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「体育教師」に対する疑念

[体育会系] ブログ村キーワード

[教師] ブログ村キーワード

 京都教育大の「体育教師の卵」の一件があったので,「体育教師」に対するイメージについて考えるために,YAHOO!検索で調べてみると,二番目に以下のような質問とそれに対する回答のページが掲載されていました。
 質問の一部を改変して引用すると,以下の通りです。

1.高校の体育教師が他の教科担当の先生に比べて同じレベルの存在には到底思えないのですが、こう思っているのは私だけでしょうか? (体育教師が教頭ましてや校長になったなんて聞いたことがない,大学も知識も格下である)

2.実際の学校生活では体育教師は他のどの先生よりも威張っている気がします。これはなぜなのか。

3.教官室があるなど,特別扱いされる意味がわかりません。他の教科の先生とは共存できないからわざと隔離しているのですか?血の気の多い彼らと、できるだけ接したくないからですか?

 よく頭の中も筋肉でできていると呼ばれる(自称したりもする)体育教師ですが,他の教科と比べて,生徒に対して強い態度を取ることが,経験上もやりやすい立場であることは確かだと思われます。

 私の認識では,体育教師のほとんどは専門にしているスポーツがあり,大学時代は競技者としてそれなりのレベルで活躍しているのが普通です。いわゆる体育会に所属し,厳しい先輩ー後輩の関係で育てられ,育ててきた経験とそれに培われた力量が,学校という教育の現場で生かされる部分は非常に大きいわけです。

 以前にも,「大学時代に人を叱った経験がある人はどのくらいいるのか」という記事を書いたことがありましたが,体育会というところは叱られる経験,叱る経験をしやすく,「責任感」というものを実感をもって理解しやすい環境であるわけです。

 このような力量を買われて,現場の教師になったら,部活動の指導はもちろん,生活指導にも大車輪の活躍を期待されるのが体育教師です。

 2の質問が生まれるような背景,そのように見えてしまう事情は理解しやすいでしょう。

 体育の教育実習生を見ていていつも笑ってしまうのですが,体育会の世界では「大学4年生=天皇」なので,いつも必ず「肩で風を切る」ような歩き方をする学生が必ずいます。

 さて,問題は,1と3の質問に関連する体育教師の力量の問題です。

 結論から言うと他の教科の教師と全く同じで,その力量には非常に大きな個人差があります。

 出身大学名だけでだいたいその個性や力量が分かるといったものがあるかもしれませんが,基本的に「力量はバラバラ」です。
 
 管理職試験のことで言えば,義務教育の話ですが,私の所属していた自治体には,体育の管理職がたくさんいました

 生活指導を核として,体育教師が学校の核になる可能性が小中学校では高いのです。

 もちろんその実績だけで管理職にはなれませんから,法令の知識や目指す学校像などがしっかりしていて,一般教養だけでなく経営管理についての資質・能力も問題ないと判断されて,副校長・校長に昇任しているわけです。

 数学や社会科という教科についても,それそれの教科の教師より専門性が高いとか,そういうレベルにはないでしょうが,体育には体育の理論や実践研究がしっかり構築されているわけで,そういう勉強・研修をしっかりしている教師たちには,他教科の教師も敬意をもって接しています。

 ただ逆に,例えば高校や大学といったところの体育教師になると,自分が手を抜こうと思えばいくらでも抜ける,それが他教科よりも,よりやりやすい,そういう職場環境になるのは確かでしょう。

 教官室があれば,真昼からこっそりビールを飲んで休むこともできるわけです。

 競技についての指導も,クラスの中にその競技を専門にしている部の生徒がいれば,その生徒を中心に授業を展開することも可能になります。

 私が荒れた学校に赴任したとき,異動した体育の教師は,50分授業のうち半分くらいは体育の準備室でごろごろしていて,子どもが遊びつかれたときに校庭や体育館に向かう,という人がいたそうです。

 サッカーとかバスケットボールとかいってもただゲームをするばかりで,傍目には休み時間とほとんど変わらない(変わるのは体操着に着替えていることだけの)光景だったとか。

 生徒の目から見て,いわゆる「実技教科」を教える教師たちが,受験と関係ない教科の教師というくくりで,甘くというか低く見られる傾向は,高校などでは強いかもしれません。

 中学校では実技教科の内申点が入試がない分,5教科より高く設定される傾向が,このような見方から救っているという面もなくはないでしょう。

 大学入学時点の学力云々と言い出すときりがないでしょう。

 体育教師が,「勉強が苦手だった」という身の上話を子どもに聞かせるのもいいのですが,データを重視したり,物理学や生理学,工学など,学問の成果を取り入れたりそのような視点から追究するような体育なりの「勉強のおもしろさ」を伝えてくれることが,おかしな固定観念から解放されるきっかけになるものだと考えています。 

 「あの人は,体育だから・・・」と体育教師を特別視しようとする,現場の差別的ムードは簡単に子どもに伝わります。他教科の教師にとっても配慮すべきことがらです。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
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  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
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  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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