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叱りやすく褒めやすい指導の場とは? ふり返り366日【08/6/8】/プロ野球第1戦

 集団指導という場を嫌う教師がいるのは,その能力がないということとは別に,そこに「強制」感がつきまとうから・・・という理由のためかもしれません。
 だれかの号令一つ,合図一つで,すべての生徒が全く同じ動きをしてしまうのは,まるでロボットのようで嫌だと・・・。
 運動会の行進も,登山の隊列も,全校集会での整列も・・・・。

 しかし,「号令に合わせる」という意識よりも,「みんなに合わせる」,「みんなに迷惑をかけない」,「みんなと一体となる」などの意識が集団のパワーを高めることも,みんな知っていることです。

 賢い学校は,指示の出所をできるだけ分散させて,教師だけでなく,生徒たちの指示による集団行動が図れるように指導します。

 この集団指導の場というのは,「叱る」チャンスが至るところに転がっている,「成長の宝庫」(叱る側にとっても叱られる側にとっても)なのです。
 たいしたことでなくても「叱る」ことが可能なのは全体指導をしている場です。
 そして,その後,すぐに改善し,結果が出やすいために「褒める」指導もしやすい。

 安易な「達成感」「一体感」ですが,この小さな積み重ねが,行動の規範をかたちづくるのです。
 

08/6/8
全体指導ができる教師と子どもの財産
 全体指導が入りにくくなっている、集団行動がとれない、指示が通らない子どもが増えているなどの指摘が複数の教育ブログに見られるようになりました。そこで、私の考えをコメントとして入れさせていただきました。
 集団行動の指導は、中学校1年生の入学時から1ヶ月間がすべて(いわゆる「初期指導」)です。
 私が過去にかかわった学年ではすべて、この初期指導に失敗した例はありません。
 1学年をもった年に異動したことが2回ありますが、その学年は3年間、いずれも「よい学年である」という実感と誇りをもって生活してくれたようです。
 入学当初から、かなり厳しい要求を子どもにすることになりますが、避難訓練ではなく本当の災害に襲われたとき、その指導の成果がより明確に表れるかもしれません。
 公の場というものがどういうものか、集団行動の場面で自分勝手にふるまうとだれがどのような迷惑を被るのか、このことを、5月に校外での活動を行う前に、しっかりと校内で実践できるようにしておき、集団行動が校外でもきちんとできるかどうかをたしかめるという課題を与えることができるようにするのです。
 ときどき、「校外に出たら人目を気にして、ちゃんとするだろうからそこまでやる必要はないのでは」と思う人がいるかもしれませんが、そういう態度でいることが、校内の集団行動の乱れを甘く見て、荒れを生み出すことになりやすいことは言うまでもありません。
 さて、全体指導が通りにくくなっている理由ですが、少子化によって、学級数が減り、学年に所属する教員の数が減り、ノウハウをきちんと身に付けて指導ができる教員が学年に入っていないケースが増えていることが原因であるような気がしています。
 同じ学校でも、学年(学級)による集団行動のはやさ、正確さ、秩序正しさに格差が生じ、言葉での指示が通りにくい学年(学級)が出てきてしまうことがあります。
 学級数が多い学校では、生徒総数が多いから乱れがちかというとそうではなくて、むしろ小規模校の方が話が聞けない学年が多いというのはあり得る話です。
 全体指導の絶対的な原則の例として、
 全体の場での移動のとき、話をさせない。
 生徒が騒いでいる間は、教師は話さない(集中した状態で話し出す)。
 集合、開始時刻を守らせる。
 「整列」させるときは、列が整っていなければならない。

 何だか当たり前のようなことばかりですが、こんな簡単そうに聞こえることでも、できない人にはできない。
 40人ならどうにかできても、200人、300人を一斉に動かすのは難しいことではあります。
 人間は、習慣の奴隷です。 最初の一ヶ月間に身に付けた習慣は、集団行動が求められる場面での一生の財産になります。
 そして実は、集団行動がとれる人というのは個性のない、集団主義の人かというと、私の調査した結果では、他者に対する思いやりがもてるばかりでなく、個人の能力をより高めやすい人であることがわかっています。
 人を大切にするということは自分を大切にするということであり、自分を大切にするということは人を大切にするということです。

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昭和の家庭史トリビア?【第50問】 
 昭和11年(1936年)の話です。
 この年,名古屋の鳴海球場で巨人対あるチームのプロ野球第1戦が行われました。そのチーム名とは?
 ① 阪神
 ② 金鯱
 ③ 青竜

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 【第49問の解答
 ①のデマでした。事件前の不穏な空気を反映したものといわれています。なお,江戸川乱歩の「怪人二十面相」が『少年倶楽部』で連載開始になったのがこの年の1月でした。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より