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「保護者」ではなく「指導者」 ふり返り366日【08/5/26】/客室乗務員の応募倍率

[教師] ブログ村キーワード

 教育界で,肩書きよりも仕事の中身で子どもの学力向上に貢献している人たちの中に,塾・予備校の講師,通信教育の添削指導の経験者などがいます。

 今,「教育界」という言葉を使ったとき,このような人々の存在感はどのくらいあるのでしょうか。

 「教育界」というのは,実際にリアルタイムでその恩恵を直接受けているのが子どもであるため,教育に携わる人と子どもという「縦のつながり」はたくさんあっても,あまり「横のつながり」がなく,一体感がありません。

 学会など,子どもと直接関係がない教育者の「横のつながり」はあっても,「学会」だけあって非常に細分化した集団であり,「教育界」に占める重さはたいしたことがありません。

 教育に携わっている人々の一体感を生み出すような仕組みはできないでしょうか。

 その貢献度の高さを競い合ったり,よりよい貢献のために補完しあったりする仕組みはできないでしょうか。
 
 その鍵を握る核となるための体力を,公立学校の教師がもっているとは思えません。

 キーワードは「保護者」でしょうか。

 私は,この(子どもの)「保護者」という名称が,もしかしたらいろんな意味で日本の教育の足を引っ張ってきた元凶ではないかと思い始めています。

 ある教育ブログから,そのヒントを得ることができました。

 教師が「保護者はあなたでしょう」と親に向かって言うとき,「自分には保護する義務がない」と責任逃れできる心象風景を作ってしまっているのではないかと考えます。

 「保護司」ならまだその「保護」の教育上の意味はわかるのですが。

 ではどんな言葉がいいか,すぐに思い浮かぶものではないかもしれません。

 イメージとしては,「指導者」が一番ぴったりくるのですが。

 親が「保護者」としてふさわしくない,と言われてもぴんときませんが,親が「指導者」としてふさわしくない,というのは理解可能では?

08/5/26 名誉を重んじる集団から契約重視の集団へ

 「競争」のことについて議論すると、教師本意・教師擁護としか思えない言動を繰り返す人が多いのです。

 競争が悪い。
 教師に問題はない。
 競争が教師を悪くする。
 競争を目的とした教師が出てくる。

 ・・・果たしてそうでしょうか。
 私の考えは、
 競争で教師の問題が浮き彫りになり、何をどう変えなければいけないかが明確になる、というものです。
 競争を目的とした教師が出てくるとしたら、それも教師の問題なのです。
 教師のモラルがそれだけ低いことを知っているから、「競争を目的とした教師が出てくる」などという発言になるのです。
 なお、教師の問題を浮き彫りにできるのは競争だけではありません競争だけで問題を解決するわけではない
 私の出発点は、自分自身を含めて教師が悪い(力が足りない)というものです。
 教師の力が足りないことを認めない教師がさらに教育を悪くする
 自分に問題があることを自覚できない教師が教育界全体の信頼を失う言動を繰り返す
 では、教師はどんな力をつけなければいけないのか。どのように仕事がこなせないといけないのか。
 同僚性。協調性。
 これももちろん大事です。
 でも、社会一般はこれを「馴れあい」と見ています
 チームワークが大事なんて、わざわざ取り上げなければいけないくらい、教師集団というのは問題を抱えているということです。チームワークが大事でない職場ってあるのでしょうか?

 子どもの力を最大限に活用する方法。
 地域の力を借りる方法。
 NPOや企業の助けを借りる方法。
 子どものためにできることはさまざまですが、閉鎖的な教師集団は外部の人が現場に入ることを嫌い、「自分たちで何とかする」と言ってしまう
 馴れあえなくなってしまう

 先生の授業より、非常勤講師できてくれた人の方が授業がわかりやすく、楽しかった・・・などと言われるのは我慢できない。
 他の学校がいろいろと創意工夫し出すと、特色のない学校は逆の意味で目立ってしまう。そんなことは許せない・・・。
 自分の学校の教育課程の中身、その特色をざっとでも説明できるでしょうか。
 そこに、子どもをどう教育すると書いてあるのか
 教師たちは、「あれは教育委員会に出せば終わりだろう」などと考えているかもしれませんが、とんでもない。
 教育課程での約束事がどれだけ守られたのか、子どもの顔を思い浮かべながら、評価しなければなりません。
 教育界が社会から信頼されていないのは、教育学者、教育評論家が教師本意・教師擁護の主張をしてしまうことも大きく関わっているかもしれません。
 それは、読んでくれたり相手にしてくれたりする対象のほとんどが教師だから仕方がないのですが。


*******************
昭和の家庭史トリビア?【第21問】 
 昭和6年(1931年)の話です。
 ○○村で有名な石川県河合谷村で,○○で積み立てたお金(45000円)で小学校が建設されました。
 ○○にあてはまるのは?

 ① 寄付
 ② 博打
 ③ 禁酒

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 【第20問の解答
 ②でした。3人採用に141人が応募しました。初登場は4月1日でした。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より