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全体・部分・個の相互関連 ふり返り366日【08/5/28】

 学力向上の話をしていると,「それ以外の子どもの能力はどうでもいいのか?」という反応をして「学力問題」から遠ざかろうとしてしまう人間が,教師にもいます。
 
 「学力面以外の子どもの能力が高ければ,学力も高まりやすい」という統計上の数字を使って,「学力問題」に正対するような実践から逃げようとする教師もいます。

 「学力の高い人はそれ以外の能力に課題がある」などという「ひがみ」に基づき「それ以外の能力に課題がある」例だけをもとに偏見の塊のような人間観を形作ってしまった人もいます。

 確かに,「部分が集まって全体ができあがっている」という見方,「部分はあくまでも部分にすぎない」という見方,「ある部分が全体に大きな影響を与える」という見方など,人間や社会を見る目が異なる教師が現場にまざっていると,ある面では「他の見方の有効性」を学びながらよりよい教育実践ができると考えられる一方で,「他の見方の有効性」はどうでもいいから,各教師がそれぞれに好きなことを思いつくまでやればよいという,子どもにとっては「人によって言うことが違う」教育を受けさせられる可能性もあります。

 全体主義は必ずおかしな偏りや不寛容の精神を高めてしまいますから,異なる意見がさまざま存在すること自体は決して悪いことではありません。
 
 しかし,「個別主義」では,指導の一貫性と具体的な目標の喪失,わがままを促してしまうことなどの問題を生じます。

 「全体と個」との関係は,全体だけ,個だけの事情で決まるわけではなく,全体とそれぞれの個,いくつかの個のまとまり(部分・集団)との関係で決まるものです。

 様々な教育政策に対しても,全体や部分・集団,個と,これらの相互関連を土台にした問題点の分析を進めていくべきでしょう。

08/5/28 永遠の希望をもつ教師

 コメントをいただいたまずろさんのブログにおじゃまして、書き込ませていただいたのが以下の文章です。

 公務員の中でも、教師という職業はその仕事への期待が高く、そしてその失敗への失望も深いものです。
 各学校の教育課程で一目瞭然。
 すべての子どもに○○という力を身に付けさせる・・・というのは至難の業です。
 達成度が低い仕事である分、その資質・能力・実践力の向上はたえず問われ、仕事をしながら研究と修養に励まなければなりません
 すぐに成果が出せないことも、現状維持だけでも相当のエネルギーを費やしている学校があることも、みんなわかっています。
 教師の問題は、できないことを非難されるとき、「それでも頑張り続けます」と言える謙虚な人もいる一方で、「私のせいではない。競争などを導入する行政のせいだ」などと逆ギレする人がいることです。
 強気な人は管理職にくってかかることで不満を解消し、控えめな人は、ブログに書き綴って賛同を求めようとします。
 教師には、逃げ道がありません。
 しかし、無限のチャンスがあります。
 「永遠の希望」と言ってもいいかもしれません。
 生徒は、待ってはくれません。
 常に成長の機会を求めています。
 生徒に希望をもたせることができる教育者でありたいものです。

 中学校で言えば、やっと一人前の人間らしくなってきたな・・・と思っているうちに卒業していなくなってしまい、また宇宙人のような一団が加入してくる・・・。
 そういうエンドレスの意味でも「永遠の」問題ですし、ほとんど大きな目標の達成が難しいという意味でも「永遠の希望」なのです。
 自動的に給料が毎年増えていき、安定的なボーナスまで保障されている恵まれた公務員には、高度な職業倫理が求められるはずです。
 経済面の好条件にあぐらをかいて、努力を怠る教師たちが、「同僚のパイを奪おうとなどと思うな!」というプレッシャーをかけている現実を、教師以外の方々はどのように思われているでしょうか。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第26問】 
 昭和7年(1932年)の話です。
 1月9日に東京・日比谷公会堂で行われる予定だった,日本初のある試合が,風紀上好ましくないという理由で,警視庁によって禁止されました。
 どんなスポーツの試合だったのでしょうか。
 ① 女子相撲
 ② 女子柔道
 ③ 女子ボクシング

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 【第25問の解答
 ③の「飛行機からの飛び降り」でした。三重県鈴鹿上空で日本空輸旅客機から乗客が飛び降り自殺を図ったものでした。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第四巻より
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    「春秋の名君」より
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    「歴史の活力」より
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    「侠骨記」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より