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集団の活動効率の低下 ふり返り366日【08/6/9-2】/白バイの前身は?

 清掃活動の昔と今を比べたとき,最近,あることに気付きました。

 一人の生徒に,あることを指示すると,その生徒は指示されたとおりにしっかりと清掃をこなすのです。

 また,日直などの立場で,一人で整理・整頓の責任を持たされたときも,かなりの確率でいい仕事をします。

 ただ,これが数人で構成される班で行う清掃だと,途端にできが悪くなってしまう

 そのできの悪さが,際立ってきたのです。

 チームとしての動きができなくなってきている。
 一人に全部任せてしまった方がまともにできそうだというレベルまで来ている。

 これは,リーダーを養成するという大きな教育目標の下位目標と具体的な指導方針がなかったことが原因だったと考えられます。

 責任の所在があいまいな集団の活動では,だれも責任をとろうとしないというのは,どの国にもあてはまる傾向なのでしょうか?当たり前のことでしょうか・・・?

 照れ隠しとかそういうレベルの感情の影響でパフォーマンスが下がる場面はいくらでも見てきましたが,それとは質的に異なっています。連帯責任がどうとか,そういうレベルでもありません。

 チームとしての活動効率の低下は,あらゆる場面の教育の成果に影響を与えそうな気がしてなりません。

 小学校などが大好きな「学び合い」が機能しなくなっているのでしょうか。 

 共同作業による成功体験は,「社会参画」にのぞむための重要な財産になることが考えられます。「やらされている感」を減らすためのよいパフォーマンスが集団内のリーダー等に求められています。

08/6/9 清掃指導にも適用できる生徒指導の大原則  清掃指導についての記事があったのでコメントを書き込んだのですが、何のリアクションもなかったので、消される前に自分の日記に写しておこうと思います。  
掃除の指導に限らず、生活指導には大きな原則があって、全体から個別へ、そして全体へ、という流れが大切です。  記事にあるような子どもの場合は特に、心のステップアップのためのハードルが高いですから、いきなり個へのはたらきかけというのはあまり効果が期待できません。  まずは全体のムードを動かしにかかります。  授業で教室に入ったとき、黒板がいつもよりきれいだったら、「今日はぴかぴかだな!チョークで書くのがもったいないよ」などと教師が喜んでみせる。  ゴミが落ちていなかったら、「このクラスはゴミを見つけた人が拾う習慣があるんだね」と刺激する。  「きれいな状態」「きれいでない状態」に対する関心を高めるところが、掃除指導の最初のボタンかけだと私は考えています。  そして掃除の途中で、箒の使い方が上手な子どもや、雑巾がけの丁寧な子どもに直接声をかけて、まわりの子どもにも観察させたりする。  だれの箒の使い方、雑巾の絞り方が一番上手かを競わせたりする。  なぜ清掃活動が大事なのかは、集団の中である程度関心を高め、一定の体験を経た上でないと、議論させても深まりません。  競争のような協掃。  クラスごとに、自分の組の清掃のこだわりを美化係に提言させたり、週ごとの重点目標を決めたりして、自治活動の中に清掃をしっかり組み込んでいくことが教師の役割であると考えます。
 このような提案ができる生徒(自治の学校の場合は教師が提案することは望ましくないので・・・)を育てたいものです。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第52問】 
 昭和11年(1936年)の話です。
 この年,警視庁に白バイが登場しました。それまでは何だったのでしょうか。
 ① 青バイ
 ② 赤バイ
 ③ 黒バイ

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 【第51問の解答
 ②のコンニャク屋さんでした。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より