ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 学校教育の換気機能 ふり返り366日【08/6/10-1】/五輪初の聖火リレー | トップページ | 心構えができないのに体構えだけできている生徒の問題 ふり返り366日【08/6/11-1】/ヒマラヤ初登頂 »

指導技術は子どもにも伝えるもの ふり返り366日【08/6/10-2】/前畑ガンバレ

 分かりやすい授業を展開するために必要な教師の能力について考えるときに,どうしても忘れてはいけないことは,教師というのは「自分ができる」ことがゴールではなく,そういう能力を子どもに身に付けさせるのが仕事であるということです。

 スポーツの監督やコーチの中にも,ときどき自分はプレーヤーとしてはほとんど注目されることはなかったが,指導者としてはピカイチであるという人もいるかもしれませんが,やはり「監督やコーチはできた」「実績がある」ことは,プレーヤーとしては安心できる材料になるでしょう。

 教師には,そのように子どもを「安心」させる指導力を発揮することが求められているのであり,ゴールを誤解しないように・・・能力開発型の業績評価制度の落とし穴にはまらないように・・・留意しておくことが大切です。

 実際の指導では,能力が高い子どもは技を自ら盗んでいきますが,教えてあげなければできない子どもがほとんどでしょう。

 「なぜ(何のために)このような教え方(学び方)をしているのか」を理解させることも,授業開きなどでは重要でしょう。

08/6/10 わかりやすい授業の条件  教師の授業力を構成する「聞き手を納得させるプレゼン能力」。7つのポイントのうち、残った5つについてです。 その3 要点は、手を変え品を替え、何回も繰り返す。  教育実習生の授業ではよくあることなのですが、あることの説明、解説をしているかと思ったら、いつの間にか質問になっていた。何かを答えなければならないと気が付いたときには、もう教師の問いは終わっている。  同様に、「もう一度、質問して下さい」と生徒から言われたことがある教師は多いのではないでしょうか。  生徒の方では、指名されてから初めて考えるモードに入るパターンが定着している場合があるので、教師によっては、指名してから問うのを授業のスタイルにしている人もいます。  また、中心発問のようなもの、大きな課題については、あらかじめカードに書いておき、説明した後、黒板にはっていくというパターンが、特に小学校では多く見られます。  要点にあたる部分はわざといつも繰り返しながら話す教師もいました。  授業の中での「繰り返し」は子どもの理解を定着させようとするねらいがあるわけですが、教師だけが表現する立場にならないように配慮することも大切かもしれません。

その4 まず全体を話し、それから部分へ移り、最後にもう一度、全体へ戻る。
 俯瞰(ふかん)→注視→再俯瞰
 清掃活動を例にとって説明しましたが、授業の中でも、たとえば導入部分とまとめ(整理)の部分における「俯瞰」は大切な要素です。
 全体像が分かった上で、部分の分析に入り、その分析結果を用いて全体を見たときに、改めて全体像の理解が深まる、そのような授業を、たとえば歴史的分野の学習ではよく行います。
 集団を相手に全体指導を行う場合、たとえば一人はみ出ている生徒がいるとしたら、いきなりその生徒に問題を投げかけるのではなくて、まずは「全体的にほぼきちんと整列できています」と「多くの人にはかかわらないことだけど・・・」というニュアンスの言葉を入れておいてから、「あなたが少し~すれば完璧ですね」と指導する。
 そして、「これで全体、整いました」としめくくる。
 10秒程度の指導なのですが、個別から全体に入るより、全体から個別に入って全体に戻った方が、ほとんどの生徒に残る印象は悪いものではなくなるはずです。
 授業でもこのような場面はたくさんあるでしょう。

その5 図解で示す。ビジュアルな整理は情報を共有し、聞き手のレベルも上がる。
 図解は教師の中でも得意不得意があるかもしれません。
 研究推進校の指定を受けたり、研究大会で発表しなければならないときなどは、よく研究の構造図が作られますが、やはり箇条書き、文章よりも図の方が頭に入っていきやすいでしょう。
 ただ、たとえば→の意味や、囲みの部分の使い方などは、自己流で行われると、かえって意味がわからなくなってしまいかねません。
 また、図は基本的に単純化されたものですから、理解面でいうと大きな落とし穴になっている可能性があり、注意が必要です。

その6 箇条書きで話す。「3」を使用する
  (問題は3つあります。まずは、・・・)。
 
 3分とか5分の長さの話をするときには、必ず用いたいフレーズですね。
 「3」の魔力についてはいつかふれたかもしれません。
 ちょっと話はそれますが、なぜ三人寄ると、「文殊の知恵」が出るのでしょうか。
 なぜメダルは金・銀・銅だけで、四位以下の人にはでないのでしょうか。
 三大~のように「三点セット」にする発想は、どこから生まれたのでしょうか。
 研究してみたいテーマです。

その7 ポイントになる人を見分け、その人に語り、要所要所でうなずかせる。
 授業では、内容が理解されているかどうかの判断は、生徒の表情でほぼわかるものですが、中には「うなずき上手」の生徒がいるので注意が必要です。あまり信用してはいけません。初めは見分けるのが難しいのですが、実際に問いをぶつけてみれば、わかっていたのかどうかがすぐに判断できます。
 これら5つのポイントは、「わかりやすい授業とは何か」という問いのヒントや解答になっている部分があるので、整理してみるといいかもしれません。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第54問】 
 昭和11年(1936年)の話です。
 ベルリンオリンピックでは,女子200m平泳ぎで前畑秀子が優勝。アナウンサーによる「前畑ガンバレ」の叫び声で話題となりました。「前畑ガンバレ」は何回叫ばれたのでしょうか。
 ① 36回
 ② 56回
 ③ 106回

*******************
ブログランキング 歴史
にほんブログ村 歴史ブログ 近代・現代史(日本史)へ

 【第53問の解答
 ②のベルリンです。発案者はヒトラーでした。

« 学校教育の換気機能 ふり返り366日【08/6/10-1】/五輪初の聖火リレー | トップページ | 心構えができないのに体構えだけできている生徒の問題 ふり返り366日【08/6/11-1】/ヒマラヤ初登頂 »

教育」カテゴリの記事

昭和の家庭史」カテゴリの記事

歴史学習」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92794/45820178

この記事へのトラックバック一覧です: 指導技術は子どもにも伝えるもの ふり返り366日【08/6/10-2】/前畑ガンバレ:

« 学校教育の換気機能 ふり返り366日【08/6/10-1】/五輪初の聖火リレー | トップページ | 心構えができないのに体構えだけできている生徒の問題 ふり返り366日【08/6/11-1】/ヒマラヤ初登頂 »

2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より