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2009年7月

内田樹と内田樹に対する批判への批判をする人の共通点/警視庁史上初の事件

 たまたま,内田樹への批判を記事にしたらしい人を「なんてアタマの悪い人だろう」とこきおろしているブログを見つけ,その他の記事を読み,内田樹と似たような点があるのでなるほどと関心を持ちました。

 だれを対象にしているのか分かりませんが,「アタマの悪い人」という呼び方をするブロガーは,生徒の学力が中学レベルのことも習得していないことを嘆き,わざわざそれを記事にしています

 内田樹も,自分が勤めている大学の学生の学力の低さを実例を挙げて説明しています。

 「アタマの悪い人」の存在がよほど気に食わないのか,解説にも熱がこもっています。講演では,盛り上がっている場面なんだろうということが,よくわかります。

 内田樹の場合は,それが儲けのネタになっているので理解できるのですが。

 私が内田樹を批判している一番大きな理由は,自分自身が「そういう学生に何を教えてきたのか」「どういう力を付けさせることができたのか」「教師は何ができるのか」にほとんど触れず,「ダメだ・ダメだ」と「劣化症状」を言い放ち,その原因を教師が悪者にならないような論理で説明しようとしているからです。

 そのために,内田樹の場合は,わざわざ昔の有名な小説のダメ教師を引き合いに出して,「こんな教師でも教育が成り立った時代があった」と説明します。
 「子どもが変わったから」という論理は,教師たちが読むと安心できるものなのでしょう。
 
 学校現場に関する描写も,たまたま自分が教育実習生の指導のために訪れた中学校の印象がよほど強かったのか,自説の補強材料として役に立たせようとずっーと使いまわしています。

 このような内田樹の批判も書いていますが,すべてが役に立たない教育論かと言えば,そんなことはありません。

 たとえば,内田樹が苅谷剛彦の『階層化日本と教育危機』から引用し,「教育の崩壊のいちばん根本にあること」と述べていることです。

 それは,「内発的動機による行動,自発性に基づく行動が尊ばれるが,それは社会的に認められている価値を求めて行動するより,自分の興味・関心にしたがった行動の方が望ましいとみるものである。」=「個性尊重の社会では,自己の内側にある基準の方が,外側にある基準より行動指針として尊ばれる」ということ=分かりやすく言えば,「私が有用だと思わない限り有用なものではない」・・・そんな価値観が「あり」になっていることが問題であるということです。

 昔,小学校の名物教師が,「子どもはみんな勉強が嫌いである」・・・「だから教師は子どもをひきつけるネタをたくさん持たなければならない」・・・という論理で授業づくりを提案していましたが,このような子どもに媚びるタイプの「子ども第一主義」は,恥ずかしくて採用することができません。

 内田樹は「自分が同意できる部分しか話を聞かない人間が増えている」と言っていますが,特に教師にはよくいるタイプなので注意が必要です。 

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昭和の家庭史トリビア?【第44問】 
 昭和10年(1935年)の話です。
 警視庁史上初となるタイプのある事件が東京で発生しました。その事件とは?
 ① 青酸カリによる毒殺
 ② 結婚詐欺
 ③ 保険金殺人

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 【第43問の解答
 ①の,44.8歳でした。女性の平均寿命は46.5歳。

携帯が道具か,自分が携帯の道具か/昭和10年の流行

 学校ケイタイの空想を読んで,「何だか学校に強く管理されているみたい(で嫌)」と感じてくれたとしたら,携帯電話をもっている人間が,どれだけそのツールに「管理」されている存在なのか,ということに思いをめぐらせるチャンスになるでしょう。

 「メールの返信が早いほど相手を思いやっている」「遅いのは相手に失礼」
など,新しい「行動規範」が登場してふりまわされている人間が多いのではないでしょうか。

 携帯が道具なのか,自分自身が携帯(の利用で利益を上げている企業)の道具になっているのか,見極めるタイミングというのが必要でしょう。

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 昭和10年(1935年)がスタートのもの
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
○アメリカのクルーガー・ビール会社が世界初の缶ビールを発売。
○「もんぺい」を改良した新型作業ズボンが考案される。モンペの始まり。
○アイスランドで妊娠中絶が合法化される。世界初。
○アメリカ・ウィスコンシン州の裁判所で,暴行犯の裁判に世界で初めてウソ発見器が使用される。
○国鉄に女性車掌が初登場。
○ドイツが世界初のテレビ定期放送を開始。その後,フランスでも。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

 昭和10年(1935年)のブーム・流行
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
○手足を美しく見せたいという風潮が広がり,脱毛ブームが起こる。脱毛剤が流行。
○女学生の間に,「君,ボク,失敬,何言ってやがるんだい」などの男言葉が流行。
○女の子の間に千代紙が大流行。
○ペットとして犬を飼うことが流行。
○高層ビルで働く人々に「ビル病」が流行。一種の神経衰弱症。
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「学校ケイタイ」のある学校生活 ふり返り366日【08/6/4-1】/昭和10年の平均寿命は?

[携帯電話] ブログ村キーワード

 駅前に何件もの携帯ショップがあるのはまだ不思議感があります。
 さらに,駅からやや離れたところにも広いショップがあって,休日でなくてもけっこう多くの客が,しかも子どもから高齢者までが入っている光景というのは,十年前には考えられないことでした。

 ケイタイが本物の景気対策=「景対」(auの宣伝コピーでしたか?)になっているかどうかわかりませんが,通信機能があり,さまざまな情報がどこでも手に入り,さらにどこへでも送ることができるツールは,便利なものであることは確かです。

 音楽も聴ける,語学の勉強もできる,マンガも読める,ゲームもできる,ニュースがわかる,TVが見られる,写真が撮れる,買い物の支払いはできる,電車に乗れる・・・

 すべてが手のひらに乗る道具で可能になることが,想像はできたかもしれませんがこれほどまでに普及するとは・・・?

 しかも,個の空間がかなり保障される状態で熱中できる・・・。

 ケイタイは,対人コミュニケーション能力の低下を招く・・・という危惧をもっている人も多いようですが,私はスイカで支払いをするようになってから,レジの方に直接話しかけられる機会ができてよかったように感じています。
 (お金をおさめたりお釣りを出したりする手間が省けて若干うれしそうな感じも伝わってきて・・・)

 このようなツールの教育利用については,「所持禁止」という方針が出されているくらいですから,まだまだ前途は多難なようですが,「学校ケイタイ」の普及が,将来的には実現可能になってくるように思います。

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 学校ケイタイのある1日の生活を,想像してみましょう。

 学校ケイタイは,下駄箱の各自のスペースに鍵つきの保管箱(充電可能)があり,登校時に取り出すところからスタートです。電源が入った時間が,登校時間として記録されます。

 登校時間は8時20分です。

 ただし,8時00分から学校ケイタイで朝読書が可能です。読んだページ数などが毎日記録されます。 

 遅刻生徒の氏名は職員室のパソコン画面に表示されます。
 
 8時25分には,日直生徒のケータイに朝の連絡がメールで配信され,それをクラスで読み上げます。

 担任は連絡のない欠席者(遅刻者)の家庭に電話を入れます。

 朝,担任が学級に行く必要がないので,8時30分から1時間目の授業が始まります。

 学校ケイタイは,普通の携帯電話よりやや画面が大きく設計されており,授業によっては写真資料,映像資料を配信して見させることもあります。
 英語の授業では,CDを聴く代わりに,ケイタイに記憶されたデータを再生したり,自分の読みを録音して送信したりします。
 美術や技術・家庭では制作途中の作品や完成品を写真にとり,送信します。自分のケイタイのデータベースにも登録します。
 体育では,友達に自分のフォームなどを録画してもらい,データベース化します。教室でそれを見て,分析したり反省したりもします。

 給食時には,食事の内容の説明を準備中に聴くことができます生産者調理をしてくださった方,栄養士さんなどからのお話が流れる場合もあります。

 昼休みには,登録されている音楽のうち,好きなものを自由に聴くことができます。

 「電話機能」は緊急の場合に特定の場所にしかかからないことになっているので,友達と話がしたい生徒は,直接会って会話します。

 生徒会活動についての連絡・・・委員会活動のPR,行事のお知らせなどは,1時頃から送信されます。

 午後の授業のスタートは1時10分です。

 ケータイは,択一式や語句を答える形式の単純な小テストでも使います。
 教師の側も,採点を一瞬にしてコンピュータがやってくれてラクです。
 子どもも,得点がすぐにわかります復習のための宿題が送信されてくる生徒もいます。

 掃除の前,帰りの会では,一日の生活をふり返ってのアンケート調査を実施し,一言日記をつくって送信します。

 基本的には,部活動に参加する前には下駄箱の保管箱に返します。
 データは定期的にバックアップされます。

 *****以上が,普通の一日の学校ケイタイの使い方です。

08/6/4 ケータイ・自力救済か絶対他力か

 風鈴さん、コメントありがとうございました。
 武器・武力の「武」の文字をご覧いただくと、「止」が入っています。
 「七徳の武」の話をひくまでもなく、武器というのは戦争をやめさせる道具でもあります
 被害にあっている友達をかばう、不当な攻撃を加えた人間に注意する、制裁を加える・・・携帯は、そのための武具・武器にもなるはずです。
 中世の時代には、自力救済という原則とともに、集団内での排除機能が強力に働いていました(自検断・地下検断)
 しかし、現代ではこれを「いじめ」と捉えられる可能性もあり、集団内の排除機能はうまくはたらきません。
 今、いじめが排除できないのは、いじめを完全に排除しようとしているためだという考え方もあります。
 排除機能がはたらかない以上、規制はやむを得ないのかもしれません。
 フィルタリング機能があっても、友達同士のメールなどのレベルでは防ぎようがありません。
 中学生(小6と高1くらいは含まれるかもしれませんが)は、高校生と違って、行動が非常にエスカレートしやすい。のめり込みやすい、歯止めがきかない、そんな時期ですので、人間を「守る」ための規制という趣旨は理解できます。
 ただ、武器を取り上げられるということは、攻撃の側にまわることを阻止する、つまりその子どもが信用されていないことも示すことになるわけですから、わがままな子だけでなく、高い自覚をもって正しい使い方をしている子どもにとっては不満でしょう。
 刀を取り上げても、家のパソコンという大砲もあるし、そのうち戦車なんかが開発されるかもしれませんね。

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昭和の家庭史トリビア?【第43問】 
 昭和10年(1935年)の話です。
 この年の男性の平均寿命は何歳だったでしょうか。
 ① 44.8歳
 ② 54.8歳
 ③ 64.8歳

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 【第42問の解答
 ③のビリヤード場で,1786軒。2位はマージャン屋で1249軒でした。

「学校携帯」の近未来 ふり返り366日【08/6/3】/昭和9年の遊戯場数トップは?

 「携帯」が,そう遠くない未来に獲得し得るであろう新しい機能について,巷ではどんな憶測が流れているのでしょうか。
 それが,学校教育などにどのような影響を与えることが考えられるでしょうか。
 困るもの,役にたつもの,まずいもの,効率が上がるもの・・・メリデメさまざまです。

 ボイスレコーダー機能・・・子どもが教師との面談のやり取りを録音(録画)し,家族の前で再生する。
 (録画機能)        授業は録音(録画)して,家で復習する。
                いじめの決定的な行為(言葉がけ)を記録(録音・録画)する。
   →投影機能・・・プロジェクターのように,画像を白い紙や壁に再生できる。
 盗聴器(マイク)機能・・・常に授業での話を家庭でも聞ける。子どもの代わりに親がノートをとる。
 翻訳機能・・・英語の話が日本語で聞こえてくる。 
 辞書機能・・・意味がわからない単語を言うと,日本語で候補をいくつか教えてくれる。
 万歩計機能・・・一日に何m移動したかがわかる。
 IDカード機能・・・登下校の時刻が学校・家庭・本体に記録される。
 体温計機能・・・体温や脈拍の変化を記録する。
 カロリー計算機能・・・食事を撮影すると,その分のカロリーがわかる。
 
 現在でも可能な機能は?
 アンケート,宿題送信・・・毎日決まった時間に宿題が転送されてくる。答えを入力して制限時間内に送付する。
 予備校の授業風景送信・・・携帯の画面で塾の授業を受けることができる。
 授業評価の結果送信・・・教師への評価,自分の授業への取り組み,理解度などを授業終了後に送信する。
 大昔の「アナライザー」を,各生徒がどんな場所にいても使うことが可能である,そんなイメージです。 

 「学校携帯」を活用した教育実践・・・・・・なんていうのも登場するかもしれません。

 個人情報が異常なほどの量,集まってしまうことに懸念は当然ありますが・・・。

08/6/3 携帯電話と刀狩令・鎖国政策(増補版)

 教育再生懇談会の「小中学生に携帯電話を持たせるべきではない」という一連の論議は、秀吉が行った刀狩令になぞらえて考えられます。
 「携帯電話 刀狩」で検索してみたら、そのような趣旨で記事を過去に書かれた人がいるようです。
 携帯電話は、事実上メール機能があるパソコンです。
 この道具を使って、友達や見ず知らずの人を攻撃する人間が多く現れました。
 「便利な道具」にいつの間にか「武器」の機能が加わりました。
 もちろん、騙す、罠にはめる、誤解させる、混乱させるなどのこともできます。
 この武器は、主に人間の精神的な部分にダメージを与えるものです。
 透明人間による無差別攻撃も起こりえます。
 他人になりすまして特定の人間を攻撃することも、可能です。
 精神的なダメージによって、気に入らない相手を死に追いやることも可能です。
 メールの一斉送信のメンバーからはずし、「村八分」にすることも可能です。
 「自由」のもとで一部の子ども達(子どもだけとは限りませんが)は「やりたい放題」です。
 子どもを守るための「規制」の主張が現れるのは当然のことでしょう。

 しかし、携帯電話を取り上げてしまうことで、一部の被害は防げるかもしれませんが、せっかく子どもが手に入れた「人間としての名誉の証」が奪われてしまうことにもなります。

 当然、反発は必至でしょう。必死に反論してくるでしょう。
 秀吉が行った刀狩は、一揆の防止という意味もありましたが、武士(刀が持てる人間)と農民(刀が持てず、農業に専念する人間・・・現代なら学習に専念する子ども)という身分の差をはっきり示す機能もありました。

 昔の背伸びをしたがる現代の子どもは、大人しかできないはずのタバコに手を出していました。
 タバコの味ではなく、一人前になったような気分を味わっていました。

 中世までの百姓たちは、成人になると刀を持つことができるようになり、一人前の人間として認められるようになりました。刀は、人としての尊厳の象徴でもありました。

 明治に士族が「廃刀令」を出されたときも、同様のインパクトがあったでしょう。
 今は、親より機能やデザインがよい携帯をもっている子どもが増えてきています
 携帯は、持っていることだけでも意義があるわけです。

 この世界では、大人と子どもの線引きがなくなりました
 子どもの方が、さまざまな機能を駆使して、活用し尽くそうと努力します。
 もし、携帯を持たせる選択肢をとるなら、中世の日本のような自力救済の原理が必要です。
 問題がおこったら、自分で解決する
 攻撃されるのはいつでも覚悟して、戦い抜く
 あるいは、攻撃されないように、防御に力を入れる
 携帯を持たせない選択肢をとると、近世の日本のような安定した社会がつくれるかもしれません(多くの公立中学校は学校内への持ち込みを禁止するという鎖国=海禁政策をとっています)。
 しかし、抜け荷(密貿易)はあるかもしれないし、保護者からの外圧も強い。
 近代社会では、携帯の行方はどうなるのでしょうか。

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昭和の家庭史トリビア?【第42問】 
 昭和9年(1934年)の話です。
 東京市内の遊戯場数で最も多かったのは?
 ① パチンコ屋
 ② マージャン屋
 ③ ビリヤード場

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 【第41問の解答
 ②の,一口35回以上でした。

「対談もの」の分類 ふり返り366日【08/6/2-3】/昭和9年の意外なブーム

 「対談もの」というジャンルの本の分類を,自分なりにしてみると以下のようになります。
 いちいち対象の本を挙げようとも思ったのですが,けなしているものもあるのでやめました。

○どちらか一方が浮き足立ってしまって興ざめなもの

○両者が知識の披露をして褒め合っているおめでたいもの

○一方が他方からさまざまなことを学びとる形式のもの

○専門家同士の真剣な議論がかみ合って読み応えがあるもの

○全くジャンルの異なる仕事をしている人同士が,新しい着想でテーマを語るもの

 対談ものというのは,「つり合いが保たれていること」が成立の条件になるのでしょうが,「知の技法や論理」はさまざまなものがありながらも,その中でも共通性というか普遍性がある技法や論理が浮き彫りになっていくような対談ものを読んでみたい気がしています。

 教育関係の本でおもしろい対談ものがあったら読んでみたいものです。
 「教祖」が活躍する「対談」もどきはあるのですが,それはただの「インタビュー+感想文」の本に過ぎません。

08/6/2 梅田望夫さんにお願いしたいこと

 齋藤孝との共著「私塾のすすめーここから創造が生まれる」(ちくま新書)のあとがき(おわりにー私塾による戦い)で、梅田望夫は日本社会の閉塞状況への危機感について、次のように述べています。

 ・・・「時代の変化」への鈍感さ、これまでの慣習や価値観を信じる「迷いのなさ」、社会構造が大きく変化することへの想像力の欠如、「未来は創造し得る」という希望の対極にある現実前提の安定志向、昨日と今日と明日は同じだと決めつける知的怠惰と無気力と諦め、・・・(中略)・・・これらの組み合わせがじつに強固な行動倫理となって多くの人々に定着し、現在の日本社会でまかり通る価値観を作り出している。
  そして、「自ら力強い言葉を紡ぎ出すことで、その現状を打破したいと考えている」とおっしゃっています。
 梅田さんにお願いしたいことは、齋藤孝をネットの世界に早く引き込んでいただきたいということです。
 そして、自らに従順でもともと学ぶ姿勢をもっている人間(かその子ども)だけでなく、反対者、異論を唱える者と議論をかわし、相手を変質させられる場に登場させていただきたい。
 とてもエネルギーを要することであり、「怒り」のエネルギーに着火するとたいへんなことになるかもしれないのはわかりますが、「閉鎖的な教育空間」の体質を打破する手段の一つとしてネット空間の活用を図りたい私にとっては、切なる願いなのです。
 ・・・・と直接ブログへコメントする図々しさがないので、自らの日記への独り言としました。ネット空間にも「つぶやき」系の閉鎖ゾーンがあるようで・・・・。

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昭和9年(1934年)がスタートのもの
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
○大阪でタクシーのメーター制が始まる。
○わが国にも健康食品が登場。アメリカのヘルスフーズを模倣したもの。
○日本野鳥の会が発足。
○全国初の観光路線バス,青森・十和田北線が開業。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

昭和9年(1934年)のブーム・流行
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○パリの女性たちの間で靴下をはかないことが流行。日本女性の素足の美しさがパリジェンヌに見直されたもの。
○日記,ダンス,懸賞付き尋ね人,外国人向けの軽井沢の別荘
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親と教師の「生産的」研修 ふり返り366日【08/6/2-2】/完全咀嚼運動

 核家族が進む前は,親に余裕がなくても,おじいさん・おばあさんが親代わりのはたらきを家庭でしてくれて,子どもが健全に育っている・・・そういうところが多かったのでしょう。

 今では核家族があまりに多くなってしまって,単純な比較ができませんが,「親代わり」の存在の大きさは,あえて説明するまでもないことです。

 某ブログで,教師が受け持ちクラスの生徒を引きとるために夜に呼び出される,そんなケースが紹介されていましたが,今では教師が「親代わり」の代表格として君臨?しています。

 生活密着型の小学校で,子どもが担任教師そっくりの癖を身につけている,そんな事例もどこかで紹介されていました。

 そうすると,教師の資質・能力の中に,「親代わりの役割」というのも求められてくるのでしょうか。

 驚くべきことに,教師を親代わりとして尊敬して育ってきた親が,自分の子どもの担任に対して,自分が子どものときに経験できたことをそっくり要求してくる親まで登場するようになってきました。

 TVドラマが刷り込んできた教師像の影響も大きいかもしれません。

 「あなたという親がそこにいるのだから・・・」という当たり前のことが,なかなか理解してもらえないつらさ・・・そんな経験をしている教師も多いのでは?

 「信頼されていること」と「単純に頼られていること」の違いを区別できない教師が,落とし穴にはまっているようすも目にしてきました。

 毎年,6月ごろにPTA研修会というのが各地域で開かれていると思いますが,おそらくほとんど一般の教師たちは参加せず,管理職だけが対応?しているのではないでしょうか。

 それよりも,「親の役割・教師の役割」「親としてできること・教師としてやるべきこと」などのテーマで,親と教師が膝を突き合わせて話し合いができるような場を設けた方が,(喧嘩が起こるリスクもあるでしょうが,雨降って・・・というよき結果を期待して・・・)生産的な研修になるのではないかと思われます。
 
 今のPTA研修会は,どうしても「消費的」「決まりだからこなす」という印象が強くて仕方がありません。

08/6/2 親を変えるプロジェクトを・・・。

 教育学者や学校の教師のメッセージは、なかなか親には伝わりませんね。
 「勉強頑張ったらゲーム買ってあげる」
 「塾に通うんなら携帯を買ってあげる」
 多くの親が使う手でしょう(もちろん無条件で与える親もいるでしょうが)。
 帰りの電車などで、ゲームに熱中している中学生をよく見かけます。
 携帯をめぐっては、たとえば給食費を払わなかった親に、「子どもの携帯の契約を切れば払えるでしょう」(当時、1ヶ月で1年分の給食費に当たる金額を携帯で使った子もいました)とまで言ってしまうようなこともありました。
 「こんなにほしいものを買って上げて、遊ぶ金も渡してあるのに、何が不満で荒れているのかわかりません」という・・・問題行動を繰り返す子どもの親。

 教師の資質が問われるなどというレベルの問題ではありません。
 明白な虐待(目で見える範囲に傷が残る、ガリガリになっても食事をとらせないなど)なら止められても、手をかけて甘やかすタイプに歯止めをきかせる手段はありません

 「自分たちが何をやっても無駄だろう」とあきらめている教師も多い問題がそこにはあります。(自分が親でまさにその通りの子育てをしている教師もいるでしょう)

 国や調査機関も、「朝食をいつも食べているか」とか、「家族そろって夕食を食べられるのは週に何回か」とかいうレベルならまだ聞けるでしょうが、親の教育に問題があることを子どもに悟らせてしまうような調査はかけにくい。

 教育社会学者のように、親の収入の格差が学力の格差。しかもそれは次世代にも受け継がれる貧困・低学力の連鎖。などと平気で言えてしまうのもすごいところですが、学校は子どもにも親にも夢や希望を与えてあげたいところです。
 「教師が変われば学校が変わる」という言い方がありますが、「親が変われば学校(子ども)が変わる」モデルケース事業をどこかでやらないでしょうか。
 法令で動くより、成功例をつくってそれをまねしたくなる自治体、学校が増えるようにした方が、無駄がないでしょう。

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昭和の家庭史トリビア?【第41問】 
 昭和9年(1934年)の話です。
 この年,完全咀嚼同盟なるものが結成されました。この団体は,一口の食物を,ある回数以上,噛んで食べるという完全咀嚼運動を提唱しているのですが,その回数とは?
 ① 一口10回以上 
 ② 一口35回以上
 ③ 一口50回以上

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 【第40問の解答
 ③のマニラでした。

「愛情・受容・共感」を向ける相手の勘違い

 どこかの教育書で読んだ「愛情・受容・共感」を大前提にしてしまったために,学級・学年・学校の崩壊を招いた教師は少なくないかもしれません。

 私は学校崩壊すれすれの(親から見たら学校崩壊そのものだったかもしれませんが)学校に転勤したとき,「ルールを破っている人間,いい加減な人間,人に迷惑をかけている人間の方が,ルールを守っている人間,まじめな人間よりも得をしている社会」の典型を目の当たりにしました。

 「愛情・受容・共感」という意味の完全な取り違えです。

 「すりよる教師
 「ご機嫌とりの教師
 「問題行動をとる生徒とべったりの教師

たちに対して,最も強い嫌悪感をもっているのは,実は,「みせかけの愛情・受容・共感」を目の当たりにしている問題行動を繰り返す生徒たちでした。

 学級崩壊レベルならまだしも,学年・学校崩壊レベルになると,ルールを守ったり,人への思いやりをもったり,自分の責任を果たしたりするのがバカらしく思えるような生活を強いられることが,ほとんどの生徒に課せられます。

 ですから,教師に暴言を吐いたり,授業中に勝手な行動をとったりするような生徒などよりも,まず真っ先に教師が「愛情・受容・共感」をもたなければならない相手というのは,「なぜ自分の努力が報われないのか」と不満に思っている生徒たちなのだ,という気付きが必要なのです。

 学校崩壊を起こしている現場では,「価値観の喪失」が深刻な状況です。

 しかし,その原因・・・源泉となる教育観が,かなり広く現場を侵食していることに,できる限り早く気付いていかなければなりません。6年間も同じような空気に浸って育ってきた子どもに,大切なことは「自分に対する他人の思いやり」ではなく,「他人に対する自分の思いやり」であるということを気付かせるのは,至難の業なのです。

 教師の側で言うと,大切なのは,「教師に対する他人の思いやり」などではなく,「子どもに対する教師の思いやり」が大事なのです。

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言霊信仰が教育の質の向上を妨げている? ふり返り366日【08/6/2-1】/日本初の国際電話

 教育関係者がその主張や実践を「広く受け入れられている」という感覚を持ち始めたとき,それは非常に危険な状態であるという自覚が大切であるという主張を,何度かしてきました。

 そこに危険な思い込みがたくさん潜んでいることに,気付きにくくなるからです。

 教師が書くタイプの雑誌や論文集などを読んでも,基本的に当たり前のことしか出てこないし,やろうと思えばやれることしか書かれていない。本当はだれもができなくてはいけないのに,それができないのはなぜか・・・ということに答えるものがない・・・。

 「閉じた世界」で繰り広げられているちまちまとした動きを,「開かれた世界」でよりダイナミックに変えていくためには,相当のパワーと「打たれ強さ」が必要ですが,齋藤孝ほどのバイタリティをもっている人間でも,「批判や非難は嫌い」と公言してしまうところが,日本の教育の弱さそのものであるように思います。それでいて,「折れない心の作り方」(文藝春秋)という本を出してしまうあたりがまたおもしろいところですが・・・。
 「言霊信仰」という日本独特の文化がその背景にあると言えるのかもしれませんが。

 「言霊信仰」には,ある特定の言葉(「子ども第一主義」とか,「愛情・受容」,「自ら伸びる力」とか・・・)が使われていれば,何となくよい教育が行われていると信じ込まされてしまうという利点(ある意味では最大の欠点)があります。

 短期的・中期的な成果が,外部の人間,直接的に実践にかかわっていない人間には見えにくいのが教育の特徴でもあります。

 イチローの「打率」志向ではなく「ヒット」志向は,出版会で言えば,「好感度」「実質支持率」志向ではなく「発行部数」(「販売数」)志向であるということになります。(増えたり減ったりはせず,増えるだけの数字を見ること)

 結果として,発行部数が増えることで,支持率も上がっているといいのですが,結果として,成果があがるかどうか,何かが向上するかどうかが書き手のこだわりであるはずでしょう。

 ただ,それが測定しにくいのが教育で,それだけに,誤解や思い込みに基づく努力があり得るかもしれないのですが,できるだけ多くの評価や自己反省や外部からの批判などを総合的にふまえながら,そして,ここが最も重要なポイントですが,子どもの実態をふまえながら,実践に全力を投入していかなえればならない,苦労のしがい,やりがいがある仕事が教育です。

08/6/2 齋藤孝さんの教師としての特質(増補版)

 齋藤孝・梅田望夫「私塾のすすめ」(ちくま新書)には、齋藤孝の教師としての特質が非常によく表れているところがあります。
 以下は、Amazonのブックレビューに書き込んだ内容です。
 

「僕自身が、教育に燃えているわりには、教育界に与える影響力は小さい気がしている」 と言う齋藤孝に対して、梅田望夫は「斎藤さんの情熱とポテンシャルに対して、世の中の需要は、まだ100対1くらいなのでは」と答えています。
 二人の考えは、ある意味では根本的に異なっています。
 齋藤孝がネットに関心をもたず、ブログに手を出さない理由がおもしろい。
 教師らしい齋藤孝の性格がよく読み取れる部分です。
 梅田望夫が「基本的には同じ」という言い方で幾度もフォローしているのですが、「みんながそうでなければいけない」系の強引な指導をモットーとする齋藤氏のことは、かなりうざったく感じながら対談に応じていたのではないかと思われる箇所が、いくつか出てきました。
 閉じた空間(研究室内部という意味ではなく、教育という世界)で研究をしている齋藤氏と、開かれた空間、オープンソースで仕事をしている梅田氏の違いが明確に表れています。

 齋藤孝は、ブログをやらない理由として、「打つのはものすごく強いんですが、打たれるのは嫌いです」「授業の感想でも、二百人教えて、一人でもネガティブなことを書くと、それが気になってしまう」「こちらを安く値踏みしてちょっかい出してくる人に対して、攻撃をし返してしまいかねない」「・・・自分にふりかかってくると、火の粉をふりはらうだけでなくて、つい火元に行って、思いっきり水をぶっかけてしまいかねない」などの理由をあげており、梅田氏もとうとう「斎藤さんは、ブログをやらないほうがいいかも」と結論づけています。
 齋藤孝のような教師はたくさんいそうですよね。自分もそうだし、ブログで自己主張をしている方もみんなそれに近い(齋藤孝ほどではないにしろ)。
 なお、私は齋藤孝の(生徒から見ての)ウザイ系教師キャラが嫌いなわけではなく、そういう教師が滅び去ってきている危機感をもっている一人なので、今後も教育活動、執筆活動を応援したいと思っています。
 「人生を通して、情熱をもって教育に取り組み、専門家としての力を磨いてきた。休みなくやってきている。しかし、ここまで発言して、本を出して、提言し続けても、公教育に正面からかかわるようなポジションに、僕はいないわけですよね。」
 「本気で変える意志というのをもっていない、もやーっとした感じを感じますね、日本に対して。教育の世界では、達成が問われにくく、朦朧としているという感じがある。僕は日本の教育のことが本当に毎日心配で仕方がない。しかし力を出す場所が足りない。」

 という齋藤孝には、文科大臣になるよりもまず「学者校長」になって実績を出してほしいですが、・・・いきなり学習指導要領を無視しそうなので難しいですね。本のタイトルも「私塾のすすめ」ですし・・・。
 何よりもまずは、ブログを立ち上げていただいて、オープンな世界に入ってほしいものです。

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昭和の家庭史トリビア?【第40問】 
 昭和9年(1934年)の話です。
 この年,東京とある都市との間に無線電話が開通しました。初の国際電話となったわけですが,相手の都市とはどこだったのでしょうか。
 ① ペキン 
 ② ワシントン
 ③ マニラ

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 【第39問の解答
 当然?,①のリンゴです。

敬語指導反発の盲点/昭和9年・下痢に効く食べ物とは?

 「先生方には敬語を使うように」という指導が家庭訪問で保護者を通して子どもに伝えられた,という話は,それが「強制」にあたるか,あたらないか,という問題もさることながら,私は「なぜそのような指導が家庭訪問という機会に保護者に伝えられたのか」ということに関心がいって仕方がありません。

 極端な話,Aさんという方の担任は,指導力不足教員なのではないか,という疑問すら浮かんできます。

 家庭訪問ですから,Aさんと担任が面と向かって会話をし,何の脈絡もなく,その理由の説明もなく,「敬語を使うこと」を伝え,それが「強制」のように聞こえてしまったのであれば,担任教師のコミュニケーション能力に課題があるということも考えられます。

 そもそも,Aさんのお子さんと担任との関係がうまくいっていないことが背景にあるのなら,余計なお世話かもしれませんが,Aさんに対して,「担任とどのような関わり方をすべきか」とアドバイスするのが有効的なのではないかと考えてしまいます。
 ですから余計に,「答えになっていない」という感覚が強くなります。 

 あるいは,「敬語」の話題なので,教師ー子どもの関係ばかりに目がいってしまっていますが,学級の子ども集団(あるいは特定の子ども)から悪影響を受けている子どもをもつ保護者の悩みというのが盲点になっている可能性も考えられます。

 突飛な想像ですが,他の保護者からの要望を受けての「敬語指導」ということも考えられるわけです。

 私が「原因」「背景」にこだわる理由はまだまだありますが,少しパソコンから離れられているAさんが戻ってこられたら,可能な範囲でお聞きしたい内容です。

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昭和の家庭史トリビア?【第39問】 
 昭和9年(1934年)の話です。
 この年,あるものが下痢によく効くということで,人気が急上昇したそうです。あるものとは?
 ① リンゴ
 ② みかん
 ③ すいか

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 【第38問の解答
 ③の,728人でした。

アンケート【@nifty投票】へのご協力のお願い

 本日より,サイドバーに二つのアンケートを公開させていただいております。

 質問は,
 「中学校教師に最も望む最重要の資質能力は?
 「小学校教師に最も望む最重要の資質能力は?
の二つです。
 
 選択肢は以下の6つです。

 ・使命感(教育者としての)
 ・教育的愛情
 ・広く豊かな教養
 ・専門的知識・指導力(教科)
 ・子どもとの心の触れ合い
 ・成長や発達への深い理解

 もしよろしければ,投票にご協力ください。
 すでに投票してくださった10名ほどの皆様,ご協力ありがとうございました。 

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「指導」という教育的行為のニュアンスの相違 ふり返り366日【08/6/1-3】/第1回NHKアナウンサー採用試験

 教育に関する理論自体を軽視する教師や社会一般の風潮は,問題が多いと考えられる一方で,その理論によりかかって納得したがる教師や保護者にふり回された経験がある人なら,仕方がない,とも弁護できるわけです。

 自然科学ならまだわかりますが,教育に関する理論など,それでことが足りるのであれば,問題は次々に解決されてしまうはずで,例外だの結果に影響を与える因子が多すぎて,子どもを取り巻く現象を網羅しうるものなどないわけです。理論研究より,実践研究の方が,子どものためになることが多いのは,当然でしょう。

 Aができるようになる,程度のことなら「コツ」という言葉で済んでしまうわけですが,それを大量のデータを集めながら大げさに考えて,何とか「理論」の形にしたがるのは,大学の先生たちくらいのものでしょう。
 経験豊富な教師が参加する教員免許状更新講習ほど,講師にとって一筋縄でいかないものはないかもしれません。

 さて,挨拶や言葉遣いの指導については,いくらでも「コツ」があるものですが,大人が子どもの機嫌をとるような「配慮」が,「指導」という教育的行為に該当するものなのかどうか,そういう話になってくると,様々な考え方が出てきます。

 「指導」という言葉は,使う人間によって,あるいはそれを聞く人間によって,ニュアンスの幅が非常に大きく,意味が異なる場合も多い言葉です。

 そのため,逆に,その言葉を使っている人間の思考パターンというか,固定観念というか,縛られているイメージというのがよくわかるものです。 

 それをとことん突き詰めていきたいのですが,人間は,自分の思考パターンに変更を迫られる状況からできるだけ避けたいと逃げる傾向があるもので,単純に頑固な人とか,経験が豊富な教育関係者などはそれによく該当し,議論が先に進まなくなるのが残念です。

08/6/1 ブログに見られる教員の特質

 「あなたとは考え方が違う」と対話を拒否する人、「Aではなく、Bも」と要求されると、「AだけだったのがBだけになる」など、180度無理に舵をきってしまう人、子どもだけでなく、教員にも見られます。
 大人だけに、ほんとうに指導するのが難しい。
 上司としての管理職・人事権をもつ行政というのはたいへんな責務を担っているものです。
 子どもの場合は、周囲の子どもが「それはおかしいよ」と言えば改善されるかもしれませんが、教員の場合、管理職・行政・保護者という対立軸をもって閉鎖的集団主義がつくられている場合、周囲の教員が批判することが難しい。
 「みんなは一人のために、一人はみんなのために」のうち、問題となるのは、後者が何を要求させられているか、ということです。同一の価値観が強制される恐れがある。
 自己申告や外部評価は、このような問題が文書の形になることで、「毎年必ず同じ失敗が繰り返される」失敗をある程度防止することができます。
 ブログというのは自己主張の強い人がそもそもやっているもので、かつ匿名性が高いため、言葉が極端に走りやすいのですが、教員に限って言えば、それはもともと持っている資質が表れただけなのかもしれません。

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昭和の家庭史トリビア?【第38問】 
 昭和9年(1934年)の話です。
 NHKが第1回アナウンサー採用試験を実施しました。採用25人,何人が応募したのでしょうか。
 ① 128人
 ② 328人
 ③ 728人

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 【第37問の解答
 ②の3日でした。大型トラック50台分の荷物だったそうです。それを置くスペースがあるというのもすごい。

敬意がないのでコメント禁止

 某ブログでは標記のような結果になり,残念ですが,少し理解・関心を示していただいた方が(何と)小学校にいらっしゃたのは驚きです。
 結局,「愛情,受容,共感」不足状態に耐えられない人間には,中学校の教育は理解できるわけがないことがよくわかります。

 ある有名小学校の研究会も,協議会では「よいしょ発言」ばかりで,批判が出されると授業者ではなく参観者がまっさきに反論してくるという,「教祖様に失礼なことを言うな!」という空気が漂うもので,そんな研究会と似たようなブログなら本当に価値がないと思いきや,「そうとは限らない」という意思を表明してくださったということは,まだあのブログも光は失われていないと感じました。

 私の命名した「わたくしども(私共)空間」につかっていてしまっては,公教育が語れるわけがないのです。

 小学校は,崩壊学級でも(中学校も15歳を過ぎればそうですが)12歳で強制退去させることができるので,その後始末から入る中学校の現状も参考にしていただけるとよいのですが・・・。

 さて,コメント禁止になってしまったのですが,他の方のコメントへの回答をないがしろにするな(無視していたわけではないことは,私のコメントをお読みいただければわかるはずなのですが・・)という話だったので,こちらでご説明申し上げる準備をしたいと思います。

 ブログ中のAさんと管理者は,ほぼ同じ教育観であるので,そもそもAさんが管理者に質問をしなくても,返ってくる言葉はほとんど予想通り,というより,Aさんにとってはという意味ではなく,傍目から見ると,何も答えていないに等しい内容になっています。敬語がどうのこうのではなく,この話題は要するに「強制はいけない」ということを言っているにすぎません。

 記事の発端は,Aさんのお子さんの家庭訪問があり、先生方に敬語を使うように指導が入ったということであるようです。
 結局,Aさんも管理者も,「いつか話せるようになる」「必要なときは話す」「自然に話せることが大切」「敬語を子どもに話させる雰囲気をつくるのは大人次第」という感覚でいらっしゃるようです。

 一見,反論や否定がしにくい教育観のようですが,よくよく考えてみれば,「そうはいっても」の現実がいくらでもあるわけで,異論が出るのは当然でしょう。

 日本語の敬語というのは,「敬意があれば必ず正しく使える」ような易しいものではない・・・という次元の話になると,もはや何もかみ合わなくなると思うので,ここでは「敬語を使わせる」という行為をストレートに「強制」と捉え,「強制」はすべて悪であるという論理から,「敬語を使わせる」という指導は間違っているという思考回路に警鐘を鳴らすという意味でのメッセージと受け取っていただければと思っています。

 記事やコメントで言いたいことが,「強制はいけない」なのですから,無理もない展開だったのですが。

 そもそも,なぜ家庭訪問という,担任と保護者が1対1で向き合う場面で,敬語を使う話が出たのか,その背景や原因を探るのが,第一に取り組むべきことでしょう。
 担任がわざわざ全家庭に同じことを言ってまわっているのか,Aさんの家庭だけなのか。
 
 そもそも,公的な場面で「敬語を使うべき相手に敬語を使う必要はない」という指導はあり得ないわけで,当たり前のことを当たり前に表現すれば,何も指導などと大げさなことではなく,常識を述べているに過ぎません。

 さて,Aさんのほかに,yokoさんやaiさんが,北風と太陽(このブログでもよく登場していた話ですね)や中身と形式というお話をされているので,その使い分けの原理・原則をお話しなければならないのですが,まずは,敬語指導の意図が判明してから,ゆっくり整理してみたいと思います。

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前提を見誤った制度 ふり返り366日【08/6/1-2】/「大名家」は生き続ける

 学校評価にはほとんど関心を示さず,人事考課制度については過剰なほどの反応をし,観点別学習状況評価については,おとなしく従って多大な労力を費やしている,このギャップの原因はどこにあるかと言えば,簡単な話で,人事考課だけは自分に直接的にかかわってくる評価だからでしょう。
 
 マクロに見れば効果が高そうな制度でも,個々の人間が自分の利害に執着するミクロの世界ではよくない結果を招く,そういう話はどこにでも転がっています。前提を見誤った制度はうまく機能しません。

 教育の評価については,傍目から判断して「いい指導」を行えば必ず「いい成果」が得られるものではないため,評価そのものは空しい面がありますが,それを正面から受け止めることが,本当のいい意味での「いい指導」に前進するエネルギーになるわけです。

 よい方向に前進するためのエネルギーが得られるような「評価」は,本当は子ども自身が最も求めているものなのでしょう。

 だれに指導されるかによって,評価も大きくぶれるような教育を見直す契機が,入試や学力調査をまたなければならないといったところが悲しいものです。

08/6/1 評価の質の低さは指導力の質の低さと同じ

 学校評価の考え方についての批判をもとにコメントした文章がありますので、ここでも紹介させていただきます。
 内容の趣旨は、これまでに述べてきたものとほとんど変わりません。

 私も現場の一教員としての立場から申し上げさせていただくと、もし学校評価の項目に問題があると考えれば、当然のことながら検討してもらうでしょう。
 人手不足の教育委員会はそこまで手がまわらず、学校の自律性に任せている部分が大きいですが、外部評価が機能することによっても健全化は望めます。
 「学校評価の項目に関する学校間格差とPDCAサイクルの実態」などの研究プロジェクトを実行してもらえると、学校評価の質も高まるでしょう。
 「学校評価の質を高めることにより、学校教育の問題点を改善しやすくすること」は、教務主任レベルの職務目標にもなります。
 もし個人の評価を高めるため、学校全体の指導力の向上を果たさない教師がいれば、それは学校全体の目標に反しているという意味で、その教師の評価は低くなるでしょう。
 しかし、その教師が指導で高い成果が出ている部分については、出ていない教師より評価が高いのは当たり前のことです。
 個人名はあげませんが、「すごい授業」をすると有名なある先生が、学校全体の動きにほとんどかかわらず、講師に招かれるので出張ばかりしていた、ときには生徒も自習になるのでビデオばかり見せられていた時期がある、という例もあります。
 有名人はこのパターンが多い
 さて、こういうプロジェクトがあったとき、一部には「学校評価の質を高める」のが目的になってしまって、「より良い教育」という本来の目的の達成がおろそかになる、という主張をする人がいますが、これは、日本国憲法の原則にしたがってさえいれば何でもうまくいくと勘違いして、さまざまな法令のことに目が向かないというパターンと同じです。
 さらに、この法律や命令は憲法の趣旨に反していると(自分が)判断して、遵守しないような行動をとる人までいる。
 ある一つの目的を達成するには、個別に達成すべき具体的なことがたくさん設定できるので、それぞれについての達成目標が必要になるのです。
 「学力を向上させる」という目標もその一つですが、それを達成するにはさらに達成すべき課題がたくさんできる
 一つ一つの目標を達成することが、大きな目的を果たすことにつながるのであって、小さい目標を果たすことが目的になることは、大きな目的は果たすために欠かせないことです。
 「より良い教育が目的です」と言われても、何をいつどのようにするのか、どうだったのか、答えられないと、改善も何もできないのです。
 「競争」や「評価」を低い次元にとどめているのは教師の戦略性・論理性の欠如によるもので、この部分については常に生き残る努力をしている企業から学べることが多い。
 抽象的なことばかり主張して生きていけるのは、大学の先生くらいでしょう。
 もちろん、教師が企業とは異なる教育のコンピテンシーもあります。それらを明示していければ、より信頼性が高まることは言うまでもありません。

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昭和の家庭史トリビア?【第37問】 
 昭和8年(1933年)の話です。
 この年,加賀・前田藩の子孫前田利建と黒田藩の子孫黒田政子が結婚しました。このとき,政子の婚礼家具が多く,運び込むのに相当の時間がかかったそうです。どのくらいの時間がかかったのでしょう。
 ① まる1日
 ② 3日
 ③ 1週間

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 【第36問の解答
 ①の三原山でした。東京市が心中防止相談所を開設し,悲恋による自殺防止が図られるようになったそうです。

小学校の学級王国=巨大な一人親家庭 ふり返り366日【08/6/1-1】

 教育というのは,学校教育でものを教えるところではない,見習うべき人を見せるところだ・・・
 このような言葉を,教師としてはどのように捉えるべきでしょうか。

 生徒は,教師の人間性をよくみているといいますが,「人間は話し方ひとつでわかる」という捉え方と,学校という場では一面しか見られないわけで,それで人間性をうんぬん言われる筋合いはない,という捉え方があるでしょう。

 小学校の場合は,子どもが担任といっしょにいる時間だけが,異常に長い
 考えてみれば,三十数人の子どもが,一人の大人と長時間過ごさせられる小学校時代というのは,かなり特殊な経験をしているわけです。
 巨大な一人親家庭といったところでしょうか。

 このような空間内で,後に発生する問題の種がどのようにまかれ,水面下でどう育っているか。
 
 中学校では,かなりの自治活動を経験する機会がありますが,これを単に発達段階に応じた指導という面からだけ見ていたので,その効果が十分に表れない理由がわからなかった。
 
 実は,自治活動をより強力に推進すべきなのは,小学校段階である・・・これは,何でも担任に頼りきり,隣の席の子どもの落し物を「先生,落し物です」と渡しに来るような子ども,教室の隅に置いてある道具を,「先生,それ取って!」と家と同じ感覚で命令する子ども,クラスによって掃除ができる,時間を守る,提出物の期限を守る,ノートをきちんととる,忘れ物をしない・・・などの習慣がついていたりいなかったり,バラつきのある子どもたちをつくらないためにも,ぜひとも持っていただきたい課題意識です。

 小中一貫校での実践を突破口にして,教育基本法に示された教育の目標を達成するための基礎が培える学校教育をどうデザインするか・・・単なる連携ではゴールが見えない課題かもしれません。

08/6/1 不信拡大の悪循環からの脱却策

 よたよたあひるさんからのご返答は、どれも教育の世界の人間にとってはたいへん参考になるご指摘です。
 このような他業種との交流が教育界には少なかったので、独善的、保身的、閉鎖的な特質が教員には染みついてしまいました。
 「開かれた学校づくり」「人事考課」等は、このような教員の独善性や閉鎖性によってふくらみ続けてきた不信を払拭するというねらいもありますが、そういう政策への反対・反抗という態度によってさらに不信を拡大するという悪循環に陥っています。
 以下、よたよたあひるさんからのコメントをご紹介します。

 コメントへのお返事エントリーありがとうございました。ただ、私がコメントに書いた、  >自己申告をもとに指導してくれる  >上司の対応によって見方、書き方が  >変わるような気がします。 は、「恣意性」の問題ではなくて、もっとテクニカルな部分のことです。

 学校の先生方のことはわからないのですが、医療や福祉の領域の職員だと、直接援助の仕事はとてもよくできる・・感度がよくて利用者のツボをつかむことがとてもうまいけれど、この手の作文が上手くない人は多いです。公立施設であっても、意識は専門職であんまり自治体職員という感覚が薄いということもあると思いますが、動いてナンボという意識が強いのかもしれません(主任試験のマークシートでも一番成績の悪い職種が看護でついで福祉職だったような記憶があります。論文はなおのこと苦手な人が多いです)。ちょっと脱線しましたが、感覚ではつかんでいるのに、うまく言葉にできないでいるものは、一人の職員の「職人技」になってしまいます。ちょっとしたガイドがあると、この「職人技」をスタッフ全員への共有財産にできると思うのです。
  
 また、私の日記で書きましたように、個々の職員にも得手不得手はありますから、利用者に対するのと同じようにストレングス・モデルの指導がうまく伝われば、自分でも不得意だと思っている領域への取り組み方が見えてくる場合があると思うんですよね。今のうちの上司は、国語表現の問題も含めて、その産婆術のような指導をしてくれるんです。

 教員の場合も「意識は専門職で自治体職員という感覚が薄い」ことは明らかです。
 問題はこの「専門性」自体にもあり、ボランティアできた大学生や塾からの講師の方がよっぽど教えることを工夫して、「先生よりわかりやすい」と言われてしまったり、「学習指導要領」をろくに読まず、自己流の教育内容・教育方法を毎年踏襲したりという教員が多いのです。
 100マス計算による効果が伝えられるとすぐ飛びついてまねをし出しますが、子どもはそれ自体の充実感はあるとしても、そのために本来の学習を行う授業時間が削られるわけで、もし計算が終わったらぐったりして次の学習に向かう姿勢がまったりムードになってしまったら意味がないわけです。
 それを導入して高い成果を上げてきた先生というのは、100マス計算のように競い合う方法がよかったのではなくて、あくまでも普通の学習の指導力が高かっただけなのです。
 自治体職員としての感覚が薄いことは、一人が取り扱う文書の数が少ないことも原因に上げられます。
 教師は「書類が多い」と文句をいいますが、それは程度問題で言えば、生徒が「宿題が多い」と言っているのと同じです
 宿題がほとんどでない学校の生徒は、週に2~3回宿題が出ると多いなあと思うかもしれませんが、毎日宿題をこなすのが習慣になっている学校の生徒は、一日に何個もまとめて出されて多いなあと思うわけです。
 自治体職員というより公務員には「文書主義」という原則がありますが、狭い職場であるため口頭での伝達も多く、また「口伝」によって仕事の方法が伝えられるという伝統があることが、教員に「文書主義」の原則が身に付かない背景になり、「また書類ですか、めんどうくさい」という反応になってしまう。
 学校現場では省かれている業務に関係する「起案」という用語も、知らない教員は多いでしょう。
 これは、明らかにボタンのかけ違いによるものです。
 教え方、集団の指導の仕方などは、その場にいれば先輩から盗んだりすることができるのですが、文書作成・文書管理についてはモデルがそこにいないから難しい。
 いまだに書類が整理できない教員はたくさんいると思います。その方法がわかっていない。
 毎年ほとんど同じような書類もあるため、ときどき年度を変えないで出されてしまっても気付かないということがおこります。
 役所も学校も、書類のフォーマットというのは決まっているので、私はそのフォーマットのすべてを4月当初に新しくその学校に入った教員にはすべてわたすべきだと考えています。
 その年は担当でなくても、いつかは自分のところにやってくる。
 そして、教務や生徒部、保健、図書・・・組織がいつ何をどのようにして動いているかを把握する
 副校長も、文書が来てから調査を開始するのではなく、あらかじめ決まっている調査については依頼文書が来る前に用意しておく。
 忙しい時期に文書作成に時間を取られずにすむ工夫は教員にも管理職にもいくらでもあります。
 頼まれもしない学級通信は喜んで毎日出し、同僚から頼まれて行事の要項の作り方を教えるのは抵抗がなくても、「上からおりてきた」文書だけはいやいややる。子どもと同じレベルです。
 人事考課で自己申告書を作成するときは、自分の能力や学校における立場と学校の現状と課題を踏まえて目標を考えるのですが、欠点はわかっていても、では何をどのように目指せばよいかがわからない。
 子どもには学年当初に「今年度の抱負」という作文を書かせるでしょう。
 この作文を踏まえて、抽象的な目標が書かれたら、具体的な目標を別につくり、その目標を達成するための方法も具体的に考えさせる。そのような生徒指導が習慣になれば、では教師としての自分は・・・となるはずなのですが。
 教員が不信拡大の悪循環から抜け出すには、ひとつはより良い教育を実践することとその方法を自分にもあてはめること。もうひとつが、他業種の常識から学ぶべきことを学びとることでしょうか。
 今、学校が開かれだして、中が変わらないまま開いてしまったものだから、ますます不信が高まってしまう学校が出てきた。一部の教員は、いつまでたっても「外部の人間にはわからないことなのだから」と閉鎖性をあらわにします。
 この閉鎖性は、明らかに子ども集団にも伝播しています。
 早く不信の悪循環から抜け出さないといけません。
 子どもたちにとっては、それは二重の意味で、重要なことです。

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昭和の家庭史トリビア?【第36問】 
 昭和8年(1933年)の話です。
 この年だけで100人近くが投身自殺し,自殺の名所となったのはどこ?
 ① 伊豆大島の三原山
 ② 華厳の滝
 ③ 東尋坊

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 【第35問の解答
 ②の「水道料金5割引き」でした。

小中の断絶 ふり返り366日【08/5/31-4】/汚濁水道水

 小学校から中学校に進学したときに,子どもたちは生活や学習の態度をどのように改めるのか?

 小学校の教師たちには,関心を持っていただきたいことです。

 なぜ,中学校入学と同時にできる態度が,小学校では身に付けられなかったのか?

 小中一貫校には,この「不連続性」を改善させ,子どもたちの健全な発達と成長を促す工夫に取り組んでいただきたいと考えています。

 「敬語が話せない」小学生。
 「敬語を使わせない」小学校教師。

 →「敬語が話せる」中学生。
 →「敬語を使わせる」中学校教師。

 非常に大きな断絶です。

 「敬語を強制することはおかしい」・・・そんなことはだれでもわかることですが,

 「強制できないから敬語が話せないことを放置する」小学校教師。

 「『パパがそうおっしゃいました』とわけのわからない日本語を話す子どもに対して,フォーマルな会話では,一言ずつ,言い直させながら敬語を教え,話させる指導を繰り返さなければならない」中学校教師。

 日本語の問題だけとは限りません。

 ある学校の小学生は,教師の体にベタベタと触ってきます。逆なら犯罪になりかねないことです。

 いわゆる「ジェンダーフリー」とは全く違った概念でとらえるべき男女の区別も,何を誤解してか,6年生になっても同室で就寝させるような教育?をしている学校すら存在します。

 このような断絶が起こる最大の原因は,「公私」の区別が小学校ではできない,ということにあるのでしょう。

 中学校では,HRといえども,公的な空間です。
 授業ごとに教師は変わりますし,活動の仕方によっては他クラスの生徒も入ることが可能です。

 小学校の「学級王国」は,ほぼ私的な空間です。
 礼儀正しさを失い,ゆるい空気が善と見なされるようになった家族のような空間が,小学校の教室という一室の中で展開されています。
 
 公私の区別ができない子どもは,組織的に大量に生み出され,13歳になってようやく「あるべき姿」を知るようになりますが,残念ながら,それでは遅すぎます。

 小中の断絶は,教員免許が決定的な溝を生んでいる原因なのでしょうが,学習指導要領を比べてみる限り,柔軟に対応していく必要が叫ばれるようになっていくでしょう。
 

08/5/31
個人・社会観のコペルニクス的転換

 齋藤孝・梅田望夫「私塾のすすめ」(ちくま新書)を読んで、自分の好きな仕事に打ち込める著者たちは本当にうらやましく思います。
 そして、目の前に「何とかしたい人間」「このままでは許せない人間」(齋藤孝の場合は大学生など)がいつもいるというのも本当に恵まれた環境です。
 しかし、近年は、このような「打ち込んでいる人間がうざったく、はた迷惑だと感じてかつそれを表に出すタイプの子どもが増えてきたように思います。(だから齋藤孝が別の作品ですがキレモードの本を出すようになったのか?)
 「俺は俺の楽しみを追求したいのだし、人間にはその権利があるのだから、他人からとやかく言われる筋合いはない」という態度です。
 「人に迷惑をかけないなら何をしてもいいでしょう。学校に違反物を持ち込んで何が悪いの」と主張する生徒の「人」には、先生や本当の意味での自分が含まれていないのです。
 私は今まで、個人(自分、心)が世界の中心にあり、その周囲を世界(社会)が取り巻いているイメージを当然のように抱いていましたが、この方法だと「内に閉じこもる」「ひきこもる」ということが可能になってしまうので、あえて個人と社会のイメージは、社会が中心にあって個人が社会を包み込むイメージをもつべきだと考えるようになりました。
 誤解のないように付け加えると、「滅私奉公」を唱えているわけではありません。個人は小さいものではなく、無限の広がりをもつというものです。
 図でこれを示すと、今までのイメージだと個人が真ん中にちっちゃく、社会が大きく、という現実の物理的なスケールに合ったかたちになりますが、逆にすると、社会は小さく、個人は大きくなり、実はこれは現実の「自己」の精神的な面のスケールのイメージに近いのではないでしょうか。
 「個人」の肥大化が、社会から遠ざかっていくイメージというのが、ぴったり示せます。
 「社会」が「個人」の可能性を閉じこめているようなイメージがなくなります。
 種としての、個体のしての「ヒト」ではなく、漢字で示せる「人」、「人間」としての本質は、「社会中にある」というより、「社会中にある」イメージで捉え、そういう社会観、世界観を育てていくことが必要だということです。
 私の中では大げさですがコペルニクス的な転換です。
 この意味でいうと、「ひきこもり」という言い方はできなくなり、「縄跳びの輪に入れない」イメージに転換します。
 「いじめ」は、自分の中心を傷つける行為になります。
 「滅私奉公」という考え方がなくなります。自分の中心に向かって生きていくわけだし、自分の枠は外側にしっかりあるわけですから。
 「公共の精神」「愛国心」「自由」の捉え方、概念も変わっていくでしょう。
 「公」=「お上」という発想はなくなり、健全なシティズンシップが構築できるのではないでしょうか。 
 また時を改めて考えたいと思います。

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昭和の家庭史トリビア?【第35問】 
 昭和8年(1933年)の話です。
 東京・玉川水道が,市内18万戸に有害濁水を供給してしまいました。原因は腐敗した木製の給水管でした。
 利用者への謝罪として取られた方法は次のうちのどれでしょうか。
 ① 下痢止めの薬の無料配布
 ② 水道料金5割引き
 ③ カルピス1年分贈呈

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 【第34問の解答
 ③の「太陽光線を浴びる運動」でした。

相互評価が苦手な理由 ふり返り366日【08/5/31-3】/健康を取り戻すための運動

 子どもたちが作品を完成させて,お互いに感想を述べ合う,授業でだれかが発言したことを受けて,他の生徒が補足をしたり反論を述べたりする・・・相互評価の場というのは,子どもたちにとってはけっこうあるものです。

 それが嫌で発言しなかったり,作品も人に見せたがらない子どももいますが・・・。そういう子どもと,教師というのはとても似ています。その自覚があるかどうかは別として・・・。共通点は「自信がない」ことでしょうか?

08/5/31 教員の業績評価のシステム

 よたよたあひるさん、コメントありがとうございました。

>自己申告をもとに指導してくれる上司の対応によって見方、書き方が変わるような気がします。

 公立学校の管理職の場合は、人事考課に対応するための研修として「評価者訓練」というものがあります。
 これによって、一般的な評価のパターン、原則、基準等が共有化できるようになっており、恣意的な評価はできません
 普通の教員にも、この訓練の中身などを公開すれば、少しは人事考課に理解を示してくれる人が出てくるでしょう。
 また、校長が行った評価については、教育委員会でその内容を吟味します。
 評価がおかしい校長(全員にBをつけてしまうなど)はすぐ指導を受けることになります。
 一部には、みんながんばっていればBがついていいじゃないか、という声もありますが、これは絶対評価であり、子どもの成績と同じです。
 教員の評価のBは一般に考えられているよりけっこうハードルは高く、イメージとしては、その経験年数等に応じて「できて当然のことがきちんとできること」です。
 教育現場では、これがなかなか簡単にはいかない。
 ですから、島の学校のように小規模校でかつ生徒数が非常に少ない場合など、ごくまれに全員Bというのはある得るかもしれませんが、AやCの教師がかたまったりしないような異動のシステムがありますから、1~2割はCのつく教員がいるのが普通です。
 「上司の対応によって見方、書き方が変わる」ことを完全に防ぐためには、評価情報をオープンにして360度評価にすればいいのです(私の究極の目標はそこにありますが)が、やはり課題のある教師にとってはつらいものになりますから、評価者と被評価者が相互に理解しあうことが大切です。
 なお、教員の人事考課の場合は、教員の職務目標の難易度と自己評価によって、その評価はほぼ決まり、校長は授業観察や日頃の職務行動の観察(副校長や主幹の意見も参考にする)によってその確かさを吟味するというシステムがとられています。

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昭和の家庭史トリビア?【第34問】 
 昭和8年(1933年)の話です。
 健康を取り戻そうと,大阪で始まった運動は次のうちのどれでしょうか。
 ① 昼間の時間帯の禁煙運動
 ② ラジオ体操を家族全員で始める運動
 ③ 太陽光線を浴びる運動

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 【第33問の解答
 ③のブルドッグでした。

宿題を増やすと同時に増えるもの ふり返り366日【08/5/31-2】/ライオンの赤ちゃんの乳母

 学習の成果を「形にする」のは,教師というより学習の主体である子どもです。
 成果を調べるのに,一番わかりやすく,客観性も高いのは,同じテストをして得点をつけることです。
 ただ,ペーパーテストでは学力の部分的な成果しか見えないので,もっと広い範囲の力を見るために,授業中に作成したまとめポスター新聞などが評価の対象となります。
 新学習指導要領では,「言語活動の充実」という観点から,レポートの作成が求められるようになっていますが,「そんなことは以前からやってきた」という教師の方が,信頼に値するのでしょう。
 ペーパーテストの問題を「4観点の評価に対応させる」という努力をしてきた教師も多いでしょうが,それでも限界があります。
 これから,新しいタイプの「宿題」が増えることでしょう。
 ただ,レポート等の「宿題」を「読む」ことも,かなりの時間がかかることを覚悟しておく必要もあります。

08/5/31 書類を作成する目的と効果(結果)

 自己申告書などの書類を作成することが、「より良い教育を実現するための目的」ではなく、評価をつける目的で行われているので気に入らない、という意見があります。
 ある方のブログへのコメントとして、私は次のように述べました。
 

書類を作成する目的は、子どもの成長(教育の目的)の軌跡と自己の実践(教育の手段)との関連を明確に示すことにあり、それを直接的に利用するのは管理職、管理主事等かもしれませんが、自分の職務行動が本当に子どもの成長に寄与していたのか、足りなかったとしたら何が足りなかったのかを自己反省(自己評価)することによって、結果としてはより良い教育を実践していくための重要な職務行動と考えることができます。
 他にも、「子どもは成長していないが、それは教師が何もしていないからではなかった」ことなどを書類は示してくれたり、「子どもが成長したことは、その教師がこれこれの職務行動をとったおかげだ」という内容があれば、他の教師にとっても有益な情報になり、それはつまり子どもにとってプラスになる場合があったりと、その効果は一つではありません。
 デメリットは、作成するのに時間がかかるということですが、これは自分の実践をきちんと分析的に捉え、望ましいPDCAサイクルを実現していれば、さほど苦にはならないでしょう。成果が見えず、自己反省とか、自己改善の習慣もない教師には苦痛かもしれませんが。
 より良い教育の実践記録として書類を捉えるとしたら、それは、今後、自分や他の教師によって継続的に「より良い教育が実践されることを目的とした行為」にもなります。

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昭和の家庭史トリビア?【第33問】 
 昭和7年(1932年)の話です。
 東京・上野動物園でライオンの赤ちゃんが生まれました。このとき,同園の乳母第1号になったのは,次のうちのどれでしょうか。
 ① トラの「寅」 
 ② ゴリラの「梅子」
 ③ ブルドッグの「茶目」

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 【第32問の解答
 ①の寿々木米若(浪曲師)でした。1万4000円でダントツ。淡谷のり子(流行歌手)は2700円,北原白秋(作詞家)は830円。作曲家の中山晋平は9750円,ソプラノ歌手の関屋敏子は9600円など,かなり格差があったようです。この年,NHKが第1回全国ラジオ調査を実施し,嗜好番組の1位は浪花節で57%という数字が出ていますから,出演料のデータも納得できます。

「敬語」が使えない現状を小学校教師はどう考えているのか?

 「強制=悪」図式が大好きな人間は,様々な職業の中でも,教師が最も多いでしょう。
 
 同時に,実質的に制度や前提となる仕組みを知らず知らずのうちに利用しながら,「強制」させている(がそれに気付いていない)人間も,圧倒的に教師が多い。

 さらに,単に法令に従うということにすぎないのに,「強制だ」と騒ぎ出すのも,教師に多い。

 その事実というよりも,「強制」という言葉に過剰反応するのも教師に多い。

 強制されるのは嫌いだが,強制するのは好き,・・・とまで言ってしまえば,身もふたもありませんが・・・。

 「強制」嫌いの教師ですが,学校では,子どもを「強制的に従わせる場面」というのが日常的にありますし,突発的に起こることも多いものです。

 「授業中は,むやみに席を立って歩き回らない」こと,「授業中は,特別の指示がない限り,友達の話よりも,教師の話を聞くこと」などを強制しているから,「授業」が成立している(授業参観,学校公開などで,最近,子どもに注意を与えるのが担任ではなく外部の人になってきている・・・・そんな学校ばかりではないと思いますが)。
 このケースでは,子どもが「強制」と感じているわけではない,という「言い逃れ」がすぐに思いつくかもしれませんが,実際に教室を走り回ったり,指示が通らないような状態で騒いでいたりすれば,必ず座ること,黙ることを強制することになるのです。

 「○○の強制が必要なのか」という問いが出てくるということは,「○○」が正しくできていない,という現状があるわけです。

 ある教育ブログでは,「敬語は強制するものか」というテーマについての考えが紹介されていますが,ここでの「強制」も,もし親や教師が「敬語」というものの意義や使い方を説明して,子どもがそれを理解し,自然に使えるようにすることを「強制」というのであれば,「強制」するものに違いありませんし,子どもがその場で不適切な言動をとったときに,注意を与えて直させるのが「強制」であれば,それが教育ですから「強制するもの」ということになりますし,単に「敬語を使う」ことだけが「強制」されて,何の敬意もない状態であるなら,その「強制」は教育的ではない,ということになりますし,ケースによってそれが正しくなる度合いが変わってきます。

 小学校の教師なら,どのような場面で,どのような言葉遣いをする(敬語を使う)のが適切であるか,教育しているはずなのに,子どもがそれを身に付けていない現状があるとすれば,「教育されていない」と判断するしかないでしょう。

 「敬語は強制するものか?」という問いが出されるということは,「敬語が使えていない」という現状があるということです。そして,その現状をどうしようと思っているのか,それが教師に問われている。

 ところが,残念ながら,教師から直接的に,「尊敬に値しない人間には敬語を使う価値もない」というメッセージを受け取っている子どもも少なくないと思われます。

 また,子どもは,教師同士の関係を非常によく見ています。特に,夫婦間のいざこざが絶えない家庭で長く生活している子どもなどは,直感的に教師間の「不仲」を見抜きます。
 敬語が使われていないほど露骨ならだれでもわかりますが,「敬語」が形だけのものである,と気付くことの「痛さ」はやはり学校ならではのものでしょう。

 子どもというのは実はかなり賢いもので,「この先生はタメ口でOK」「この先生は呼び捨て厳禁」「言葉遣い注意!」など,相手によって態度を使い分けています。

 ただ,要領の悪い子どもだけが「使い分け」ができず,泣きを見る,という事態もよく起こります。
 小学校の教師の最悪な指導は,「中学校の○○先生は怖いらしいから敬語を正しく使うように!」。
 小学校の先輩から伝わってくる話ならまだわかりますが・・・。

 やはり最低の教師は,「堅苦しいから敬語はなしでよい」「よそよそしいから敬語は使わないでいい」という甘えた学級王国を作り出しますが,こういうクラスと,正しく敬語が使えるクラスで学んだ子どもの学力に開きがあり,それが公開されれば,改善の余地があるかもしれませんが,どっちに転ぶか怪しいところがまた小学校なりの課題でしょう。コミュニケーション能力に欠ける教師が自分自身に対する敬語だけはこだわって「強制」していたとしたら,勉強も嫌いになるでしょうね。まさに精神的にも「人質状態」であり,親としては恐ろしい世界です。 
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昭和8年(1933年)に誕生したものは?

[昭和] ブログ村キーワード

昭和8年(1933年)が始まりのもの
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
○吉本興業が「万才」を「漫才」と改称。
○「郵便はかき」を「郵便はがき」と改める。
○「曲馬団」が「サーカス」と名乗るようになる。きっかけは,ドイツのハーゲンベッグ・サーカス団の来日。
○兵庫・甲子園内プールで,第1回室内水上競技大会が開かれる。
○行き先を客に教えないミステリー列車の第1号が登場。
○資生堂,第1期「ミス・シセイドー」9人を選考。ミス○○の始め。
○女性でも弁護士になれるようにと弁護士法が改正される。
○肉屋でコロッケが売られ始める。
○トマトジュースの販売が始まる。
○東京・府中に東京競馬場オープン。初日の売上げは77万円。
○豆マイクが国会で初めて使用される。
○新・小学国語読本(サクラ読本)使用開始。初の色刷り教科書。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★


昭和8年(1933年)のデータ
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
○全国の100歳以上の高齢者は1月1日現在273人。うち205人が女性。
○東京市内の高等小学校90校の卒業生1万5千人のうち,1万人はすでに就職し,3学期はほとんど欠席。学校側も黙認。
○三陸地震が発生。高さ30mの津波に襲われ,死者3008人,流失家屋4917戸,倒壊家屋2346戸。
○アメリカが14年ぶりに禁酒法を撤廃。
○日本の綿布輸出量,イギリスを抜いて世界第1位に。
○7月15日,山形県で40.8℃という日本最高気温を記録。
○屑の回収業者は東京だけで1万3000人。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

昭和8年(1933年)にブームになったもの
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
○「のらくろ」のお面が売り出され,3~4ヶ月で500万枚売れる。
○お面以外の「のらくろ」キャラクター商品も大ブーム。
○ヨーヨーが大ブーム。1個10銭。月産約500万個。
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

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世界を相手に戦えないのは? ふり返り366日【08/5/30】/昭和初期・音楽関係者の高給取りは?

 週刊ダイヤモンド7月25日号の特集は「子ども危機 この国で産み育てるリスク」。

 「富士山の位置を知らないゆとり世代教師の出現」という記事は,かげやまメソッドのかげやま副校長が編集者の質問に答えているものです。

 「ゆとり教育が残した負の遺産の処理はむしろこれから始まる」・・・教師の学力低下について,厳しい現状を報告しています。

 学習指導要領については,小学校のことしか知らないので,見当違いのコメントを繰り返していますが,今回も「小学校で○○を習っていない教師が・・・」という「学習指導要領=戦犯」論者らしい主張を披露しています。

 教師批判は大阪府教育委員になってから痛烈さを増し,
 

ほとんどの教師の言うことはだいたい決まっている。おカネ,人員が足りないという「不平」。それを理解しようとしないマスコミ,政治家,社会への「批判」。自分たちは一所懸命やっているという「言い訳」。ほぼ,この三つのことしか言わない。
 また,「理念」「理想」「言葉」が支配していたのがこれまでの教育界。だが,プロの教師たちは「事実」「実践」「数値」で自分たちのやっていることを語ろうとしており・・・

 以上のようなややチグハグ感もある行政的コメントをしています。

 大阪の教育がたとえば学力面で向上しなければ,やはり現場の教師のせいになるのでしょう。
 その根拠は,現場を見ればいくらでも見つかるので,決して「誤り」であるわけではありません。

 問題は,私のような現場のヒラ教師ではなく,副校長・教授・教育委員という肩書きを持っている人間が主張している,ということでしょうか。

 問題の教師を教育する側・雇用している側の責任が次に問われてくるわけです。
 大学教育委員会です。

 大学と教育委員会にも,「世界を相手には戦えない」現状があるのでしょうが・・・。

08/5/30 飛ぶ公立学校

 今の学校現場の問題について、人間(教師)を機械にたとえて考えますが、これは教師は機械のような存在であれ、という趣旨ではないことを、あらかじめお断りしておきます。
 公立学校は、一機の飛行機です。
 重量に耐えかねて、高度が落ちてきています。
 高度を上げるよう、管制塔から指示が来ていますが、
 機体が言うことをききません。
 管制塔からの指示に、機長は、「高度を上げたいと思っている」
 としか答えられません。
 視界が悪くなってきており、この高度で航行するのは危険です。
 上空を、大型の旅客機が通過しました。
 かなりの高度で飛んでいます。
 ジェット戦闘機まで飛んでいます。
 あっという間に見えなくなりました。
 不満に思った乗客が、機内で暴れ始めました。
 すると機体のあちこちが壊れ初め、さらに高度が落ちてきました。
 整備は十分に行われていたのでしょうか。 
 逆噴射するエンジンまであらわれました。
 機体はコントロール不能です。
 高度を上げるには、余分な荷物を捨てなければなりません。
 しかし、何が余分な荷物なのか判断できません。
 そのうち、機長が燃料を捨て始めました。
 ようやく機体は上昇し始め、雲の上にでましたが、
 まもなく燃料が切れました。
 飛行機は、風に流され、ゆっくりと高度を下げながらも、何とか
 飛び続けています。
 機体を持ち上げているのは上昇気流です。

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昭和の家庭史トリビア?【第32問】 
 昭和7年(1932年)の話です。
 レコード吹き込み出演料が最も高かったのは,次の3人のうちのだれでしょうか。
 ① 寿々木米若(浪曲師)
 ② 淡谷のり子(流行歌手)
 ③ 北原白秋(作詞家)

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 【第31問の解答
 ①の「寄生虫」国でした。汚名返上のため,強制的に検便をさせるなど寄生虫予防施行規則が制定されました。この頃,70~80%の日本人が「寄生虫持ち」だったそうです。

よい教師と名ピッチャーの共通点 ふり返り366日【08/5/29-2】/日本は何大国だった?

 よく授業は教師と子どもの心や言葉の「キャッチボール」という比喩が使われます。

 キャッチボールの基本は,受ける側は,正面で取れるように移動して,両手で捕ること。

 投げる側は,相手の正面に投げること。

 ボールの回転や速度,材質も相手によっては選ぶことが重要になります。

 授業とキャッチボールが異なるのは,ほぼ同時に投げられてくるボールを処理しなければならないことと,予期でいないほどの癖球が飛んでくることでしょうか。

 子どもにとって最悪なのは,あさっての方向に飛んでいくボールを教師が投げ続けたり,自分の席まで届いてこないボールが多いことです。

 ベルペンで投げることがおろそかになっている教師が,本番でいきなりいいボールを投げることはできないでしょう。

 よい教師の条件は,よいピッチャーがもっているものと同じなのかもしれません。

08/5/29 授業を玉入れにたとえると・・・

 ある方のブログを訪問し、「生徒が持っている情報量が教師の持っているそれより少ないこと」が認識できないで授業をする教師がいる(=典型的な教師の失敗の一つです)という記事を読んで、以下のようなコメントを入れさせていただきました。
 

教師のまずい指導がおこるのは、その教師がそういう指導を受けてきたからだと思いました。
 教師は、自分が受けてきた授業のような授業をしがちです。
 教育実習生を指導するときも、教師を指導するときも、切実に感じました。
 教育の成果は、教師が上から落としていくものを子どもが籠とかで受け止めていくイメージではなくて(籠ではなくザルが多い)、玉入れのように高いところにある籠にものを投げ込んでいくイメージに近い。
 コントロールを誤れば入らない。
 玉もたまっていかない。
 子どもは、けっこう高い位置にいるものです。
 学習への要求水準は実は高いのです。
 あまり低い籠に玉をためても満足はしない、というのが私のスタンスです。

 下に向かって玉をばらまいているような授業はいつでもたくさん見受けられます。
 生徒の皆さんは、このたとえがわかりますか?

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昭和の家庭史トリビア?【第31問】 
 昭和7年(1932年)の話です。
 当時の日本は,世界的に有名な○○国という汚名があったそうです。○○にあてはまる言葉は?
 ① 寄生虫
 ② 毒キノコ
 ③ 性病

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 【第30問の解答
 ②の35区でした。今の23区になったのは,昭和22年(1947年)のことです。

だれのための競争か? ふり返り366日【08/5/28-5】/23区の前はいくつだった?

 昨年の5月には,「競争」に対する認識の違いから,かみ合わない議論が続いていました。

 それは,「競争」=「利己的なもの」という思い込みをもった人とのやりとりであったためで,もっとわかりやすい例を挙げて説明してあげればよかったと後悔しています。

 競争は自分のためのもの,という考えに固執してしまっていては,それでもそれが他人のためになっているのであれば,しないよりよい,という答えしかできなかったわけです。

 自由競争にさらされている企業は,自分自身が利益を出すことを目的としているとは言っても,そのことと「利己的であること」とは別次元の問題です。

 消費者に選んでもらえる商品を提供しない限り,利益を出すことはできないのです。

 つまり,自由な競争がある環境では,消費者側に選ぶ権利がある以上,消費者に「利益」をもたらすような商品を作り出すのが,使命ということになります。

 「教師はよくやっている」と自己を肯定的に捉える教師たちにとって,「よりよい教育」を求める子どもや保護者の声は邪魔なだけなのです。

 子どもや保護者に学校を選ぶ権利がない状態を放置したままで,なぜ学校が「利己的ではない」と言えるのか,不思議なものです。

 競争がない環境では,教師がどんなに「利己的な行動」をとろうが,学校には何の影響もないということになります。

 このような最も根本的な意識のズレが,学校の非常識であり,「利己的な人間の集団」だと見られる所以です。

 競わないですむように仕向けるのは,自分がラクをしたいからだということに思われていることについて,無関心でいられる神経が,公教育への不信に拍車をかけているわけです。

 全体主義的な発想をもっている教師にとっては,政党が競っていること自体も無意味に感じていることでしょう。

 最後には一つの政党だけが生き残ると信じているわけでしょうから・・・。

 なお,記事のふり返りについて,Mさんが関係しているところは,本人が望んでいないようなので触れないようにします。
 

08/5/28
競争原理に反対する目的

 まずろさまへのブログに書き込ませていただいたコメント(一部改変)です。
 

教育の目的であるべき子どもの成長が,競争によって手段に転化してしまうことが恐ろしい。

 との主張に対してのものです。
 子どもの成長を目的にする教育という仕事は、教師にとっては生きていくための手段です。
 教師にとって、教育という仕事は目的でもあり、手段でもあるのです。
 別の見方をすれば、教育という仕事は、子どもを成長させるという目的を達成するための手段であるとも言えます。
 目的と手段という別次元のものを同一視・混同するのはいかがなものでしょうか。
 子どもの成長が手段になるというのは、たとえば東大進学者が増えれば入学志望者が増える、といったようなことを指すのでしょうか。
 目的より手段を優先して仕事をするとしても、結果として子どもが成長して目的が達成されれば同じことでしょう。
 教師の利己性が表面化し、子どもの成長を妨げる結果になるのは、「競争」以外でもいくらでもあるでしょう
 「競争」は、子どもの成長を妨げる教師の利己性を排除する機能をもつことがあるということを主張しています。
 「利己的な教師の排除」を妨げる目的で競争に反対するという論理はよく理解できます。

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昭和の家庭史トリビア?【第30問】 
 昭和7年(1932年)の話です。
 東京市が5郡82ヵ町村を合併し,総人口497万人,世界第2位の大都市となりました。
 それまでは15区でしたが,この合併によっていくつの区になったのでしょうか。
 ① 23区
 ② 35区
 ③ 47区

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 【第29問の解答
 ③でした。

「今どきの子ども」と教師 ふり返り366日【08/5/28-4】/夫と妻の権利

 子どもたちというのは,社会に出るまでの間に,どのような影響をどのくらい,学校から,家庭から,社会から受けているものなのでしょうか。

 学校なら,教師から,友人たちから,先輩から・・・相手の立場は様々です。
 家庭で影響を受ける相手は,少子化核家族化で昔よりかなり限定的になっています。
 社会については,インターネットという,ほとんど子どもと大人の垣根のない「自由な世界」に,携帯などから自由にアクセスできる環境に変化しました。

 人が他者や環境から受ける影響は個人によってかなりの違いがあるでしょう。

 学校が個人に与えている影響は,測定不可能である,それも確かなことかもしれません。

 しかし,だから学校や教師がその影響について過小評価してもよい,ということにはなりません

 学校の教師と子どもとの関係を考えた場合,決して忘れてはいけないのは,「AがBの時間の使い方,行動の内容をコントロールできる」という関係が教師()と子ども()との間にあり,その時間が非常に長い,ということです。

 この二者の関係には,「BがAに従順かどうか」が第一に問われます。
 の子どもにとってのは,教師とは限らず,他の影響力の強い,クラスメイトであるかもしれません。
 
 このような関係のもとで,どのような影響をから受けるのでしょうか。

 まず,教師の立場で問うていく必要があるのは,子どもがもっている諸問題のうち,教師や教師集団から直接的な影響を受けて発生している可能性のあるものを洗い出していく,そういう作業なのではないでしょうか。

 このブログの中では繰り返し行ってきましたが。

 家で学習をしない。

 本を読まない。

 規則を守らない。

 時間を守らない。
 
 向上心がない。

 リーダーシップがとれない。

 奉仕的精神に欠ける。

 教師が子どもに求めようとしていることは,まず教師自身が自分に求めていかないといけないでしょう。

 勉強する時間がない?・・・それは「忙しいから!」・・・子どもも教師も同じ言い訳をしていませんか?

08/5/28 若者と教師に共通する弱さ

 教育学者の齋藤孝氏は、大学で相当ストレスがたまっているのか、著書「なぜ日本人は学ばなくなったのか」(講談社現代新書)で厳しい若者批判をしていますが、以下のようなものは、教師にあてはめても同じようなものです。
 

若い人は、たとえ強気に見える人でも、自分が強固だとは思っていません。むしろ批判されたらガラガラと崩れてしまうような脆さを持っています。だから、生き方や価値観、能力といったことに踏み込まれり、・・・(中略)・・・
 自分が裸にされ、実力を試され、場合によっては否定されるようなリスクには耐えられない、というわけです。
 ・・・・
 現在は、他者の前で自分の実力があからさまになることは避けたいと思う一方で、他者による承認も得たいのです。競争には参加せず、自分の実力を高める努力は避けつつ、一方で「君はユニークだ」「唯一無二だ」「資質があるよ」と褒めてもらいたい。そういう都合のいい欲求が目立つようになっています。

 見える範囲が限られている著者ではありますが、見えていることは事実でしょう。
 若者と同じ教師の弱さ。
 まさか、若者の現状というのは、教師の資質自体が若者に影響を与え続けたその結果なのでしょうか。

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昭和の家庭史トリビア?【第29問】 
 昭和7年(1932年)の話です。
 この年の6月に,大審院(現在の最高裁判所に相当するもの)が下した「新しい判決」とは? 
 ①「妻の日記は夫でも読んではいけない」
 ②「妻に家計の管理をさせてはいけない」 
 ③「妻の持ち物は夫でも自由にしてはいけない」

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 【第28問の解答
 ③の「命はいつ棄てても仕方がない」でした。五・一五事件と言えば,「話せばわかる」「問答無用」という有名なやりとり?が「流行語」になっています。

学ぶ姿勢がない教師から何が学べるか ふり返り366日【08/5/28-3】/五・一五事件

 「教師は話を聞かせるのは好きな人間ですが,話を聞くのは苦手な人間です」

 「教師は評価をするのが専門の人間ですが,評価をされるのは大嫌いな人間です」

 こんな言葉を教員免許状更新講習の冒頭で述べた講師がいたそうですが,相当の自信の表れでもあります。

 「教えることのできない子どもというものはない。あるのは,子どもたちにうまく教えられない学校と教師だけであえる」ということを述べた研究者もいます。

 教えることの改善の余地がどこにあるのか。

 免許状更新講習が,それを探る機会の一つになるかどうか。

 更新講習という学習の場を経験して,「学ぶことは一つもなかった」と言ってしまえるような教師が,どのような教育をしているか。

 見方は二つあるでしょうが,「学ぶことが何もない」学びの場とは,何なのでしょう。

 社会科の教師に,知識の記憶にすべてをつぎ込んでいるタイプの人がおり,大体はその言い訳を「受験があるから」というものにしているのですが,こういう人に,「学ぶ」とはどういうことなのか,子どもに問われたときの準備はあるのでしょうか?

08/5/28 教師たちの低い職業倫理

 学校選択制についてのコメントを読みながら、教師たちの低いモラル、職業倫理(金のためなら・・・)のあり方にあらためておぞましさを感じました。
 また、教師や学校を評価する目をもたない(一般の方ならこれが当たり前のことなのでしょうが)教師が多いことも実感できました。
 だから自分の研究が役に立つのだと思います。
 以前にも、学校訪問で教師の資質・能力を観察するポイントのことを述べたと思いますが、あえて教師の方にそれがわからないように(紹介した部分だけ、努力されるということのないように)、再度の公開は控えようと思います。
 「よい教師の条件」「優れた教師の行動特性」は、なるべくたくさん具体的に示す必要があると考えています。

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昭和の家庭史トリビア?【第28問】 
 昭和7年(1932年)の話です。
 暗殺事件の多発に,防弾チョッキの注文が殺到するようになりました。犬養毅首相にも贈られたそうですが,そのとき首相は何と言ったのでしょうか。
 ①「この日本もいよいよ終わりだ」 
 ②「話せばわかるのが日本人だ」 
 ③「命はいつ棄てても仕方がない」

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 【第27問の解答
 ①の「女性が下着(ズロース)を身につけること」でした。理由は,ロープを使っての脱出時に裾を気にして落下した女性が多かったため,ということです。ただ,有名なエピソードではありますが,その普及率はさほどではなかったとも言われています。実際にズロースが一般に広がったのは,戦時中にモンペをはくようになってからのようです。

「ノー公教育」コールを防ぐためには ふり返り366日【08/5/28-2】/デパート火災と女性の衣服

 齋藤孝は「なぜ日本人は学ばなくなったのか」の中で,
 

ある種の「開き直り社会」ないしは「バカ肯定社会」へと,世の中が一気に変質してしまった

と述べています。本人は,もっと刺激的な「なぜ日本人はバカになったのか」というタイトルをつけたかったのかもしれません(しかし似たタイトルの本がほかにありました)。

 「バカ肯定社会」は,「ノーリスペクト社会」でもあり,教師や親,先人に対する尊敬・感謝の念が喪失されてしまっている社会であるといいます。

 学者ですから,「ノーリスペクト社会」になったので,「バカ」になった,とは言っていませんが,学力向上については塾や通信教育の分野に頼ることが可能になり,様々な情報もインターネットを通じていくらでも手に入る時代になって,主に「知識」の伝達,「受験のための授業」が中心となってしまっている学校の相対的価値が低下していることは明らかであり,その結果として,ノーリスペクト状態に拍車がかかっていることは確かでしょう。

 そこに追い打ちをかけるように,「教師を尊敬しなくなったからだめなのだ」という因果関係で片付けようとする愚かな人間がいることが,教育界にとっては頭痛の種です。

 「バカ肯定社会」の担い手に教師がなってしまい,「ノー公教育」コールに結びつかないことを祈っています。

08/5/28 「なぜ日本人は学ばなくなったのか」

 齋藤孝著「なぜ日本人は学ばなくなったのか」(講談社現代新書)には、著者の強い口調のメッセージが込められているのですが、私はamazonのレビューに比較的辛口のコメントを入れました。
 辛口であるには珍しく、今のところ、10人中8人が「参考になった」としています。

 齋藤孝の著書は9割方読みました(熱意があふれるよい教育書が多かったです)が、日本人の読書離れに対する著者の不満を「日本で売れる本の条件の一つ」である「日本(人)の危機を煽る」というパターンで表現したこの本への評価は、残念ながら高いものではありません。
 タイトルの問いに答えはしているものの、「昔はよかった」系の「知識披露」が多く、読書がもたしてくれた成果であることはわかりますが、著者が言いたい「学び」 は「読書」や「学校教育」という枠にとらわれすぎ、深くても広さがないのが不満の一つです。しかしこれは、教育学者が陥っている典型的なパターンなので仕方はないでしょう。
 一般人には、「教養の欠落」というレベルと「学ばなくなった」というレベルは決して同じではありません。
 タイトルの問いの答えを端的に表現すると、学習への刺激、機会、圧力がなくなったからで、さらにくだいて言えば「学ばせなくなったから」ということです。
 教育の「強制」をキーワードにしようとしていることはよく理解できます。
 しかし、著者が、研究によって「見たいものしか見えなくなっている」状況に陥ってしまっていることが気にかかります。

 大学や大学生への不満もひしひしと感じられますが、自分で選んで入試を受けて通っている大学生と、近所の中学校に通っている普通の中学生を同列にして語ることもできませんから、この本のタイトルは不適切なのです。

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昭和の家庭史トリビア?【第27問】 
 昭和7年(1932年)の,やや有名かもしれない事件の話です。
 12月16日の午前9時30分頃,東京・日本橋のデパートで火災が発生し,女店員の何人かが脱出中に死亡してしまいました。
 この事件以降に一般化したと言われていることとは何でしょうか。
 ① 女性が下着を身につけること。
 ② 女性が和服ではなく洋服を着るようになったこと。
 ③ 女性が体育の授業を受けること。

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 【第26問の解答
 ③の「女子ボクシング」でした。

全体・部分・個の相互関連 ふり返り366日【08/5/28】

 学力向上の話をしていると,「それ以外の子どもの能力はどうでもいいのか?」という反応をして「学力問題」から遠ざかろうとしてしまう人間が,教師にもいます。
 
 「学力面以外の子どもの能力が高ければ,学力も高まりやすい」という統計上の数字を使って,「学力問題」に正対するような実践から逃げようとする教師もいます。

 「学力の高い人はそれ以外の能力に課題がある」などという「ひがみ」に基づき「それ以外の能力に課題がある」例だけをもとに偏見の塊のような人間観を形作ってしまった人もいます。

 確かに,「部分が集まって全体ができあがっている」という見方,「部分はあくまでも部分にすぎない」という見方,「ある部分が全体に大きな影響を与える」という見方など,人間や社会を見る目が異なる教師が現場にまざっていると,ある面では「他の見方の有効性」を学びながらよりよい教育実践ができると考えられる一方で,「他の見方の有効性」はどうでもいいから,各教師がそれぞれに好きなことを思いつくまでやればよいという,子どもにとっては「人によって言うことが違う」教育を受けさせられる可能性もあります。

 全体主義は必ずおかしな偏りや不寛容の精神を高めてしまいますから,異なる意見がさまざま存在すること自体は決して悪いことではありません。
 
 しかし,「個別主義」では,指導の一貫性と具体的な目標の喪失,わがままを促してしまうことなどの問題を生じます。

 「全体と個」との関係は,全体だけ,個だけの事情で決まるわけではなく,全体とそれぞれの個,いくつかの個のまとまり(部分・集団)との関係で決まるものです。

 様々な教育政策に対しても,全体や部分・集団,個と,これらの相互関連を土台にした問題点の分析を進めていくべきでしょう。

08/5/28 永遠の希望をもつ教師

 コメントをいただいたまずろさんのブログにおじゃまして、書き込ませていただいたのが以下の文章です。

 公務員の中でも、教師という職業はその仕事への期待が高く、そしてその失敗への失望も深いものです。
 各学校の教育課程で一目瞭然。
 すべての子どもに○○という力を身に付けさせる・・・というのは至難の業です。
 達成度が低い仕事である分、その資質・能力・実践力の向上はたえず問われ、仕事をしながら研究と修養に励まなければなりません
 すぐに成果が出せないことも、現状維持だけでも相当のエネルギーを費やしている学校があることも、みんなわかっています。
 教師の問題は、できないことを非難されるとき、「それでも頑張り続けます」と言える謙虚な人もいる一方で、「私のせいではない。競争などを導入する行政のせいだ」などと逆ギレする人がいることです。
 強気な人は管理職にくってかかることで不満を解消し、控えめな人は、ブログに書き綴って賛同を求めようとします。
 教師には、逃げ道がありません。
 しかし、無限のチャンスがあります。
 「永遠の希望」と言ってもいいかもしれません。
 生徒は、待ってはくれません。
 常に成長の機会を求めています。
 生徒に希望をもたせることができる教育者でありたいものです。

 中学校で言えば、やっと一人前の人間らしくなってきたな・・・と思っているうちに卒業していなくなってしまい、また宇宙人のような一団が加入してくる・・・。
 そういうエンドレスの意味でも「永遠の」問題ですし、ほとんど大きな目標の達成が難しいという意味でも「永遠の希望」なのです。
 自動的に給料が毎年増えていき、安定的なボーナスまで保障されている恵まれた公務員には、高度な職業倫理が求められるはずです。
 経済面の好条件にあぐらをかいて、努力を怠る教師たちが、「同僚のパイを奪おうとなどと思うな!」というプレッシャーをかけている現実を、教師以外の方々はどのように思われているでしょうか。

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昭和の家庭史トリビア?【第26問】 
 昭和7年(1932年)の話です。
 1月9日に東京・日比谷公会堂で行われる予定だった,日本初のある試合が,風紀上好ましくないという理由で,警視庁によって禁止されました。
 どんなスポーツの試合だったのでしょうか。
 ① 女子相撲
 ② 女子柔道
 ③ 女子ボクシング

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 【第25問の解答
 ③の「飛行機からの飛び降り」でした。三重県鈴鹿上空で日本空輸旅客機から乗客が飛び降り自殺を図ったものでした。

指導の前提の誤り ふり返り366日【08/5/25-4】/トンカツと楽天

 前提が間違っている指導によって子どもが失敗した場合,その失敗の原因を探っていくときに「指導の前提の誤り」という要因まで検討の材料にする教師集団というのはまれなものかもしれません。

 失敗の原因が手っ取り早く指摘できるほど,実は前提の誤りが原因である確率が高くなるのですが。

 つまり,失敗が予期できる場合は,それが起こらないような行動を計画的に行うことが求められているわけです。

 それなのに予期した通りの失敗が起こるのは,(ごくまでに失敗から新しい指導を開始するという手法を使う場合もあるでしょうが)計画自体が失敗していた証拠です。
 
 人事考課制度のもとでは,各教師が職務目標を設定しますが,前提が間違ってる目標はいないでしょうか。

 通常,最初の面接でそれが修正されるはずですが,問題が管理職側の職務目標の設定にあるケースでは,組織が共倒れになるわけです。

 班活動の指導を任せられるかどうかは,学校の中でのその教師の動きを見れば簡単に見通せるものでしょう。

08/5/25 続・班活動の指導に関する一考察

 人間は程度の差はあっても、多くは「みんながやるなら自分もやる」主義です。
 ごくわずかに、だれもやらなくても自分はやるという主義みんながやっても自分はやらないという主義の人もいますが、たいていは自分が置かれた状況のなかで、他人の動向を見ながら行動しています

 教師集団を見ても同じことがおこっていませんか。
 この集団に対して、「周囲に気を遣う目」=空気を読む力を要求すると、そういう傾向がますます強まります。

 子どもは常に協力行動をとろうとする心をもっていると信じたい人の気持ちはわかりますが、もしそれが現実なら、いじめは深刻化するか全くおこらないかのどちらかにしかなりません
 協力行動をとるかどうかはそのときの状況によって左右されるものです。教師が見ているか、見ていないか。班長のリーダーシップが強いか、弱いか。

 そして、「みんなが」主義の子どもたちは、スタートの時点で協力行動をとる子どもが少ないと全体として非協力になり、協力行動をとる子どもがある一定数を超えると全体として協力行動をとる方に加速していく傾向があります。
 あくまで「みんなが」主義をとろうとすれば、スタート時点での協力行動をとる子どもが増えるようにすれば、ねらいは達成できます。
 状況も何もなく協力したい、さぼりたいという前提で行動する子どもはほとんどいません

 行政の言うことは何でも従う、行政の言うことは何でも反対する、という教師はいるかもしれませんが。
 子どもの心は予め確定しているわけでなく、状況の中で育ち、変化していくものです。

 協力させることが前提ではなく、何をどうすべきかを自分の頭で考えさせることが指導の前提になければ、「自治」能力は高まらないというのが、私の考えです。

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昭和の家庭史トリビア?【第25問】 
 昭和6年(1931年)の話です。
 この年,ある方法による自殺の第1号という出来事がありました。その方法とは?
 ① 服毒(青酸カリ)
 ② 列車への飛び込み
 ③ 飛行機からの飛び降り

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 【第24問の解答
 ③の「楽天」でした。

「安心社会」の問題性 ふり返り366日【08/5/25-3】/トンカツのルーツ

 ふり返りの記事が時系列で前後してしまいましたが,「安心社会」というキーワードが登場したせいで,山岸俊男の「信頼社会」と「安心社会」の関係論が注目されるようになるかもしれません。

 ここでは,「安心社会」の問題点がわかりやすく主張されているからです。

 私の目には,国の動きとしての「安心社会」の「安心」は,「世話をしなければならない側」の「安心」にばかり目がいっているようで,「世話される側にとっての本当の安心」が視野に入っているかどうかが疑問です。

 「信頼社会」というと,お互いの関係性で初めて生まれるものだというのがわかりますが,「安心社会」の「安心」は,どこか一方的な「安心」もあり得るような印象があります。

 たとえば学校で「安心」できないでいる=「不安」を抱えている子どもが学力面では必ず存在します。

 それではそういう子どもがいて教師も「不安」でいるかというと,そうとは限らないでしょう。

 教師にとっての「不安」が初めて襲ってくるのは,進路(進学)の時期が近づいてきたり,自分の業績が評価に反映されるなどという話が舞い込んできてからの話です。

 教師の子ども,学校と家庭との間に本当の意味での信頼関係が築かれるというのは,よくあるのは問題が起こって,その対応が適切であったりしたときにできることがありますが,日常的なコミュニケーションの中で形成していける仕組みができることが望ましいのでしょう。

 保護者がなぜ学校を信頼してくれているのかというと,その鍵が学校から帰った後に行われる家庭での会話の内容にあることに,保護者との二者面談で気付かされることが多くあります。

 やはり小手先の技術ではなくて,実質的な成果が,本当の意味での信頼関係を生むというわけでしょう。

08/5/25 学校は信頼社会へ移行できるか?

 以下の考えは、山岸俊男(社会心理学者)著『日本の「安心」はなぜ、消えたのか』(集英社インターナショナル)で紹介されていることを参考にして述べています。
 自分に損になることはしないはずだ(仲間内での制裁機能がはたらくから、だれも不正は働かないはずだ)と考える(だからたとえば玄関に鍵をかけないでいられる)安心社会を、教師社会も求めている傾向が強いことは明らかです。
 安心社会では、成員の実力が高まることをねらいにしているわけではなく、仲間内のルールやモラルが守られていればそれでよいのです。
 しかし、安心社会の問題は、人の流動性が高まったとき、外部の人がそこに入るときに「人を見たら泥棒と思え」という、他人を信頼しない心理がはたらくことです。
 無理もありません。学校社会が閉鎖的で、排除されても全く何の支障もない人がそこにはいなかったからです。
 江戸時代を思い浮かべればよく理解できるでしょう。
 少なくない教師にとっての管理職観は、まさに「外部の人間」「他人」なのでしょう。
 安心社会の長所は、閉鎖的で変化や発展に乏しい環境では、社会を安定化させる効果があるということです。
 集団内での制裁機能があるため、自分が損をすることになる「ルール違反」をあえて犯す人はいません。
 安心社会の教師集団は、たとえば「自分だけ学級通信を出すのはずるい」と行動を規制したり、力のない教師には重要な仕事を任せなかったりと、仲間内での排除機能をはたらかせながら、秩序を維持しようとしています。
 安心社会は、教師同士が信頼しあうというより、互いの利己性にびくびくしたり他人を疑ったりしなくてすむ社会であって、逆に言えば、互いを信頼しあうことができない人たちがつくり、安心していたい社会ということができます。
 しかし、変化が激しく、発展性を求められる環境になると、安心社会ではそれに対応できなくなります
 だから競争原理が入ったらそれに反発するというのは、安心社会の教師には当然の論理になります。
 たとえば教師が自己評価をして、それが給与に反映されると聞くと、すぐに「インチキをして自分の評価を高めようとするやつがでてくる」と疑うのが、安心社会の教師に典型的なパターンです。
 話はそれますが、安心社会信頼社会の違いをわかりやすい例で説明することにします。
 安心社会につかっていたい人たちは、インターネットオークションがここまで普及するものとは思わなかったでしょう。
 相手を信頼するのではなく、相手を信用しないのが常識の社会では、だまされることを危惧してだれもこの世界には足を踏み込もうとしないでしょう。
 現実問題として詐欺の被害があることは確かですが、だからネットオークションはなくなっているかというと、そうではありません。むしろ利用の拡大が続いています。
 悪い評判が増えた出品者は、名前を変えてまた市場に参入することができるので、被害をなくすことは難しいでしょうが、信頼社会の重心は「相手を疑う」ことではなく、「相手を信頼する」ことにおかれます
 私が利用するときに重視するのは、過去の利用者たちによる評価です。その満足度が高ければ高いほど、安心して取引をすることができます。
 人に対する信頼が雪だるま式に大きくなっている例の典型です。
 以上の例から、教師の多くは「異動」のシステムを想起することができるのではないでしょうか。
 詳しくは別の機会でふれることにします。 
 信頼社会にも弱点はあって、「努力した人、正しいことをした人が報われる」システムがないと、この社会は機能しないのです。嘘をついたり、他人をだましたりする人が得をしてしまわない社会にしなければなりません
 安心社会の人は、そんな制度はつくれない、だから今のままでいい、という主張をしています。
 将来の子どもたちにいつまでも安心社会の住人でいろ、「空気を読む」能力をもっと身に付けろ、という教育をしていたのではかわいそうです。
 何か問題がおこるとすぐに「お上の監視が甘いからだ」と反応するのも安心社会の問題です。
 山岸俊男さんは、前述の著書で、次のように述べています。

 何ごとにおいても「お上」の監視や管理を求めるやり方は、相互監視や制裁を基本とする集団主義社会ならば通用する方法であっても、開かれた信頼社会には不適合な方法ではないかと思えてなりません。
 それよりも私たちが考えるべきなのは、ポジティブ評価を得た人たちがトクをする社会を作るということではないでしょうか。

 管理職との意思疎通を十分に図って、自己申告書やキャリアプランをしっかり作成していただき、教師に対する「よい評価」を前提とした信頼社会に学校社会を移行してもらえることを切に願っています。

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昭和の家庭史トリビア?【第24問】 
 昭和6年(1931年)の話です。
 豚の肉にパン粉をつけて揚げる料理は,すでに明治時代からあり,当時はポークカツレツと呼ばれていましたが,ポークカツレツは肉が薄く衣の方が厚いもので,次第に肉が厚くなり,ポークカツレツと分けてトンカツと呼ぶようになりました。このトンカツ(豚のトンとカットレットの合成語)という料理名を最初に使ったのは,東京・上野の何というお店だったでしょうか?

 ① 煉瓦亭
 ② 安楽亭 
 ③ 楽天

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 【第23問の解答
 ①でした。C・Bカレー事件といいます。この事件は,国産品が外国品と遜色ないことが分かり,国産品普及の引き金となった,イギリスにとっては二重に迷惑な事件となりました。

78年前の流行語とは?

 昭和6年(1931年)の流行語とは?

 いいじゃありませんか
 アメション
 電光石火
 減俸
 テクシー

 テクシー=徒歩のことだというのはわかりやすいですが,アメションのアメションはそれぞれ何の略語でしょうか?
 
 アメ○○にション○○しに行った・・・短期の洋行をひやかす言い方のようですね。

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リーダーは甘くない ふり返り366日【08/5/25-2】/産地偽装の効用

 「リーダーになれる子どもが減っている」ことを嘆いている教師がいるとします。

 この教師に問わなければならないのは,リーダーをこれから養成する気があるのかないのか,ということです。

 集団活動を行うとき,自然発生的にその場を「しきる」生徒が出てくると,全体としての動きもスムーズになります。

 こういう小集団を「しきる」能力はそのままリーダー性に結びつくわけではありませんが,とりあえず誰かが何かを言うまでじーっと待っていようとする人間ばかりでは,教師が指示を出さない限り何も進みません。

 教師のイライラは,こういう「指示待ち」場面で募るケースがよくあります。

 子どもの人間関係を調べてみると,お互いを牽制する火花が散っており,「様子見」がとりあえずは妥当な戦略だと子どもなりに判断している場合には,教師のはたらきかけで活動がスムーズに始まる場合もあります。

 しかし,みんな「何も考えていない」・・・これは,実際に高校のいわゆる「底辺校」に進学した生徒が,思わずもらした感想で,「考えてみたら,中学校では何もしなくてもだれかが何かをしてくれた。ここでは黙っていると何も始まらないことがわかった」という声があったのを思い出しました・・・状態を,どうしたら「自分は何ができそうか」という思考にもっていき,自発的な動き出しを促せるか,うまくいく指導をするのはなかなか難しいものです。

 まだ中学校段階では,リーダーを固定化させる必要はありません(というより,固定化したリーダー=半分教師のような存在を作るのは得策ではありません・・・教師にとっては都合はよいですが,子どもの都合を優先すべきです)。

 将来,どんな社会的立場になるかわかりませんので,「他の数人を自分の指示や意見の表明一つで動かす」という体験を,いつかどこかで必ずさせておくことは重要でしょう。たとえその体験が結果として「失敗」だったとしても,将来,その失敗を生かした取り組みができるようになるかもしれません。

 学習の面ではなかなか言いにくいことですが,人間関係に関しての学びは,「成功」で満足するよりも,「失敗」から多くを学び,体得し,「心の筋力」をつけておくことが重要であることを,常に子どもにメッセージとして教師から伝えておくべきでしょう。

 私はリーダーになれそうな子どもに甘い言葉をかけることは一切ありませんが,甘い言葉で勘違いを誘い利用されやすくなる人間を育成するよりは,より高い理想を目指して現状肯定で手を抜かない人間を育成するという態度をとっています。

 むしろ,リーダーなんかになるものではない,という(「責任」に対する強い自覚を伴った)認識を与えることが,「いつでもリーダーにはなれる」という勘違いをさせるより,何倍も効果的なことであり,有害でない指導法だと信じています。

 信頼に値しない「えせリーダー」の決まり文句に,「しっかりと」「命がけで」「きちんと」という修飾語がある,と言っていたのはだれだったでしょうか? 

 それらを具体的に言えることが,リーダーとしての必須条件なのでしょう。

08/5/25 班活動の指導に関する一考察

 班活動が欧米では一般的でなく、集団主義的な日本の社会にマッチしたもの、あるいはそのような集団主義を築いていくためのものとして機能していることはよく知られています。
 ただ、この自治のスタイルは「信頼を獲得する」というより、「ずるをする(さぼる)と集団から制裁を受け、結果として損をするので実行する」メカニズムをもっているので、「私は掃除より部活動を優先したい」という個人主義を排除する機能を優先していることも念頭において私は指導するようにしています。
 また、他人を信用した方が得をする信頼社会ではなく、自分に損になることはしないはずだ(仲間内での制裁機能がはたらくから、みんな仕事をするはずだ)という安心社会を維持しようとしてきたのが日本の特色ですが、たとえば教師の見てないところではさぼってしまうように、仲間内でも制裁機能がはたらかなければ利他的ではなく利己的な行動をとる傾向が強まっているため、その限界が指摘されています。
 班ごとに割り当てられている仕事を確実に実行できるからその生徒は信頼できる、というときの信頼は、おそらく教師が子どもにもたせようとしている理想的な「自治」機能によるものではなく、さぼった人間が放置される、さぼっても許されるということがないようにする、つまり排除機能をしっかり持たせ、安心社会を維持できる成員に対する信頼と言えそうです。
 ですから、もし信頼社会を築こうとしたら、班の仕事をしているから信頼できるという言い方ではなく、いい仕事(より丁寧にやるとか、他の人が気付かないようなことまでしているとか)をしているから信頼できるという言い方で指導すべきだと私は考えています。

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昭和の家庭史トリビア?【第23問】 
 昭和6年(1931年)の話です。
 イギリスから輸入されたある製品の中身が国産品とすり換えられ,低価格で売られるという事件が起こりました。
 この製品とは?

 ① カレー
 ② 紅茶
 ③ ビスケット

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 【第22問の解答
 ②でした。「パラマウント・チョコレート」のおまけは,「パラマウント・スターカード」,今で言うハリウッド女優などのカードです。

財テク・雑誌の付録競争・チューインガムがブームになった昭和6年

 昭和6年(1931年)にブームになったもの
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○『不景気時代の投資法』『投資相談』など,財テク関連書がブームに。
○女優の「容姿保険」。掛け金毎年15円で5000円の保障など。
○婦人雑誌の普通号にも別冊付録が付き,付録競争時代に突入。
○森永製菓がチューインガムを発売。流行となる。
パーマが普及。洋髪,電髪と呼ばれる。
ボクシング(拳闘)ファンが激増。スター選手の月収は1000円以上。当時,安くなったダイヤの1カラットは400円だった。
○満州事変が勃発し,おもちゃの鉄かぶとや発火装置つきの戦争玩具が爆発的に売れる。
○外国では,博多人形がブームに。
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

 教育では,師範学校・中等学校で,剣道・柔道が必修科目となったのがこの年でした。
 教科では,中学校や師範学校の「法制・経済科」を改め,「公民科」がおかれました。
 また,文部省は全国の学校へ新しい御真影の下賜を開始しています。

 東京市内の尋常小学校卒業者のうち,約6000人が芸者屋や商店に人身売買に近い条件で就労していることが判明したのがこの年の3月だったそうです。
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高信頼社会の下での学校社会とは? ふり返り366日【08/5/27】/チョコレートの大衆化

[武士道] ブログ村キーワード

 「安心社会」とか,「高信頼社会」の実現というスローガンは,逆に不安を高め,信頼を失わせる結果にもなることを肝に銘じておく必要があります。

 どんなことに安心できないか,だれを信頼できないか,そういうことはマスコミを通じて国民は(子どもを含めて)散々目にさせられ,聞かされています。

 教師のからむ犯罪が,いかに多いことか。
 これはほぼ日常的なニュースになってしまっているので,「そういうことは常に起こりうるもの」という共通認識ができてしまっています。

 学校で殺人事件や子どもの事故死が起こると,「安全点検」「安全管理」の徹底が図られますが,社会一般には,「起きるときは起きるのだろう」という程度の認識が普通でしょう。

 不信感をもった目で見られているという,教師が置かれている厳しい現実を自ら知ることは,決してその後のマイナスにはならないはずです。

 体罰,セクハラ,交通事故等,何でもよいのですが,行政は,処分内容だけでなく,その理由となる具体的な事実を知らせるため,調書の比較的詳しい要旨をできるだけ多くの教師に読ませる必要があるのではないかと思っています。
 中には週刊誌等にリークして情報料をせしめてしまう教師が出てくるかもしれませんが。

 なぜ教師が不信の目で見られてしまうのか,なぜ教師の資質・能力の向上が強く求められているのか,その原因がよく分かるでしょう。

 教師が現実を直視できていないため,問題の大きさを理解していないことは,他にもたくさんあるでしょう。

 教師たちが,子ども・保護者のモラル・規範意識の低下を問題にして,「だから私たちのせいにするな」という声を発するとき,自らの規範意識を棚上げする行為は極端な例として,その声は問題への対応力の欠如を自ら認めてしまっていることと同じであることに気付いているかどうか。

 そこに気付いたら,次に教師自身がやらなければならない仕事が見えてくるはずです。

 なかには「武士道精神が求められている」という主張をされる人がいるかもしれませんが,これが教師の側から出てくるかどうか,そこが鍵であるわけです。

 高信頼社会の下では,「まわりから言われなくてもまわりから求められていることが自ら実践できる」人の育成が最も重要なのかもしれません。そういう資質を教師が保てるかどうか。

08/5/27 武士道精神と学校社会(改訂版)

 以下は、すずめ先生のブログに書き込みをさせていただいたものをもとにまとめていますが、別にすずめ先生の実践を否定しているわけでも批判しているわけではなく、社会心理学者の説を踏まえて自分の意見を述べているのにすぎないことをお断りしておきます。
 今まで教育の世界では、利己的な子どもがますます利己主義に走らないように利他的な行動を促す指導が多く実践されてきました。
 しかし、利己的な行動をとれば損をする安心社会を維持する上では機能しても、そもそも利己的な行動をしても損をしなくなった(制裁を受けなくなったというのは強い言葉ですが、穏やかに言えば仲間からのプレッシャーを受けないですむようになった)学校では、機能しなくなっていることが問題だと考えられます。
 落ち着いた学校は、この安心社会ではたらいている機能が維持できている証拠なのかもしれません。
 子どもには、人権の理念を出すまでもなく、自分の利益を追求する権利があること、そしてそれは、相手に利益を与えない一方的な自己利益独占型ではいけないことを教える必要があるのです。
 「情けは人のためならず」です。
 無私の精神を高めることでモラルを維持するのではなくて、お互いが生き生きと暮らせるように配慮しながら、自分の利益を追求していける社会のモラルを教えた方が、現実社会に生きる子どもたちには有効な指導になるはずです。
 こういう話をすると、「損得勘定だけで生きる人間を育てようとするのか」と武士道精神をお持ちの方から批判されそうですが、幸福追求の権利を子どもから奪うことはできません。
 「人から感謝される快感を得たいから人助けをする人間など認めない」という教育はできません。
 「損得勘定だけ」では問題があるとしても、「損得勘定」を完全に無視しろというのもおかしなことでしょう。
 利己性を疑い、排除するのが根本原理の武士道精神では、創意工夫や競争、効率重視、快適さや便利さの追求などが難しく、そもそも「こんな世の中はおかしい」と考えた人たちによって、日本は江戸時代の次の時代を迎えられるようになったわけでしょう。当然ながら、だからといってベストの世の中になったわけではありません。
 安定性、不変であることだけを重視できる時代なら、安心社会の方がいいかもしれない。しかし、社会環境の変化に対応できる子どもを育成するのが今の教師の役割です。
 もちろん、安心社会から信頼社会への舵取りは、教師がするのではなく、子どもたちの開かれた自治感覚で考えさせたいところです。
 むしろ、教師集団が安心社会の住人なのに、子どもたちだけを信頼社会の住人にすれば、さまざまな問題がおこってきます。教師集団が変わらなければ、子どもたちにも安心社会を強制した方がよいかもしれません。
 無私の精神や武士道精神は、江戸時代のような閉鎖的で流動性の乏しい世界では崇高な理想なのですが、互いに助け合って生きていこう、共存共栄でいこうとする開かれた社会では、「情けは人のためならず」という原則まで否定される恐れがあることです。
 統治者にとっては、武士道精神を人々がもってくれることで、結果として政治に都合がいい(自分を犠牲にして他人のため、集団のために尽くしてくれる)ことになる場合があります。
 武士道精神は、持っていき方によっては、非常に危ないことが予想できるでしょう。
 武士道のモラルが、今のような変化の激しい、流動性の高い社会に求められるべきものか。
 私のスタンスは、武士道精神のよいところは使い、悪いところは捨てるというものですが、学者によっては、武士道精神のモラルそのものを否定する人もいるようです。

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昭和の家庭史トリビア?【第22問】 
 昭和6年(1931年)の話です。
 森永製菓のチョコレートのおまけが人気を呼び,それがきっかけでチョコレートの大衆化が始まりました。
 この年の4月に発売されたチョコレートのおまけとは?

 ① 戦争に関係があるおもちゃ
 ② 映画スターのカード
 ③ 米の引換券

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 【第21問の解答
 ③(禁酒村)でした。

昭和の家庭史トリビア?は「15年戦争」の期間に突入!

昭和6年(1931年)から始まったものとは?
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
○全国中等学校選抜野球大会で背番号を採用。
○平凡社が「大百科事典」全28巻の刊行を開始。
○木内きよう,東京市初の小学校女性校長に。(志村第一尋常小学校)全国では8人目。
○東京・千住の食糧品研究所,わが国初の有給生理休暇を実施。
○東京市,ゴミの分別収集を開始。
電気掃除機の国産第1号が東芝から新発売。
○全国初の交通安全デー,神奈川県内で一斉実施。
○東京・上野動物園にわが国初のサル山ができ,サル10頭を放つ。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
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「保護者」ではなく「指導者」 ふり返り366日【08/5/26】/客室乗務員の応募倍率

[教師] ブログ村キーワード

 教育界で,肩書きよりも仕事の中身で子どもの学力向上に貢献している人たちの中に,塾・予備校の講師,通信教育の添削指導の経験者などがいます。

 今,「教育界」という言葉を使ったとき,このような人々の存在感はどのくらいあるのでしょうか。

 「教育界」というのは,実際にリアルタイムでその恩恵を直接受けているのが子どもであるため,教育に携わる人と子どもという「縦のつながり」はたくさんあっても,あまり「横のつながり」がなく,一体感がありません。

 学会など,子どもと直接関係がない教育者の「横のつながり」はあっても,「学会」だけあって非常に細分化した集団であり,「教育界」に占める重さはたいしたことがありません。

 教育に携わっている人々の一体感を生み出すような仕組みはできないでしょうか。

 その貢献度の高さを競い合ったり,よりよい貢献のために補完しあったりする仕組みはできないでしょうか。
 
 その鍵を握る核となるための体力を,公立学校の教師がもっているとは思えません。

 キーワードは「保護者」でしょうか。

 私は,この(子どもの)「保護者」という名称が,もしかしたらいろんな意味で日本の教育の足を引っ張ってきた元凶ではないかと思い始めています。

 ある教育ブログから,そのヒントを得ることができました。

 教師が「保護者はあなたでしょう」と親に向かって言うとき,「自分には保護する義務がない」と責任逃れできる心象風景を作ってしまっているのではないかと考えます。

 「保護司」ならまだその「保護」の教育上の意味はわかるのですが。

 ではどんな言葉がいいか,すぐに思い浮かぶものではないかもしれません。

 イメージとしては,「指導者」が一番ぴったりくるのですが。

 親が「保護者」としてふさわしくない,と言われてもぴんときませんが,親が「指導者」としてふさわしくない,というのは理解可能では?

08/5/26 名誉を重んじる集団から契約重視の集団へ

 「競争」のことについて議論すると、教師本意・教師擁護としか思えない言動を繰り返す人が多いのです。

 競争が悪い。
 教師に問題はない。
 競争が教師を悪くする。
 競争を目的とした教師が出てくる。

 ・・・果たしてそうでしょうか。
 私の考えは、
 競争で教師の問題が浮き彫りになり、何をどう変えなければいけないかが明確になる、というものです。
 競争を目的とした教師が出てくるとしたら、それも教師の問題なのです。
 教師のモラルがそれだけ低いことを知っているから、「競争を目的とした教師が出てくる」などという発言になるのです。
 なお、教師の問題を浮き彫りにできるのは競争だけではありません競争だけで問題を解決するわけではない
 私の出発点は、自分自身を含めて教師が悪い(力が足りない)というものです。
 教師の力が足りないことを認めない教師がさらに教育を悪くする
 自分に問題があることを自覚できない教師が教育界全体の信頼を失う言動を繰り返す
 では、教師はどんな力をつけなければいけないのか。どのように仕事がこなせないといけないのか。
 同僚性。協調性。
 これももちろん大事です。
 でも、社会一般はこれを「馴れあい」と見ています
 チームワークが大事なんて、わざわざ取り上げなければいけないくらい、教師集団というのは問題を抱えているということです。チームワークが大事でない職場ってあるのでしょうか?

 子どもの力を最大限に活用する方法。
 地域の力を借りる方法。
 NPOや企業の助けを借りる方法。
 子どものためにできることはさまざまですが、閉鎖的な教師集団は外部の人が現場に入ることを嫌い、「自分たちで何とかする」と言ってしまう
 馴れあえなくなってしまう

 先生の授業より、非常勤講師できてくれた人の方が授業がわかりやすく、楽しかった・・・などと言われるのは我慢できない。
 他の学校がいろいろと創意工夫し出すと、特色のない学校は逆の意味で目立ってしまう。そんなことは許せない・・・。
 自分の学校の教育課程の中身、その特色をざっとでも説明できるでしょうか。
 そこに、子どもをどう教育すると書いてあるのか
 教師たちは、「あれは教育委員会に出せば終わりだろう」などと考えているかもしれませんが、とんでもない。
 教育課程での約束事がどれだけ守られたのか、子どもの顔を思い浮かべながら、評価しなければなりません。
 教育界が社会から信頼されていないのは、教育学者、教育評論家が教師本意・教師擁護の主張をしてしまうことも大きく関わっているかもしれません。
 それは、読んでくれたり相手にしてくれたりする対象のほとんどが教師だから仕方がないのですが。


*******************
昭和の家庭史トリビア?【第21問】 
 昭和6年(1931年)の話です。
 ○○村で有名な石川県河合谷村で,○○で積み立てたお金(45000円)で小学校が建設されました。
 ○○にあてはまるのは?

 ① 寄付
 ② 博打
 ③ 禁酒

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 【第20問の解答
 ②でした。3人採用に141人が応募しました。初登場は4月1日でした。

昭和の家庭史トリビア?【第20問

 昭和の家庭史トリビア?【第20問】 

いよいよ時代は「15年戦争」のスタート時,満州事変が起こった昭和6年(1931年)の話です。
 この年の「流行語」の一つに,「生命線」も数えられています。

 さて,度重なる恐慌に襲われている日本ですが,いよいよ昭和も6年になると,時代は「暗く」なっていくのでしょうか。
 折りしも,と言うべきか,雑誌Will7月号別冊「歴史通」の特集は,「戦前真っ暗」のウソ・・・というものです。

 このような雑誌は手に取ろうとするとだけで「偏見の塊」のような目で見る人間がいますが,そこにどのような歴史の見方・考え方が述べられているにせよ,歴史の題材としてはユニークなものが多くて楽しめます。
 歴史の見方・考え方でおもしろいのは,「○○人にとっての歴史とは,こうであったらよかった,と思うもの」という「歴史」が存在することです。
 そのような見方に従って言うと,対日本については,「こうであってはならなかった,と思うもの」という歴史も含まれることになるわけです。

 ところで,中国との戦争について,政治思想家の橋川文三は,「日本人はあれを戦争を思っていたのか」という問いを投げかけていたそうです。
 この「昭和の家庭史」のクイズを解きながら,「これは本当に戦争の時代だったのか?」という疑問が起こることも「歴史の学び方」の一つでしょう。

 当然,戦争にかかわる内容もたくさんあるでしょうが,主に都市部の「昭和」,まちの普通の暮らしを題材に考えて生きたいと思います。

 問題です。
 東京航空輸送会社が,初のエアガール(客室乗務員)採用試験を実施しました。倍率はおよそ何倍だったでしょうか。
 ① 5倍
 ② 50倍
 ③ 500倍

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 【第19問の解答
 ②でした。「日月ボール」は,大正7年10月1日に,広島県呉市の江草濱次(えぐさはまじ)氏が考案・出願し,大正8年5月14日に実用新案として登録されたものだそうです。

「偏る」自然さ・不自然さ ふり返り366日【08/5/25-6】/「けん玉」の正式名は?

 物理的な通学距離や友人関係などが絡んで,学校選択自由化といっても,それほど極端に生徒数が変動することはありません。それが実際にあるとしたら,もともとの大規模校で部活動の数が多くよい戦績を残しているか,生徒数が減少しているところに「ここはやめた方がいい」という声が内外から聞こえてきてしまう場合でしょう。

 ある程度の規模があると,「荒れている」という声がたっていても不思議と生徒数は減らないものです。

 やはり中学校の部活動は学校側にとってはカリキュラムの外にあって,子どもや保護者にとってはど真ん中に近いところに位置しているようです。

 小規模校が多いある地域では,一部で部活動がさかんであると耳にすると運動が好きで活発な生徒ばかりが集まり,部活動がさかんでない学校ではひたすら生徒がおとなしく静かに暮らしている・・・場合によっては,男女数の格差が広がっていく,そんな面もあるようです。

 ニーズに合わせて自然に動いて偏るのことを「普通」と見るか,自由を認めずに操作して数あわせをすることを「普通」と見るか。

 社会は大きく変化しているので,ゆでがえるで気付いたときにはすでに手遅れにならないようにしなければなりません。

08/5/25 「うちの学校に転校するのは、やめた方がいいですよ・・・」??

 多くの教師は「子ども第一主義」を掲げますが、子どもに教師や学校の選択権を与えることは拒もうとしています。友達と別れようが、強い部活に入りたがろうが、どんな理由があるにせよ、教師や学校を選ばせてはいけない・・・。
 それは、学校は「子どもではなく教師のためにあるもの」であって、「子どもが学校や教師を選ぶなど、もっての他だ!」と考えているからかもしれません

 私の在職中の話ですが、他県から転入してくる生徒の保護者から、学校の情報の問い合わせがあったところ、ある教師が、「子どものためを思ったら、この学校に入れさせるのはやめた方がいい」と言ったという話を聞いたことがあります。

 まさかぼったくりの店ではあるまいし、家に近いどこどこ中学校はやめた方がいい、○○中の評判はいい、などという情報が現場の教師から流されるのはなぜでしょうか。
 親切に教えてあげているのはわかるのですが、従業員が「この店で買い物するのはやめた方がいい」なんてことを客に教えるのは想定できないですよね。
 昔からあった義務教育の学校のこのような問題は、どうしたら解決できるのでしょうか。
 「鳴くまで待とうホトトギス」でしょうか。それとも・・・。

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昭和の家庭史トリビア?【第19問】 
 昭和5年(1930年)ころの話です。
 ある遊びの呼び名が「けん玉」と変わり,大流行したそうです。「けん玉」は,元は何と呼ばれる遊びだったのでしょうか。
 ① 王様ボール
 ② 日月ボール
 ③ 串刺しボール

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 【第18問の解答
 ②でした。140人が検挙されたそうです。

「東京水上尋常小学校」をご存知でしたか?

 [昭和] ブログ村キーワード

 昭和5年(1930年)は,不況があまりにひどかったためか,農家は典型的な「豊作貧乏」に見舞われたようです。
 米だけでなく野菜まで。
 タバコ1箱18銭と米1升,キャベツ50個が同じ価値になりました。
 明くる昭和6年は凶作となり,農家への打撃はたいへんなものになりました。
 「身売り」「欠食児童」に関する資料は,中学生でも目にすることができます。

 東京・月島に,水上生活者の子弟を収容する東京水上尋常小学校が開校したのも昭和5年です。
 水上生活者と言えば,タイとかマレーシアとかホンコンなどではイメージしやすいかもしれませんが,日本にも1万人くらいの規模で佃、月島、勝どき周辺に多く見られたようです。

 「地ならし」目的で失業者が東京・芝浦埋立地に集まり,関東大震災時の焦土を掘って「プラチナ・金・銀・ダイヤモンド」などの宝探しも行われたようです。宝石はどのくらい見つかったのでしょうか?

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昭和の家庭史トリビア?【第18問】 
 昭和5年(1930年)の話です。
 東京・日本橋の往来で,あることをしていた人々が警視庁に検挙され,科料2円が科せられ,道具を没収されました。
 何をしていたのでしょう?
 ① サッカー
 ② ボール投げ
 ③ 竹馬競争

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 【第17問の解答
 ③でした。「断髪」が励行されたようです。

超短期的な目標にふり回されない教師 ふり返り366日【08/5/25-1】/不衛生な日本人

 自己申告やキャリアプランを提出するときに,「補助資料」を添付している教師はどのくらいいるでしょうか。

 あるいは,補助資料を要求している管理職は,どのくらいいるでしょうか。

 それぞれの資料には,ある程度の具体性をもった目標なり計画なりが書かれているはずですが,何しろA4の大きさ1枚の表裏しかありませんから,詳しいことは一切書けません。

 「面接のときに答えればよい」「答えてもらえればよい」という考え方もあるでしょうが,何らかの「裏づけ」は必要でしょう。

 これは,教育委員会に「教育課程届け」を受理してもらうときにも同じことが言えます。

 教育課程届けには定型がありますが,補助資料には,決まった形というのは必要ありません。

 そこに各学校の独自性,今年度の反省を踏まえた来年度の教育にかける意気込み地域の変化を見据えたある程度のスパンをもった中・長期計画など,企業なら当たり前に行っていることを,どれだけ教師が自分たちの力で表現することができるか。

 あまりにも目の前のことに振り回されすぎているという印象のある教師を,どうしたら「意図的・計画的な実践者」というスタイルに変えることができるか。

 まずは,係生徒を分刻みで自ら動けるように仕込めるような行事運営ができる教師を増やしていくイメージが一番しっくりくるでしょうか。 

 超短期的な「指導のコツ」などに飛びついてばかりの教師風土を改善していくことも必要でしょう。

08/5/25 自己申告やキャリアプランは無駄な書類か?

 自己申告書やキャリアプランが「無駄な書類である」という認識をしている教師はやはり多いのでしょうか。
 子どもに「今年の目標」「○年生になっての抱負」などの作文を書かせるねらいは何でしょう。
 子どもも「またか、めんどくせえな」と思っているかもしれません。
 もし教師がそういう作文を書かせっぱなしで、以後の指導の場面で全く活用しないのであれば、なくしてもいいのかもしれません。
 子どもたちには教師の実像を知ってもらうためにも語りかけたいのですが、やたらと作文を書かせている教師は、その間、何をしているのかをよく観察してみてください
 まさかネットでショッピングをしている人はいないでしょうが、自分のための時間を使っているかもしれません。
 作文を書いている途中で、個別に見て誤字を直してくれたり、姿勢や鉛筆の持ち方を注意してくれたり、そういう個別指導をしていますか。
 その作文が、学級通信などでフィードバックされていますか。
 また、その作文で書いた内容を教師は覚えていてくれて、時間がたってからの会話でその話題が出たりしたことはありますか。
 教師への自己申告やキャリアプランも同じことです。
 管理職がそれらを通してよく教師のことを理解し、実践も観察して力量を分析することで、異動のときに正しい「よい評価」「よい評判」を次の学校に伝えることができます。
 新規採用ではあるまいし、「この人、どんな仕事ができるのか、よくわからないが、よろしくたのむ」なんてことがあってはなりません。
 しかし、「悪口」「悪い評判」ばかりが伝えられてきた歴史がかなり長かったのではないでしょうか。
 長い歴史をもつ日本の「安心社会」は、問題のある成員を組織内で排除できる(担任をもたせない、教務部には入れない、○○だけ任せるなどの)しくみがありましたから、問題による被害を食い止める能力は高いのです。
 自己申告やキャリアプランというのは、「信頼社会」に欠かせない「他人を信頼すること」の根拠になるものです。その教師の「能力開発履歴」「目標歴」「コンピテンシー獲得歴」になるのです。 ある管理職から見たらあまり評価できそうもない教師でも、他の管理職なら別の点に着目して評価してくれるかもしれません。
 「いやいや、私は平均以下の、何の取り柄もない教員ですから、こんなの書くの無駄ですよ」と口では言っていても、やはり長所は長所として評価してくれることを悪く思う人はいないでしょう(本当に管理職嫌いの人は、わかりませんが)。
 yo先生のブログのコメントには、こんな余計なことまで書き込ませていただきました。
 

管理職や行政の最大の悩みとして、学校の経営者になろうとする教員があまりにも少ない問題を挙げて終わりにしようと思います。
 資質がないのに志望している人を任用しないように、少しでも資質があると考えられる人を管理職が口説いて選考に向かわせているのが現状です。
 私が使うたとえは、難しい集団構成になったクラスで学級委員の立候補がでない状況と同じようなものです。
この状況が、現場に20年いても30年いても変わらないのは、すばらしいこととも言えるし、「その年になってもどうして・・・」とも言えるのです。
 団塊の世代はまだ人に任せておけばいいのですが、それが抜けた後、惨憺たる状況が待ち受けています。経営にたえられる人材の確保はもはや不可能になるかもしれません。当然、民間人校長や学校運営を地域が担うタイプの学校が増えることになります。それはそれでとてもいい結果になるかもしれませんが。
 今は興味はなくても、自分が手を挙げないと、さすがに学校は崩壊すると実感する時が来る教師は多いと思います。

 「私には関係ない」という態度の教師でも、本当に頭を抱える管理職ばかりになったら、考えてくれるでしょうか。

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昭和の家庭史トリビア?【第17問】 
 昭和5年(1930年)の話です。
 東京・深川小学校で,「不衛生」だという理由で励行されるようになったのは?
 ① 運動時は体操着に着替えること
 ② トイレで手を洗うこと
 ③ 髪を切ること

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 【第16問の解答
 ③は,昭和元年の話でした。私の母親が「ソフトボールの名投手」だったと聞いて,意外に思った記憶がありました。時期としては,確かだったことがわかりました。

同僚に遠慮しないで教育ができる環境 ふり返り366日【08/5/24-2】/森永ミュージアム

 本当に子どもが好きで,奉仕的精神に満ち,自分の時間のほとんどを割いてでもありとあらゆる援助を惜しまない・・・・そして子どもたちは体力,知力,精神力のすべての面にわたってどんどん力を伸ばしていく・・・そういう教師が身近にいたら,比較されてしまう大部分の教師は「やりにくい」のではないでしょうか。

 「○○先生は・・・なのに,△△先生はどうして・・・なの?

 素直に○○先生を褒めたたえるゆとりがどの教師にも自然に身についているかどうか。

 教育現場では,同僚に遠慮しないで好きなだけ教育に力を注げる環境がどのくらい整っているのでしょうか。

08/5/24 その実践者が決して言葉にしないこと

 まずろさん、以下のコメントをいただきましてありがとうございました。太文字は私が原文を加工したものです。

 最後に克つべきは自分自身というのは心から共感できます。  どんなときも最大の強敵は自分自身の怠け心。  一番に闘うは自分に甘い態度、自己保身、後ろ向きな現状維持などなど。  結局は己に克つことの出来る人こそが真の勝利者であり、おっしゃるように「過去の自分に負けない前向きなひたむきさ」はそれへの実現の外せない条件になりましょう。

 未熟な子どもを指導する立場の人間である教師という職業を生業としているならば特に自らの襟を正し、自らを律し「忘己利他」という精神論を隠れ蓑にすることなく(声高に叫ぶ時点で限りなく利己的とは思いますが)教師自らが前向きに向上や研鑽の努力をする後姿こそ何よりの生徒に対しての生きた教育になると思います。
 人生は自分自身への怠け心との闘いなのですから。
 この努力を「競争」とも言い換えることはできますね。

 「競争」イコール利己的とか「忘己利他」を恩着せがましく持ち出す発言に自己研鑽をしたくないない怠け心が潜んではいないか己に問う姿勢が必要なのだと思います。
 安易に耳障りの良い響きに自分自身をごまかさずに
 そしてそれを直視できる真の強さも
 外せないコンピテンシーのひとつと言えるのだと思うのです。


 
 私の「十牛図」の特集は途中ですが、こういう仏教系の教えや「忘己利他」などは、統治者の論理としては、その普及が統治者にとってたいへん都合のよいものになると考えており、宗教というものの怖さをひしひしと感じざるを得ません。
 行政や管理職がまさか「子どものためだ。土曜も日曜も部活でめんどうをみてやれ。金は出さないが場所は貸してやる。君が善行を積むための条件を整えてあげよう」なんてことは言えません。
 このような逆の立場の人間から言われるとムッとくるような価値観というのは、結局は自分に都合のよいように解釈できるものであって、よりよい教育(より正常な教育)が求められている現在では、それを言う暇があるなら早く文字通りのことを実行したらどうだと要求されてしまうことになります。
 「よりよい教育」を実践するためには、何が「よりよい」のかを理解しなければいけません。「利他」の具体的な内容が問われているわけです。コンピテンシーモデルやロールモデルの存在意義がそこにあります。繰り返しになってしまいましたが。
 「忘己利他」であることを求め、それを実行している自分自身に満足感を抱けるということは、つまり利己的であり、「忘己利他」ではないということでしょう。それを実践している人ならけっして口にしない言葉です。

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昭和の家庭史トリビア?【第16問】 
 昭和5年(1930年)の話です。
 この年が「はじめて」ではないのは,次のうちのどれでしょう?
 ① 入浴剤(バスクリン)が発売される
 ② 上野の松坂屋にエレベーターガールが登場する
 ③ ソフトボールが小・中学校の体育教科に採用される

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 【第15問の解答
 ②でした。包装紙30枚を送ると,「パール印ハーモニカ」,100枚送ると「バナナ印ハーモニカ」がもらえました。「森永ミュージアム」で森永チョコレートの歴史が詳しく調べられます。

「威厳」がほしい理由は? ふり返り366日【08/5/24-1】/チョコレートの景品

[昭和] ブログ村キーワード

 教師に対する競争原理の導入への反対理由の中に,「威厳が保てなくなる」というものがあったように思います。

 そもそも,「威厳」は何のために必要なのでしょう?

 雑誌の特集で,父親からの相談に「妻が怖くて言い返せない。父親としての威厳を保つには」というものがありました。

 コメンテーターの回答は,「威厳を保つ」という考えを捨て,人間の大きさを見せよ,というものでした。

 教師も同じです。そもそも,「子どもから甘く見られたくない」という教師のなかで,きちんと注意すべきことを注意できる教師ならまだしも,それができずに願望だけで鬱々としている人がいる。
 そして「親の育て方が・・・」と避難を矛先を別につくりだす・・・。

 親も教師も,「鏡と窓」の使い分けがしっかりできる「大人」になるべきなのでしょう。

08/5/24 競争原理に左右されない目標軸を

 競争原理導入への過剰反応。
 一連の記事には、今の教師が競争を軽視することができない、また、競争に価値をおかないでおくことができない、非常に弱い存在であることが背景にあります。
 競争には「少ない努力で合格を勝ち取る」ような方法があり、人間は、そして特に教師などはそっちに流れがちであるという考えをお持ちの方もいるようです。だから、教育に競争原理を導入するのはいけないと。
 ・・・私が主張したいことは、教師がその程度の存在になってしまっているからこそ、「かつては競争を軽視できる時代があった」という過去の話をしている場合ではなく、現実の教育を変革するためにやるべきことをやるときが今である、ということです。
 そして、変革も競争原理のみで変えようと考えている人はいません

 「競争」について誤解のないように確認したいのですが、確かに安易な方法で勝てる競争もあるかもしれません。しかし、小手先の「少ない努力」では容易に合格を勝ち取ることはできないものもたくさんあるのです。
 「競争=悪」ではなく、評価を気にして競争に安易な方法インチキな方法、評価を上げるために努力する利己的な姿勢が悪なのです。
 教師の場合は、競争の過程におけるそのような「」は、結果として子どもに迷惑をかけることになり、「」が表面化します。答えを教えてもらいながらテストを受けた子、自分の答案用紙が「平均点」への影響を受けないように除外された子どもの気持ちはどんなものでしょう。
 こういう問題がおこったとき、なぜ教師が責められずに、実施された制度が責められるのか
 「競争」という原理に問題の責任を押しつけるのはやめて、そんなものを超越して本来の目的に向かって努力する姿勢を教師がもてるように啓発していくことが必要だと考えます。
 そして、教育にかかわる競争原理の導入の趣旨は、子どもの教育の充実には欠かせない教師の能力開発にあることを忘れてはいけません。

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昭和の家庭史トリビア?【第15問】 
 昭和5年(1930年)の話です。
 この年,森永製菓が発売したチョコレートは,どんな形のもので,包み紙を集めてもらえる本物は何だったのでしょうか。
 ① 硯(すずり) 
 ② ハーモニカ
 ③ 鉛筆

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 【第14問の解答
 ①「聖徳太子の100円札」でした。ちなみに②「旅行用デンタルセット」は昭和4年,「ファスナー式ハンドバッグ」は昭和3年が初登場です。

父親(あるいは教師)をバカにしている子どもをどうするか? ふり返り366日【08/5/23】

[昭和] ブログ村キーワード

 1年前の雑誌に,「父親をバカにした態度を見せる子どもをどうするか」という相談に対する答えが載っていましたが,一瞬,「そういう態度を見せる母親の癖を直すのが先」が答えかな?と思いきや,堂々とした正論が書かれていたのを確認しました。

 そこに参考として掲載されていた父親に対するアンケートの回答も印象的でした。

 「自分の子供にとってどんな親が望ましいと思うか?」に対する父親の答えで55.4%を占めていたのが,「小さいことにでもよく相談にのってやる父親」。

 こういう考えの親が,子どもの「無視」や「キモイ」という言葉を「バカにしている」と判断して「困っている」のでしょう。

 子どもは「強い親」を求めている。・・・のに現状は全く逆。

 この構図と全く同じことが,学校でも起こっているのでしょう。

08/5/23 親の義務は子どもを一人前にすること

 プレジデントFamily 6月号では、「しつけの心配、夫婦のもめ事」難問、奇問を大特集 親子の「困った!」すべて解決70問と題してかなり多方面の人を取材して特集を組んでいます。
 「子供が何事にも無気力。打つ手はあるか」には、作家の岡田斗司夫が「会話ができる子にする」「子供を幸せにするより、一人前にすることが親の義務。幸せややりたいことは本人が見つけるもの。そのためには、会話ができることが条件」という趣旨の答えをしていました。
 親子の会話が極端に少ないまま育った子は、学校で生徒として接するとよくわかります。
 こういう生徒がトラブルを起こしたときの最善・最短の解決法は、「ルールにのっとって対話をさせること」です。
 そのルールとは、「先入観や偏見で相手を見ないこと」だけです。
 相手の言い分にしっかりと耳を傾けて、自分の言い分を相手にわかりやすく伝える。
 ただそれだけのことで、わだかまりや変な意地、こだわりがなくなることが多かったような気がします。
 教師は、このような会話、対話による問題解決の能力をしっかりと高めることが指導上求められています。
 親の義務といっしょです。
 戦国大名の分国法で定められた「喧嘩両成敗法」は、喧嘩した両方を罰する(そのことで喧嘩を抑制する)ことが主目的で出されたわけではなく、「自力救済の禁止=私闘・実力での解決を禁止すること」や「何かあったら大名に申し出て、大名が解決に関与すること=大名の裁判権を認めさせること」がねらいであったと言われてます。
 学校での秩序を保つのに、生徒による自力救済を手段としてとるケースがあるかもしれませんが、基本は問題の解決に教師がきちんと関与し、双方を納得させ、成長を促すことです。物理的な力ではなく、言葉による解決がが図れる人間に育てること。
 親と同様、子どもの幸せを追求する以前に、一人前の人間に近づけることに留意していくべきでしょう。

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昭和の家庭史トリビア?【第14問】 
 昭和5年(1930年)の話です。
 この年の「初登場」は,次のうちのどれでしょうか。
 ① 聖徳太子の100円札
 ② 旅行用デンタルセット
 ③ ファスナー付きハンドバッグ

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 【第13問の解答
 ③ ドライアイスでした。ドイツから日本に着いた飛行船は,20人の乗客を乗せていました。乗客の食べ物の肉や野菜を保存するのに,ドライアイスが使われていました。このことを知った鉄道省は,これまで生鮮食料品の輸送に冷たい水や氷を使っていたのを,ドライアイスに変えるようになりました。

「負けない方法」を知っている生徒 ふり返り366日【08/5/22】/ツェッペリン

 問題行動への指導で最も困るのが,「徹底してとぼけきる」という態度です。

 刑事ドラマ,裁判もの,冤罪事件の報道などで,子どもが学んでいることは何かというと,「証拠がなければ罪には問われない」「目撃者がいない限り,自分がやったと言わない限り,言い逃れをすることができる」ということで,指導している教師自身がその場で見たり聞いたりしているのに,平気でとぼける生徒がいるものです。

 親に話をしても,「子どもはやっていないと言っています」の一点張りで,話は先に進まないか,逆ギレされて余計な時間を費やすことになってしまいます。

 また,厄介なのは,「私の言ったことを先生は信じてくれない」と言って抗議するならまださらに指導の進展が見込めるのに,「ひたすら否認するのみ」という「裁判に勝てる態度」を撮り続けてしまう生徒です。

 いきなり泣き出して他人の同情を買うように努力する子どもはまだかわいいとしても,明らかに戦略として否認を継続されてしまうと,話の納め方が難しくなります。

 仕方がないので,「第三者」が行った問題行動だという前提ですべて話を進めて,ところどころで生徒の意見を聞く,というシナリオどおりの指導をすることになります。

 その「第三者」が,いかに自分の心を汚してしまっているかということを納得させるまで,指導は継続します。

08/5/22 問題行動への対処法

 「問題行動への対処」をテーマにしたブログがあったので、以下のコメントをつけさせていただきました。
 

私は問題行動の「芽を摘む」作業は、教師や親やもちろんですが本人にぜひともやってもらいたい作業だと考えています。
 問題行動を繰り返す生徒への私の指導は、こうです。
 この問題行動は、現在はもちろん、将来の自分の人間性を悪化させる種になるものである。
 そんな種をひとつひとつ植えつけていく作業はそろそろ終わりにしよう。
 この種がどんな芽を出し、有害な実をつけるのか、考えてほしい。
 他人も自分も、みんな損をする。
 また、この問題行動が、かつて自分にまかれた、あるいは自分がまいた種が芽を出し、実をつけたものであるかもしれない。
 そんな芽は自分で摘み取ってしまえ。
 毒の実は捨ててしまえ。
 そんなものが出てくる前に、種を焼いて灰にしてしまえ。
 あなたが自分に今まくべき種は、もっと別の、実になるのが楽しみなものにしよう。

 「自分がまいた種」「身から出たさび」「自業自得」・・・自己反省をせまるための言葉がいくつかありますが、「おまえ自身の性格のせいだ」「おまえの親の教育のせいだ」と他人が言っても仕方がありません。
 教師は子どもの心のキャンバスに直接記入しにいくような指導をする場合があります。
 しかし、子どもの心はキャンバスのように白紙ではなく、すでに多くの書き込み、彩色が施されており、場合によってはそれを汚すだけの場合もあります。
 また、キャンバスを白紙にさせるような指導をする場合もあります。
 これは、下手をすると危ない。子どもが「リセット」のために自ら選んではいけない選択肢をとってしまいます。
 一番いいのは、「焼き捨てる」ことです。
 白紙に戻すのと同じことなのではないか、と思われるかもしれませんが、人間の心は、生まれたときにはすでにある程度の絵ができあがってきています。
 自分にぴったりあったイメージのキャンバスに取り替えさせ、そこに新しい線を入れ、好ましい色づけをしていけばよいのです。
 それぞれに、ぼんやりとでもあらかじめ色がついているため、教師が特定の色を用意して強制しても、決してうまくいきません。どんな色がその生徒に合うか、見極める眼力が必要です。

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昭和の家庭史トリビア?【第13問】 
 昭和4年(1929年)の話です。
 ドイツの飛行船ツェッペリンが霞ヶ浦に到着したとき,初めて日本に伝えられたのはどれ?
 ① ソーセージ
 ② ゴム風船
 ③ ドライアイス

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 【第12問の解答
 ①でした。

涙の抗議は本当に効果的だったのか?

 模擬授業の研修命令を出されるなどした私立学校の教師が裁判で戦っている様子がTV番組で特集され,おおむね「学校の塾化」「企業論理による教師の切り捨て」を批判するような内容に仕上がっていることがわかりました。

 予想が当たらないことを願ってTVを見続けていると,残念なことに「涙の抗議」がクライマックスに持ってこられていました。

 教師にとって最も情けないのが「同情を買う」行為ではないかと思っていたのですが・・・。

 その追い打ちになっていたのが,大学教授の「学校の果たす教育的機能というのは,学力向上だけではない・・・」というコメントでした。

 さらに,「教え子」の方が「金八先生のようだった」というコメントを出したあたりは,ほとんど「やらせ」のような印象がありました。
 ちなみに,「金八先生」に教科の指導力があったかどうかは,番組を視聴している限りでは全く判断がつきません。

 シナリオがほとんど予想と合ってしまうと,どうしても「真実なのかどうか」という疑いの目になってしまいます。

 「授業は下手でも生徒の気持ちが分かる先生」が求められるのは,「授業は上手くても生徒の気持ちを理解しようとしない先生」ばかりがいる環境であり,「授業が上手で生徒の気持ちがよく分かる先生」の中では,仕事がやりにくいことは確かでしょう。

 裁判の争点は,「本当に授業力・指導力に課題があったのか」というところに必ずかかってくるでしょう。

 そこではどのような判断が下されるのかに興味があります。

 裁判所の判断次第では,立場が危うくなる人が増える恐れがあるからです。

 「授業を担当させず,研修=指導力向上のために模擬授業を継続させた学校側の判断は不適切だとはいえない,ただし,その間,メンタルケアを含めて,資質・能力の向上について適切な指導が十分に行われていなかったことは確かであり,学校側に責任が全くないとはいえない」なんていういかにも日本風な判断が目に浮かぶようですが・・・。

 番組の中で最も感動したのは,現職の教師が「進学校への移行」について反対論があったことを告白したり,「教師切り捨ての姿勢がある」と経営側を面と向かって批判されたことです。こういうことがはっきり堂々と言えるくらい指導力がある教師が求められているのでしょう。

成績が高い子どもの生活習慣/昭和の家庭史より 赤帽VS○帽

 学習と生活に関するある調査をクロス集計した結果,就寝時間と成績の関係は,9時に寝る生徒の成績が最もよく,続いて10時,11時,0時過ぎと,遅くなるほど成績が低くなることが全体の傾向としてわかりました。

 また,朝の目覚めについては,自然に目が覚めるという生徒の成績が最もよく,続いて時計のアラームで起きる生徒,親に起こされる生徒・・の順に成績は下降していきました。

 時間のコントロールが自律的にできる生徒ほど,成績がよいのか,学習成績の良さを生む何かがより良い生活習慣を生んでいるのか。

 このような結果の公表によって学習成績が向上するのか,生活習慣が改善されるのか。

 追跡調査を上手に行うことで,学習と生活の相互関係が明らかになるかもしれません。ただ,それぞれを左右する要素が他にたくさんあることも考慮する必要がありそうです。

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昭和の家庭史トリビア?【第12問】 
 昭和4年(1929年)の話です。
 第1回大阪-東京間マラソン大会が開かれました。完走できたのは10選手中5人。優勝は香川県の山田兼松。記録は?
 ① 59時間26分11秒
 ② 79時間26分11秒
 ③ 99時間26分11秒

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 【第11問の解答
 ②白帽でした。「赤帽」に対抗して,女性客のための女性運搬業者が登場しましたが,客の奪い合いになり,赤帽の反対によって間もなく廃止されたそうです。

81年前に生まれた「家族」のかたち

[昭和] ブログ村キーワード
 昭和3年(1928年)という1年間で気になるニュースは・・・?

1 教育問題

 ① 受験戦争のはしり? 日本女子大附属女学校,生徒募集30人に対して出願者は296人。
 ② メンコ・ビー玉・ベーゴマの賭け事遊びの是非が問題に。

2 お内裏様は右?左?

  左右バラバラだった雛人形の内裏雛が,御大典の影響で男が左,女が右に。
 

御大典とは?・・・天皇の即位儀礼には、後継者が即位する「践祚(せんそ)」、即位を国内外に宣言する「即位式」、新天皇がその年の新穀を神と共食する「大嘗祭」の3つの儀礼が含まれていましたが、明治42(1909)年の登極令の制定により、即位式と大嘗祭は、前天皇の喪が明けた年の秋冬の間に続けて行われることに決められました。これらの儀礼をセットにしたのが「御大典」で、国家的なイベントとして盛大に行われました。

3 初めて物語

 ① 愛媛県松山市の渡辺さんが日本初の飛行機による新婚旅行へ(別府へ)。
 ② 比叡山に日本初の空中ケーブルカーが完成。
 ③ 河合楽器がグランドピアノの第1号を完成。
 ④ NHKが全国放送を開始。
 ⑤ 海軍が茨城県霞ヶ浦で初の落下傘降下実験に成功。
 ⑥ 横浜・崎陽軒,折箱入りのシュウマイを発売。

  (海外)アニメ映画「ミッキーマウス」がアメリカで初公開。

4 「流行」

 ① 流行性感冒のため,東京市内で5日間に300人が死亡。
 ② スカート丈が膝上まで短くなる。
 ③ チャンバラごっこが大流行。

5 家族のかたち?

 このころ,ちゃぶ台が各家庭に普及しています。
 江戸時代以来の厳しい「身分制度」は,家族個人個人の「お膳」に格差をつけることで,「身分の違い」をはっきりさせていましたが,その仕組みが「ちゃぶ台」の出現によって崩れました。
 ちゃぶ台は,一家団欒の機会を生んだものとなったのですが,それは家族にとってプラスだったのか,マイナスだったのか,定かではありません。
 「巨人の星」世代の人は,「ちゃぶ台」と言えば怖いお父さんがひっくり返すイメージというのが定着しているかもしれませんが・・・。
 民主主義のかたちを生んだのか,それとも新しい争いのタネとなったのか・・・?

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昭和の家庭史トリビア?【第11問】 
 昭和3年(1928年)の話です。
 大阪・京都両駅に登場したのですが,すぐに廃止になってしまったのは? 
 ① 青帽
 ② 白帽
 ③ 黒帽

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 【第10問の解答
 ①でした。

忍耐力の限界ラインを持ち上げる使命感が必要

 自称「教師の卵」や仮面「教師の卵」によく会う機会がありますが,最近特に気になるのはそのコミュニケーション能力でしょうか。
 学校訪問中に廊下で出会った関係者の横を素通りできるような人間が教師を目指しているというのは,情けない現実です。
 中には忙しい就職活動の間を縫って,教員免許状を手に入れるための単位取得のためだけに参加している人間も多いので,「単位さえとれれば何の問題もない」ということなのかもしれませんが・・・。
 教育実習に参加しようとしている学生の「資質」を大学はどの程度把握しているのか?と質問したことがありましたが,その答えは「多すぎて分からない」というものでした。
 「1対1」のコミュニケーションができない学生が紛れ込んでくるのもやむをえないようです。
 1を教えて10分かる学生を教えた経験がある教師たちにとっては,1から10まで教えなければならない現状に,悲しくもあり,やりがいもひとしおといったところでしょうか。
 同じような状況に置かれている生徒だけでも大変なのに,その上,大学生まで・・・あとは忍耐力・その限界を高め,臨界状態を持続させる,自分との勝負です。 

08/5/21 最大の「勝つべき相手」は自分です。

 教師が使う「同僚性」という言葉のニュアンスを「完全な横並び・平等・相互不干渉」と捉えている人がいるなかで、職場におけるリーダーの経験や実力が認められ、指示・指導が通ったりコンピテンシーを同僚が獲得していったりできる環境が広がっていくことが望ましいですね。
 あるとき、「君は私の若いときより覚えが早いな・・・」とか言われば、より早く一人前になろうとする意欲が高まることも私に言わせれば健全な競争心の成果であり、チームの中で打点を競い合えるような好敵手や先輩・後輩がいる環境が教師をどんどん伸ばしていくと考えています。
 仮にどちらかが負けるとしても、子どもに残るのはプラスの効果だけです。結果してはWin-Winの関係です。
 「忘己利他」と言いますが、そのとき最大の敵は忘れたくてもそこにある「自分」でしょう。
 できれば怠けたい楽をしたい楽しいことだけやっていたいつらいことからは避けたい子どもに嫌われたくない、そういう後ろ向きの自分に勝ち続けることが重要であり、その意味で教師にとっての最大の競争相手は過去の自分です。
 去年の自分より成長すべき今年の自分。
 今年の自分より5年後の自分。
 人事考課制度能力開発型をとっているのもねらいはそこにあると考えられます。  
 「競争による勝者」に対するイメージが、教育への競争原理の導入に反対されている方と私とではおそらく正反対なのだと思います。
 汚い手を使う、インチキをする、子ども第一主義ではなく、利己主義、・・・?
 教育という非常に困難な仕事で成果を上げるには、小細工やものまねは通用しません
 よりよい教育内容、教育方法を追及し続け、人に自分の優れた能力を伝え、人の自分より優れた能力を学びとっていくプロセスを、多くの教師が経験できる環境もそう簡単にできるものではありません。
 努力の賜です。
 そうなっていない職場は、黙っていても簡単には改善しません。
 なぜ望ましい職場環境にある学校、そしてその中で他の教師によい影響を与えている人が、改善すべき職場環境にある学校、実力がないだけでなく学ぶ姿勢も持たない人より高い評価を受けてはいけないのか。・・・これは一般論です。
 競争なんてあってもなくても、努力する人は努力し、努力しない人は努力しないわけだから、「競争原理が入ったからおかしくなった」という、努力をしない人を擁護したり正当化したりするような態度というのはおかしいのではないか・・・これは生徒の意見ですが。
 教育における競争原理は、「まず、自分に克て!」というメッセージと受けることはできないでしょうか。

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昭和の家庭史トリビア?【第10問】 
 昭和3年(1928年)の話です。
 東京・神田の厳松堂で,少年店員42人が丁稚奉公制度に反対してストを起こしました。「殴らない」「寄宿舎は1人1畳から2畳へ」の他に,少年店員は,どんなことを要求していたのでしょうか。 
 ① 名前に「どん」をつけない
 ② トイレに行く回数を制限しない
 ③ 昼ごはんを食べさせる

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 【第9問の解答
 ② ファッションモデルでした。マネキンは正しく(フランス語で)はマヌカンでしたが,それだと「(客を)招かん」と聞こえ縁起が悪いということで,「金を招く」という意味の「マネキン」になりました。
 当時は,「マネキンガール」(=現在ならファッションモデルでしょう)という新職業ができて,「東京マネキン倶楽部」という団体も結成されています。
 きれいな着物を着て展示場に立っているだけなのですが,展示場の人形の中に,本物の女性がまじえて置いてみたら,「動く人形」として話題になったので職業として独立したそうです。

子どもが伸びない理由/昭和の家庭史トリビア?【第9問】マネキンとは?

 どういう子どもが「伸びる子」なのか。 
 どうすれば「伸ばす」ことができるのか。

 どういう子どもが「伸びない子」なのか。
 何がその原因なのか。

 多くの子どもは「伸びる」ものなので,どうしても関心は「伸びない」理由に向かってしまいます。

 そして子どもが「伸びない」ことの原因のかなりの部分を「」が占めていることは,様々な親と子どもをセットで見ることができる教師という特殊な職業の人間でしか知りえないことでしょう。

 対教師は「同じ立場」の人たちですから何でも言えますが,「」となると話は別です。

 教師と教師は「同じ公務員」という立場で物が言い合えますが,「教師」が「」に面と向かって言えることはどうしても限られてくるでしょう。

 子どもがどうも「伸びない」と感じている保護者の方には,前回ご紹介した新書を読んでいただくことをお薦めしたいと思います。

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昭和の家庭史トリビア?【第9問】 
 昭和3年(1928年)の話です。
 当時の「マネキン」と言えば,何のことだったのでしょうか?
 ① 雛人形
 ② ファッションモデル
 ③ 招き猫

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 【第8問の解答
 ③ 関東大震災でした。

「勉強しろ」と言わずに子供を勉強させる法

 いわゆる「受験もの」というジャンルに属する本は,誰にでもできるというノウハウを詰め込んだつもりで売り込むものが多いようですが,小林公夫著『「勉強しろ」と言わずに子供を勉強させる法』(PHP新書)という最近出版されている本には,なかなかよい内容がつまっていました。

 学力のみを露骨に伸ばそうとする卑しさではなく,どこに「人としての尊さ」があるのかという点をぼかしていないので,「卑しい動機」でこの本を買った親は,重要な「失敗」に気がつくでしょう。

 著者の主張に好感というか共感を覚えることができるのは,親自身の責任を重くみているということです。

 あるいは,「塾や家庭教師を安易に信頼・信用すべきでない」ことを実体験をもとに語っていることです。

 親に「壊されている」あるいは「壊されかけている」子どもたちを多く目にしていますが,「自分自身の正しい判断力に基づく」(=他人の甘い言葉に惑わされない,根拠もなく信じたりしない)という行動原理を親が子どもに示さない限り,子どもがいい意味で自立できる成長を保障することは難しいでしょう。

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昭和の家庭史トリビア?【第8問】 
 昭和2年(1927年)の話です。
 何とこの年も,小学校児童の学力低下が問題になっていたようです。東京市教育局は,その原因を何の影響だと発表したのでしょうか。
 ① 日露戦争
 ② 金融恐慌
 ③ 関東大震災

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 【第7問の解答
 ① 112番でした。

教師のツケは子どもが背負って去っていく ふり返り366日【08/5/21-2】

 教員の指導力向上について,学校空間内だけでなく,社会一般にも「それは無理なことだろう」という空気が流れてはいないでしょうか。

 「先生方は勉強する暇なんかないのでは?部活はあるし,生活指導に時間はとられるし・・・

 一般の方からのそういう意見は,よく現場を知っての上のものでしょう(現在のかもしれませんし,自分が生徒だったころの経験からかもしれませんが)。

 果たして,40歳代,50歳代の教師たちにとって,「教え方を今より上手にすること」が可能なのかどうか?

 そもそも,「今より上手な教え方」というのが,どういう教え方をさしているのか,理解できるのかどうか?

 そういう問いに対しての答えまで,一般の方に求めるのは難しいことでしょう(スキルアップが至上課題の職業に就かれている方は別かもしれませんが)。

 しかし,現場の教師はその方法を知っています。

 それは,研究授業を行うことです。

 ただ校内で開くというだけではなく,たとえば中学校なら,同じ教科を教えている教師たちが集まって,授業のことを考え合う場が絶対に必要です。そこに,「自分よりも専門性が高い」と認めている人を招いて,助言をもらったり議論をかわしたりすることが可能になれば,さらに効果は高くなるでしょう。

 こういうチャンスが絶対にない,ということはないのでは?

 ただ,命令されなければやらないという態度でいるか・・・それとも,「自分が一番傷つくこと」が分かっているから避けているか・・・。

 授業というのは,実はその教師が持っている「大部分の能力」が測定されてしまうくらい,教師にとっては「隠しようのない舞台」となります。

 少なくとも,若いころに真剣や批評を受けた経験がない教師にとっては,それまでの20年,30年の価値を低下させてしまうようなコメントを耳にしたくはないでしょう。
 しかし,耳をふさぎ続けてきたツケは自分ではなく,子どもたちが背負って卒業していってくれたわけです。

 改善を図ろうとする意欲のない大人に,そういう態度を身につけるように指導されている子どもが,「教育」の結果,どうなるかは,想像する通りではないでしょうか。

08/5/21 結局、給与が下がるのが気になるの?

 まずろーさんから、以下の記事について、コメントをいただきました。ありがとうございます。
>教師は、能力とか成果とはほとんど関係なく給料がもらえる職業でしたから、「他の教師より劣っていると評価されること」に後ろめたさというか罪悪感のようなものを抱いてしまうので、「競争」という言葉には過剰反応を起こしやすい傾向があります。

 真理を突いたクリティカルな言葉に、他業種にも当てはまる職業はそういった傾向があるのに気づきます。
 人を育てる現場にあれば、もっとコンピテンシーを意識する感覚を持たねばならぬ業種であるのに残念なことです。
 戦国時代のコンピテンシーを重視した武将、武田信玄は城を持たず人を重んじたといいます。
 人は石垣、人こそ財と。
 きらびやかな見た目の財産よりも義や機動力を重んじ家臣こそ大きな財産と認識していたのですね。
 未熟な人間であることを認識している人は強いです。
 だからこそ向上があり競争心を忘れない。
 競争イコール悪という単純な図式は愚かです。

 「競争」に過剰反応する教師の共通した関心事(結局、自分事)に、人事考課による評価の結果が給与に反映されることへの危機感があります。
 このことについて、他のブログに私がコメントした内容があるので、ここで紹介しておきます。
 結局どんな評価基準にしろ、普通の教員の評価はBになるようにできていますはいじめを放置するとか、学習指導に課題があるとか、コミュニケーション能力が低いとか、だれの目から見てもおかしい人がです。は教員から見ても「辞めさせた方が子どものためではないか」というレベルです。(これ、もしかしたらEのランクか?記憶があいまいですみません)
 達成度のレベルが非常に高い(実現困難な)目標をクリアしないと、はなかなかつきません。
 たとえば、文書管理等の事務作業にかかっていた時間を30%以上削減し、そのうち20%以上を「短時間研修タイム(研究成果の5分間プレゼンなど)」に、10%を「生徒の個別面談時間」に振り分ける、とか、「学校行事や校内研修の企画運営をプロジェクトチーム型にし、企画・運営・評価・改善をスムーズに実行することで、『同僚性が高まった』という組織目標の回答率を30%以上UPさせる」とか、具体的な職務目標をたくさん設定してそれらをクリアするとAになります。

 たとえばの話ですが、担任をもたせることができない、授業で学力がつかない、行事運営を任せられない、欠席が多い・・・こんな40代の教師の手取り40万円の給与から、1万円を、新規採用3年目だが、すでに研究発表を2回こなし、崩壊した学級を任されて建て直し、部活動の指導では地区上位の成果を上げ、不登校生徒への家庭訪問や学習指導に尽くし、保護者からの信頼もあつい手取り20万の教師に振り分けてあげることは、大問題でしょうか?
 一般の公務員というのは能力の違いが昇進によって給与の差に反映されるのですが、教諭という立場の教育公務員は、たとえば上記の事例の2人の場合、給与の差は絶対に縮まらないのですね。
 競争原理が「金儲け主義」で理想が失われているという法律関係の仕事の方の嘆きのコメントが別のブログで紹介されていましたが、教育の世界とは完全に別次元の問題であることは明白ですね。

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昭和の家庭史トリビア?【第7問】 
 昭和2年(1927年)の話です。
 消防署への通報番号がある番号から119番に変更されました。
 もとは何番だったのでしょうか。
 ① 112
 ② 115
 ③ 199

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 【第6問の解答
 ③ 毛生え薬だそうです。

市民意識の欠如のモデルは公立学校にある?

 毎日jpに「勝間和代のクロストーク ~みんなの経済会議~」というコーナーがあり,6月には「公立学校に地域コミュニティー委員会設置を」というテーマで様々なコメントが寄せられていました。

 教育委員会の職員,PTA関係者はもちろん,公立学校の教師たちにもぜひとも読んでもらいたいコメントばかりです。

 129のコメントの多くは豊かな経験に裏付けられたものが多く,圧倒されるボリュームです。

 投票の結果は,

 賛成18.4%
 だいたい賛成26.3%
 どちらかといえば反対23.7%
 反対31.6%

ということでした。

 ベストアンサーに選ばれた方が問題にしていた「日本は官主導が多すぎる」こと,かといって自分たちで問題を解決しようと動くかというと,そうでもないこと,「日本人の宗教観,国家観とも密接に関係している」が,「日本人には自らを社会の一員だとする意識」はあっても,「社会は自ら創造するものであり、自ら支えていかねばならないという市民意識がとても希薄」であることは,確かなことです。

 そういう日本人の問題点を改善しようとして,改正したのが教育基本法学校教育法であるわけです(やはり官主導?)。

 新しい学習指導要領が出されましたが,文科省には「教える例を教えて」という問い合わせが多いようです。

 こういう教師たちの姿勢が問題であることは言うまでもないのですが,教師も公務員の側であることを考えると,公務員サイドでもっと情報の共有化や原則の理解を深めてもよいのではないかと,普通の人なら思うでしょう。

 確かにそうですが,「学校社会を自ら創造する」「学校は学校の教師が中心になって支える」「地域の学校として人々の信頼を得られるような教育空間とする」などという強い意思が見られることが,結果が出る条件なのに,何でも「教えてもらおう」という態度で「上」を見てしまう・・・・。

 今,官の方は「ばらまき」をやめ,「やる気とアイデアがある個人や団体」を支援するという大きな方向性を築いています。これを「差別的」と批判する人もいるようですが,差別化しないと結果としてはバラマキになってしまい,すぐに財源はなくなります。

 「金をくれ」「人をくれ」「アイデアをくれ」といっている連中に,教育の創造は果たせないでしょう。地方の自立などとは程遠い,日本社会の現状の縮図が学校社会にあるのかもしれません。

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昭和の家庭史トリビア?【第6問】 
 昭和2年(1927年)の話です。この年は,年末ですが日本発の地下鉄が開通しました(上野・浅草間)。また,大正天皇崩御で,元日に配達される年賀状の数が激減しました。(前年の3595万2246通から282万638通へ)
 さて,問題です。この年に流行した,フミナイン・玄華・ペトロールハーン液といえば,何の薬?
 ① 水虫薬
 ② 下痢止め
 ③ 毛生え薬

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 【第5問の解答
 ① 銀座・松屋からだそうです。

歴史資料に基づく勘違いの法則 ~写真資料の落とし穴~

 普通選挙法が成立した大正時代は明るく,続く昭和時代は暗く描くのが,「普通」の教科書です。
 
 しかし,短い大正時代にも戦後恐慌震災恐慌と決して明るくない事態は起こっており(治安維持法の制定も同じ),確かに金融恐慌から世界大恐慌後昭和恐慌農業恐慌と経済の混乱は続いていたわけですが,「昭和初期」は決して「暗黒」の時代ではなかったことが,詳しい年表などを調べるとわかってきます。

 東京のような都市と農村では大きな格差があるため,都市の「明るい」イメージだけで時代像をとらえることももちろん誤りなのですが,日本人の極端に偏ったイメージを持ちやすい癖をなくすためには,固定観念から自由になる方策を用意しておく必要があると考えています。

 もちろん,「暗い」「明るい」以外の時代のイメージも大切です。

 私が年表を読んで以外に思ったのは,

 「関東地方では,大正時代まで板張りに座って料理を作っていたが,昭和初期から立って作る立式台所が普及した」ということ。(関西以西では以前から土間床に立って作る方式)

 「一般家庭にガラス戸が流行した」こと。

 「肉屋と魚屋に,冷蔵庫を備えることなどを義務づけた」のが警視庁だったこと。

 「1926年に,文部省がソフトボールを小・中学校の体育教科に採用」したこと。

 どこかで読んだ記憶もありますが,「人見絹枝,スウェーデンで開かれた第2回世界女子陸上競技大会に単身で参加し,走り幅跳びに5m50cmの世界新記録で優勝」=「日本女子選手の国際大会初優勝」があったこと。

 消えていく習慣などもありますが,このころが始まりだったこともたくさんあるようです。 

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昭和の家庭史トリビア?【第5問】 
 昭和元年(1926年)の話です。(5月ですので今回も大正15年です)
 別れ話に悲観した青年が飛降り自殺を図りました。その第1号?だったようです。
 どこから飛降りたのでしょう?
 ① デパート
 ② アパート
 ③ 日本橋

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 【第4問の解答
 ② 男性は洋装797人・和装349人,女性は洋装22人・和装494人だったそうです。洋装の女性はたいへん目立っていたのでしょう。だから写真がたくさん撮られているのですが,そういう写真ばかりを見ていると,当時は洋装の女性が多かったのだと勘違いしてしまいます。

小中一貫・中高一貫の学習面の「正しい」かたちとは?

 学習における「小中一貫」ということを考えると,もしかしたら最も「一貫性」があるのは,「中学受験の塾」→「私立中学校・高校」というラインなのかもしれません。

 私立中・高の学習は,中学受験の過程で学んだ内容を財産として早い進度で進むことが可能です。

 いつも公立高校の入試問題が「中学受験レベル」であることが話題になりますが,公立中学校に通っている=高校受験を経験する子どもの多くが「中学受験」を経験していないことを考えると,別に「中学受験レベル」でも(出題して全員が正解してしまうというのであれば問題でしょうが),学習指導要領に準拠しており,正答率が特段に高くなければ入学選抜の問題としては成立することになります。

 公立高校の入試問題は,それが義務教育段階ではない学校への選抜試験であるとはいっても,学校の授業さえしっかり理解していれば対応できる問題であり,学校以外で特別な指導を受ける必要があるわけではありません。

 都立高校で進学に力を入れさせようとすると,塾に通うのが常識という空気を作れば別の話ですが,学校で受験学力に対応させようとすると,どうしても「宿題」「宿題」「宿題」という「詰め込み」方式に偏らざるを得なくなっていくでしょう。
 中高一貫校でも同じことで,結局「ゆとりのない6年間」が生まれることになるとすれば,設立の趣旨と全く異なる結果になってしまいます。

 ただ,行政側の建前よりも,生徒や保護者の本意を優先させるということなら,「適法」より民意に「適応」する道を歩まざるを得ないのでしょうね。
 「適正」かどうかはわかりませんが。

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昭和の家庭史トリビア?【第4問】 
 昭和元年(1926年)の話です。(なお,ここまでの問題の題材となっているのは,正確には大正15年のものです)
 東京・銀座を歩く人の服装を資生堂が調べました。12月2日の午後1時30分から1時間かけての調査です。
 どんな結果だったでしょうか。
 ① 男性は和装が洋装より多く,女性は洋装が和装より多かった
 ② 男性は洋装が和装より多く,女性は和装が洋装より多かった
 ③ 男性,女性とも,洋装が和装より多かった。
 ④ 男性,女性とも,和装が洋装より多かった。

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 【第3問の解答
 ① ネズミ でした。

攻撃による自分の問題のカモフラージュ

 競争では必ずしも常に「敗者」が生まれるわけでもなく,常に「弱者」が不利になるわけでもありません。

 たとえばただ金銭的な面だけを尺度にするなら,共産主義にならなければ「多い少ない」「多い少ないを気にする」ことは避けられません。しかし,質的な面で,全体として向上していくことが,競争のメリットです。

 「弱者にやさしい」という「売り」で競われれば,「弱者」にとっては有利になります。

 教育ではあまり弱者だの負け組だのいう言葉を使うことはありませんが,基本的にWin-Loseの関係ではなく,Win-Winの関係になることを目指しています。

 競争=悪という原理・原則絶対主義論者にとってみれば,白でなければ黒しかないわけで,そういう思考の視野狭窄状態では,弱者の本当の救済はかなえられることはないでしょう。

 公立学校の教育課程の基本は,「能力の高い生徒のみに力を付けさせる」わけではなく,全員に一定水準の能力を付けさせることにあり,これは「弱者」がどうのこうの言いたい人にとってみれば,「弱者」を出さない,あるいは「弱者」に手厚い教育が行われる,そういう原則であることの根拠に使えるわけです。それが特色だと言っている学校がその約束を果たしていないのならば,いくらでも学校に改善を要望をすることができるのです。

 それがなぜか,組合活動をしている教師との親和性が絶対視されてしまうと,たとえば「役所が労働者をいじめている」という思考パターンで,攻撃の矛先を見当違いの方向にもっていってしまうことが起きているのです。

 「現場主義」というお題目で活動している人間たちが,一番「現場主義」になっていない。

 「自分主義」になってしまっている。

 憲法でも,自分の都合のよい条文ばかりを信奉して,「人々のため」に公務員が果たさなければいけないこと(そもそも憲法はだれが何のために制定しているのかがわかっておらず)の優先順位を下げてしまう。

 そういう主義では教育に希望が見えるようになるわけがありません。

 「自分だけの身を守るため」に批判を他人に投げかけるのではなく,「自分たち自身を厳しく律しようとする」態度が「現場」から見えてこない限り,教育への信頼は戻ってこないでしょう。

 攻撃を受けたくない人が最も攻撃をしかけたくてうずうずしている,そして攻撃を続けることで自分たちの問題をカモフラージュする,そういうことが続いています。
 政治家も同じようですが。

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昭和の家庭史トリビア?【第3問】 
 昭和元年(1926年)の話です。
 東京のあるデパートが,ある動物を1匹5銭で買い上げるという新聞広告を出しました。ある動物とは?
 ① ネズミ
 ② ネコ
 ③ イヌ
 
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 【第2問の解答
 ① 36円 でした。

1を聞いて10の曲解をする人たちと「いじめ」の構造

 競争原理に反対,という人の中には,さまざまなタイプの人がいるでしょう。

 競争に関する記事を書くと,「競争でしか教育を語れない」などという的外れな疑問を抱いてしまう人。

 世の中には,あえてそこに触れないように気をつけながら・・・それは,「全体主義的」な人間たちからの批判を避けようとするためですが・・・教育を語ろうとする「清純派」がいるかもしれませんが・・・・。

 そういうタイプの人は,結局,自分(の仕事)に幻滅して仕事が手に付かなくなることもあるのでしょう。

 日本人には,1から10を決めてしまうタイプの人が多く,それが原因で気が付かないうちに「全体主義的」な行動を起こし出してしまうのです。
 いじめが集団化してその被害が深刻になる原因の一つがこれでもあります。

 ある主張を耳にするだけで,一足飛びにその指導の成果にまで思考がトリップ(スリップ?)してしまう人。

 過去に出会った人間と似た主張をする人をつかまえて,全く同じだと誤解してしまう人。

 困った人たちです。

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昭和の家庭史トリビア?【第2問】 
 昭和元年(1926年)の話です。
 郵便貯金をしている人の数が世界一になりました。日本人一人当たりの預金高は,アメリカの645円に対し,いくらだったでしょうか?
 ① 36円
 ② 63円
 ③ 365円
 
 なお,当時の東京の物価は,天丼が60銭,散髪代が47~50銭でした。
 また,「ハリウッドから日本女優を探しに来る」という記事もあります。月給は何と5000円。
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 【第1問の解答
 ③ 禁酒村 でした。

「適法」と「適正」の間 (昭和の家庭史トリビア?問題スタート)

 今日は,校内で別の教科の会合が終わった後,少し気になる会話を耳にしてしまいました。

 雑談は教員免許状更新に関してのことで,

 「うち(私立)では更新しない人もたくさん出てくるだろう・・・

という一言。

 まさか,もともと教員免許をもっていない人を雇っているということはないでしょうが,あるいは「ペーパードライバー」よりもはるかにあてにならない「ペーパー教員」よりも,無免許でも力がある人の方を雇うということが今後あるのでしょうか・・・?

 「適法」でない方が「適正」である・・・そんなことにならないといいですね。

 「この程度で更新できるのなら,する必要はないのでは?」

という声が(あるいは講習の実施者の側から)聞かれ出すかもしれませんが,制度として決まったばかりのことが簡単に「なしにしよう」ということにはならず・・・。

 新聞の取材もぼちぼち始まっているようですが,どのような記事が紹介されるでしょうか・・・?

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 ところで,歴史の学習の中で,教科書だけの世界から離れて,肌で感じられる社会像を描こうとする活動として,題材を「昭和・平成家庭史年表」(河出書房新社)から選び,3択問題を生徒につくってもらっています。
 年表では「衣・食・住」「家計・健康・教育」「文化・レジャー」「社会・交通・一般」というジャンルに分かれていますが,ここではそれにこだわらず,その「トリビア度」を評価していただこうかと思います。
 解答は一つ後の記事の最後でご紹介します。

第1問】 昭和元年(1926年)の話です。
 石川県の河合谷村で,我が国初となる「○○村」宣言が出されました。
 どんな村になったのでしょうか?
 ① 禁煙村
 ② 禁ばくち村
 ③ 禁酒村
 
 なお,後にこれによって蓄えられたお金で,村に小学校が建設されたそうです。(昭和6年)

打率は下がるが安打数は減らない ふり返り366日【08/5/21】

 競争原理に反対,という人の中には,さまざまなタイプの人がいるでしょう。

 まず,競争に伴う「努力が嫌い」なタイプ。

 そして,競争の結果,「よくない結果しか出せないことを嫌がる」タイプ。

 単純に,「人と比べられることが嫌い」なタイプ。

 努力をしたがらない人間は論外として,競争の「過程」を重視しない,結果第一主義である人間が,競争原理に反対するのは,ある意味では道理にかなっており,自分がどのような人間であるかを証明してくれているわけで,納得できます。

 野球のたとえで言うと,毎日1000回素振りをしていた人間と,家では全く素振りをしていない人間が,同じように試合でノーヒットに終わったとき,結果から見たら「同じ」なのでしょうが,「過程」を知っている立場でその人間を見る目が「同じ」であるわけがありませんし,「次のチャンスでの活躍の期待」が「同じ」であるわけがありません。

 競争原理が「同僚性を失わせる」というのは,ある意味では「適正」な結果を招きます。

 つまり,何の努力も工夫もせず,ただただ文句を言っているばかりの教師がそこにいた場合,優先すべきことは何か,ということに気付かせてくれる効果です。「同僚性」が「怠惰容認性」とイコールならば,即刻奪うべき性質なのです。

 怠惰でない教師が互いに支え合い,助け合う態度をとることは,学校の教育効果を高めるにはなくてはならない行為ですが,怠惰な教師たちが互いにかばい合い,隠し合う態度をとることは,マイナスでしかありません。

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08/5/21 同僚性欠如の問題の背景は?

 私は、耳障りのいい言葉、一見誰も疑わないような「美しい言葉」には思考停止に陥らず、その裏にあるものを必ず疑ってかかる習慣があるので、「すべては子どものため」という言葉にもひっかかってしまうのです。
 「すべては子どものために」という発想は、おそらく小学校の教師が、最も陥りやすいわがままに結びつく恐れがあると考えています。
 「子どもが望んでいるんだから、ぜひ○○を実現させてくれ」と訴える教師がいます。他クラス、他学年、学校全体のルールも視野に入らず、ひたすら「子どものために!」と訴える教師(中学校にもいました)。
 こういうときこそ、「忘己利他」の大原則を思い起こしてほしいのです。
 小学校教師の同僚性認識が欠如している背景には、他の教師、他のクラス、他の学年、管理職という「他者」に思いをかけることなく、ただひたすら「忘他利私(子)」になりやすい傾向が反映しているのではないでしょうか。
 「他の教師の努力を認める」「他の教師のいいところを盗む」「他の教師と協力してよりよいものをつくりあげる」・・・そして、自他の評価を高め合う学校づくりが実現すれば、同僚性欠如の問題はクリアできると思います。
 教師は比較されることにひるまず、視野をより広く持ち、全体のレベルアップに努めること・・・イチロー風にいうと、打率より安打数にこだわる(打率は下がることがあるが安打数は減ることがない)評価観をもてれば、競争原理も悪の面ばかりでないことに気付かされるはずです。

クレーマーの隠された欲求

[苦情クレーム博覧会] ブログ村キーワード

 学校側が「要望」ではなく迷惑な「苦情」とか「クレーム」として処理する内容の中には,相手側にとっての「本当の相手」が,実は現在の学校ではなく,過去のできごとに由来する「過去の相手」である場合があります。

 たとえば,小学校時代の担任に言いたくても言えなかったことを,「言いやすい」と判断した中学校の担任に言ってしまう例。

 ブログなどでも,過去に言えなかった胸のうちを,関連する話題があがったときに,(ネット上では言いたい放題が可能ですから)「ここぞ」とばかりに攻撃を加えてくる例があります。

 このような「不満発散」の受け手は,それを100%自分向けのものと考える必要はないのですが,「まじめ」な人ほど心にダメージを受ける場合があるので注意が必要です。

 この手の「不満発散者」は,相手を「不快な気持ち」にさせることで,「自分と同じ目に合わせた」という満足感を得ることができます。

 このブログ内でもかつては公開していましたが,こういう「不満発散者」は,「自分と同じ不快な気にさせる」ことができていないと判断すると,どんどん書き込む内容がエスカレートしてきて,「まもとな人間」であることを捨ててしまうところまでいってしまうという難点があるので,リアルの世界では,相手を「満足」させるための「演技」が必要になる場面もあります。

 クレーマーが「過去の復讐」のために行っているクレームについては,大人の方法としては,「慰め」としての受け止め方が妥当なのでしょう。
 それで図に乗るというよりは,過去の清算がすんでそれからはまともな生活を歩んでくれるようになるかもしれないからです。

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教師が適材であるための6条件 その6

 失敗したときは鏡を見てものを言い=反省をし,成功したときは窓の外を見てものを言う=祝福する

 「鏡と窓」という言い回しは,日本では一般的ではないかもしれませんが,この反対の状態を想像したときの「嫌悪感」を実感できる人なら,二度と忘れないフレーズになるでしょう。

 以前,人事考課制度の導入に対し,「同僚性が失われる」という理由で反対する人への説得方法として,「他の教師たちがより動きやすくするように条件整備に心がける」などの「人を動かして学校の成果をよりよいものとする」という発想があれば,「自分だけの成績を上げさせるための評価にはならない」ことに気付いてもらえる,という話を書いたことがありました。

 要するに,子どもの学力にしろ,教師集団の動きにしろ,「」の外の人をよりよくする,というイメージで働いていくこと,それがうまくいかないときに,「」を見て・・・つまり自分自身の行動の問題点に気付いて・・・改善が図れる人間になる,ということが求められているわけです。

 「窓と鏡」の原理に立って教育ができる人材が求められています。

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教師が適材であるための6条件 その5

 教師の場合は,「強烈」と言われるほどのエネルギーを常に発散されていると,まわりは「うっとうしい」「うるさい」と思われかねませんが,逆に,「授業」に対して情熱的でない教師も困りものです。

 教師に適した人材は?という問いには,「適所」との関係で左右される答えがあるかもしれませんが,最低限の条件は,「授業」に対して,「子どもの学力を向上させること」に対して,強い情熱をもっていることだと思われます。

 仕事に対して情熱を見せるということは,どの職業人にも共通することでしょう。

 学校の教師と会社の人材との大きな違いは,会社の人材は「会社」に対しても情熱を見せますが,学校の教師は「学校」に対して情熱を見せるとは限らないという点にあります。

 その「教師」の「個人的な活躍の場」として謳歌されているという例が過去にもたくさんありました。

 「情熱」という点についていうと,6条件のうちのその1からその3までとの関連も重要な勘所になりそうです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より