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心構えができないのに体構えだけできている生徒の問題 ふり返り366日【08/6/11-1】/ヒマラヤ初登頂

 世間一般では,「体構え」ができていなければ(平たく言えば,だらしないかっこう・ろくでもないかっこうでいれば),「ろくな心構えもできていないだろう」と考えられているでしょう。

 電車内の出入り口に集団で座って,乗客に迷惑をかけている女子高生を蹴ったために,逮捕されてしまった人への同情が紹介されている記事がありましたが,目を覆いたくなるような学生の服装・姿勢・態度に不満を抱いている人は少なくないのではないでしょうか。

 不満解消は,現実世界ではなかなか難しいので,フィクションの世界で果たされることになります。

 たとえば,学園ものドラマの定番は,生徒の「体構えができていない」=「心構えができていない」ところから出発して,何かをきっかけに「心構えができてきて」→「体構えもできる」ようになっておしまい,という流れをたどります。
 最終回は,「立派になったように見える」・・・極めつけは,次のシリーズで教師になって帰ってくる・・・そんな設定になっています。

 ただ,教育現場で実際に起こっている問題は,そんな単純なケースだけではありません。

 指導をしていて悲しくなってくるのは,「心構えができていないのに,それが気付かれないように体構えだけつくる」生徒が増えていることです。

 外見的には問題がなさそうでも,時間をおって,「だらしない」ことがどんどん露呈してきます。

 そういうタイプの子どもの「体構え」は,基本的に「指示待ち」の姿勢であり,ロボットと一緒です。指示が出なければ,「だれかがやってくれるだろうと思って何もしない」=結局,だれも何もしない・・・・ということになります。
 
 「反抗的で悪い人間だとは思われないようにしよう」という程度の「心構え」しかないのです。

 このような生徒は,もともと「体構えができていない」生徒とは違って,劇的に変化する,ということはありえません。じわじわと指導を浸透させていくしかないのです。

 本当の学校現場というのは,ドラマなどにはできない,とても地味な職場と言うこともできるでしょう。

08/6/11 「体構え」が指導できる学校  「心構え」ではなく「体構え」という言葉は耳慣れないかもしれませんが、指導には形から入るものが多いことはよく知られています。  たとえばその第一歩は制服の着用です。  しかし、見た目が同じユニフォームほど、人と違うことをし出すと目立つものはありません。  一部の教師は指導することに対して嫌悪感を持っていることかもしれませんが、服装等に見られる「だらしなさ」に対しては、指導を行うべきだというのが一般的な考え方でしょう。  「だらしない」服装をするのも生徒の「幸福追求権」「自己決定権」に含まれるのであって、それに対する指導は人権侵害である、という主張に賛同する人は少ないでしょう。  しかし、荒れている学校では、指導するにしても、本当にきりがありません。  ほとんどの女子生徒がミニスカート。男性生徒はシャツを出している。  かかとを踏んで、いつ洗ったのかわからないほどぼろぼろの靴を履いている。  ある一定の数を超えると、きちんとしていることが「おまえ、おかしいぞ」という批判の目にさらされるようになり、まじめに生きていくことが困難になります。

 すべては、初期指導にかかっていると言えます。
 一度見逃せば、後からきちんとさせるのはたいへんな苦労が必要になります。
 だから、学校改革には最低でも3年はかかると言われています。
 入学した1年生が3年生になるまで、何とか「体構え」のできる生徒を維持できれば、学校は立ち直ります。
 途中でどこかの学年がくじければ、振り出しに戻ります
 もちろん一番難しいのは、3学年がだらしないまま生き残っているときのまじめな2学年です。
 どんな3学年でも、さすがに進路が近づけば、「心構え」を変えようとしますが、「体構え」ができていないとそれは実現できません

 これは、子どもにとって、不幸なことです。
 なぜなら、「心構え」の指導などは誰にでもできるものではないですが、「体構え」の指導は、だれにでもできることだからです。
 指導できない教師が多い学校では、生徒はその多数派教師に「承認された」ものと判断し、それを正当性の根拠にして指導を行う教師に立ち向かってきます。
 現場に一年でも立っていれば誰でもわかることなのですが、「体構え」ができれば自然と「心構え」も育ってきます。スーパーの朝礼で行っている挨拶練習など、大人社会でも「体構え」を第一歩にしているところは多いのではないでしょうか。
 教師社会は、電話の出方ですら問題視されることがあります。雑誌の特集で、「危ない塾の見分け方」というのがありましたが、ほとんどが学校にもあてはまるものでした。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第55問】 
 昭和11年(1936年)の話です。
 この年,日本初のヒマラヤ登頂を果たしたのは,どの大学の登山隊だったでしょうか。
 ① 立教大学
 ② 明治大学
 ③ 京都大学

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 【第54問の解答
 ①の36回でした。

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コメント

やりたいことをやりたいようにやることのメリットは,「自由」が保障されていることへの安心感とそのときの欲求が充足される満足感が得られることでしょう。しかし,それがイコール勉強しないこと(しなかったこと)のデメリットとなることに気付くのは,後になってからの話ではないですか?
「将来,後悔しない」という前提を優先するのか,「将来,後悔することになるかもしれない」という前提を優先するのかの違いではないでしょうか?
日本は,どんなに好き勝手やっていても,「将来,その人間が後悔しないようにしてあげる」福祉の国になってしまうのでしょうか?

こんばんは。
>勉強しないことのデメリットより,自分のやりたいことをやりたいようにやることのメリットの方が優先されるのでは・・・?子どもも大人も・・・。

どちらを先に伝えるのかは親や教師の自由でしょうね。
私はセットでしっかりと子どもに伝えていきたいと思います。
kurazohさんはお子様にどのように伝えられますかね?

>子どもに勉強しないことのデメリットと勉強することのメリットを丁寧に教えてあげれば、自発的に勉強する・・・・

勉強しないことのデメリットより,自分のやりたいことをやりたいようにやることのメリットの方が優先されるのでは・・・?子どもも大人も・・・。

こんにちは。
>子どもばかりでなく保護者も同意しそうな勢いの家庭もありますから,現場としては恐ろしいことです。

お褒めの言葉ありがとうございます。
現場の教師の方に恐れられるとは、私も出世したものです(笑)
私は、子どもの人権を守っていくためには、
保護者は教師に恐れられるべきだと思っています。

>何歳くらいから叶えさせてあげるべきなのでしょうか。
基本は年齢には関係ないと思います。あえていえば、高校生では完全に保障すべきだと思います。
私は、子どもに勉強しないことのデメリットと勉強することのメリットを丁寧に教えてあげれば、
自発的に勉強すると思います。ですから、私の子にはそうした指導をしていきたいです。
子どもと一緒に勉強を楽しむ感覚で、私も子どもと一緒に勉強していきたいですね。

>あるブログの管理者
どなたか気になりますね・・。

>どんなに厳しい練習でも勉強でも,振り返ったときに「もしもあれがなければ今の自分はいない」
と思われるものではないでしょうか。

それはその通りですが、「もしもあれがなければ、今よりも、より良い自分になっていただろう。」
と思うこともその通りだと思います。私はどちらかと言えば、後者の立場です。
kurazohさんは正しく、私も正しい。そう思います。

>「他人に迷惑をかけなければ」というときの「他人」には,
>今の自分ではなく,未来の自分という「他人」は含まれないものでしょうか?

私の考えでは含まれませんが。
kurazohさんのお考えには含まれるのですか?もしそうなら恐ろしいです。
含まないで下さいね。

kurazohさんは、私と、ときに考えがちがうことがあるのに楽しく交流できる不思議なお方ですね。
どこか私と似ている部分があるのかな。
これからもよろしくです。

つづいてコメントありがとうございます。
文月さんの要望については,子どもばかりでなく保護者も同意しそうな勢いの家庭もありますから,現場としては恐ろしいことです。
ただ,今のところは,
>勉強をしたければすればいいし、したくなければしなくてもいい
・・・そういうことが言える親の子どもは,たいてい何も言われなくても勉強をするか,授業だけで十分いい成績がとれる子どもですね。
さて,そのような子どもの「要望」は,何歳くらいから叶えさせてあげるべきなのでしょうか。
その「要望」を受け入れるということは,「後は自己責任で!」と宣言することに他ならないことですね。
あるブログの管理者などは,手をたたいて喜ぶことでしょう。「勉強できないのは本人の責任だ」と堂々と言える教師にとっては,全部が子どもの責任になればうれしくて仕方がないでしょうね。
・・・しかし,どんなに厳しい練習でも勉強でも,振り返ったときに「もしもあれがなければ今の自分はいない」と思われるものではないでしょうか。
・・・それとも,「あそこにいた意味は全くなかった」というのが主流の国になってしまったのでしょうか。
「他人に迷惑をかけなければ」というときの「他人」には,今の自分ではなく,未来の自分という「他人」は含まれないものでしょうか?

こんばんは。
私は、勉強が嫌いな人は無理に勉強をする必要はないと思っています。
勉強をしたければすればいいし、したくなければしなくてもいいと思います。
体育、音楽、美術等も同じく。 kurazohさんはどうですか?
例えば、国語の時間に他の勉強がしたければ、ご自由にどうぞ。といいます。
某プロ野球選手のように、苦手はそっちのけで、得意なことに熱心に打ち込むことによって活躍できる人もいますし。
他の人に迷惑をかけなければ、自由にしてもらって問題ないと思います。
国語の時間に本を読んでいてもらってもいいです。
マンガ家を目指す人はマンガを読んだり、絵を描いてもらってもいいです。
他の人の迷惑にならなければ、内職OKです!私語は厳禁です!!
ゲームに関しては、音がする場合には他の人の迷惑になりますので、
その場合は、禁止にしても問題ないと思います。
寝ている人もいますが、いびきをかくなど、他の人の迷惑になる場合を除けば問題ないでしょう。
うつ病や寝不足などで、体調が悪くても授業に出て講義を聴いていたいという人は、
机に頭を伏せて、聴いていてくれてもいいです。
授業に出てくれるだけでもとてもありがたいと思います。
私が教師なら、いつも生徒に感謝の気持ちを忘れない教師でありたいですね。

文月さん,いつもコメントありがとうございます。
「指導」というのは,相手がその通りやりたくない,と思った時点で何でも「強制」になってしまいます。
「学習指導」でも,「今は国語じゃなくて算数をやりたい」「今は算数よりゲームで遊びたい」と思われれば,「学習指導」ではなくて「学習強制」です。
将来的には,「学校」という制度や仕組みの変化が起こりそうですが,今のように「勉強が好き」な子どもも「勉強が嫌い」な子どももいるのに「格差は認めない」「みんな同じように力をつけさせよう」という理念が支配的なうちは,強制とみられる指導が氾濫してしまうのは仕方がないような気がします。

こんばんは。
>「だらしない」服装をするのも生徒の「幸福追求権」「自己決定権」に含まれるのであって、
>それに対する指導は人権侵害である、という主張に賛同する人

それ私です。生徒が法令に違反せず、他の人に迷惑をかけていないにもかかわらず、
服装に対して、教師が強制指導するのは、人権侵害だと思います。
それから、「だらしない」というのは、見る人の主観だと思うのですね。
ある人は、ミニスカートをだらしないと思うだろうし、
ある人は、ミニスカートをかわいいと思うでしょう。
私は後者です。kurazohさんは前者かな・・。
kurazohさんは自分の彼女がミニスカートだといやですか?
自分ごのみの服装を彼女にさせるほうなのでしょうか。
ぜひ、彼女さんの意見も尊重してあげてくださいね。
またスカートの下にズボンをはくこともだらしないという人もいれば、
ファッションの一つとして認める人もいます。
私は、ファッションのひとつであるし、認める必要があると思っています。
寒い冬は特に重宝です。私の中高時代は、女子はスカートの下にブルマをはいていましたよ。
男子もズボンの下に半ズボン(運動用の半ズボン)をはいていましたよ。
生徒が学生服を少しくらい変えようが特に問題はないのですから、認めてあげてくださいね。
私服登校もOKです!

生徒が幸せならそれでいいと思いませんか?
生徒を自由に、幸せにしてあげてください。生徒は教師の奴隷じゃないと思うのです。
学校は軍隊でもありませんし。
法令違反をしているわけでも、他の人に迷惑をかけているわけでもないのですから。
生徒の自由意志の場合、頭髪・服装の自由等は保障される必要があると思っています。
生徒の人権を尊重してあげられるやさしいkurazohさんでいてくださいね。
いい人でいられれば、生徒だけでなくご自身ももっと幸せになれますよ。
私は生徒の人権擁護のためにがんばります!!
私と一緒に良いことを推進して幸せになりましょう!!

この先、時代がさらに流れて、学校のクラブ活動で、「男の娘クラブ」とかできたら、
kurazohさんが顧問の先生になって、かわいいミニスカート女装男子のプロデュースをなさると、
考え方もさらに柔軟な発想になられるのではと思います。そんな自由な時代がきてほしいですね。
そのときは、私、入部いたします(笑)学生の頃、かわいい男の娘になりたかったです。今もだけど。
kurazohさんが、昔やっていた生徒指導は何だったのだろう?
とおっしゃる日がくることを心から期待しています。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「侠骨記」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
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    「中国古典の言行録」より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より