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教師の「資質」が疑問視される事件ばかり・・・

 ほとんど毎週のように報道されている教師による犯罪だけではありません。

 たとえば京都教育大の学生が起こしたような問題は,「教師の資質」に対する国民の疑念を高めるものです。

 日本では個人の責任よりも,そういう問題を起こした集団の質を問うような傾向が強いですから,大学側が問題を公表しなかったことなども,「何のためであるか」非常にはっきりしています。

 「教師の卵」という言い方があるように,大学生のうちは,あるいは,教師として教壇に立つまでは,まだ教師としての「誕生」前なので,日本語の「資質」はしっくりくるものです。

 教員養成課程の中で,もともと持っているよいものを育てていくことができれば,「教師としての資質」に恵まれた教員が誕生させられる,そういうイメージです。

 多くの教師は,教育実習の期間に,「教師として生きていく夢」を膨らませることができたように,「優れた教師」を育てていくための機会は,直接子どもと接することができる場である必要があります。

 初任者という「0歳児」の教師も,「実績」がなく,まだ教師として信頼されることが難しい面があるので,まだそこでは「資質」を磨くという取り組みが可能です。 

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教育」カテゴリの記事

コメント

コメント、失礼します。
 いやあ、困りました。何が、困るのか?それは、教師になろうと、また子どもを立派と言える社会人に育てようと、本当に努力してきた人が浮かばれなくなることです。
 私も、教育者に、少しあこがれを持っていました。友達も。その友達も。先生になろうと、何年もがんばってきた。でも、なんかもういいや、って皆諦め始めました。
 お勉強なし大卒ゆとり世代の若い子は、私たち30歳以上グループと違い、何の苦労もいりません。私たちに比べるなら、簡単に、学校の先生に採用されてしまいます。若ければ、ここでは書けないけれど、いろいろ得。実際、若く、社会経験もまるでないイケイケ兄ちゃんたち変な人が、採用されてきています。彼らは子どもの頃、ゆとり教育で、万引きしてもかまわないよ、人殺ししたってさ、と教わってきてしまいました。それを、正しいこととして、新しい世代の今の子に教えてしまっている構図ができていると分析できる。完全に、洗脳され、麻痺してしまっている訳なのです。
 そうしたことに、問題があるのでは、とまず思われます。

 制度のせいにするのはよくないことなのかもしれないが、そもそもゆとり教育では危ない教員が生まれてしまう、と10年前から指摘されていました。NHK教育テレビで、当時からすでに強く疑問視されていました。なのに。なぜ、今こうなるとわからなかったのでしょうか。
 若い教師に言わせれば、「だってえ、私たちも、昔子供の頃に人殺し教わったもの。やっちゃえ、やっちゃえ。だからいいじゃん」。
 いろいろな人がいますが、一つにゆとりの洗脳を受ければ、そのレベルになるのです。私たち30歳過ぎの世界とは、常識が、あまりに違いすぎるのです。
 さらに恐ろしいのは、2010年、そうした教師に教わってしまった不運な子が、成長して2020年成人になったとき。もうその2020年成人の子では、申し訳ないが、常識ある生活が送れなくなるでしょう。結婚しても、2030年頃、しっかりと家庭教育を施せなくなります。そして、そのちぐはぐ2030年家庭教育を受けたそのまた子も常識がなくなる。そして、常識ない2040年成人に。そして、そのまた子のまた子も・・・。省略しますが、こんな、恐ろしい連鎖が待っているはずです。
 もう、この連鎖を止めるのは、容易ではありません。だからこそ、あんなゆとり教育なんて、やっちゃいけなかったのに。と、言ってももう遅いのですが。
 私たちは、学校の先生にならない。なったところで、彼ら若教師とは、考え方や行動が絶対にあいません。もう、学校の先生になっても、しょうがない気がします。
 皆さん、学校関係者ではないから、自分は子どもと関わらないから、と安心なんてしてはなりませんよ。今の教育を受けた子は、数十年後、あなたのそばに、大人の姿となって、家の隣人として関わることになるのかもしれないのですよ。もう、ゴミのマナーなど、確実に守れない。夜中も、テレビゲームの音。赤ちゃんの、虐待叫び声。悲しいですが、そんな未来が待っているのかもしれません。
 話は少し変わって、やがて老人になる2050年の私たちを支えてくれるはずの彼らは、きっと裏切ります。年金なんて、払ってくれなくなりますよ。
 
 どうか皆さん、真剣に考えてください!
 
 長くなりました。急に、すみませんでした。なお、この書き込み内容は、私個人の思い込みなどではありません。さる大学機関の統計を元にした、警告です。

いきなりコメント失礼します。
教育によって本当に子供の将来って決まってきますよね。日本の教育がいい方向に行くことを望みます。
私が参考にしているブログです
http://radiance4u.jp/
子育てって大変ですよね
よかったら参考にしてくださいね

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
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    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より