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教師自身が「下流志向」? ふり返り366日【08/6/4-2】

 内田樹の教育論では,教師という存在は擁護の対象になっているのですが,そこに登場している「子ども」たちと同じ感性なり学力が,今の教師自身にもかなり当てはまっていることではないか,ということに考えをめぐらせる必要があると考えています。

 「自己に外在的な目標をめざして行動するよりも,自分の興味・関心にしたがった行為のほうを望ましいとみる」のは,まさに教師のことを言っているのと同じでしょう。

 このことが教育の崩壊に結びついているのであれば,そして,そういうことを教師自身が体現しているのであれば,教師も教育の崩壊に加担していることになるでしょう。

 著書『下流志向』の第一章のタイトルは,「学びからの逃走」ですが,それを教師自身が体現してしまっているとしたら・・・・?

 「新しいタイプの日本人の出現」→「新しいタイプの教師の出現」?

 「このまま若い人たちがぞろぞろと学びから逃走し・・・日本社会の先はかなり暗いものになります」

 「勉強を嫌悪する日本の子ども」→「勉強を嫌悪する日本の教師」?

 「日本の子どもたちは勉強しなくなっている」・・・教師たちが「勉強」に費やす時間が,過去どのくらいだったのか,統計資料があれば,教師についても検証できるのでしょうが・・・

 「学力低下は自覚されない」→「教師の指導力低下は自覚されない」?

 子どもの学力が低下することによって,教師の学力低下も気付かれにくくなる?

 あるいは,教師集団の質が全体的に下がることで(私の場合は,小規模校化で「すごい指導力を持つ教師」を見ることができる教師が少なくなってしまったことが問題だと指摘していますが),自分のレベルが低いことに気付かない?

 「変化に抗う子どもたち」→「変化に抗う教師たち」?

 そんな調子で,「書き換え」が可能になるのが怖い・・・そんな印象の本です。

 一点,今後の学校づくりで参考になりそうな話があって,それは「家庭内労働の消滅」によって,子どもが「労働」することで自分の価値を発見し,「労働主体」としての自立の意味を知ることができなくなったこと・・・それが,今の子どもはいきなり「消費主体」として「社会的地位」をもった自己を確立してしまったように思い込むために,悲劇が生まれている・・・・というものです。

 小学校などで,新規採用と同時に学級担任などになってしまうと,いきなり「一国一城の主」の地位につき,その立場のままで多くのことを学ばなければならなくなります。学ばないでも,「一国一城の主」としての地位は一揆でも起こらない限り揺らぐことはありません。

 中学校の場合は,「副担任」として学校の分掌の職務,学年や学級の「事務的な仕事」・・・これを現場では雑務と呼んで自らモチベーションを下げるように仕向けていますが・・・を経験し,苦労を先輩教師にねぎらってもらいながら,徐々に教師として認められ,自分自身はさまざまな担任の長所・短所を参考に自分の経営計画が立てられるようになっていく,というのが理想的なのですが,学校の小規模化はそういう機会を減らし,「学ぶ題材の範囲と質」を低下させる原因になってしまっています。

 学校は「即戦力」を求めていると言うかもしれませんが,現場はそう簡単なものではありません。

 日経BP社から出された『藤田晋の仕事学―自己成長を促す77の新セオリー』を手に取ったとき,買ってもいいかなと思ったのは,第1章の一番最初に,「怒鳴られた時こそ前進しよう」というセオリー?が紹介されていたからです。

 厳しい競争社会には生きていない教師たちが,藤田晋の言うセオリーに耐えられるかどうか,生かせるものがあるかどうか,少し考えてみたいと思います。

08/6/4 教師を蝕むリバタリア二ズム

 市場原理主義と親和性が高いリバタリア二ズムは、中学生の生き方観に強く忍び寄っています。
 自分は好きに生きたいのだから、あれやこれやと他人が干渉しないでほしい
 ほっといてくれ!がリバタリア二ズムのモットーの基本とされています。

 人に迷惑がかからないなら何でもできる。
 自分が努力した結果はすべて自分のものである
 「貧しい人」に同情するのは個人の勝手だが、国家がその人々を救う義務はない。
 弱者救済のために自分から税を取るのはおかしい
 善意のある人が個人的に救ってくれればよい。
 ・・・
 リバタリア二ズムが教育の世界にも広がると、以下のようなことになります。

 親が自分たちの子どもに対する教育の権限をもつのは当然。
 親は、自分の子どもにふさわしいと思う学校を選ぶか、自宅で親自身か家庭教師が子どもを教育することもできる。それは自由である。
 そのためには、多様な私立学校がなければならない。
 公立学校の価値は疑問。なぜなら、公立学校は、親の信念を無視して、集団主義や多数派の思想を子どもに押しつける場である。
 また、公立学校はだれもが入れる学校だから、平等主義的傾向が強く、その結果、要求される学力水準は必然的に低下する。
 ・・・・
 リバタリアンの親がぶつかる壁は、リバタリア二ズムの考え方が個人の自由を重視する以上、子どもは親の所有物ではなくて別の人格であり、親と子の意思や意見の相違・対立は避けられないことにあります。
 このような考え方の広がりが、学校を苦しめていると思われる方が多いでしょうが、ふと気付くと、教師自身は本当にリバタリアンではないのか、その点をしっかり問わないといけません。
 教育の世界の問題は、一見すると制度とか社会環境によるものと考えられるかもしれませんが、実は教師自身が作り上げているものなのかもしれないことを、心にとめて仕事に臨みたいものです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第四巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より