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よき伝統と悪しき因襲 ふり返り366日【08/6/25】/第71問

 私の恩師は,小学校の教師が最高水準の給料で,中・高・大学にいくほど基本給は低くてよい,そのような主張をお持ちのようでした。

 もし個人単位で教科も含めた教育書を買うとすると,扱っている教科が多いので,ばく大なお金が必要そうですね。ただ,小学校の場合は本の売れ行きは中学校等に比べると良いようで,役に立つかどうかは別として,それだけ「勉強する気がある」教師か,「マニュアル本を読まなければ分からない」教師が多いということです。

 教師は基本的に,「どう教えるか」を教わったことが土台になっているわけではなく,「どう教わったか」が土台になっているので,よい伝統なら受け継ぎ,悪しき因襲なら打破していく,そういう見きわめが教師になってからは重要になってきます。

 最大の問題は,その見きわめの基準が目の前の子どもではなく,「売れている本」とか「名人の言うこと」になってしまうことです。「よい伝統」と言われていることが実は「悪しき因襲」で,「悪しき因襲」が本当は「よき伝統」だったことに気付いている部分が実際にあるかもしれません。

 昔から,「きれいな板書」が最も気がかりです。

 情報量が非常に限られているからです。
 単純に,子どもが視聴している1時間番組と,1時間の授業で扱われる情報量がどのくらい違うか,比較してみるとわかります。

 もちろん,授業では子どもの思考の過程やその結果のアウトプットの量が重要になってくるわけですが,きれいな板書を写している時間が,アウトプットを行う時間を制限していきます。

 「きれいな板書」を子どもがきれいに写しても,書写の時間を除いては,学力が向上しないことは経験的によく分かっていることでしょう。

 50分の中で,個別のアウトプットだけでなく,インプットされる情報量について分析した研究はないものでしょうか。

08/6/25 小学校教師の専門性が高まらない理由

 Psycheさん、まずろさん、コメントありがとうございます。
 どこかでどなたかが指摘されていたかもしれませんが、教師は非常に「打たれ弱く」なってきています。
 「目の敵にされている」意識をもっているだけならまだ大丈夫ですが、実際に批判・追及されるとそれから逃れようと必死になり、関係のないことで紛らわせるような行動にでる。
 よく小学校の教師の授業力が向上しない原因として、授業で失敗しても、それを挽回する(授業のやり直しやフォローができる教師もいますが)チャンスは次に新しい学年をもったときまではやって来ないことがあげられます。
 そして、次の授業の準備に追われているので、その失敗の分析・反省もままならないうちにもう次の失敗を犯している。
 教科担任制を導入している小学校では、次のような効果が期待できます。
 中学校なら、4クラスの教科担任なら、最低でも4回は同じ単元の授業が繰り返せる。
 中には「4回同じことができてうらやましい」と思う小学校教師がいるかもしれませんが、中学校の授業はクラスごとに本当に独立したものになっています。板書や説明の内容は同じでも、生徒の反応はクラスによって全く違う。発言する子どもが違うのは当然ですが、AというクラスでのBというはたらきかけでCがでても、Dというクラスで同じことになるとは限らない。常に新しい何かが発見できるのです。
 短期間で、指導の改善が実施できます。だから専門性も向上させやすい。
 最も効くのが、授業の批判をしてもらうことです。(しかし、批判に耐えうるバックグラウンドや精神的な強さが・・・)
 小学校の場合は、「次の単元は何とか成功させよう」と考えているうちに目の前の授業を失敗する。
 そのときは覚えていた改善の方法も、何年かたってまたその単元を教えるときにはもう忘れている。
 「教育失敗学」では、「えっ、そんなことも失敗に入るの?」というレベルの話をしていますから、教師には厳しい内容になっていますが、授業での本当の成功を味わう難しさは、中学校の教師ならだれでもわかるはずです。
 短いスパンでの業務改善システム、授業力改善システムを実行できる学校でありたいものです。
 超短期、短期、中期、長期、超長期とスパンを分け、何をどう改善できるかを明らかにすることが学校のつとめです。
 そのためには、評価規準、評価者が必要
 究極的には子どもが評価者であり、被評価者です。
 子どもを見れば、その学校の教育がわかる。
 「親の質が・・・だから、仕方がないですよ」なんて陰で慰め合っている教師が多い学校には子どもを通わせたくないですよね。
 子どものとった行動と、教師が行った指導をしっかり結びつけて記録し、一人あたりどのくらいの量、「言ったけど子どもはやらなかった」「教えたけど子どもは理解していない」ことがあるか、考えてみてほしいものです。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第71問】 
 昭和14年(1939年)の話です。
 静岡県が農山村の小学校にウサギの飼育を奨励しましたが,その理由とは?
 ① 食糧自給のため
 ② 動物愛護精神を高めるため
 ③ 輸出による外貨獲得のため

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 【第70問の解答
 ①の「全員丸刈りにすること」でした。②は大蔵省,③は文部省が中等学校の制服について申し渡したこと。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第三巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
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    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
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    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
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    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より