下さることを期待しています。

教師自身が「下流志向」? ふり返り366日【08/6/4-2】

 内田樹の教育論では,教師という存在は擁護の対象になっているのですが,そこに登場している「子ども」たちと同じ感性なり学力が,今の教師自身にもかなり当てはまっていることではないか,ということに考えをめぐらせる必要があると考えています。

 「自己に外在的な目標をめざして行動するよりも,自分の興味・関心にしたがった行為のほうを望ましいとみる」のは,まさに教師のことを言っているのと同じでしょう。

 このことが教育の崩壊に結びついているのであれば,そして,そういうことを教師自身が体現しているのであれば,教師も教育の崩壊に加担していることになるでしょう。

 著書『下流志向』の第一章のタイトルは,「学びからの逃走」ですが,それを教師自身が体現してしまっているとしたら・・・・?

 「新しいタイプの日本人の出現」→「新しいタイプの教師の出現」?

 「このまま若い人たちがぞろぞろと学びから逃走し・・・日本社会の先はかなり暗いものになります」

 「勉強を嫌悪する日本の子ども」→「勉強を嫌悪する日本の教師」?

 「日本の子どもたちは勉強しなくなっている」・・・教師たちが「勉強」に費やす時間が,過去どのくらいだったのか,統計資料があれば,教師についても検証できるのでしょうが・・・

 「学力低下は自覚されない」→「教師の指導力低下は自覚されない」?

 子どもの学力が低下することによって,教師の学力低下も気付かれにくくなる?

 あるいは,教師集団の質が全体的に下がることで(私の場合は,小規模校化で「すごい指導力を持つ教師」を見ることができる教師が少なくなってしまったことが問題だと指摘していますが),自分のレベルが低いことに気付かない?

 「変化に抗う子どもたち」→「変化に抗う教師たち」?

 そんな調子で,「書き換え」が可能になるのが怖い・・・そんな印象の本です。

 一点,今後の学校づくりで参考になりそうな話があって,それは「家庭内労働の消滅」によって,子どもが「労働」することで自分の価値を発見し,「労働主体」としての自立の意味を知ることができなくなったこと・・・それが,今の子どもはいきなり「消費主体」として「社会的地位」をもった自己を確立してしまったように思い込むために,悲劇が生まれている・・・・というものです。

 小学校などで,新規採用と同時に学級担任などになってしまうと,いきなり「一国一城の主」の地位につき,その立場のままで多くのことを学ばなければならなくなります。学ばないでも,「一国一城の主」としての地位は一揆でも起こらない限り揺らぐことはありません。

 中学校の場合は,「副担任」として学校の分掌の職務,学年や学級の「事務的な仕事」・・・これを現場では雑務と呼んで自らモチベーションを下げるように仕向けていますが・・・を経験し,苦労を先輩教師にねぎらってもらいながら,徐々に教師として認められ,自分自身はさまざまな担任の長所・短所を参考に自分の経営計画が立てられるようになっていく,というのが理想的なのですが,学校の小規模化はそういう機会を減らし,「学ぶ題材の範囲と質」を低下させる原因になってしまっています。

 学校は「即戦力」を求めていると言うかもしれませんが,現場はそう簡単なものではありません。

 日経BP社から出された『藤田晋の仕事学―自己成長を促す77の新セオリー』を手に取ったとき,買ってもいいかなと思ったのは,第1章の一番最初に,「怒鳴られた時こそ前進しよう」というセオリー?が紹介されていたからです。

 厳しい競争社会には生きていない教師たちが,藤田晋の言うセオリーに耐えられるかどうか,生かせるものがあるかどうか,少し考えてみたいと思います。

08/6/4 教師を蝕むリバタリア二ズム

 市場原理主義と親和性が高いリバタリア二ズムは、中学生の生き方観に強く忍び寄っています。
 自分は好きに生きたいのだから、あれやこれやと他人が干渉しないでほしい
 ほっといてくれ!がリバタリア二ズムのモットーの基本とされています。

 人に迷惑がかからないなら何でもできる。
 自分が努力した結果はすべて自分のものである
 「貧しい人」に同情するのは個人の勝手だが、国家がその人々を救う義務はない。
 弱者救済のために自分から税を取るのはおかしい
 善意のある人が個人的に救ってくれればよい。
 ・・・
 リバタリア二ズムが教育の世界にも広がると、以下のようなことになります。

 親が自分たちの子どもに対する教育の権限をもつのは当然。
 親は、自分の子どもにふさわしいと思う学校を選ぶか、自宅で親自身か家庭教師が子どもを教育することもできる。それは自由である。
 そのためには、多様な私立学校がなければならない。
 公立学校の価値は疑問。なぜなら、公立学校は、親の信念を無視して、集団主義や多数派の思想を子どもに押しつける場である。
 また、公立学校はだれもが入れる学校だから、平等主義的傾向が強く、その結果、要求される学力水準は必然的に低下する。
 ・・・・
 リバタリアンの親がぶつかる壁は、リバタリア二ズムの考え方が個人の自由を重視する以上、子どもは親の所有物ではなくて別の人格であり、親と子の意思や意見の相違・対立は避けられないことにあります。
 このような考え方の広がりが、学校を苦しめていると思われる方が多いでしょうが、ふと気付くと、教師自身は本当にリバタリアンではないのか、その点をしっかり問わないといけません。
 教育の世界の問題は、一見すると制度とか社会環境によるものと考えられるかもしれませんが、実は教師自身が作り上げているものなのかもしれないことを、心にとめて仕事に臨みたいものです。

« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より