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気付いてほしい教師の「役」意識 ふり返り366日【08/6/28-1】/昭和14年のブーム

 職場の親の姿を見ることは,なかなか難しいのですが,親が地域でも何かの「ヤク」=「」(たとえば自治会長とかPTA役員とか)についていれば,その「」の責任を果たすときの態度というのを目にすることができます。
 しかし,そういう機会もやはり,なかなか持てない。

 どうしても限られた子どもだけということになります。
 
 子どもにも,「選ばれる」役というものを経験してほしいのですが,多くの場合は自分で「選ぶ」役でありたがる。
 
 「選ぶ」責任も軽いわけではありませんが,「選ばれてついた」役の責任と比べると,大きな違いがあります。

 すべての子どもが同じように感じ取るチャンスがある身近な大人の「役」意識は,どう考えても教師のそれしかありません。
 教師が示す「役」意識のバリエーションが,そのまま子どもの「役」感覚の涵養に役立ちます。

 なぜA先生は,○○のときと△△のときでは,態度に違いがあるのだろう・・・こういうことに思考が向くような子どもを育てておかないと,教師は「恨まれるばかり」の存在になってしまいます。

 ・・・こういう話は,なかなか教員研修では聞かないものだと思いますが・・・・。

08/6/28 「役」意識を喪失し始めた日本人(序)

 学校で発生する事件や事故は、ネグレクト系、虐待系の親が多いから増えている、という単純なものではないようです。
 確かにそういう親は増えているかもしれませんが、そういう親の子どもでも、学校生活だけはしっかりできている場合があります。
 それは、教師集団の力というものもあるかもしれませんが、子ども集団というものが、「いじめ」にも向かえるような強いエネルギーを「良い面」にも発揮できる力をもっているからだと考えられます。
 行事のときの子どもの姿を見ればよくわかります。

 指導力のない教師より、よほど子どもは自分が認めた子どもの言うことをよく聞きます
 ですから、教師は子ども集団に適切なはたらきかけをして、よきリーダーを育てることを大切にしてほしいものです。私も、近く学校で「リーダー講習会」を企画します(クラブの責任者は必修、その他の生徒も参加自由)。
 親の話に戻れば、本当にしっかり子どもをしつけている親でも、必ず反抗期の洗礼を受けるものです。「うちの子に限って・・・」なんていう話は、ドラマに限らず現実でもいまだによく聞きます。
 子どもとはそういうものだと捉えることが第一歩です。
 だから、家庭では親が、学校では教師が、地域では地域の人々が、子どもにあたたかい目を向けてあげていてほしいのです。
 学校でおこった問題を、「親が・・・だから」という話でしめくくるのだけはやめてほしいと思います。
 息子の学校近くの自治会で「挨拶運動」を毎朝してくださっている方々には、本当に頭が下がります。
 そして、学校に入ったら挨拶をしない・・・なんてことは本当に悲しくて見ていられません。

*********************
昭和14年(1939年)のブーム・流行・広まり
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○制服・制帽などを卒業生から新入生へ贈る運動が広まる。
○「日の丸弁当」が登場し,あっという間に全国に広まる。
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より