内田樹と内田樹に対する批判への批判をする人の共通点/警視庁史上初の事件
たまたま,内田樹への批判を記事にしたらしい人を「なんてアタマの悪い人だろう」とこきおろしているブログを見つけ,その他の記事を読み,内田樹と似たような点があるのでなるほどと関心を持ちました。
だれを対象にしているのか分かりませんが,「アタマの悪い人」という呼び方をするブロガーは,生徒の学力が中学レベルのことも習得していないことを嘆き,わざわざそれを記事にしています。
内田樹も,自分が勤めている大学の学生の学力の低さを実例を挙げて説明しています。
「アタマの悪い人」の存在がよほど気に食わないのか,解説にも熱がこもっています。講演では,盛り上がっている場面なんだろうということが,よくわかります。
内田樹の場合は,それが儲けのネタになっているので理解できるのですが。
私が内田樹を批判している一番大きな理由は,自分自身が「そういう学生に何を教えてきたのか」「どういう力を付けさせることができたのか」「教師は何ができるのか」にほとんど触れず,「ダメだ・ダメだ」と「劣化症状」を言い放ち,その原因を教師が悪者にならないような論理で説明しようとしているからです。
そのために,内田樹の場合は,わざわざ昔の有名な小説のダメ教師を引き合いに出して,「こんな教師でも教育が成り立った時代があった」と説明します。
「子どもが変わったから」という論理は,教師たちが読むと安心できるものなのでしょう。
学校現場に関する描写も,たまたま自分が教育実習生の指導のために訪れた中学校の印象がよほど強かったのか,自説の補強材料として役に立たせようとずっーと使いまわしています。
このような内田樹の批判も書いていますが,すべてが役に立たない教育論かと言えば,そんなことはありません。
たとえば,内田樹が苅谷剛彦の『階層化日本と教育危機』から引用し,「教育の崩壊のいちばん根本にあること」と述べていることです。
それは,「内発的動機による行動,自発性に基づく行動が尊ばれるが,それは社会的に認められている価値を求めて行動するより,自分の興味・関心にしたがった行動の方が望ましいとみるものである。」=「個性尊重の社会では,自己の内側にある基準の方が,外側にある基準より行動指針として尊ばれる」ということ=分かりやすく言えば,「私が有用だと思わない限り有用なものではない」・・・そんな価値観が「あり」になっていることが問題であるということです。
昔,小学校の名物教師が,「子どもはみんな勉強が嫌いである」・・・「だから教師は子どもをひきつけるネタをたくさん持たなければならない」・・・という論理で授業づくりを提案していましたが,このような子どもに媚びるタイプの「子ども第一主義」は,恥ずかしくて採用することができません。
内田樹は「自分が同意できる部分しか話を聞かない人間が増えている」と言っていますが,特に教師にはよくいるタイプなので注意が必要です。
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昭和の家庭史トリビア?【第44問】
昭和10年(1935年)の話です。
警視庁史上初となるタイプのある事件が東京で発生しました。その事件とは?
① 青酸カリによる毒殺
② 結婚詐欺
③ 保険金殺人
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【第43問の解答】
①の,44.8歳でした。女性の平均寿命は46.5歳。
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