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親と教師の「生産的」研修 ふり返り366日【08/6/2-2】/完全咀嚼運動

 核家族が進む前は,親に余裕がなくても,おじいさん・おばあさんが親代わりのはたらきを家庭でしてくれて,子どもが健全に育っている・・・そういうところが多かったのでしょう。

 今では核家族があまりに多くなってしまって,単純な比較ができませんが,「親代わり」の存在の大きさは,あえて説明するまでもないことです。

 某ブログで,教師が受け持ちクラスの生徒を引きとるために夜に呼び出される,そんなケースが紹介されていましたが,今では教師が「親代わり」の代表格として君臨?しています。

 生活密着型の小学校で,子どもが担任教師そっくりの癖を身につけている,そんな事例もどこかで紹介されていました。

 そうすると,教師の資質・能力の中に,「親代わりの役割」というのも求められてくるのでしょうか。

 驚くべきことに,教師を親代わりとして尊敬して育ってきた親が,自分の子どもの担任に対して,自分が子どものときに経験できたことをそっくり要求してくる親まで登場するようになってきました。

 TVドラマが刷り込んできた教師像の影響も大きいかもしれません。

 「あなたという親がそこにいるのだから・・・」という当たり前のことが,なかなか理解してもらえないつらさ・・・そんな経験をしている教師も多いのでは?

 「信頼されていること」と「単純に頼られていること」の違いを区別できない教師が,落とし穴にはまっているようすも目にしてきました。

 毎年,6月ごろにPTA研修会というのが各地域で開かれていると思いますが,おそらくほとんど一般の教師たちは参加せず,管理職だけが対応?しているのではないでしょうか。

 それよりも,「親の役割・教師の役割」「親としてできること・教師としてやるべきこと」などのテーマで,親と教師が膝を突き合わせて話し合いができるような場を設けた方が,(喧嘩が起こるリスクもあるでしょうが,雨降って・・・というよき結果を期待して・・・)生産的な研修になるのではないかと思われます。
 
 今のPTA研修会は,どうしても「消費的」「決まりだからこなす」という印象が強くて仕方がありません。

08/6/2 親を変えるプロジェクトを・・・。

 教育学者や学校の教師のメッセージは、なかなか親には伝わりませんね。
 「勉強頑張ったらゲーム買ってあげる」
 「塾に通うんなら携帯を買ってあげる」
 多くの親が使う手でしょう(もちろん無条件で与える親もいるでしょうが)。
 帰りの電車などで、ゲームに熱中している中学生をよく見かけます。
 携帯をめぐっては、たとえば給食費を払わなかった親に、「子どもの携帯の契約を切れば払えるでしょう」(当時、1ヶ月で1年分の給食費に当たる金額を携帯で使った子もいました)とまで言ってしまうようなこともありました。
 「こんなにほしいものを買って上げて、遊ぶ金も渡してあるのに、何が不満で荒れているのかわかりません」という・・・問題行動を繰り返す子どもの親。

 教師の資質が問われるなどというレベルの問題ではありません。
 明白な虐待(目で見える範囲に傷が残る、ガリガリになっても食事をとらせないなど)なら止められても、手をかけて甘やかすタイプに歯止めをきかせる手段はありません

 「自分たちが何をやっても無駄だろう」とあきらめている教師も多い問題がそこにはあります。(自分が親でまさにその通りの子育てをしている教師もいるでしょう)

 国や調査機関も、「朝食をいつも食べているか」とか、「家族そろって夕食を食べられるのは週に何回か」とかいうレベルならまだ聞けるでしょうが、親の教育に問題があることを子どもに悟らせてしまうような調査はかけにくい。

 教育社会学者のように、親の収入の格差が学力の格差。しかもそれは次世代にも受け継がれる貧困・低学力の連鎖。などと平気で言えてしまうのもすごいところですが、学校は子どもにも親にも夢や希望を与えてあげたいところです。
 「教師が変われば学校が変わる」という言い方がありますが、「親が変われば学校(子ども)が変わる」モデルケース事業をどこかでやらないでしょうか。
 法令で動くより、成功例をつくってそれをまねしたくなる自治体、学校が増えるようにした方が、無駄がないでしょう。

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昭和の家庭史トリビア?【第41問】 
 昭和9年(1934年)の話です。
 この年,完全咀嚼同盟なるものが結成されました。この団体は,一口の食物を,ある回数以上,噛んで食べるという完全咀嚼運動を提唱しているのですが,その回数とは?
 ① 一口10回以上 
 ② 一口35回以上
 ③ 一口50回以上

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 【第40問の解答
 ③のマニラでした。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「奇貨居くべし 黄河編」より
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    「楽毅」第四巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より