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「指導」という教育的行為のニュアンスの相違 ふり返り366日【08/6/1-3】/第1回NHKアナウンサー採用試験

 教育に関する理論自体を軽視する教師や社会一般の風潮は,問題が多いと考えられる一方で,その理論によりかかって納得したがる教師や保護者にふり回された経験がある人なら,仕方がない,とも弁護できるわけです。

 自然科学ならまだわかりますが,教育に関する理論など,それでことが足りるのであれば,問題は次々に解決されてしまうはずで,例外だの結果に影響を与える因子が多すぎて,子どもを取り巻く現象を網羅しうるものなどないわけです。理論研究より,実践研究の方が,子どものためになることが多いのは,当然でしょう。

 Aができるようになる,程度のことなら「コツ」という言葉で済んでしまうわけですが,それを大量のデータを集めながら大げさに考えて,何とか「理論」の形にしたがるのは,大学の先生たちくらいのものでしょう。
 経験豊富な教師が参加する教員免許状更新講習ほど,講師にとって一筋縄でいかないものはないかもしれません。

 さて,挨拶や言葉遣いの指導については,いくらでも「コツ」があるものですが,大人が子どもの機嫌をとるような「配慮」が,「指導」という教育的行為に該当するものなのかどうか,そういう話になってくると,様々な考え方が出てきます。

 「指導」という言葉は,使う人間によって,あるいはそれを聞く人間によって,ニュアンスの幅が非常に大きく,意味が異なる場合も多い言葉です。

 そのため,逆に,その言葉を使っている人間の思考パターンというか,固定観念というか,縛られているイメージというのがよくわかるものです。 

 それをとことん突き詰めていきたいのですが,人間は,自分の思考パターンに変更を迫られる状況からできるだけ避けたいと逃げる傾向があるもので,単純に頑固な人とか,経験が豊富な教育関係者などはそれによく該当し,議論が先に進まなくなるのが残念です。

08/6/1 ブログに見られる教員の特質

 「あなたとは考え方が違う」と対話を拒否する人、「Aではなく、Bも」と要求されると、「AだけだったのがBだけになる」など、180度無理に舵をきってしまう人、子どもだけでなく、教員にも見られます。
 大人だけに、ほんとうに指導するのが難しい。
 上司としての管理職・人事権をもつ行政というのはたいへんな責務を担っているものです。
 子どもの場合は、周囲の子どもが「それはおかしいよ」と言えば改善されるかもしれませんが、教員の場合、管理職・行政・保護者という対立軸をもって閉鎖的集団主義がつくられている場合、周囲の教員が批判することが難しい。
 「みんなは一人のために、一人はみんなのために」のうち、問題となるのは、後者が何を要求させられているか、ということです。同一の価値観が強制される恐れがある。
 自己申告や外部評価は、このような問題が文書の形になることで、「毎年必ず同じ失敗が繰り返される」失敗をある程度防止することができます。
 ブログというのは自己主張の強い人がそもそもやっているもので、かつ匿名性が高いため、言葉が極端に走りやすいのですが、教員に限って言えば、それはもともと持っている資質が表れただけなのかもしれません。

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昭和の家庭史トリビア?【第38問】 
 昭和9年(1934年)の話です。
 NHKが第1回アナウンサー採用試験を実施しました。採用25人,何人が応募したのでしょうか。
 ① 128人
 ② 328人
 ③ 728人

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 【第37問の解答
 ②の3日でした。大型トラック50台分の荷物だったそうです。それを置くスペースがあるというのもすごい。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より