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高信頼社会の下での学校社会とは? ふり返り366日【08/5/27】/チョコレートの大衆化

[武士道] ブログ村キーワード

 「安心社会」とか,「高信頼社会」の実現というスローガンは,逆に不安を高め,信頼を失わせる結果にもなることを肝に銘じておく必要があります。

 どんなことに安心できないか,だれを信頼できないか,そういうことはマスコミを通じて国民は(子どもを含めて)散々目にさせられ,聞かされています。

 教師のからむ犯罪が,いかに多いことか。
 これはほぼ日常的なニュースになってしまっているので,「そういうことは常に起こりうるもの」という共通認識ができてしまっています。

 学校で殺人事件や子どもの事故死が起こると,「安全点検」「安全管理」の徹底が図られますが,社会一般には,「起きるときは起きるのだろう」という程度の認識が普通でしょう。

 不信感をもった目で見られているという,教師が置かれている厳しい現実を自ら知ることは,決してその後のマイナスにはならないはずです。

 体罰,セクハラ,交通事故等,何でもよいのですが,行政は,処分内容だけでなく,その理由となる具体的な事実を知らせるため,調書の比較的詳しい要旨をできるだけ多くの教師に読ませる必要があるのではないかと思っています。
 中には週刊誌等にリークして情報料をせしめてしまう教師が出てくるかもしれませんが。

 なぜ教師が不信の目で見られてしまうのか,なぜ教師の資質・能力の向上が強く求められているのか,その原因がよく分かるでしょう。

 教師が現実を直視できていないため,問題の大きさを理解していないことは,他にもたくさんあるでしょう。

 教師たちが,子ども・保護者のモラル・規範意識の低下を問題にして,「だから私たちのせいにするな」という声を発するとき,自らの規範意識を棚上げする行為は極端な例として,その声は問題への対応力の欠如を自ら認めてしまっていることと同じであることに気付いているかどうか。

 そこに気付いたら,次に教師自身がやらなければならない仕事が見えてくるはずです。

 なかには「武士道精神が求められている」という主張をされる人がいるかもしれませんが,これが教師の側から出てくるかどうか,そこが鍵であるわけです。

 高信頼社会の下では,「まわりから言われなくてもまわりから求められていることが自ら実践できる」人の育成が最も重要なのかもしれません。そういう資質を教師が保てるかどうか。

08/5/27 武士道精神と学校社会(改訂版)

 以下は、すずめ先生のブログに書き込みをさせていただいたものをもとにまとめていますが、別にすずめ先生の実践を否定しているわけでも批判しているわけではなく、社会心理学者の説を踏まえて自分の意見を述べているのにすぎないことをお断りしておきます。
 今まで教育の世界では、利己的な子どもがますます利己主義に走らないように利他的な行動を促す指導が多く実践されてきました。
 しかし、利己的な行動をとれば損をする安心社会を維持する上では機能しても、そもそも利己的な行動をしても損をしなくなった(制裁を受けなくなったというのは強い言葉ですが、穏やかに言えば仲間からのプレッシャーを受けないですむようになった)学校では、機能しなくなっていることが問題だと考えられます。
 落ち着いた学校は、この安心社会ではたらいている機能が維持できている証拠なのかもしれません。
 子どもには、人権の理念を出すまでもなく、自分の利益を追求する権利があること、そしてそれは、相手に利益を与えない一方的な自己利益独占型ではいけないことを教える必要があるのです。
 「情けは人のためならず」です。
 無私の精神を高めることでモラルを維持するのではなくて、お互いが生き生きと暮らせるように配慮しながら、自分の利益を追求していける社会のモラルを教えた方が、現実社会に生きる子どもたちには有効な指導になるはずです。
 こういう話をすると、「損得勘定だけで生きる人間を育てようとするのか」と武士道精神をお持ちの方から批判されそうですが、幸福追求の権利を子どもから奪うことはできません。
 「人から感謝される快感を得たいから人助けをする人間など認めない」という教育はできません。
 「損得勘定だけ」では問題があるとしても、「損得勘定」を完全に無視しろというのもおかしなことでしょう。
 利己性を疑い、排除するのが根本原理の武士道精神では、創意工夫や競争、効率重視、快適さや便利さの追求などが難しく、そもそも「こんな世の中はおかしい」と考えた人たちによって、日本は江戸時代の次の時代を迎えられるようになったわけでしょう。当然ながら、だからといってベストの世の中になったわけではありません。
 安定性、不変であることだけを重視できる時代なら、安心社会の方がいいかもしれない。しかし、社会環境の変化に対応できる子どもを育成するのが今の教師の役割です。
 もちろん、安心社会から信頼社会への舵取りは、教師がするのではなく、子どもたちの開かれた自治感覚で考えさせたいところです。
 むしろ、教師集団が安心社会の住人なのに、子どもたちだけを信頼社会の住人にすれば、さまざまな問題がおこってきます。教師集団が変わらなければ、子どもたちにも安心社会を強制した方がよいかもしれません。
 無私の精神や武士道精神は、江戸時代のような閉鎖的で流動性の乏しい世界では崇高な理想なのですが、互いに助け合って生きていこう、共存共栄でいこうとする開かれた社会では、「情けは人のためならず」という原則まで否定される恐れがあることです。
 統治者にとっては、武士道精神を人々がもってくれることで、結果として政治に都合がいい(自分を犠牲にして他人のため、集団のために尽くしてくれる)ことになる場合があります。
 武士道精神は、持っていき方によっては、非常に危ないことが予想できるでしょう。
 武士道のモラルが、今のような変化の激しい、流動性の高い社会に求められるべきものか。
 私のスタンスは、武士道精神のよいところは使い、悪いところは捨てるというものですが、学者によっては、武士道精神のモラルそのものを否定する人もいるようです。

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昭和の家庭史トリビア?【第22問】 
 昭和6年(1931年)の話です。
 森永製菓のチョコレートのおまけが人気を呼び,それがきっかけでチョコレートの大衆化が始まりました。
 この年の4月に発売されたチョコレートのおまけとは?

 ① 戦争に関係があるおもちゃ
 ② 映画スターのカード
 ③ 米の引換券

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 【第21問の解答
 ③(禁酒村)でした。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より