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いよいよ始まる「評価」の見直し

 文科省による「子どもの評価」の見直しが,いよいよ始まろうとしています。

 HPには来週月曜日に「教育課程部会 児童生徒の学習評価の在り方に関するワーキンググループ(第1回)」が開催されることが示されていました。

 論点は,いまだに定着していない「観点別学習状況の評価」を見直すこと,

 習得ー活用ー探究モデルが新学習指導要領に示され,言語活動の充実が求められたことで,「観点別学習状況の評価」で対応できない「一体的・総合的な活動」をどう評価するか,考えること。

 さしあたって,上記2点が中心課題です。

 もし観点別学習状況の評価を存続させるとしたら,はっきりと「これは学習過程における形成的評価として活用すること」を明言すべきです。

 そして,総括の評価は,たとえばレポート,たとえば定期考査の結果などから,「一体的・総合的に判断」するべきです。

 総括の評価の観点は,以前にも述べたように,「習得レベル」と「活用・探究レベル」の2つに分けるだけで十分です。

 評定の基準は以下の通りです。

 習得が十分でかつ活用・探究も十分満足・・・5
 習得が十分で活用・探究はおおむね満足・・・4
 習得が十分だが活用・探究は満足できない・・・3
 習得はおおむね満足で,活用・探究もおおむね満足・・・3
 習得はおおむね満足だが,活用・探究は満足できない・・・2
 習得すら満足できない(活用・探究が満足できないのは当然)・・・1

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より