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「敬語」が使えない現状を小学校教師はどう考えているのか?

 「強制=悪」図式が大好きな人間は,様々な職業の中でも,教師が最も多いでしょう。
 
 同時に,実質的に制度や前提となる仕組みを知らず知らずのうちに利用しながら,「強制」させている(がそれに気付いていない)人間も,圧倒的に教師が多い。

 さらに,単に法令に従うということにすぎないのに,「強制だ」と騒ぎ出すのも,教師に多い。

 その事実というよりも,「強制」という言葉に過剰反応するのも教師に多い。

 強制されるのは嫌いだが,強制するのは好き,・・・とまで言ってしまえば,身もふたもありませんが・・・。

 「強制」嫌いの教師ですが,学校では,子どもを「強制的に従わせる場面」というのが日常的にありますし,突発的に起こることも多いものです。

 「授業中は,むやみに席を立って歩き回らない」こと,「授業中は,特別の指示がない限り,友達の話よりも,教師の話を聞くこと」などを強制しているから,「授業」が成立している(授業参観,学校公開などで,最近,子どもに注意を与えるのが担任ではなく外部の人になってきている・・・・そんな学校ばかりではないと思いますが)。
 このケースでは,子どもが「強制」と感じているわけではない,という「言い逃れ」がすぐに思いつくかもしれませんが,実際に教室を走り回ったり,指示が通らないような状態で騒いでいたりすれば,必ず座ること,黙ることを強制することになるのです。

 「○○の強制が必要なのか」という問いが出てくるということは,「○○」が正しくできていない,という現状があるわけです。

 ある教育ブログでは,「敬語は強制するものか」というテーマについての考えが紹介されていますが,ここでの「強制」も,もし親や教師が「敬語」というものの意義や使い方を説明して,子どもがそれを理解し,自然に使えるようにすることを「強制」というのであれば,「強制」するものに違いありませんし,子どもがその場で不適切な言動をとったときに,注意を与えて直させるのが「強制」であれば,それが教育ですから「強制するもの」ということになりますし,単に「敬語を使う」ことだけが「強制」されて,何の敬意もない状態であるなら,その「強制」は教育的ではない,ということになりますし,ケースによってそれが正しくなる度合いが変わってきます。

 小学校の教師なら,どのような場面で,どのような言葉遣いをする(敬語を使う)のが適切であるか,教育しているはずなのに,子どもがそれを身に付けていない現状があるとすれば,「教育されていない」と判断するしかないでしょう。

 「敬語は強制するものか?」という問いが出されるということは,「敬語が使えていない」という現状があるということです。そして,その現状をどうしようと思っているのか,それが教師に問われている。

 ところが,残念ながら,教師から直接的に,「尊敬に値しない人間には敬語を使う価値もない」というメッセージを受け取っている子どもも少なくないと思われます。

 また,子どもは,教師同士の関係を非常によく見ています。特に,夫婦間のいざこざが絶えない家庭で長く生活している子どもなどは,直感的に教師間の「不仲」を見抜きます。
 敬語が使われていないほど露骨ならだれでもわかりますが,「敬語」が形だけのものである,と気付くことの「痛さ」はやはり学校ならではのものでしょう。

 子どもというのは実はかなり賢いもので,「この先生はタメ口でOK」「この先生は呼び捨て厳禁」「言葉遣い注意!」など,相手によって態度を使い分けています。

 ただ,要領の悪い子どもだけが「使い分け」ができず,泣きを見る,という事態もよく起こります。
 小学校の教師の最悪な指導は,「中学校の○○先生は怖いらしいから敬語を正しく使うように!」。
 小学校の先輩から伝わってくる話ならまだわかりますが・・・。

 やはり最低の教師は,「堅苦しいから敬語はなしでよい」「よそよそしいから敬語は使わないでいい」という甘えた学級王国を作り出しますが,こういうクラスと,正しく敬語が使えるクラスで学んだ子どもの学力に開きがあり,それが公開されれば,改善の余地があるかもしれませんが,どっちに転ぶか怪しいところがまた小学校なりの課題でしょう。コミュニケーション能力に欠ける教師が自分自身に対する敬語だけはこだわって「強制」していたとしたら,勉強も嫌いになるでしょうね。まさに精神的にも「人質状態」であり,親としては恐ろしい世界です。 
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  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
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  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
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    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より