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「反抗」の口実としての「自由」 ふり返り366日【08/6/19-2】/後楽園球場初ホームラン

 「自由」に関する議論の中で,私が繰り返し述べていたことは,他者に制御されていることに気付かず,自分の意思のつもりで自由」を求めているケースが多い,ということでした。

 他者からのプレッシャーであることは気付いていても,「自由」を求めようとする行動の目的は,「自由」そのものではなくて「反抗すること」の方にある,そういう解釈もできます。

 「反抗すること」が目的だから,一つの「自由」要求が叶ってしまうと,直ちに次の要求を探さなければならない・・・どんどん要求がエスカレートしていく・・・本当に荒れた学校に勤めていた教師なら,その悪循環を経験しているはずです。

 子どもたちは「自由」を求めたがっているのではなく,「反抗」によって相手の「困惑」を目の当たりにすることを求めている・・・。
 それを,子どもたちには「自由」というものの価値のすばらしさを味わわせてあげたい・・・というわけのわからない理屈で放置していた教師たちの「誤解」は,物が盗まれ,壊され,人が傷つけられてもなかなか解消しませんでした。「革命運動」か何かと勘違いしていたのでしょうか?困り果てる管理職をあざ笑っていたのは,子どもたちだけではなかったのかもしれません。

 こういうタイプの荒れの解消は簡単な話で,「反抗」=不可能,「自由」の主張=可能という図式を分からせることで十分でした。

 なぜ学校が荒れる(荒れた)のか,それがどの程度までの話なのか,なぜ食い止めることができない(できなかった)のか,理由はまだまだたくさんあるのでしょうが,こういうことと無縁な世界で生きてきた教師も多いようで,非常にうらやましい限りです。

08/6/19 「自由」を追求する論理  退職校長先生のブログの中で、「就職した企業の制服のスカート丈を短くして勤務した女性と、その女性に頼まれて丈をつめた母親」の話が紹介されていました。  これも「幸福追求権」の行き着く先でしょうか。  企業の経営者が、「学校の制服のスカート丈が自由だから、こんなことになる。何とかしてくれ」という要望をしたということですが、この件で、「学校」や「企業」という社会的な場が、個人の欲望を消費する空間に取り込まれている様子がはっきりとわかりました。  私自身の考えでは、スカート丈を極端にいじった場合は、その服は制服ではなく私服であると判断できます。  「他の人よりかわいく見られたい」という欲望や衝動が強い子どもはどこにでも必ずいますから、「規制」「制限」「制度」「制御」の「制」がつく「制服」を少しでも大きくはずしにかかり、自己をアピールをします。  昔からそういうことをしないと客がつかない職業がありましたから、市場原理から言っても決して不自然な行動ではありません。  ただ、「社会通念」「常識」から逸脱し出す子どもが出てくるのは自然な現象だからと言って、ただ指をくわえて見ているしかできない大人や教師は、「常識」重視の世界で生きている子どもの目から見ると軽蔑の対象になるでしょう。  学校で「自由」を満喫した子どもたちは、社会人になってもその「自由」は絶対的なものになってしまうのでしょうか。  学校では何を教えればいいのでしょう。  スカート丈を短くしすぎるな、というのは指導として当然の行為ですが、学校が教えるべきことは、その行為の目的や意味、意義に関する課題意識です。  目的と手段・条件の混同が、教育の世界でもさまざまな場面にあふれていることが、ブログを読んでいるうちによくわかってきました。  リベラリズムは、自由そのものに価値をおいてしまっているために、現実社会の具体的状況や社会通念から乖離してしまいがちなのです。  自由そのものに価値があるのではなく、その自由によって意義のある何をなすのか、それこそが重要なのです。 「意義のあるどんなこと」を追求しない「自由」は、目的についての意味を失わせ、人間から社会観や世界観を奪っていくのです。  公立学校が特に、このような問題に蝕まれていることを、論理的に説明できている人はいるのでしょうか。

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昭和の家庭史トリビア?【第64問】 
 昭和12年(1937年)の話です。
 後楽園球場が開場した日のプロ野球オールスター記念試合で,初回に後楽園初のホームランを打ったバッターは?
 ① 川上哲治
 ② 三原 脩
 ③ 水原 茂

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ブログランキング 歴史

 【第63問の解答
 ③のミッキーマウス・トレインでした。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より