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梅雨空が続く学校教育 ふり返り366日【08/6/5-2】/体操ニッポンの草分け

 早くに梅雨明けした東京ですが,他の地域と同様の状態が続いているので,「梅雨戻り」宣言が出されてもよい気がします。

 さて,誕生から1世紀半を迎えようとしている学校教育ですが,一般的な「教育」の理想が,「学校教育」という制度の中で語られると,さまざまな矛盾が表れてきます。

 子どもの年齢が低く,その矛盾が表面化しにくい小学校で蓄積されたものが,その後,どのような形で問題化してくるのか,このブログでもときどきふれていました。

 教育の理想を考えれば考えるほど,「学校教育」で「教育」できることがかなり限定的であることがわかるはずです。その役割すら十分に果たせないでいる最大の原因は何でしょうか。

 「教育による成果が何であるか」がよくわかっていない子どもたち(親を見てそれが何だか「わかっている」子どももいる・・・?)に,「教育が何の役に立つか」が語れない(語る必要がないと主張している人もいます)教師が遠慮して,媚びるような教育実践を積み重ねてきたこと,「子どものため」にしてきたと信じていたことが,実は子どもをスポイルしてきたことに他ならないことは,本来「実証」したくはない「教育の失敗」なのですが,正常に近づけるためにはやむを得ないことでしょう。

08/6/5 個人の自由と教育による規制

 前の記事の解答は、①行動、②今日、③やり抜く、④思いやり、⑤会社(企業)、⑥自分、⑦捨てる・・・でした。
 今回の記事は、文月さんにブログでご説明いただいた「私はズボン強制校則は憲法違反で無効であると確信しております」という主張に対する私の意見を述べたものです。
 「自由」をめぐる問題については、かねてより中学生くらいからきちんと議論し合い、公正な判断ができるようにしてほしいと現場では考えております。「ルールだから守れ」というのは中1には言えるとしても、中2、中3には通用しません。
 中1ではまだ、「なぜこんな規則があるのか」という反発心が冷静な思考を働かせるのを邪魔してしまう時期であり、議論し出すのは中2くらいが適切だと思われます。
 このとき、「憲法が自由及び幸福追求権を定めているから」という理由で議論に参加しないようになる態度だけは否定しなければなりません。
 憲法では、「自由及び幸福追求権」を絶対的に保障すると言っているわけではなく、「公共の福祉に反しない限り、・・・最大の尊重を必要とする」としているのです。
 私なりの人権尊重という考え方は、無条件で自由が保障される、というものではなく、きちんと尊重はするが、公共の福祉に反する場合や、本人の自由意思によるものではない内容については、制限されることがある、というものです。制限はしても、尊重することには変わりはない。尊重するからこそ、制限する場合がある。そんなニュアンスです。
 リベラリズムの立場からすると、たとえば、「自由」についての標準的な合意は、佐伯啓思著「自由とは何か 『自己責任論』から『理由なき殺人』まで」(講談社現代新書)によれば、次のようなものです。

 人は、他人の干渉や強制を受けずに自分の意思である目的を追求することができる。その人なりの「善き生き方」を追求する権利である。この権利は、基本的に他人や社会に対して深刻な害を及ぼさない限り、原則的に尊重されるべきである。要するに、他人の迷惑にならない限りで、個人の選択、個人の意思は最大限に尊重されるべきだというのである。

 文月さんの主張も、この原則と同じだと考えられますがいかがでしょうか。
 学校教育の現場では、この原則に反するような規制がさまざまに加えられています。
 スカート丈の指導もその一つでしょう。
 文月さんは、憲法の原則にしたがって反対派。私は現場の立場では賛成派、推進派です。
 私などが問題としていることは、そもそも「個人の選択」というものが、果たして純粋に「個人の意思」によるものなのかどうか、「自立した意思決定」が行われているのかどうか、ということがまずあります。
 リベラリストが、「意思決定が誰によっても強制されていない、他者の介入を受けていない、という理由で自立的で自発的なものだとする」のに対し、私の考え方は、特に学校という社会の中では、子どもを取り巻く集団による影響力が強く、個人としての自立的な生き方という考えに基づく行動はほとんどなくて、さまざまな環境、社会性の中で作り出されているものである、というものです。
 ほんとうは学校が決めたAという選択肢を取りたいのだけれど、みんながBを選んでしまっているので自分だけAを選ぶことはできない。似たような事例はたくさんあります。いじめへの荷担も同様にしておこります。
 リベラリズムは、理念化された世界へ現実を押し込んで解釈しようとします。憲法のみに従った主張というのも同様です。そのために、常識などからの大きな隔たりが生じてしまいます。
 「自分(私)」にとって、「家族」と「自分(私)自身」はどちらの方が大切か。学校と自分ではどうか。仲間と自分ではどうか。こういう問いを考えると、自分(私)に自由な選択ができるとは考えにくい。
 その選択に与える悪い影響を断ち切ってしまうことが、見かけ上は個人の自由を制限しているようですが、実はその個人の幸福追求権を尊重した結果だと言えるようになるかもしれません。
 ズボンの問題も同じです。 
 さらに、教育権をもつ保護者の意向というのもあります。
 一揆の防止策という主目的をもつ刀狩を例にとると、戦国時代には、もしかしたら好きで一揆に加わっていたのではない人がいたかもしれません。しかし「一揆」は文字通り集団主義なので、加わりたくなくても加わらざるを得ない。そこに「刀狩令」が出て、武器・武具をさしだしたため、一揆に加わらなくてもよいという望ましい状態になる。
 自分はゲームをしているときが一番幸福なのだから、授業中もゲームをしていて何が悪い
 理念的にはOKになってしまいますが、現実にはゲームをさせないことがその生徒にとっては有益なことです。
 スカート丈もズボンの問題も、おそらくどこでも議論を通して決定、あるいは議論をして問題を見つめることをしていると思いますが、「憲法違反だからダメ、以上」という原理主義的な態度は、教育的でもないし、その考えでは、現実的な利害が交錯する社会を生き抜いていくのは難しいことになるだろうと考えられます。
 リベラリズムの問題は、その人がどういう生き方をしてきたか、どういう人生を送ることになるのか、ということよりも、その都度の状況で、個人が自由に選択できるという条件を確保することの方を優先することにあります。
 文月さんは反対されているそうですが、援助交際の女子中高生がその後どのような人生を送ることになるかということは、リベラリズムとは関係がないことなのです。
 教育は、「自由な選択の機会を保障する」ことには最大限の配慮をして個人の権利を尊重しながらも、規制が必要な部分については規制し、将来やその時の全体への悪影響を防ぐ役割を果たすべきだと考えています。

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昭和の家庭史トリビア?【第46問】 
 昭和10年(1935年)の話です。
 ハンガリーのブダペストで第6回国際学生競技会(今のユニバーシアード)が開かれました。ここで,日本のある大学チームが2位入賞を果たし,体操ニッポンへの道を開きました。ある大学とは?
 ① 早稲田大 
 ② 慶応大
 ③ 日体大

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 【第45問の解答
 締め出されたのは,③のショートパンツをはいた女性たちでした。理由は「良俗」に反するため。

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コメント

文月さん,コメントありがとうございます。
40代後半以降の教師は,自分たちが子どもだったころの理想を今の教育にも無理やり当てはめようとする傾向があります。
その典型が,単なる「受容」です。
そういう教師たちは,「なぜ勉強しなければいけないの」「なぜ学校に来なければいけないの」「学校でなければ本当に学べないの」と問いには決して答えられません。
というより,まともに答えようとしてしまいます。
自立していない子どもがますます自立できなくなる「支援」をし続けているわけです。
子どもが本当の意味での「自立」を体感できる,そんな教育環境づくりに関心が集まることを期待しています。

こんばんは。

>無条件で自由が保障される、というものではなく、きちんと尊重はするが、
>公共の福祉に反する場合や、本人の自由意思によるものではない内容については、制限されることがある、というものです。

>そもそも「個人の選択」というものが、果たして純粋に「個人の意思」によるものなのかどうか、
>「自立した意思決定」が行われているのかどうか、ということがまずあります。

>特に学校という社会の中では、子どもを取り巻く集団による影響力が強く、
>個人としての自立的な生き方という考えに基づく行動はほとんどなくて、さまざまな環境、
>社会性の中で作り出されているものである、というものです。

共感いたしました。
私とkurazohさんの考えは、基本的に一致していることに気づきました。
なぜ、反対派と賛成派に分かれているのかが逆に不思議です。
本来なら協力できるはずです。私たちは、条件付で自由を尊重するというのが真実だと思います。
協力していけたらと思います。

椿姫彩菜さんは、集団の影響力に負けず、独自の服装で学校に通われていたとのことです。
私も彼女と同じく、女子の制服(セーラー服とかブレザーの制服とか)にあこがれていました。
kurazohさんのおっしゃる通り、高校生の時、私の個人の自由意思は集団の影響力にかないませんでした。
私の自由意志は集団の影響力に屈しました。まわりからの差別や偏見がこわくてスカート制服を着れなかったのです。
今思えば、彩菜さんのように、集団の影響力に負けず自由意思を貫ける強い自分でありたかったです。
集団の影響力が常識となって私に襲いかかったのでした。そして私はそれに屈していました。
全く情けない自分でした。ズボン強制とかは大嫌いです。本当に大嫌いです。
といっても集団の影響力に屈して、ズボンを履いてしまっているのだけどね。

男にスカートは許さないという「集団の影響力」に屈しない強い自分でありたいという思いが、
今の私の考えにつながっているのかもしれないと思います。

公共の福祉に反せず、かつ、個人の自由意志ならkurazohさんも自由を尊重して下さいますよね。
そんなkurazohさんだから私はkurazohさんを信じ続けることができているのです。
私は公共の福祉に反せず、なおかつ個人の自由意志でスカート制服を着たかったのです。
ミニスカートもあこがれです。かわいいし。
でも当時の私は集団の影響力に負けてしまっていたのです。
私が受けたような集団の影響力に負けない強い生徒を育成していって頂けたらとてもありがたいです。
同時にその集団の影響力を弱めることも大切だと思います。
人権意識の高まりが私が受けたような悪しき集団の影響力を弱めていくことに役立つと思います。
これからもどうぞよろしくお願いします。
私たち二人の友好関係を願って。

この記事へのコメントは終了しました。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より