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敬意がないのでコメント禁止

 某ブログでは標記のような結果になり,残念ですが,少し理解・関心を示していただいた方が(何と)小学校にいらっしゃたのは驚きです。
 結局,「愛情,受容,共感」不足状態に耐えられない人間には,中学校の教育は理解できるわけがないことがよくわかります。

 ある有名小学校の研究会も,協議会では「よいしょ発言」ばかりで,批判が出されると授業者ではなく参観者がまっさきに反論してくるという,「教祖様に失礼なことを言うな!」という空気が漂うもので,そんな研究会と似たようなブログなら本当に価値がないと思いきや,「そうとは限らない」という意思を表明してくださったということは,まだあのブログも光は失われていないと感じました。

 私の命名した「わたくしども(私共)空間」につかっていてしまっては,公教育が語れるわけがないのです。

 小学校は,崩壊学級でも(中学校も15歳を過ぎればそうですが)12歳で強制退去させることができるので,その後始末から入る中学校の現状も参考にしていただけるとよいのですが・・・。

 さて,コメント禁止になってしまったのですが,他の方のコメントへの回答をないがしろにするな(無視していたわけではないことは,私のコメントをお読みいただければわかるはずなのですが・・)という話だったので,こちらでご説明申し上げる準備をしたいと思います。

 ブログ中のAさんと管理者は,ほぼ同じ教育観であるので,そもそもAさんが管理者に質問をしなくても,返ってくる言葉はほとんど予想通り,というより,Aさんにとってはという意味ではなく,傍目から見ると,何も答えていないに等しい内容になっています。敬語がどうのこうのではなく,この話題は要するに「強制はいけない」ということを言っているにすぎません。

 記事の発端は,Aさんのお子さんの家庭訪問があり、先生方に敬語を使うように指導が入ったということであるようです。
 結局,Aさんも管理者も,「いつか話せるようになる」「必要なときは話す」「自然に話せることが大切」「敬語を子どもに話させる雰囲気をつくるのは大人次第」という感覚でいらっしゃるようです。

 一見,反論や否定がしにくい教育観のようですが,よくよく考えてみれば,「そうはいっても」の現実がいくらでもあるわけで,異論が出るのは当然でしょう。

 日本語の敬語というのは,「敬意があれば必ず正しく使える」ような易しいものではない・・・という次元の話になると,もはや何もかみ合わなくなると思うので,ここでは「敬語を使わせる」という行為をストレートに「強制」と捉え,「強制」はすべて悪であるという論理から,「敬語を使わせる」という指導は間違っているという思考回路に警鐘を鳴らすという意味でのメッセージと受け取っていただければと思っています。

 記事やコメントで言いたいことが,「強制はいけない」なのですから,無理もない展開だったのですが。

 そもそも,なぜ家庭訪問という,担任と保護者が1対1で向き合う場面で,敬語を使う話が出たのか,その背景や原因を探るのが,第一に取り組むべきことでしょう。
 担任がわざわざ全家庭に同じことを言ってまわっているのか,Aさんの家庭だけなのか。
 
 そもそも,公的な場面で「敬語を使うべき相手に敬語を使う必要はない」という指導はあり得ないわけで,当たり前のことを当たり前に表現すれば,何も指導などと大げさなことではなく,常識を述べているに過ぎません。

 さて,Aさんのほかに,yokoさんやaiさんが,北風と太陽(このブログでもよく登場していた話ですね)や中身と形式というお話をされているので,その使い分けの原理・原則をお話しなければならないのですが,まずは,敬語指導の意図が判明してから,ゆっくり整理してみたいと思います。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より