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口より頭を動かす学習 ふり返り366日【08/6/19-3】/昭和12年のキキン

 「主体的な学習態度」というものへの誤解がなかなか解けません。

 授業で教師が多くの「質問」を子どもに投げかけ,ほとんどの子どもが分かる(=聞く必要もない程度の)質問なので,多くの子どもが「発言の独占権の許可」を得たくて手を挙げる。

 教師は,「発言の独占権」をできるだけ分散させようとする(いくら分散させても,一度に一人しか発言できないのは,独占状態を認めているということです)。

 授業が終わった後,「みんな活発に発言していましたね」「生き生きとしていましたね」・・・そういう「表面的」な部分にばかり目がいってしまって,肝心なこと・・・目標はどのくらい実現できたのか,その目標は適切だったのか・・・などについては手がかりになることがあまりに少ない・・・そういうことがあります。

 何か「書かれたもの」をもとに分析しようにも,子どもはノートをとっていない,参観者で詳細のメモをとっている人がいない・・・・そんな状況では,「印象」で語るばかり。

 そして,何を勘違いされているのか,本当に子どもは「主体的に学習する態度が身に付いていますね」などという感想がアンケートに書かれることもある・・・「主体的に」???

 教師がバンバン質問して,それに子どもたちがはりきって答えている「受身の学習」「質問対応型学習」の光景が,「主体的な学習」に見えてしまうのはなぜか・・・・?

 「主体的な学習」は,前に挙げた言葉の反対語から示せば,「能動的な学習」「質問創造型学習」になるはずです。

 グループ学習は別として,こういう「主体的な学習」には,40人が無言でしっかり思考している,テストのときのような空気も必要なのでは?・・・そして,ノートにまとまった文章を書いた上で,グループで読み合うとか,めぼしい子どもの作品をいくつか読んで,論争になりそうな題材がある子どもの作品を全員の前で読ませてそれをもとに考えるとか,そういう時間があってもよいのでは?と思うのですが,実は,これをやってしまうと,実力格差が如実に表れてしまうのでしょう。そういう「結果」がはっきり表れるものを,小学校の教師は嫌うのではないでしょうか?

 それをなくすためには,だれでも100点が取れてしまいそうな,業者の簡単な確認テストをやめることです。

 (・・・あのテストのために,100点を取れなかったときにどれだけ家で叱られたか・・・それは別の話です)

 教師の質問→間髪をおかず子どもがハイハイハイと手を挙げる「条件反射」・・・そういう問題を出すのを抑えて,もっと「考えさせる」ことを・・・。

 そういう「研究」をやっていた小学校はあったのですが,次の年はまた「基礎学力」がテーマ・・・?

 校内研究も,6年間という長いスパンで(1年入学当初から卒業まで,データを取り続けて検証するために)研究できる土壌はつくれないものでしょうか。 

08/6/19 小学校の授業参観で常に感じる疑問  以前にも書いたかもしれませんが、小学校の授業参観でいつも気になるのは、たいしたことのない質問をして、すぐ何かと手を挙げて発言させたがる教師が多いことです。  なぜ、じっくり考えたことをノートに書かせるような活動が小学校で定着しないのでしょうか。  その原因は、基礎・基本の「習得」場面で「活用させることで習得を促す」機会が少ないことが問題なのでしょう。  そして、「主体的な活動」というのを、「ただ子どもが手足を動かしていること」と誤解している教師が多いからでしょう。  じっくり教師の話を聞きながら、自分の頭の中で類似の題材を考え、整理し、ノートに書いて表現する、これも派手な動きはなくても非常に活発な「主体的な学習活動」と言えます。  中学校も似たようなものかもしれませんが、思考が柔軟な小学生への教育が変われば、PISAの結果などにはすぐに反映されると思います。いかがでしょうか。

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昭和の家庭史トリビア?【第65問】 
 昭和12年(1937年)の話です。
 この年に起こった「飢饉」とは何「キキン」?
 ① 白米キキン
 ② 旗キキン
 ③ 鉄キキン

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 【第64問の解答
 ③の水原茂。「打撃の神様」とよばれるようになった川上哲治はこの年まだ17歳。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より