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「安心社会」の問題性 ふり返り366日【08/5/25-3】/トンカツのルーツ

 ふり返りの記事が時系列で前後してしまいましたが,「安心社会」というキーワードが登場したせいで,山岸俊男の「信頼社会」と「安心社会」の関係論が注目されるようになるかもしれません。

 ここでは,「安心社会」の問題点がわかりやすく主張されているからです。

 私の目には,国の動きとしての「安心社会」の「安心」は,「世話をしなければならない側」の「安心」にばかり目がいっているようで,「世話される側にとっての本当の安心」が視野に入っているかどうかが疑問です。

 「信頼社会」というと,お互いの関係性で初めて生まれるものだというのがわかりますが,「安心社会」の「安心」は,どこか一方的な「安心」もあり得るような印象があります。

 たとえば学校で「安心」できないでいる=「不安」を抱えている子どもが学力面では必ず存在します。

 それではそういう子どもがいて教師も「不安」でいるかというと,そうとは限らないでしょう。

 教師にとっての「不安」が初めて襲ってくるのは,進路(進学)の時期が近づいてきたり,自分の業績が評価に反映されるなどという話が舞い込んできてからの話です。

 教師の子ども,学校と家庭との間に本当の意味での信頼関係が築かれるというのは,よくあるのは問題が起こって,その対応が適切であったりしたときにできることがありますが,日常的なコミュニケーションの中で形成していける仕組みができることが望ましいのでしょう。

 保護者がなぜ学校を信頼してくれているのかというと,その鍵が学校から帰った後に行われる家庭での会話の内容にあることに,保護者との二者面談で気付かされることが多くあります。

 やはり小手先の技術ではなくて,実質的な成果が,本当の意味での信頼関係を生むというわけでしょう。

08/5/25 学校は信頼社会へ移行できるか?

 以下の考えは、山岸俊男(社会心理学者)著『日本の「安心」はなぜ、消えたのか』(集英社インターナショナル)で紹介されていることを参考にして述べています。
 自分に損になることはしないはずだ(仲間内での制裁機能がはたらくから、だれも不正は働かないはずだ)と考える(だからたとえば玄関に鍵をかけないでいられる)安心社会を、教師社会も求めている傾向が強いことは明らかです。
 安心社会では、成員の実力が高まることをねらいにしているわけではなく、仲間内のルールやモラルが守られていればそれでよいのです。
 しかし、安心社会の問題は、人の流動性が高まったとき、外部の人がそこに入るときに「人を見たら泥棒と思え」という、他人を信頼しない心理がはたらくことです。
 無理もありません。学校社会が閉鎖的で、排除されても全く何の支障もない人がそこにはいなかったからです。
 江戸時代を思い浮かべればよく理解できるでしょう。
 少なくない教師にとっての管理職観は、まさに「外部の人間」「他人」なのでしょう。
 安心社会の長所は、閉鎖的で変化や発展に乏しい環境では、社会を安定化させる効果があるということです。
 集団内での制裁機能があるため、自分が損をすることになる「ルール違反」をあえて犯す人はいません。
 安心社会の教師集団は、たとえば「自分だけ学級通信を出すのはずるい」と行動を規制したり、力のない教師には重要な仕事を任せなかったりと、仲間内での排除機能をはたらかせながら、秩序を維持しようとしています。
 安心社会は、教師同士が信頼しあうというより、互いの利己性にびくびくしたり他人を疑ったりしなくてすむ社会であって、逆に言えば、互いを信頼しあうことができない人たちがつくり、安心していたい社会ということができます。
 しかし、変化が激しく、発展性を求められる環境になると、安心社会ではそれに対応できなくなります
 だから競争原理が入ったらそれに反発するというのは、安心社会の教師には当然の論理になります。
 たとえば教師が自己評価をして、それが給与に反映されると聞くと、すぐに「インチキをして自分の評価を高めようとするやつがでてくる」と疑うのが、安心社会の教師に典型的なパターンです。
 話はそれますが、安心社会信頼社会の違いをわかりやすい例で説明することにします。
 安心社会につかっていたい人たちは、インターネットオークションがここまで普及するものとは思わなかったでしょう。
 相手を信頼するのではなく、相手を信用しないのが常識の社会では、だまされることを危惧してだれもこの世界には足を踏み込もうとしないでしょう。
 現実問題として詐欺の被害があることは確かですが、だからネットオークションはなくなっているかというと、そうではありません。むしろ利用の拡大が続いています。
 悪い評判が増えた出品者は、名前を変えてまた市場に参入することができるので、被害をなくすことは難しいでしょうが、信頼社会の重心は「相手を疑う」ことではなく、「相手を信頼する」ことにおかれます
 私が利用するときに重視するのは、過去の利用者たちによる評価です。その満足度が高ければ高いほど、安心して取引をすることができます。
 人に対する信頼が雪だるま式に大きくなっている例の典型です。
 以上の例から、教師の多くは「異動」のシステムを想起することができるのではないでしょうか。
 詳しくは別の機会でふれることにします。 
 信頼社会にも弱点はあって、「努力した人、正しいことをした人が報われる」システムがないと、この社会は機能しないのです。嘘をついたり、他人をだましたりする人が得をしてしまわない社会にしなければなりません
 安心社会の人は、そんな制度はつくれない、だから今のままでいい、という主張をしています。
 将来の子どもたちにいつまでも安心社会の住人でいろ、「空気を読む」能力をもっと身に付けろ、という教育をしていたのではかわいそうです。
 何か問題がおこるとすぐに「お上の監視が甘いからだ」と反応するのも安心社会の問題です。
 山岸俊男さんは、前述の著書で、次のように述べています。

 何ごとにおいても「お上」の監視や管理を求めるやり方は、相互監視や制裁を基本とする集団主義社会ならば通用する方法であっても、開かれた信頼社会には不適合な方法ではないかと思えてなりません。
 それよりも私たちが考えるべきなのは、ポジティブ評価を得た人たちがトクをする社会を作るということではないでしょうか。

 管理職との意思疎通を十分に図って、自己申告書やキャリアプランをしっかり作成していただき、教師に対する「よい評価」を前提とした信頼社会に学校社会を移行してもらえることを切に願っています。

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昭和の家庭史トリビア?【第24問】 
 昭和6年(1931年)の話です。
 豚の肉にパン粉をつけて揚げる料理は,すでに明治時代からあり,当時はポークカツレツと呼ばれていましたが,ポークカツレツは肉が薄く衣の方が厚いもので,次第に肉が厚くなり,ポークカツレツと分けてトンカツと呼ぶようになりました。このトンカツ(豚のトンとカットレットの合成語)という料理名を最初に使ったのは,東京・上野の何というお店だったでしょうか?

 ① 煉瓦亭
 ② 安楽亭 
 ③ 楽天

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 【第23問の解答
 ①でした。C・Bカレー事件といいます。この事件は,国産品が外国品と遜色ないことが分かり,国産品普及の引き金となった,イギリスにとっては二重に迷惑な事件となりました。

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 私が学生のころは「日本人論」がブームでした。 ルース・ベネディクトの「菊と刀」をはじめとして、イザヤ・ベンダサンの「日本人とユダヤ人」、中根千枝氏の「タテ社会の人間関係」、土居健郎氏の「甘えの構造」... [続きを読む]

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    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「中国古典の言行録」より
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    「春秋の色」より
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    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
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    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
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    「中国古典の言行録」より
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    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より