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だれのための競争か? ふり返り366日【08/5/28-5】/23区の前はいくつだった?

 昨年の5月には,「競争」に対する認識の違いから,かみ合わない議論が続いていました。

 それは,「競争」=「利己的なもの」という思い込みをもった人とのやりとりであったためで,もっとわかりやすい例を挙げて説明してあげればよかったと後悔しています。

 競争は自分のためのもの,という考えに固執してしまっていては,それでもそれが他人のためになっているのであれば,しないよりよい,という答えしかできなかったわけです。

 自由競争にさらされている企業は,自分自身が利益を出すことを目的としているとは言っても,そのことと「利己的であること」とは別次元の問題です。

 消費者に選んでもらえる商品を提供しない限り,利益を出すことはできないのです。

 つまり,自由な競争がある環境では,消費者側に選ぶ権利がある以上,消費者に「利益」をもたらすような商品を作り出すのが,使命ということになります。

 「教師はよくやっている」と自己を肯定的に捉える教師たちにとって,「よりよい教育」を求める子どもや保護者の声は邪魔なだけなのです。

 子どもや保護者に学校を選ぶ権利がない状態を放置したままで,なぜ学校が「利己的ではない」と言えるのか,不思議なものです。

 競争がない環境では,教師がどんなに「利己的な行動」をとろうが,学校には何の影響もないということになります。

 このような最も根本的な意識のズレが,学校の非常識であり,「利己的な人間の集団」だと見られる所以です。

 競わないですむように仕向けるのは,自分がラクをしたいからだということに思われていることについて,無関心でいられる神経が,公教育への不信に拍車をかけているわけです。

 全体主義的な発想をもっている教師にとっては,政党が競っていること自体も無意味に感じていることでしょう。

 最後には一つの政党だけが生き残ると信じているわけでしょうから・・・。

 なお,記事のふり返りについて,Mさんが関係しているところは,本人が望んでいないようなので触れないようにします。
 

08/5/28
競争原理に反対する目的

 まずろさまへのブログに書き込ませていただいたコメント(一部改変)です。
 

教育の目的であるべき子どもの成長が,競争によって手段に転化してしまうことが恐ろしい。

 との主張に対してのものです。
 子どもの成長を目的にする教育という仕事は、教師にとっては生きていくための手段です。
 教師にとって、教育という仕事は目的でもあり、手段でもあるのです。
 別の見方をすれば、教育という仕事は、子どもを成長させるという目的を達成するための手段であるとも言えます。
 目的と手段という別次元のものを同一視・混同するのはいかがなものでしょうか。
 子どもの成長が手段になるというのは、たとえば東大進学者が増えれば入学志望者が増える、といったようなことを指すのでしょうか。
 目的より手段を優先して仕事をするとしても、結果として子どもが成長して目的が達成されれば同じことでしょう。
 教師の利己性が表面化し、子どもの成長を妨げる結果になるのは、「競争」以外でもいくらでもあるでしょう
 「競争」は、子どもの成長を妨げる教師の利己性を排除する機能をもつことがあるということを主張しています。
 「利己的な教師の排除」を妨げる目的で競争に反対するという論理はよく理解できます。

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昭和の家庭史トリビア?【第30問】 
 昭和7年(1932年)の話です。
 東京市が5郡82ヵ町村を合併し,総人口497万人,世界第2位の大都市となりました。
 それまでは15区でしたが,この合併によっていくつの区になったのでしょうか。
 ① 23区
 ② 35区
 ③ 47区

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 【第29問の解答
 ③でした。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より