ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 集団の活動効率の低下 ふり返り366日【08/6/9-2】/白バイの前身は? | トップページ | 指導技術は子どもにも伝えるもの ふり返り366日【08/6/10-2】/前畑ガンバレ »

学校教育の換気機能 ふり返り366日【08/6/10-1】/五輪初の聖火リレー

 学校教育の現場というところは,基本的には「新しいものを創造していく」世界というよりも,「今までにやってきたことを間違いのないように繰り返す」世界というイメージが,教師の側にも子どもや保護者の側にも強いものだと思われます。

 これが,荒れた学校だと,「新しい秩序の創造」がテーマになって活性化が期待できるのですが,そこそこ安定した環境だと,「去年はこうだから」「例年こうだから」などという理由で,新しいアイデアはボツにされてしまうことが多いものです。
 
 しかし,何のために「異動」があるかを考えたとき,積極的・能動的な利点は,「よりよい教育実践への進歩が期待できる」ことにあるわけで,「前の人と同じようにやること」だけが大事なら,そもそも異動の必要はなくなってしまうわけです。

 転勤を経験されない会社員の家庭の方など,一般の方には,なぜ公立の教師たちには異動があるのか,不思議に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが,これは,毎年同じ時期に出される「異動希望」の集計表なんかを見れば一瞬にして理解されてしまうでしょう。

 こういう数字を見せられるだけで,公立学校というのはなかなか難しい(この程度の表現に抑えておきますが)ところだというのがよくわかります。

 それでも「信頼される学校」を目指すためには,「何か新しいこと」が実現できそうな,そんな期待感を子どもだけでなく教師も抱けるような環境にするべきでしょう。

 毎年の学校評価を見返してみれば,変えるべきことはいくらでもあるわけですから。 

 とりあえず一年間は,「新戦力」に活躍の場を持たせてみる,そんな余裕が学校にはほしいところです。

08/6/10 日本の教師式「チームワーク」の落とし穴  梅田望夫著「ウェブ時代 5つの定理」(文藝春秋)に紹介された「第2定理」は「チーム力」です。  人事考課制度に反対している人が、「競争によって人間関係が悪くなること」をデメリットとしてあげていますが、そういう教師たちの資質に関連することが、著書の中では次のように述べられています。  
いいチームとは何か。どうすれば最高の仕事を成し遂げる最高のチームができるか。そういったことを順に考えていきたいと思います。  日本の場合、「チームワーク」という概念に、「優秀な個」という前提が自動的にはビルトインされていないところが落とし穴だと思います。「チームワーク」といえば、「メンバーの痛みを理解できる」「困っている他のメンバーを助けてやる」といった相互扶助の概念と紙一重になります。ややもするとそれは、日本人特有の「群れたがり」「つるみたがり」への指向性とも重なってしまう。
 中学校や高校の教師の場合は、「異分野のその道のプロ」であるわけですが、教師集団が相乗効果をたたき出す「プロフェッショナルチーム」になれるかどうかは、一つには本物のプロであるかどうか、もう一つは、「相乗効果」を出すためのノウハウがあるかどうかにかかっています。  教師に「プロ意識」をもたせ、「優秀な個」による教育実践ができることを目標とした研究会等がたくさんありますが、現場では、「生活指導のプロ」とか、「教科指導のプロ」といった分類がされることがあり、これが成果が上がらない原因になっていることに気付かない人が多い。  ~の仕事は~さんのもの、と割り切ってしまうと、~さんがいないときに混乱して収拾がつかなくなってしまうおそれがある。  ビジョナリー(*)の考える「チーム力」と、多くの教師が望んでいる「チーム力」のギャップについては、単純な比較をすることは難しいかもしれませんが、ビジョナリーが失敗と捉えている問題の中から、学べる点があるかどうかを検討してみたいと思います。  ビジョナリー(*)・・・テクノロジー業界の最先端を走る起業家や投資家、「普通の人」よりも何歩も先をゆく天才的技術者、日々の濃密な体験から世界を俯瞰して眺めている企業経営者、複数の専門性を極めた大学教授といった人たちの中で、とりわけ言語表現能力が高い人々のこと。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第53問】 
 昭和11年(1936年)の話です。
 この年のオリンピックから,聖火リレーが始まりました。開催地はどこ?
 ① ロサンゼルス
 ② ベルリン
 ③ アテネ

*******************
ブログランキング 歴史
にほんブログ村 歴史ブログ 近代・現代史(日本史)へ

 【第52問の解答
 ②の赤バイでした。

« 集団の活動効率の低下 ふり返り366日【08/6/9-2】/白バイの前身は? | トップページ | 指導技術は子どもにも伝えるもの ふり返り366日【08/6/10-2】/前畑ガンバレ »

教育」カテゴリの記事

昭和の家庭史」カテゴリの記事

歴史学習」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92794/45820170

この記事へのトラックバック一覧です: 学校教育の換気機能 ふり返り366日【08/6/10-1】/五輪初の聖火リレー:

« 集団の活動効率の低下 ふり返り366日【08/6/9-2】/白バイの前身は? | トップページ | 指導技術は子どもにも伝えるもの ふり返り366日【08/6/10-2】/前畑ガンバレ »

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より