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小学校の学級王国=巨大な一人親家庭 ふり返り366日【08/6/1-1】

 教育というのは,学校教育でものを教えるところではない,見習うべき人を見せるところだ・・・
 このような言葉を,教師としてはどのように捉えるべきでしょうか。

 生徒は,教師の人間性をよくみているといいますが,「人間は話し方ひとつでわかる」という捉え方と,学校という場では一面しか見られないわけで,それで人間性をうんぬん言われる筋合いはない,という捉え方があるでしょう。

 小学校の場合は,子どもが担任といっしょにいる時間だけが,異常に長い
 考えてみれば,三十数人の子どもが,一人の大人と長時間過ごさせられる小学校時代というのは,かなり特殊な経験をしているわけです。
 巨大な一人親家庭といったところでしょうか。

 このような空間内で,後に発生する問題の種がどのようにまかれ,水面下でどう育っているか。
 
 中学校では,かなりの自治活動を経験する機会がありますが,これを単に発達段階に応じた指導という面からだけ見ていたので,その効果が十分に表れない理由がわからなかった。
 
 実は,自治活動をより強力に推進すべきなのは,小学校段階である・・・これは,何でも担任に頼りきり,隣の席の子どもの落し物を「先生,落し物です」と渡しに来るような子ども,教室の隅に置いてある道具を,「先生,それ取って!」と家と同じ感覚で命令する子ども,クラスによって掃除ができる,時間を守る,提出物の期限を守る,ノートをきちんととる,忘れ物をしない・・・などの習慣がついていたりいなかったり,バラつきのある子どもたちをつくらないためにも,ぜひとも持っていただきたい課題意識です。

 小中一貫校での実践を突破口にして,教育基本法に示された教育の目標を達成するための基礎が培える学校教育をどうデザインするか・・・単なる連携ではゴールが見えない課題かもしれません。

08/6/1 不信拡大の悪循環からの脱却策

 よたよたあひるさんからのご返答は、どれも教育の世界の人間にとってはたいへん参考になるご指摘です。
 このような他業種との交流が教育界には少なかったので、独善的、保身的、閉鎖的な特質が教員には染みついてしまいました。
 「開かれた学校づくり」「人事考課」等は、このような教員の独善性や閉鎖性によってふくらみ続けてきた不信を払拭するというねらいもありますが、そういう政策への反対・反抗という態度によってさらに不信を拡大するという悪循環に陥っています。
 以下、よたよたあひるさんからのコメントをご紹介します。

 コメントへのお返事エントリーありがとうございました。ただ、私がコメントに書いた、  >自己申告をもとに指導してくれる  >上司の対応によって見方、書き方が  >変わるような気がします。 は、「恣意性」の問題ではなくて、もっとテクニカルな部分のことです。

 学校の先生方のことはわからないのですが、医療や福祉の領域の職員だと、直接援助の仕事はとてもよくできる・・感度がよくて利用者のツボをつかむことがとてもうまいけれど、この手の作文が上手くない人は多いです。公立施設であっても、意識は専門職であんまり自治体職員という感覚が薄いということもあると思いますが、動いてナンボという意識が強いのかもしれません(主任試験のマークシートでも一番成績の悪い職種が看護でついで福祉職だったような記憶があります。論文はなおのこと苦手な人が多いです)。ちょっと脱線しましたが、感覚ではつかんでいるのに、うまく言葉にできないでいるものは、一人の職員の「職人技」になってしまいます。ちょっとしたガイドがあると、この「職人技」をスタッフ全員への共有財産にできると思うのです。
  
 また、私の日記で書きましたように、個々の職員にも得手不得手はありますから、利用者に対するのと同じようにストレングス・モデルの指導がうまく伝われば、自分でも不得意だと思っている領域への取り組み方が見えてくる場合があると思うんですよね。今のうちの上司は、国語表現の問題も含めて、その産婆術のような指導をしてくれるんです。

 教員の場合も「意識は専門職で自治体職員という感覚が薄い」ことは明らかです。
 問題はこの「専門性」自体にもあり、ボランティアできた大学生や塾からの講師の方がよっぽど教えることを工夫して、「先生よりわかりやすい」と言われてしまったり、「学習指導要領」をろくに読まず、自己流の教育内容・教育方法を毎年踏襲したりという教員が多いのです。
 100マス計算による効果が伝えられるとすぐ飛びついてまねをし出しますが、子どもはそれ自体の充実感はあるとしても、そのために本来の学習を行う授業時間が削られるわけで、もし計算が終わったらぐったりして次の学習に向かう姿勢がまったりムードになってしまったら意味がないわけです。
 それを導入して高い成果を上げてきた先生というのは、100マス計算のように競い合う方法がよかったのではなくて、あくまでも普通の学習の指導力が高かっただけなのです。
 自治体職員としての感覚が薄いことは、一人が取り扱う文書の数が少ないことも原因に上げられます。
 教師は「書類が多い」と文句をいいますが、それは程度問題で言えば、生徒が「宿題が多い」と言っているのと同じです
 宿題がほとんどでない学校の生徒は、週に2~3回宿題が出ると多いなあと思うかもしれませんが、毎日宿題をこなすのが習慣になっている学校の生徒は、一日に何個もまとめて出されて多いなあと思うわけです。
 自治体職員というより公務員には「文書主義」という原則がありますが、狭い職場であるため口頭での伝達も多く、また「口伝」によって仕事の方法が伝えられるという伝統があることが、教員に「文書主義」の原則が身に付かない背景になり、「また書類ですか、めんどうくさい」という反応になってしまう。
 学校現場では省かれている業務に関係する「起案」という用語も、知らない教員は多いでしょう。
 これは、明らかにボタンのかけ違いによるものです。
 教え方、集団の指導の仕方などは、その場にいれば先輩から盗んだりすることができるのですが、文書作成・文書管理についてはモデルがそこにいないから難しい。
 いまだに書類が整理できない教員はたくさんいると思います。その方法がわかっていない。
 毎年ほとんど同じような書類もあるため、ときどき年度を変えないで出されてしまっても気付かないということがおこります。
 役所も学校も、書類のフォーマットというのは決まっているので、私はそのフォーマットのすべてを4月当初に新しくその学校に入った教員にはすべてわたすべきだと考えています。
 その年は担当でなくても、いつかは自分のところにやってくる。
 そして、教務や生徒部、保健、図書・・・組織がいつ何をどのようにして動いているかを把握する
 副校長も、文書が来てから調査を開始するのではなく、あらかじめ決まっている調査については依頼文書が来る前に用意しておく。
 忙しい時期に文書作成に時間を取られずにすむ工夫は教員にも管理職にもいくらでもあります。
 頼まれもしない学級通信は喜んで毎日出し、同僚から頼まれて行事の要項の作り方を教えるのは抵抗がなくても、「上からおりてきた」文書だけはいやいややる。子どもと同じレベルです。
 人事考課で自己申告書を作成するときは、自分の能力や学校における立場と学校の現状と課題を踏まえて目標を考えるのですが、欠点はわかっていても、では何をどのように目指せばよいかがわからない。
 子どもには学年当初に「今年度の抱負」という作文を書かせるでしょう。
 この作文を踏まえて、抽象的な目標が書かれたら、具体的な目標を別につくり、その目標を達成するための方法も具体的に考えさせる。そのような生徒指導が習慣になれば、では教師としての自分は・・・となるはずなのですが。
 教員が不信拡大の悪循環から抜け出すには、ひとつはより良い教育を実践することとその方法を自分にもあてはめること。もうひとつが、他業種の常識から学ぶべきことを学びとることでしょうか。
 今、学校が開かれだして、中が変わらないまま開いてしまったものだから、ますます不信が高まってしまう学校が出てきた。一部の教員は、いつまでたっても「外部の人間にはわからないことなのだから」と閉鎖性をあらわにします。
 この閉鎖性は、明らかに子ども集団にも伝播しています。
 早く不信の悪循環から抜け出さないといけません。
 子どもたちにとっては、それは二重の意味で、重要なことです。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第36問】 
 昭和8年(1933年)の話です。
 この年だけで100人近くが投身自殺し,自殺の名所となったのはどこ?
 ① 伊豆大島の三原山
 ② 華厳の滝
 ③ 東尋坊

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 【第35問の解答
 ②の「水道料金5割引き」でした。

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» 教育実践の「挫折」と「のりこえ」 [“しょう”のブログ]
 私のブログの読者(他県の高校生)からメールで次のような質問をいただきました。>教師という仕事に取り組んできた中で抱えた問題と、それをどのように克服・工夫して乗り越えられましたか? このたびは、その回答を記事として公開いたします。前回記事「特別活動の実...... [続きを読む]

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より