【重要提言】学力格差縮小のための評価制度設計
「具体的で詳細な評価規準を明示してしまうと,そのことだけにとらわれて学習してしまう問題が出てくる」ということが言われます。
最小限の学習時間で,最大限の効果を上げる「効率的」な学習を進めたい人間には,評価規準(いわゆるノリジュン)があるのは助かるのです。
さらに,どの程度できればAなのかBなのか,という「評価基準」(いわゆるモトジュン)がわかっていれば,「必要以上の努力」をしなくてよくなるので,Aになったと判断した時点で学習をやめてしまうことができるのです。
自分の評価を上げたい生徒・・・評価が志望校に合格するための重要な資料になるとするならば,その願いを「筋が違う」ということはできません。
しかし,「自分だけでしっかり自分のためだけに勉強して,試験でいい点をよればよい」という考え方を放置することができないのも確かです。
そこで,習得と活用・探究を組み合わせた5段階評価にすれば,どんなにペーパーテストで高得点をとっていても(習得面では十分満足でも),それを活用・探究する場面がなければ「3にしかならない」形をつくることができることをお示ししました。
学習の評価を「自ら学び自ら考える」生徒の育成から,「平和で民主的な国家・社会の形成者」の基礎を育てようとするより大きな目標の達成に役立つように改善していく,そういう発想が必要です。
習得した知識・技能の活用については,「だれのために活用するのか」という視点を導入するのです。
現在の想定では,自分の言葉で説明するとか,自分なりの解釈を加えて論述するとか,個人の能力を高めることばかりに注意が向かっていますが,「説明」や「論述」も「だれのためにするのか」という発想で考えれば,人のため,社会のため,・・・身近なところでは「同じ学習集団に所属する生徒のため,特に習得の部分が十分でない生徒のため」であると考えることもできます。
生徒が「自分の言葉で表現する」ことの価値は,ただその生徒の中でしっかりと噛み砕かれた理解を確認できるという利点だけでなく,教科書の文章や教師の話という「大人の言語」では分からなかったことが,同じ年代の子どもの言葉でなら分かるようになるかもしれないという可能性を含むものです。
習得が十分満足に進んだ生徒が,それが十分に進んでいない生徒に自分の知識や技能を使って習得に近づけていくような学習のイメージは,今までも様々なところで論じられてきています。
自分の活用力も向上し,他の生徒の習得度も向上すれば,一挙両得です。
かつての相対評価のように,だれかの成績が上がればだれかの成績が下がるという,ゼロサムではもちろんだめですが,絶対評価という制度も指導や規準,基準のぶれによって公正なものが作りにくいという最大の欠陥がありました。
今後は,習得が進んだ生徒が,不十分である生徒に対して自分の成果を披露し,両者の能力・評価結果が向上していくというプラスサムな関係が学校で展開されていくことを望んでいます。
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