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「学校携帯」の近未来 ふり返り366日【08/6/3】/昭和9年の遊戯場数トップは?

 「携帯」が,そう遠くない未来に獲得し得るであろう新しい機能について,巷ではどんな憶測が流れているのでしょうか。
 それが,学校教育などにどのような影響を与えることが考えられるでしょうか。
 困るもの,役にたつもの,まずいもの,効率が上がるもの・・・メリデメさまざまです。

 ボイスレコーダー機能・・・子どもが教師との面談のやり取りを録音(録画)し,家族の前で再生する。
 (録画機能)        授業は録音(録画)して,家で復習する。
                いじめの決定的な行為(言葉がけ)を記録(録音・録画)する。
   →投影機能・・・プロジェクターのように,画像を白い紙や壁に再生できる。
 盗聴器(マイク)機能・・・常に授業での話を家庭でも聞ける。子どもの代わりに親がノートをとる。
 翻訳機能・・・英語の話が日本語で聞こえてくる。 
 辞書機能・・・意味がわからない単語を言うと,日本語で候補をいくつか教えてくれる。
 万歩計機能・・・一日に何m移動したかがわかる。
 IDカード機能・・・登下校の時刻が学校・家庭・本体に記録される。
 体温計機能・・・体温や脈拍の変化を記録する。
 カロリー計算機能・・・食事を撮影すると,その分のカロリーがわかる。
 
 現在でも可能な機能は?
 アンケート,宿題送信・・・毎日決まった時間に宿題が転送されてくる。答えを入力して制限時間内に送付する。
 予備校の授業風景送信・・・携帯の画面で塾の授業を受けることができる。
 授業評価の結果送信・・・教師への評価,自分の授業への取り組み,理解度などを授業終了後に送信する。
 大昔の「アナライザー」を,各生徒がどんな場所にいても使うことが可能である,そんなイメージです。 

 「学校携帯」を活用した教育実践・・・・・・なんていうのも登場するかもしれません。

 個人情報が異常なほどの量,集まってしまうことに懸念は当然ありますが・・・。

08/6/3 携帯電話と刀狩令・鎖国政策(増補版)

 教育再生懇談会の「小中学生に携帯電話を持たせるべきではない」という一連の論議は、秀吉が行った刀狩令になぞらえて考えられます。
 「携帯電話 刀狩」で検索してみたら、そのような趣旨で記事を過去に書かれた人がいるようです。
 携帯電話は、事実上メール機能があるパソコンです。
 この道具を使って、友達や見ず知らずの人を攻撃する人間が多く現れました。
 「便利な道具」にいつの間にか「武器」の機能が加わりました。
 もちろん、騙す、罠にはめる、誤解させる、混乱させるなどのこともできます。
 この武器は、主に人間の精神的な部分にダメージを与えるものです。
 透明人間による無差別攻撃も起こりえます。
 他人になりすまして特定の人間を攻撃することも、可能です。
 精神的なダメージによって、気に入らない相手を死に追いやることも可能です。
 メールの一斉送信のメンバーからはずし、「村八分」にすることも可能です。
 「自由」のもとで一部の子ども達(子どもだけとは限りませんが)は「やりたい放題」です。
 子どもを守るための「規制」の主張が現れるのは当然のことでしょう。

 しかし、携帯電話を取り上げてしまうことで、一部の被害は防げるかもしれませんが、せっかく子どもが手に入れた「人間としての名誉の証」が奪われてしまうことにもなります。

 当然、反発は必至でしょう。必死に反論してくるでしょう。
 秀吉が行った刀狩は、一揆の防止という意味もありましたが、武士(刀が持てる人間)と農民(刀が持てず、農業に専念する人間・・・現代なら学習に専念する子ども)という身分の差をはっきり示す機能もありました。

 昔の背伸びをしたがる現代の子どもは、大人しかできないはずのタバコに手を出していました。
 タバコの味ではなく、一人前になったような気分を味わっていました。

 中世までの百姓たちは、成人になると刀を持つことができるようになり、一人前の人間として認められるようになりました。刀は、人としての尊厳の象徴でもありました。

 明治に士族が「廃刀令」を出されたときも、同様のインパクトがあったでしょう。
 今は、親より機能やデザインがよい携帯をもっている子どもが増えてきています
 携帯は、持っていることだけでも意義があるわけです。

 この世界では、大人と子どもの線引きがなくなりました
 子どもの方が、さまざまな機能を駆使して、活用し尽くそうと努力します。
 もし、携帯を持たせる選択肢をとるなら、中世の日本のような自力救済の原理が必要です。
 問題がおこったら、自分で解決する
 攻撃されるのはいつでも覚悟して、戦い抜く
 あるいは、攻撃されないように、防御に力を入れる
 携帯を持たせない選択肢をとると、近世の日本のような安定した社会がつくれるかもしれません(多くの公立中学校は学校内への持ち込みを禁止するという鎖国=海禁政策をとっています)。
 しかし、抜け荷(密貿易)はあるかもしれないし、保護者からの外圧も強い。
 近代社会では、携帯の行方はどうなるのでしょうか。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第42問】 
 昭和9年(1934年)の話です。
 東京市内の遊戯場数で最も多かったのは?
 ① パチンコ屋
 ② マージャン屋
 ③ ビリヤード場

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 【第41問の解答
 ②の,一口35回以上でした。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より