ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 同僚に遠慮しないで教育ができる環境 ふり返り366日【08/5/24-2】/森永ミュージアム | トップページ | 「東京水上尋常小学校」をご存知でしたか? »

超短期的な目標にふり回されない教師 ふり返り366日【08/5/25-1】/不衛生な日本人

 自己申告やキャリアプランを提出するときに,「補助資料」を添付している教師はどのくらいいるでしょうか。

 あるいは,補助資料を要求している管理職は,どのくらいいるでしょうか。

 それぞれの資料には,ある程度の具体性をもった目標なり計画なりが書かれているはずですが,何しろA4の大きさ1枚の表裏しかありませんから,詳しいことは一切書けません。

 「面接のときに答えればよい」「答えてもらえればよい」という考え方もあるでしょうが,何らかの「裏づけ」は必要でしょう。

 これは,教育委員会に「教育課程届け」を受理してもらうときにも同じことが言えます。

 教育課程届けには定型がありますが,補助資料には,決まった形というのは必要ありません。

 そこに各学校の独自性,今年度の反省を踏まえた来年度の教育にかける意気込み地域の変化を見据えたある程度のスパンをもった中・長期計画など,企業なら当たり前に行っていることを,どれだけ教師が自分たちの力で表現することができるか。

 あまりにも目の前のことに振り回されすぎているという印象のある教師を,どうしたら「意図的・計画的な実践者」というスタイルに変えることができるか。

 まずは,係生徒を分刻みで自ら動けるように仕込めるような行事運営ができる教師を増やしていくイメージが一番しっくりくるでしょうか。 

 超短期的な「指導のコツ」などに飛びついてばかりの教師風土を改善していくことも必要でしょう。

08/5/25 自己申告やキャリアプランは無駄な書類か?

 自己申告書やキャリアプランが「無駄な書類である」という認識をしている教師はやはり多いのでしょうか。
 子どもに「今年の目標」「○年生になっての抱負」などの作文を書かせるねらいは何でしょう。
 子どもも「またか、めんどくせえな」と思っているかもしれません。
 もし教師がそういう作文を書かせっぱなしで、以後の指導の場面で全く活用しないのであれば、なくしてもいいのかもしれません。
 子どもたちには教師の実像を知ってもらうためにも語りかけたいのですが、やたらと作文を書かせている教師は、その間、何をしているのかをよく観察してみてください
 まさかネットでショッピングをしている人はいないでしょうが、自分のための時間を使っているかもしれません。
 作文を書いている途中で、個別に見て誤字を直してくれたり、姿勢や鉛筆の持ち方を注意してくれたり、そういう個別指導をしていますか。
 その作文が、学級通信などでフィードバックされていますか。
 また、その作文で書いた内容を教師は覚えていてくれて、時間がたってからの会話でその話題が出たりしたことはありますか。
 教師への自己申告やキャリアプランも同じことです。
 管理職がそれらを通してよく教師のことを理解し、実践も観察して力量を分析することで、異動のときに正しい「よい評価」「よい評判」を次の学校に伝えることができます。
 新規採用ではあるまいし、「この人、どんな仕事ができるのか、よくわからないが、よろしくたのむ」なんてことがあってはなりません。
 しかし、「悪口」「悪い評判」ばかりが伝えられてきた歴史がかなり長かったのではないでしょうか。
 長い歴史をもつ日本の「安心社会」は、問題のある成員を組織内で排除できる(担任をもたせない、教務部には入れない、○○だけ任せるなどの)しくみがありましたから、問題による被害を食い止める能力は高いのです。
 自己申告やキャリアプランというのは、「信頼社会」に欠かせない「他人を信頼すること」の根拠になるものです。その教師の「能力開発履歴」「目標歴」「コンピテンシー獲得歴」になるのです。 ある管理職から見たらあまり評価できそうもない教師でも、他の管理職なら別の点に着目して評価してくれるかもしれません。
 「いやいや、私は平均以下の、何の取り柄もない教員ですから、こんなの書くの無駄ですよ」と口では言っていても、やはり長所は長所として評価してくれることを悪く思う人はいないでしょう(本当に管理職嫌いの人は、わかりませんが)。
 yo先生のブログのコメントには、こんな余計なことまで書き込ませていただきました。
 

管理職や行政の最大の悩みとして、学校の経営者になろうとする教員があまりにも少ない問題を挙げて終わりにしようと思います。
 資質がないのに志望している人を任用しないように、少しでも資質があると考えられる人を管理職が口説いて選考に向かわせているのが現状です。
 私が使うたとえは、難しい集団構成になったクラスで学級委員の立候補がでない状況と同じようなものです。
この状況が、現場に20年いても30年いても変わらないのは、すばらしいこととも言えるし、「その年になってもどうして・・・」とも言えるのです。
 団塊の世代はまだ人に任せておけばいいのですが、それが抜けた後、惨憺たる状況が待ち受けています。経営にたえられる人材の確保はもはや不可能になるかもしれません。当然、民間人校長や学校運営を地域が担うタイプの学校が増えることになります。それはそれでとてもいい結果になるかもしれませんが。
 今は興味はなくても、自分が手を挙げないと、さすがに学校は崩壊すると実感する時が来る教師は多いと思います。

 「私には関係ない」という態度の教師でも、本当に頭を抱える管理職ばかりになったら、考えてくれるでしょうか。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第17問】 
 昭和5年(1930年)の話です。
 東京・深川小学校で,「不衛生」だという理由で励行されるようになったのは?
 ① 運動時は体操着に着替えること
 ② トイレで手を洗うこと
 ③ 髪を切ること

*******************
ブログランキング 歴史
にほんブログ村 歴史ブログ 近代・現代史(日本史)へ

 【第16問の解答
 ③は,昭和元年の話でした。私の母親が「ソフトボールの名投手」だったと聞いて,意外に思った記憶がありました。時期としては,確かだったことがわかりました。

« 同僚に遠慮しないで教育ができる環境 ふり返り366日【08/5/24-2】/森永ミュージアム | トップページ | 「東京水上尋常小学校」をご存知でしたか? »

教育」カテゴリの記事

昭和の家庭史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92794/45595508

この記事へのトラックバック一覧です: 超短期的な目標にふり回されない教師 ふり返り366日【08/5/25-1】/不衛生な日本人:

« 同僚に遠慮しないで教育ができる環境 ふり返り366日【08/5/24-2】/森永ミュージアム | トップページ | 「東京水上尋常小学校」をご存知でしたか? »

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より