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2009年6月

教師が適材であるための6条件 その4

 教師には,あまり「大言壮語」タイプの人はいないのですが,「有言実行」型の教師も以外と少ないものです。

 授業の指導案には,必ず「本時の目標」が設定されているのですが,実際の授業を見てみると,目標を実現するために必要な指導が不十分だったり,そもそも設定した目標とは別のことに力を入れているようにみえてしまったりする授業が多く見られます。

 自己申告の導入によって,管理職は各教師が目標にしていることを知りつつ指導することができるのですが,まず「約束したことの難易度」に個人差があり,「約束したことの達成度」にも個人差があるため,学校全体としての「有言実行度」を測定するのはなかなか難しいというか意味のあることにすること自体が難しそうなところがあります。

 「適材」かどうかを判断する指標としては,「有言実行」もいいのですが,たとえば異動して入ってきた教師などは,前任者の決定とか方針をとりあえずはくずさない態度というのがあってもいいでしょうか。
 教員の異動があると,子どもや保護者から見たときの「指導の連続性」に疑問が生まれてしまうケースもあるので,前任者が「やる」と言ったことは必ずやるなどの,「約束を守る人」と評価できるような人材がふさわしいのだろうと考えられます。

 これは,個人からの約束というよりは,組織=学校としての約束というように捉える態度が大切だということでもあるでしょう。

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教師が適材であるための6条件 その3

 教育ブログの中には,「教育というのは大変な仕事だから・・・」「こんなに大変な仕事なのにバッシングを受けて・・・」のようなニュアンスの記事が散見されるものがありました。

 このような,「仕事だから・・・」という発想の人材は,企業では「適材」とは言わないようです。

 新聞社にとっては,「仕事だから記事を書く」と考える記者ではなく,「事実を報道するという責任を自覚している」記者が適材となります。

 世の中には,そのように「仕事」ではなくて「責任」を与えられていると自覚しているプロがたくさんいるのですが,教育界にはどうでしょうか。

 「親に責任が・・・」とか,「子ども本人に責任が・・・」というのが得意な教師がたくさんいませんか?

 「あなたにとっての責任とは何ですか?

 教員試験の面接では必ず聞いてほしい質問の一つです。

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体罰の議論から逃げないことが大切

文月さんコメントありがとうございます。
 以下の内容,ご紹介の記事に書き込ませていただきました。 
 
 

学校のなかには,どんなときでも体罰を加えるというわけではないが,ある限度を超えた問題を子どもが犯し,反省の色がないとき,他人のせいにしているときなど,「ここぞ」というときに体罰を使って怖れられているような教師がいます。
 同僚の教師たちはこのような教師の存在をありがたがる・・・というのは「体罰」が抑止力になって,子どもが問題行動を起こさない・・・そういう図式になっているところがまだあるのではないかと思います。
 このような学校では「体罰」を推奨しているわけではないのですが,「」のような「最終兵器」として「体罰」を温存しているのです。
 体罰撲滅のみちは,単純にはいきません。
 体罰を絶対にしない・・・というのは大前提なのですが,学校はそう言いきれるための戦略を練る必要があります。
 内部告発制度,連帯責任制度・・・のような後ろ向きの政策ではなく・・・です。

 
 法令違反となり,懲戒をうけることも覚悟のうえで,なぜ教師は体罰に訴えるのか。

 それは,それがどのように支持されているのか。なぜ容認されるのか。

 その仕組みを理解しなければいけないのですが,この問題は「いじめ」と似たところがあると思われます。

 「やってはいけない」ことは頭では分かっているが,「やってしまう」。

 様々な人が様々な考えを発表すること,そして意見交換をすること,あるときは厳しい批判合戦になったとしても,決して逃げず,多少横道にそれたとしても,それたことを理由に逃げない・・・そんな場が学校・地域・家庭で確保されなければなりません。

 そういう場がなければ始まらない話であり,そういう場から逃げてしまう人間をどう食い止めるのか,これも大切な戦略になります。

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教師が適材であるための6条件 その2

 「適材」であると評価される人は,上司などから細かく指導されたり,管理されたりしない自律性をもっているのが特徴でしょう。

 教師になぜ上からの管理が必要になっているのかというと,一つには「指導に力を入れる」ことのマイナス面の一つに「偏り」が生じるという問題があるからです。

 「追究の鬼」とか言われて有名だった教師は,この「偏り」が激しいことでも知られていたそうです。

 「お気に入り」のポストに入れなかった子どもは「不幸」を味わわされて進学していきました。

 本当の「適材」は,子どもへの指導の「偏り」について鋭い目をもち,自分の仕事量の配分の「最適化」を図る能力がある人をさすのでしょうが,やはり「公平さ」の自己判断の「公正さ」は外からの評価の目が入らないとなかなか難しいものでしょう。

 「適材」にあふれている学校は,上からの動機付けが全くの不要で,指示を待たずに最大限の努力を自主的に行うことができます。
 今は,「褒められ待ち」の態度が子どもだけでなく,大人にも増えていると聞きます。

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教師が適材であるための6条件 その1

 教師がある学校に赴任したとき,「自分のポジション」の感じ方が,「適材」であるかどうかの一つの判断基準になると思われます。
 ただしそれは,教師個人としての自己評価であり,それが他者評価とイコールであるとは限りません。

 学校経営が難しいのは,教育理念の共有が図れない可能性があるからです。

 基本的に教師という職業は「オールラウンドプレーヤー」であることが求められるので,たとえば,教科指導でどれだけ力があっても,「集団行動をとる能力」が身についていなかったりすると,同僚の「厳しい視線」を感じるポジションになってしまうわけです。

 企業では,その企業の理念を共有できない人はそもそも採用されないか,ポジションを失う結果になります。

 教師の中には,「学問の自由」「思想の自由」などを盾に,学校や自治体の教育理念を否定してもその地位を失わないで済む状態にありますから,つまり,教育理念の共有が図れないことも考慮した「適材」の確保を経営者は考える必要があります。

 結果としては,理念が共有されていない教師集団が育てる子どもは,その教師集団のような特性をもった集団を構成する人になっていきます。
 結局,教育界の問題は,その繰り返しを断ち切れないことにあるのかもしれません。

 おかしな「自由」に浸されて,実力がつかないまま,時間だけが過ぎていく。そんな子どもが後を絶たない。

 先日,ある大学の教員と話をしていたら,「学問の自由」の象徴のような話,つまり,始まりに「やっとけ」,時間になったら「はい,おしまい」だけのかかわりで仕事が成立してしまう場所だということがよくわかりました。

 「どのように評価をするのか?」「評価規準は?」と聞いたら,「出されたレポートを読んでから考える」とのこと。

 こういう発想の大学教師に,免許更新講習の講義をしてもらい,レポートで合格をもらった教師たちは,どのように「育って」いくのでしょう? 

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親と教師の体罰

 文月さんへ
 いつも熱いコメントありがとうございます。
 ところで,子どもにとっての体罰に関しては,教師によるものとは別に,親によるもの,ひどい場合には虐待というわけですが,この問題についてはいかがお考えでしょうか。

 昔は,教師に学校で怒られた,なんて家でしゃべってしまったら,また親からも怒られる,そんな話もあったと思いますが,今は体罰を受けたらすぐに親に訴え,親が学校に訴えれば,すぐに「謝罪」は受けられる状況になっています。

 ところが,「親からの暴力」はなかなか学校の教師からはわからないものです。

 児童相談所からの連絡があるところまでいくと,相当ひどいことが予想されるわけですが・・・・。

 子どもにとって,それが「暴力」と認定され,親がどうかされてしまうことに不安を抱えるために,「隠す」行為が多いと思われます。

 今,教師による体罰よりも,親の虐待,暴力の問題の方が,根が深く深刻のような気がしています。

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 もちろん,教師の暴力が許されないのは言うまでもありませんが。

教科書と教師

[教科書] ブログ村キーワード

 先日,教科書会社の編集部の方とお話しする機会があり,教師が教科書を使いきれない問題が話題になりました。

 実際に教科書を手に取れる方はお分かりだと思いますが,昔は文字ばかりだった教科書に,今ではイラストなどがふんだんに使われており,カラフルで,一見すると見やすく,興味もわくようなつくりになっています。

 これはだれのためかというと,もちろん子どものためであるのは確かなのですが,かなりの比重で,「教師が教科書を使えるように」という願いもこめられているのです。

 教師のことを考えて教科書の一つ一つの資料を検討していると,ある資料が果たして編集の意図に合うような使用のされ方をしているのかどうか,というような疑問がわいてくるのです。

 もしかしたら,この資料は授業では使われないまま,子どもも理解していないまま,過ぎていってしまっているのでは・・・。

 教科書会社の方では,実は子どもにどれだけ興味をもってもらえるかということ以前に,教師にどれだけ読んで(理解して)もらえるかというところに腐心の種があるわけです。

 中学校の社会科などは,会社の数が多く,分野も地理・歴史・公民と3つあるために,本当に読み比べようと思うと,たいへんな労力がかかります。 

 しかし,これらを読み比べ,違いが説明できるようなレベルでない限り,教科書というのは本当に教えきることが困難な教材なのです。

 資料集などでも,キャラクターのふきだしに課題を入れているものが増えています。
 
 しかし,これは実は教師が指導者としての機能を果たしていないことのあらわれであるとも考えられるのです。

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どこまでも「子どものおかげ」 ふり返り366日【08/5/20-3】

 教師が自分自身の指導の成果について,もしもできるだけ純粋なかたちで測定しようとしたら,どのような方法があるのでしょうか。

 これは,独創的な授業を行って,それに合った独創的なテストで結果を調べればよいわけです。

 「独創的な授業」なんて,そう簡単にできるものではない・・・それはその通りです。

 自分自身の指導の成果を純粋に調べることは,それほど難しいのです。

 でも,独創性というのはむしろ子どもの方にあるのかもしれません。
 
 指導としては,その力をどれくらい発揮させることができたのかで成果を問うこともできるわけです。

 教師の指導力が評価されるのは,どこまでも「子どものおかげ」なのです。

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08/5/20 他人の努力の上であぐらをかく教師

 学力調査の結果が都道府県別に発表されたとき、ここと「塾など学校外への教育関係の支出」の県別ランキングの相関をとって比較した人はいたでしょうか。
 学力調査の結果というのは、学校だけでの教育の成果であるとは言えません
 塾などに通っていない子どもが多い自治体では、それに近くなるのですが。
 順位が低かった自治体は、だいたい通塾率が低いはずですが、通塾率が低くて学力調査の結果がよい学校は胸をはることができそうです。
 有名進学校の大学合格実績も似たようなことが言えます。
 ですから、私立や国公立の学校の教師の指導力の成果をペーパーテストで測るときは、指導力不足の材料としては使えますが、指導力のプラス面の測定は難しい
 近隣の小規模校で、クラスのほとんど全員が塾に通っている小学校では、学校でも教師が塾程度の知識を求めてくるそうです。そんな中で塾に通っていない子どもは、みじめな思いをしています。
 こんな小学校では、教科の標準授業時数を完全に無視して、新聞ばかりつくらせたり、百人一首ばかりやらせていたりと、やりたい放題です(一芸に秀でた子どもというのもすばらしいものだとは思いますが)。
 子ども自身の努力や、塾などの教育産業の力の上にあぐらをかいている教師をどう見るか。
 「競争」反対を訴えるまでもなく「戦わずして勝っている」教師も放置するわけにはいきません。
 生活指導の場合は、このような「あぐらをかいている」教師のためにそれまで築いてきたものが簡単に崩されてしまうのです。建て直しに3年はかかりますが崩れるのは3ヶ月で十分です。
 学習指導の場合はここまで大きな変化はないので、だからこそ現状のような「意欲格差」症状が悪化したのかもしれません。

学校の墓穴の掘り方 ふり返り366日【08/5/20-2】

 「教師はよくがんばっている」という当たり前の言葉を保護者や地域の方が書くのならともなく,教師がブログで書くようになってしまっていたら,教育界もおしまいだという気がします。

 ペナントレース半ばでBクラスが確定し,最下位の可能性もあるチームの監督が,「選手は精一杯がんばっている」というコメントを出すこともありますが,これは同情を集めるためのコメントにしか聞こえません。
 あるいは,墓穴を掘っているともいえるコメントです。

 「よくがんばる」のが当たり前という職業倫理は,教育界にはなくなってしまったのでしょうか?

 成果で語ることをしない学校に,信頼回復の望みはありません。

 何も言わなくても,親にだって子どもにだって,伝わるものは伝わるのです。

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08/5/20 ロールモデル開発のねらい

 一昨日からでしたか、madographosさんのブログへのコメントをここでも紹介したりしていましたが、遅い時間にご回答いただくなどご迷惑をおかけしていたので、以下のコメントで一区切り入れさせていただこうかと思いました。
 

私のせいでしょうか、コメント欄がにぎやかになって申し訳ございません。
 また、遅い時間なのにご回答いただいて恐縮です。
 私は経験上、小・中・高(現在は大学も)の先生方とたくさん話をする機会があり、ブログ上でも議論することができることを幸せに思っています。
 多くの現場を見聞きして、やはり校種による教育環境の違いというのは決定的なもので、哲学的な問題は別として現実問題を解決するための道筋も至難なものであることを痛感しています。
 教師はみな「子どものため」に教育の仕事に取り組んでいるはずなのに、現実には数限りない期待を裏切る行動が教師によって引き起こされています。税金で食べている人間というのは、「できて当たり前だろう」という目で見られるのが当然の風潮です。
 教育行政の方は、教育の専門家ばかりではないために、ときに見当はずれの政策を打ってきますが、「競争原理」の導入だけは、避けて通ることができなくなった、多くの教師にとっては大きな壁だと思っています。
 そこで、現場の立場から、教師の望ましいロールモデルコンピテンシーモデルを提言し、どうせ評価されるなら本物のモデルをもとにして評価してもらい、そのモデルを目標にすることが多くの教師の願いになってもらいたいというのが私の気持ちです。
 長々と失礼いたしました。

 他でも述べましたが、同僚性を高めるような組織運営ができる主幹や管理職(それができる教諭がやがて主幹や管理職になっていく)がもっと増え、「昔、自己申告や人事考課に派手に反発していたのは何だったんだろう」と思う教師が減ることを望んでいます。

学校教育への期待を回復するまでの道のり ふり返り366日【08/5/20】

[小中学校] ブログ村キーワード

 教師が偉そうな主張をしにくいのは,自分が「ベスト」の成果をあげているわけではないことが,自分にも他人にもよくわかっているからです。

 ただ,満足度の感知力は人によって程度が違いますから,低いレベルでも大満足してしまう人もいれば,かなりの高レベルでも満足できない人もおり,傍目から見るとおかしな光景に出会うこともあるのです。

 日本の小学校のカリキュラムは,基本的に子どもの能力が十分に生かされないような内容であり,一方の中学校では,能力が十分に及ばない子どもが増える内容で,結果として有名な「7・5・3」というたとえが使われるわけです。

 能力があまっている小学校では,いわゆる「手持ち無沙汰」の状況が長い時間になり,これが中学校では,理解できないための「手持ち無沙汰」に変わるだけで,「学ぶ喜び」をほとんど感じられないまま大人になる子どもがこれまでどれだけいたことでしょう。

 教育政策の現場に立ってみると,学校の学習に対する期待の低さが,政策に対する期待や関心の低さに直結しているように感じられます。

 この状況を変えるには,時間はかかりますが,学校の学習を充実させる以外に方法はありません。

 今の親が経験していなくて,子どもが取り組んでいる代表的なものに全国的な学力調査があります。
 
 自治体ごとに取り組んでいる例もありますが,政治家の面子が変われば,一瞬で過去についていた予算はゼロになることもあります。

 そのときに備えて,今できることをやることが大切でしょう。

 注目は,子どもが負担している「教材費」です。

 税金以外の負担部分で学力向上の助けになるものをだれがどのように提供するか。そこに学校がどのようにかかわるか。
 一つの学校の取り組みが,全国的な政策にかわることが今までもありました。

 そういう「期待」のできる学校が生まれることを「期待」したいと思います。

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08/5/20 再びの「子ども第一主義」批判

 立場を変えることで成り立たなくなる主張というのが、教育の世界にはいくつもあります。
 たとえば行政から、教師たちに対して、「教師というものの本質は、忘己利他にある。自分のことは後にして、子どものために尽くせ」と言ってきたとしたら、「はい。その通りです」と答えられますか?「言われなくてもわかっています」と答えますか?
 その後、だから、子どものためによりよい学校づくりを近隣の学校通しで競い合い、その学校なりの長所をアピールしてくださいと言われたらどうしますか?全教師が「忘己利他」でやっていますと宣言できますか?

 中学校受験の過酷な競争に勝つことを望んでいる子どもに、「もっと中身の濃い授業をお願いします」と強く頼まれたら、「いや、君は僕の尽くす相手ではない。そんな競争に勝つための勉強は教えられない」と突っぱねますか。それとも、「忘己利他」の精神に基づいて子どもの要求通りに授業を変えますか?

 「子どものためにやってるんだ」という言葉を使う教師に散々悩まされてきた経験のある私には、「忘己利他」を掲げている教師にどうしても信頼感を持てません(これは私の身近にいた教師に限ってのことです)。
 「子どものため」と言いながら、どう考えても自分の都合のいいことを言っているのにしか聞こえないことが多すぎました。

 それが指す子どもとはだれかあてはまらない子どもはだれか子どもの何のためにやっているのか、・・・などを追及してたどり着くところは結局「こうあるべき」と思いこんでいる教師自身のためであって、利己主義以外の何ものでもない。

 子どもに競争の意義も問題点も学ばせる必要がある教師自身が、過去にやってこなかったから、という理由で競争を拒絶するのは、自分をかばっているようにしか聞こえないのです。
 「忘己利他」の理念が大事であり、利己主義の教師が増えているのならば、「忘己利他」の精神を教師が競い合うことが必要になったとも言えるのではないでしょうか。
 まず、現実の問題から解決していくことが教師には求められています。
 (本来は理解力がある)生徒が「授業が分からない」と言ってきたら、子どものために「分かるような授業をする」「指導力を向上させるために努力する」のが教師としての義務であり、いつまでたっても改善されなければその教師が放置されることは許されないのです。
 それが放置される原理が教育現場にあるとしたら、学校は断じて「子どものためにある」場ではありません

よりよい教育を受ける機会とその選択 ふり返り366日【08/5/19】

 教育界に求められているのは,「よりよい教育を受ける機会」であり,「競争」そのものではありません。
 結果として学校間の「競争」になる「努力」が,悪いことのように見える人がいるのは,それ自体が目的であるかのように思えてしまうからでしょうか。
 
 学校選択自由化というのは,「よりよい教育」を求めての自由な選択が認められるというだけの話です。

 その「よりよい教育」というのを,学校側が流す情報から,教育を受ける子どもと受けさせる親が判断する,というのが学校選びの基本的なかたちです。

 もし近隣の小規模校は子ども間の切磋琢磨の機会に乏しく,部活動もさかんでなく,希望の部がない,だから少し離れたところであっても大規模校に進学したい,という希望があれば,その希望にかなうようにする・・・そういう選択の機会が今までなかったことが問題だったのではないでしょうか。

 仮に,そういう選択を好む人が多ければ,大規模校に子どもが集中する一方で,小規模校の子どもの人数はますます減少しますが,こちらはこちらで「少人数指導」が自動的にできるようになります。
 
 少人数できめの細かい指導を望む親子も少なくないために,学習できる環境が保障されているとみなされれば,小規模校にも子どもは集まってきます。

 「よい教育」がどの学校でも行われているものと信頼して,進学をあくまでも受動的に考える親,それまでの友達などとの人間関係を重視して地域の学校に通う子どもなども多いために,特に学校が大きな問題を抱えていない限り,どこかの学校を廃校にすることが自然にできてしまうような自治体はほとんどないでしょう。

 地域の学校がなくなろうとしているとき,「卒業生が母校を残してほしいから」と要望しているので子どもをどこかからか集めてくる,それは本末転倒の話です。

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08/5/19 競争の結果としての不正行為は競争のせい?

 利己的な利潤追求の結果、不正行為によって信頼を失う企業が後を絶ちません。

 食品の偽装やインサイダー取引という不正行為の問題は、自由競争という原理によってもたらされるものだから、自由競争自体をなくせという人は少ないでしょう。
 教育の世界への競争原理の導入に反対する人の代表的な考え方に、たとえば教員の評価で、「数値化できる部分だけで教師の仕事が比較され、給料などが決められてしまうこと」への恐れがあり、その結果として、「教師はひたすらテストの成績を上げることのみに没頭し始め、いじめなどの都合の悪いデータは今以上に隠蔽されるようになる」というものがあります。

 教職についている人間のモラルも、一部の企業のように低く、とても信頼できる存在ではないという主張もわからなくはないですが、教育の世界には学校の近くに監督権者がおり、現場にも利潤を追求する必要のない管理職がいるわけで、不正の発見や防止の機能が企業より高いことは明らかです。

 教師の質が本当に一律に低いものだとしたら、「不正しないのが損」という状況になることは防がなければなりません。しかし、その前提自体が教育の崩壊を物語るものになってしまいます。

 競争と聞くと直ちに「勝ち組」「負け組」を想定する人がいますが、一般企業でも、公的な機能が高い私企業ほど、その格差はなかなかつかないのが当然でしょう。

 教師は、能力とか成果とはほとんど関係なく給料がもらえる職業でしたから、「他の教師より劣っていると評価されること」に後ろめたさというか罪悪感のようなものを抱いてしまうので、「競争」という言葉には過剰反応を起こしやすい傾向があります。

 しかし、学校現場にいればよくわかるように、たとえば能力や成果などで教師に差をつけられる範囲というのはたかが知れています。

 ○○さんのおかげで学校崩壊状態が1年で立ち直ったとか、担任がかわっただけで崩壊学級が最高の学級になったということはめったにないわけで、そもそもそんな奇跡をおこすことをすべての教師が求められているわけではありません。
 当たり前のことを、当たり前にできるように指導してほしい、そういう願いを聞く姿勢を教師が持てるかどうか。
 もしそれができない教師ばかりだとしても、競争原理の導入が教育の質を落とすとは考えにくいのですが。
 私立の教育の質はもともと低く、それが競争原理のためだと言い切れるのでしょうか。

教師や学校への「信用」の重み ふり返り366日【08/5/19-2】

 人間や組織の「信用」というのは,単純にはかることができるものではありません。

 どんなに失敗を重ねても「信用」だけは失わない人もいれば,ありとあらゆる成功をおさめてきて,大きな成果を残している人が,1回のミスですべてを失い,周囲の人の生活まで危機に陥れてしまうこともある・・・。

 人間が生まれてきて一番最初に「信用」する相手は,親でしょう。

 その次は,親が「信用」しているということがわかる人,たとえば祖父母でしょうか。

 「信用」していることを意識しないでも,「信用」がなければ任せられない仕事をしている人,たとえばバスや電車の運転手,お医者さんや歯医者さん,床屋さん・・・小学校に入れば,農家の人,工場ではたらいている人,そのほかにもたくさんの人の仕事に支えられて現在の生存が成り立っていることを子どもは知ります。

 不幸にも,「信用してはいけない」ことを早い時期に知ることになる対象も,親でしょう。

 新聞やTVのニュースにふれれば,世の中には「信用できない人」であふれていることに不安をもつようになる子どももいます。しかし,その子の成長にとって一番大きな打撃は,「親」が「信用できない」という事実でしょう。

 「親」に比べて,学校の「教師」の重さは,どのくらい違うのでしょうか。

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08/5/19 100-1=0

 日経ビジネス5月19日号「有訓無訓」で紹介されている帝国ホテル会長の「どんな大きな組織でも一人ひとりの人間の力で支えられている」という話は、教育現場、学校でもそのままあてはまります。
 「100-1=0」という帝国ホテルの教訓は、サービス業という環境がいかに厳しいものであるかを物語っています。
 一人の失敗が、積み上げてきた信頼をゼロにしてしまう(信頼を失うことを集団で行動している人たちもいるようですが)。
 学校の場合は、たとえゼロになっても短期間で以前の数字に復帰することが可能な場合もあれば、子ども一人一人の心の問題として考えると、ゼロはおろかマイナスに転じて再びプラスに戻ることがなくなる場合もあります。
 ホテル業界も「ブランド」でない教育現場も、高いレベルのサービスが期待されているがこそ、失敗のときの評価(批判)は厳しいものになる
 「どうせだめな公立学校」という観念が定着して、「期待する方がバカ」という時代が来ないことを祈っています。
 しかし、そういう趣旨のタイトルの本は売れているようですが・・・。

競争できないとの表明が信頼を生む ふり返り366日【08/5/18-3】

 公立学校の教師たちが心を砕いている子どもへの教育は,教科指導が柱というよりも,学級や学年の活動,行事などを含めた特別活動が大きい位置を占めているのは間違いないでしょう。

 その方が「同僚性」が発揮しやすく,子ども集団がまとまる前提としての「教師集団のまとまり」が生まれやすいというメリットもあります。

 教師の中には,「どうせどんなに頑張っても勉強の成果はたかが知れているから,せめて中学校くらいはいい思い出作りに専念してあげた方が子どものためだろう」という言い方をする人もいます。

 ただ,主に教師の高齢化学校規模の小規模化に伴って,この「」が多くの教師にとってかなりの負担になってくるようになりました。

 「学力向上」キャンペーンによって,教科指導で手抜きをするチャンスもなく,文字通り縦横無尽の活躍が期待されているわけです。

 小学校のように,授業とクラスのことだけしっかりやってくれていればいい,というのなら,高齢化が進んでもそれほど問題にならないかもしれませんが,中学校でできるのが授業だけ,という教師は,中学校では(特に小規模校では)痛いところです。

 まじめな性格の教師は,子どもの期待にも,同僚の期待にも応えられそうにないことが自覚できてしまうと,精神的に厳しい状態になることが予想されます。

 さて,そういう現場に「競争」というプレッシャーが加われば,音を上げる結果になるのは目に見えています。

 こうしたケースで公立学校は,どんな態度を新入生や入学を検討している保護者・子どもに説明ができるのか。

 簡単な話,それは正直に現状を説明するしかないわけです。

 後から知らされる窮状は,保護者や子どもからすれば「ズル」「インチキ」という風にうつることでしょう。

 「競争できる力はない」という正直な告白に対しては,「やっぱりそうか」「情けない」という反応もあるかもしれませんが,基本は「問題を隠さない姿勢への信頼を得ること」にあることを考えれば,生徒数が減っても,入ってからのことを覚悟してくれている保護者・子どもならば,より前向きな学校への支援も期待できるかもしれません。

 バラ色の説明をしておきながら,入ってから『困ってるんで助けて』と言われても,反発を受けるばかりでしょう。

 校内での競争が機能できるのか?

 他校との競争が機能しているのか?

 まずこの二段階を公立学校がクリアできるかどうかでしょう。
 
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08/5/18 競争=悪と導かれる心理とは?

 教師が力量を競い合う学校がよりよい教育の提供を競争する、ということに反対する教師は少なくないと思います。
 中にはひどい例ですが、行政のやることに反対するのが原理の人たちが、「結果として競争原理に基づく政策だから従わない」と主張していることもたくさんあります(産経ニュースの特集「公教育を問う第4部」参照)。

 競争がすべて悪という発想は、「勝ち負け」という結果にこだわる(自分は負けるだろうという)心理と、「力のある教師や学校と比較されたくない」という心理から導かれるものでしょう。

 子どもの場合、たとえば100m競争で、練習から本番まで順位は変化しなくても、1位とのタイム差が縮まったら、そこには努力の成果や体力の向上が示されているわけで、子どもが成長したあかしになるわけです。負けたからその子には何も残らない、ということにはなりません。たとえ勝った子でも、「最後で力を抜いたな」と指導を受けることもあります。

 「先人の努力」ももちろん大事なのですが、現場の教師がそれをどれだけ糧にして成果を残しているのか、生かせていないのならどうしたらいいのかが問われているわけです。「先人に負けないぞ」という競争意識も否定することはできません。「他の子に勝ちたい」という向上心をつぶすことはできません。

 なお、競争を促すことと、競争をあおることは違います
 優秀な教育実践に「賞」を出している新聞社がありますが、もともと比較が難しい教育実践でも、ルールと評価基準がはっきりしていれば、その下での優劣というのは出せるのです。
 このような競争が「自由な発想を疎外する」とは考えられません。むしろ競争原理がはたらくことで、次々にアイデアが浮かび、無駄を最小限にして効果を最大限にすることが実現しやすくなると思います。
 行政だけでなく学校でも、無駄な時間や予算を省くことを競わせる必要があるとも考えています。
 「競う」「競争する」という言葉に抵抗感を感じられる人には、「向上」「改善意識」という言葉に変えても無駄なことでしょうか。

巨人が優勝できない?のと公立学校がよくならないのは同じ理由? ふり返り366日【08/5/18-2】

[小中学校] ブログ村キーワード

 原巨人が優勝できない理由・・・週刊新潮6月25日号に出ていた記事ですが,若手を積極的に起用する一方で不調の高額年俸者を使い続けるなど,チグハグ感のある原采配がその原因と思いきや,不調でも使ってもらえる,怪我で試合に出なくても高額の年俸が手に入る・・・そういう主力選手の「サボり癖」(記事からの引用です)が課題である・・・これを読んだ途端,なぜか私は教育現場が念頭に浮かんでしまいました・・・・。

 特に公立学校は,条件付採用の1年をクリアすれば,(免許更新が導入するまでは)完全終身雇用でした。

 安定性ということで言えば,野球選手の厳しさは比較になりませんが,「複数年契約」という安定性が成績低下・仕事の手抜きを招く・・・まあ,必死で練習している野球選手やフル回転の教師たちには失礼な話ですが,「そういう人も確かにいるな・・・」という実感は確かなものでしょう。

 先日の埼玉の私立学校の件は,その教師がどの程度の力量であったのか,どのような授業をしていたのか,ということが一般の人にとっては「興味の的」になってしまっているのは確かなことでしょう。

 教師という職業をしていて,一番ショックなのは,単純に自分の授業の批判をされることよりも,「○○先生よりもわかりにくい・つまらない」と他の教師と比較をされてしまうことでしょう。それが特に年配の教師が若い教師と比べて「劣る」と見なされてしまったときには・・・。

 教師が授業公開を嫌がったり,そもそも授業に対する評価を嫌がるのはこういう目にあいたくない,そんな理由もあるのでしょう。

 日常的に子どもの目にはさらされているのですが,「子どもの評価する目はない」ということにして,不安を紛らわせているだけに過ぎない現場は,少しずつ変わろうとしています。

 ほとんどの教師にとって,給与にも何にもほとんど何の反映もされない「指導力格差」が,「子どものためを思って」よい教師の指導法に学んだり,研究・研修に励んだりする自主性によって解消されていくのが理想なのでしょうが,そういう意味で競い合うよきライバル,学ぶ目標・モデルとなる「同僚」が学校の小規模化によってどんどん少なく(特に教科担任制の中高では),限られた範囲になってしまっていることも,指導力が落ちてきている原因の一つかもしれません。

 1校に1人しかその教科の専任がいない学校で,教科の指導力を向上させていくのは難しいことでしょう。

 ここでもプロ野球と比べてしまいますが,有力選手(実力者,ベテラン教師)がベンチで観戦していられるような規模の学校は,若い選手(若い教師や指導力がまだついていない教師)を鍛える余裕がありますから,全体のチーム力が向上するのも当然です。

 公立小中学校の「適正規模」というのは,子どもたちにとっての環境条件という見方のほかに,このような教師側の事情というのも今後はかなり考慮に入ってくるかもしれません。それは,教師側の事情とはいっても,教師の指導力は子どもの成長に直結してくる問題だからです。

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08/5/18 自由競争の利点と競争禁止の欠点

 公教育における「競争原理」の導入が、さまざまな問題を引き起こすことは言うまでもありませんが、だからだめだという主張には説得力がないので、次のようなコメント(一部改変)をさせていただきました。
 

教師の質が高く、教育の成果に格差が生じていなければ、競争はいりません。
 しかし、現実的には格差があり、不公平感を生んでいます

 教育以外の公的な機関・・・病院、警察、役所でも、サービスの格差が問題になることがあります。
 安い有機栽培の野菜を買える人がいるのに、自分が農薬づけの野菜を高額でも買わされたら当然不満でしょう。しかし、農薬づけの野菜を安ければ買うという人もいれば、高くても有機栽培の野菜を買う人もいます。

 自由競争の結果が、必ず勝ち負けに直結するとは限りません

 競争相手の長所にどうしても及ばないのであれば、別の能力=個性を伸ばすこと(これを学校では特色ある教育活動とよびます)で、信頼と評価を得られることが可能です。

 もし競争が否定され、決められたことしかできない新たなことをしようとしてもできない、ということになると、公立学校は「選択肢がないから義務として仕方なく通う学校」という存在になってしまいます。

 子どもには「よりよい教育を受ける権利」が奪われ、公立学校に通う生徒と国立や私立に通う生徒との格差が広がっていく一方になってしまいます。

 教育の成果や結果が数字で表れるものばかりではないことから、競争には、利己的な教師が子どもを荒廃させるのを食い止める効果もあります。「自分のことは後にして,子どものために尽くす」教師の実践が評価されるために、教育にも競争は必要なのではないでしょうか。

 要は、目標を何におくかということです。
 格差是正が可能な部分、必要な部分は何かということです。
 何を評価するのかということが大切なのです。
 競争を嫌うタイプの人は、相手が努力して結果を残すと自分も努力しなければならないのが嫌なのでしょうか。
 学校によっては、学級だよりを出すことを禁止しているところもあるようですね。

 ○組だけ出すと、親からは当然、なぜ□組はないんですかと言われ、自分も出さざるを得なくなってしまう。だから、「みんなそろって出さない」という選択肢をとる。

 学校選択自由化が進んでいますが、これをやるとたとえば中学校では、部活動がさかんな学校への人気が高まる。特定の部活動を強くしたい教師が、やる気のある生徒が他に流れていくのに反発する気持ちはわかりますが、逆に考えれば、教育本来のやりがいが高くなる学校で仕事ができるようになるわけです。

 公立学校の教師は、国立や私立学校の教師よりも、「学力を高める」という重要な仕事で成果が残しにくいのは十分に理解できますが、国立や私立学校の教師も決して楽をしているわけではありません。

 教師の指導力の意欲・格差が現状以上に拡大しないよう、より高いモラールが必要な立場であり、士気を高めるリーダーが求められているのに、そのエネルギーが行政への反発という方向ばかりに注ぎ込まれてしまっている自治体があるようで、子どもが気の毒です。

地域から見た校長

 公立小中学校の校長は,土日も何かと地域の行事やPTAの研修会等で忙しい時期があります。

 場合によっては,本当にお客さん扱いされてしまうような校長がいるかもしれませんが,いつもにこにこしてPTAの接待ばかりしているような校長でも,実は非常に多方面の経験をもってその場に臨んでいる人,講師として活躍できるような人もいます。

 あまり個人の能力の高さや経歴の厚みを本人が公表することが美徳とされない日本では,たとえばPTA主導で動いている研修に校長が招かれたりしていても,他に講師がいたり,台本がほとんど決まってしまっていたりする場合,よりよい考えや問題提起が校長から出されることはあまりないかもしれません。

 それは残念なことです。

 地域から校長を見て,「気さくな人」「わがままそうな人」「お酒とカラオケが好き(嫌い)な人」という評判はすぐに広がりますが,「○○を経験した人」「○○という実績を残した人」という情報は,そもそも耳に入ってくる機会がありません。特に「現場」の人たちには,「行政上がり」「ペーパー上のことでの成果」は重視されないものなのでしょうが。

 ただ,地域の人たちにその地域をよりよく活性化していこうという理念なりビジョンなり行動指針なりをどんどん発信していけるような校長が,今は求められているのだと思います。

 地域はリーダーを求めていますが,今までの校長ではそのほとんどが「地域のリーダー」にはなり得ません。

 地域の中には,「校長など名誉職だろう。教頭を長年やって,疲れはてたのが定年までの時間をのんびり過ごすために与えられている職だろう。その証拠に,○○の校長は校庭の植物をいじってばかりいる」程度の認識しかない人も多いでしょう。

 どのような校長が地域のリーダーたり得るのでしょうか。

 もちろん,地域の人が校長の提言に「ノー」と言うのであれば,方針を転換していくか,話し合いを重ねてよりよい道を探るか,次の異動先では必ず成果を出すと啖呵をきって去っていくか,対応の道も様々です。

 さて,一方で,以前にもふれたかもしれませんが,「こんなのは時間の無駄だ」という態度をとって不興を買っている校長がいました。

 昔から「威張っていたいだけ」の校長というのがいました。もうそういう世代はほとんど定年になってしまい,学校を取り巻く風潮も健全化してきたのでもう出会う機会はないかもしれません。

 ただ,地域やPTAの会に参加して,ホンネでは「どうしてこんなことに時間をつぶされなければならないのか」と思う校長は少なくなく,早くこの地域(自治体)から抜けたい,ということが念頭に浮かんだ校長には,「ただ異動までおとなしくしていてください」という声しかかけられません。

 校長によっては,自分の学校のことで精一杯という人も多いでしょうが,本来,自分の学校のこと,といったとき,それは地域の人とのつながりを抜きにしては語れない問題であるはずです。

 地域ではなく教育委員会ばかりに目がいっていたり,「次の異動先」のことばかりに神経がいっているような校長は,すぐに見破られてしまうものです。
 
 そういう意味で,地域の目が最も厳しい赴任先は,「島嶼」などの「へき地」でしょう。

 「この場所で,定年まで子どもの面倒をみてくれますか?」という問いに,まだ定年まで時間がある校長は何とこたえられるでしょう。

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免許更新「うっかり忘れ」の発生率は? ふり返り366日【08/5/18】

 教員免許更新講習が始まっています。
 
 更新の「うっかり忘れ」によって免許を失う教師はどのくらい出てくるのでしょうか?

 政権交代でもうこの制度もなくなるという噂もあるらしいですが・・・。

08/5/18 教員免許更新制の具体的内容

 教員免許更新制の具体的な運用形態が、15日、文科省から発表になっています。
 生年月日が昭和30年4月2日~昭和31年4月1日、昭和40年4月2日~昭和41年4月1日、昭和50年4月2日~昭和51年4月1日の方が平成21年4月1日~平成23年1月31日に免許状更新講習を受講することになりましたが、この方々は今年度に実施される「予備講習」に参加して後で修了の手続きをとることが可能です。
 早いところは、来月にはもう予備講習が開かれますから注目されるところでしょうが、「授業参観と協議への参加だけでOKで、あとはレポート」の程度なら、たいした負担にはなりませんね。
 講習のレベルが日本の教育のレベルを物語ることになるでしょう
 教育委員会が実施する研修が、あらためて高い評価を得ることになるかもしれません。
 大学の教員養成能力への失望が教師養成塾づくりの活発化に結びついていることから考えれば、ここは正念場かもしれません。これをチャンスだと考えている関係者が多く、「めんどうくさいことが始まったな」と思っている人が少ないことを望みます。
 昭和39年4月2日~昭和40年4月1日、昭和49年4月2日~昭和50年4月1日、昭和59年4月2日以降生まれの方はずっと先の平成30年2月1日~平成32年1月31日が受講期間です。

栄光ゼミナール流?教師教育法

 昨日の日経朝刊に,埼玉にある私立昌平高校の教諭が,研修=模擬授業の中止などを求めて裁判所に仮処分を申し立てたことが取り上げられていました。

 私立学校の場合,管理職がある教師を「指導力不足」と認定したときには,このような方法で教師に心理的な圧力を加え,退職に追い込むことができるのだ・・・というニュアンスが伝わってくる内容になっています。

 そして,この2年間で75人の教職員が退職したこと,その背景として,栄光ゼミナールの社長が昨年6月に理事長になったことが関係していると匂わせる取り上げ方もしていました。

 これだけの情報量では何も言えないのですが,公立学校でも同様の研修があるので,学校側はどのようなプログラムに基づいて,どのような評価を教師に返しながら研修をしていたのか,そのような情報を公開してくれると参考になるのかもしれません。

 子どもに「教え方がよくない」「授業がわかりにくい」「何を言いたいのかがわかならい」と判断されて,「もっといい先生に習うことはできないものか」と要望されたときに,学校ができることは何か。
  
 私立ではそのような要求が通るのに対し,公立ではなかなか難しい。

 もちろん私立学校でも,採用してから教師としての力量に問題があることがわかった場合,どのようにしたら「辞めさせることができるのか」は経営側にとっては大きな課題なのかもしれません。

 もし今回のような「延々と2ヶ月も模擬授業をさせる」ことが,学校にいることに嫌気を催させ,自分から辞めていくことをねらっているとしたら問題だと思いますが・・・。

 このような教師でも「研修」で改善がきく,というのなら,それはそれで学校のウリになるのかもしれません。

 そもそも,子どもの授業アンケートで「水準以下の教師」という結果が出たからといって,それをもとに入れ替えをはかるのはいかがなものか,という教師擁護の意見もあるでしょう。

 しかし,その教師を解雇することで,より優れた教師を採用することができるのであれば,子どもにとっても学校にとってもプラスであることは確かだという見方もできます。

 プロ野球のような,全くの実力の世界と同じ「競争」でよりよい結果が得られるという図式です。

 ただ,それが果たして教育の場で行われることがよいことなのかどうか。

 意見や考えは分かれるところでしょう。

 このような仕組みがあるから,「私立学校は教師にハズレがない」という意識が,保護者の中にはあるかもしれません。

 公立離れが進むとしたら,その原因は私立学校の場合と逆になる,ということです。

 今回のこの件で,他の私立学校でも同じような退職勧告が繰り返されているという告発が続発してくるかもしれませんが,教師にとってやりにくいのは,「子どもにいい先生と認めてもらえない」という引け目があるところでしょうか。

 「子ども第一主義」「子どものためを思うこと」をモットーにする教師にとってはたまらない「究極の選択」ですね。

 自分よりも授業力が高い教師がいる。

 自分がやめて,その教師に授業をしてもらった方が,明らかに子どもの学力も伸びるし子どもは勉強も好きになりそう。

 自分はやめるべきか,続けるべきか。

 「必死に研修して,一日も早くその教師の指導レベルに近づけるよう努力する」で,片付けられるのかどうか。


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授業における学習者のストレス ふり返り366日【08/5/17-4】

 子どもは,授業内容が理解できないとき,どのくらいのストレスを抱え込むものなのか。

 教師になっている人間で,小中学校のときに「勉強が分からなくてつまらない」と感じたことがある人はほとんどいないでしょうから,「学習を子どもの側になりきって考える」ことは言うのは簡単でもなかなか難しいのではないかと思います。

 ただ,大学生時代には,ずいぶんと苦しい思いをした人が少なくないかもしれません。

 基本的に,「勉強ができないのは本人のせいだ」というのはとても簡単で,学習者の立場ならそういう考えを受け入れざるを得ないケースも多いかもしれません。

 「アルバイトしている時間を大学の図書館で過ごしていたら・・・」なんて後悔をしても遅いわけで,「分からないのは学習者の側の責任だ」というのは,大学生には当てはめてもかまわない気がします。

 しかし,果たして小中学生にこの考え方を,特に小中学校の教師がすることは正しいことでしょうか?

 「子どもに理解力が育たなくても,法律上は教師は責任を負う必要がない

 それは正しいかもしれません。

 適法かもしれません。

 しかし,適正な考え方でしょうか。

 授業で分からない問題をたくさん抱えている子どもには,どのくらいのストレスがかかっているものでしょう。
 
 そのストレスの原因が,教師自身の授業のあり方と無関係ということはあり得るのでしょうか。

 そのストレスが原因の不登校というのは,決して存在しないのでしょうか。

 「学校の授業における学習者のストレス」というテーマの研究論文って発表されているのでしょうか・・・

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08/5/17 教師のストレス解消法?

 弘中 勝氏の日刊メールマガジン「ビジネス発想源」の今日の話題は、ストレス解消法でした。
 ストレスは、仕事で解消する。これが弘中流ということです。

 私の場合、イライラすることはあってもそれをため込むことがないので、ストレス解消法を聞かれた時は、「自分はストレスはたまならない。巨人の借金が増えても、ここ数年で耐性が増してきたので大丈夫だ」と答えていました。

 弘中氏と同じように、仕事と関係ないことをしてストレス解消をするのは時間の無駄であるという感覚です。(この能力は「自己統制力」に最も近いでしょうか。ただ、教師のコンピテンシーには含まないものと考えています。「忙しくて生徒と遊ぶ時間がない」という教師がパチンコやカラオケにはまっていても、その人を責めるつもりはありません。教育という仕事が好きで、全部の時間をそれにつぎ込む意欲がある人材は、逆に視野がせまくなっている危険性があります。)

 もう一度落ち着いて自分では気付いていないストレス解消法があったのかと考えてみると、採用二年目でしたか、学校で部活が終わった後にひたすら千羽鶴を折っていた時期がありました。誰のためでもなく、ただただ折っていました。そのうち偶然役に立つことがありましたが、あの目的はストレス解消だったのかもしれません。
 事務的な機械作業をすると、私の場合は禅の境地に近づくような効果があるのでしょう、無になる感覚の中で、なぜかいいアイデアが浮かんだりすることが多いのです。
 10年目前後は、ただただ仕事に打ち込んでいたので、ストレスがあるのかないのかすら気付かない状況だったと思います。
 弘中氏は、ストレスを解消するのではなく、ストレスに打ち勝つ工夫を、とアドバイスしていますが、学校でそれを言ったら、反発する教員ばかりかもしれません。しかし、若い教師で「じゃあ、辞めます」とキレる人は、企業ほどは多くないでしょう。企業と違って教員が辞めないのは、同じ給料がもらえる他の仕事にはつけないことや、実力は向上しなくても給料が毎年自然に増えていくことが背景でしょうか。

宙ぶらりんの公立学校教師 ふり返り366日【08/5/17-3】

 教育現場の普通の教師の声が公になることはあまりありません。

 2時間の教育を特集した番組で,出演してわずか一言二言発言する勇気のある人もいますが,私が今まで拝見した番組では,残念ながら公立学校への信頼を高める効果はほとんどありません・・・というか,「やっぱりだめか」という印象を与えるだけのキャラクターになってしまっていました。

 教師の中には子どもを前にすると急に光り出す人がいますから,現場ではそんな教師であると信じたいと思いますが・・・。

 「聖職」というイメージをつくってもらいたくない団体の教師たち。

 「聖職」というイメージにふさわしい教師を求める保護者や子ども,地域社会。

 このかみ合うことのない関係をどうにかするための単純な手段は二つ。

 保護者や子どもが教職を聖職扱いしないこと。

 教師が教職を聖職としてとらえること。

 結局うまくいかないので,公立学校の教師はどっちつかずの宙ぶらりん状態。

 ビジネスとしてわりきれる塾や予備校の教師がいちばん全部の関係の中でしっくりくるポジションについている・・・。

 教育の仕事で理想を語れなくなったらおしまいのような気もしますが・・・。
  
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08/5/17 1、2年契約の子どもの不幸保障

 あるサイトで覆面座談会という企画があり、小学校教師2名労働環境モンスターペアレンツ体罰研修などについて話しているのですが、1ページ目の内容から「またいつものデッチあげ記事か」と思いきや、署名記事だったので驚きました。

 小学校教育は、小中連携事業が行われるようになり、上級学校からのアドバイスや注文、プレッシャーによって、ようやく異常な教育環境の部分が改善されているかと思いたいのですが、「1・2年契約の子どもの不幸保障」からはなかなか脱却できそうにない気がしました。

 「教育という仕事に夢や希望はない」「雑務が忙しすぎて、休み時間に校庭で生徒と遊ぶなんてことができなくなってきた」「バカ親にまで事なかれ主義でペコペコしちゃう」「低学年のうちはほとんどサルと同じです。いくら冷静に言い聞かせようとしても、言葉が脳まで届かない。体罰は必要だと思いますね。」など、単に自分が教職に向いていないだけの話なのですが、他人事のような態度。

 企業関係者の委員が多いと「社会人経験者の大量採用」という提案が出されることがありますが、教員よりいい給与で仕事にやりがいをもって働いている人材は、よほどの使命感がなければ、まず教育現場には入ってこないでしょう。
単に職場の上下関係の訓練を受けているから、上司の命令には忠実に従うだろう、会社員のように将来は必ず管理職を目指すだろう、という感覚で採用すれば、結果は目に見えています。
 小学校では不幸の「分散」や「持ち回り」で不公平感をなくそうと努力していますが、これが「幸福」の分け合いと捉えられるようなレベルに何とかして達してほしいものです。

禁煙によるロスは予想以上? ふり返り366日【08/5/17-2】

 「イライラ」で検索すると,その解消法についてのページが上位を占めています。

 職業人の場合,仕事上のイライラで最も多いのは上司や同僚などとの人間関係でしょうか。

 イライラが重なるとストレスになり,仕事の能率も下がってくるかもしれません。

 愛煙家の人は,タバコを吸うに限る,といったところでしょうか。

 先日,愛煙家の方とお話していたときに,「禁煙」や「分煙」は,日本企業にとってどれくらいのマイナス要因になっているか,ということが話題になりました。

 私が役所にいたとき,喫煙場所に行く(私の場合は自動販売機でお茶などを買いに行く)とほとんど必ずといっていいほど出会う人たちがいました。自席を離れている時間が,かなり長いのではないか?という心配?がわいてきました。

 20年近く前は,学校でも職員室で普通にタバコを吸っている人がいました。

 職員室が禁煙になったのはあっという間の出来事であり,喫煙室すらなくなることになりました。

 喫煙室ができてそこにこもってしまう人が出てきたので教師同士の情報交換が減ったとか,禁煙によって仕事の能率が落ちたことを「教育の荒廃」に結びつける人までいたのを覚えています。

 確かに,喫煙のために席をたつのは,休憩になっていいのかもしれませんが,仕事をしながらタバコが吸えれば,休憩時間を節約することもできる,という考え方もできます。

 デスクの一部が焼肉店の機械のように,煙を吸い込む仕組みになっていれば,タバコを吸いながら仕事ができるようになります。

 コストをかけても仕事の能率を上げた方が収益がよくなる,・・・・そんなことはないか・・・?

 昔,お酒を飲むと話が滑らかになり,授業がうまくなる・・・なんていう人もいました(予備校では,実際に飲みながら授業をする人気講師も昔はいました)が,タバコを吸うと生活指導にキレが生まれる・・・そんなことはあるのでしょうか?
 
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08/5/17 教師のイライラ解消法とは?

 植西聡著「イライラしたときに冷静になる方法」(扶桑社文庫)を読みました。
 教師という職業は、他と比べて「イライラすること」が多いのでしょうか、少ないのでしょうか。
 1年間の中で、最もイライラするのは教育実習期間中です。
 教育実習生は、授業だけをとってもありとあらゆる失敗をしますから、その都度、どうしてもイライラがとまりません。このイライラは、次の授業、さらに次の授業と、ひとつひとつの課題を解決していってくれることでかろうじて解消されていきます。
 だいたい1時間の授業でノートに5~6ページくらいメモをとることになりますが、イライラの原因が積もっていくことがさらにイライラを募らせます。イライラ解消法として、その原因メモを破り捨てるというのが紹介されていますが、今のところ、それは実践していません。
 学習指導でも生徒指導でも、自分が指導者のときはイライラしないように実践すればいいのですが、人の指導(指導できないでいるのを)見ているときはたいへんです。
 どうしてイライラしないでいられるのかと思うだけでイライラが募ります。
 逆コンピテンシーディクショナリーが厚くなっていくことでイライラを解消する、という方策もあるのかもしれませんが、「損をしている生徒」を見逃すのはつらいことです。
 本に紹介されていたイライラ気分を解消する方法の中で、自分が実践していたものをあげると、
甘い物や好きな物を食べる。
掃除をする。
が見つかりました。
 教師としてはなかなかできない著者の提案は、
ガムをかむ。
一流ホテルに泊まる。
ぐっすりと眠る。
などがありました。
 イライラしないでいられる教師が、たとえば学力向上がうまくいかない、問題行動への指導法がわからない、保護者とのコミュニケーションがうまくいかない、などのケースで、次のようなことを実践しているとしたら、つらいものがあります。
○「そんなことには興味がない」と考える。
○「イライラしても何も変わらない」と考える。
○「こんな人のためにイライラするのは損」と考える。
○「もっといいことに時間を使おう」と考える。
○「自分で解決しなくてもいいか」と考える。
○「最悪な状態よりはまし」と考える。
○「そんなに深刻なことではない」と考える。

授業が「分かりやすい」教師 再考

 一般の人から見て,あるいは普通の教師たちから見ても,子どもがうんうんうなずいて聞いているような授業をする教師,熱っぽく語ることが得意な教師,単純に知識を問う問題で高得点をとらせることができる教師は,「優秀」な部類に入るのだと思われます。

 ただ,そのような教師たちの授業を参観していると, 
 「子どもに納得させる」
 「理解させる」
 「分かった気にさせる」
 「うなずかせる」タイプの授業者というのが,だんだんナチスドイツのヒトラーとイメージ的に重なってしまいます。

 日本人のように同調性圧力が強い民族は,情熱的というか扇動的なタイプのリーダーに集団が群がると弱いというか危ない特徴をもっているものです。

 特に,教育の中で危険なのは,教師が強いリーダーシップを授業などで出しすぎて,子どもの「思考力をうばう」結果になってしまっているケースです。

 「優秀」なタイプの教師の多くは,これを「子どもに不信感を抱かせない」ためにやっているという認識だと思いますが,反面教師と言われるように,たとえ子どもが教師に不信感を抱いてしまっても,子どもに力が付けば問題はないのです。

 不信感をもたれるのが怖い教師は,「子どもに考えさせる」より先に「正しい選択肢を教えてしまう」という愚をおかしてしまうことがあります。

 もちろん,教師が自信をもって指導できることが現場に求められているのは当然ですが,私は子どもに「安心感」「信頼感」を与えるだけの教師・授業の危険性を強く感じています。

 よく「教師が信頼されなくなったから教育がダメになった」と表現する人がいますが,「教師が信頼されなくても子どもがしっかり育つ条件は何か」ということを一度じっくりと考えていただきたいと思います。

 ~だから信頼する,信頼しなければならない,という安易な考え方では,~ではないから信頼しない,という発想も生まれやすく,「人をだまそうと技を練っている人に簡単にだまされ,本当に人のことを思っている人をなかなかふりかえろうとしない」ことが起こっています。

 中学校よりも,小学校でむしろ「本当か?」「わざとらしくないか?」「そんなに世の中は単純なのか?」という「社会を見る目」「情報を鵜呑みにしない批判的な考え方」を養っておくべきだと考えるのは,私だけでしょうか。

 受験学力が高い子どもたちの中には,疑うことを知らないというか,「この知識で正解だ」という認識ばかりを強くもっており,思考が開かれていないことに,強く危惧を抱くことがあります。

 正解や明快な解決法が目の前にない40分とか50分という限られた時間の中で「終わる」ことにならないと落ち着かない,そういう子どもの弱点は,特に申し上げるまでもないでしょう。

 「追究の鬼」なんていうニックネームを売りにした教師がいましたが,TV用のクイズばかり作っていたせいか,水戸黄門的社会観に子どもが毒されてしまっていました。

 今では,そういう子どもが親になり,その親に育てられた子どもが,同じような性格の人間に育ち,一度問題が発生すると,いっぺんに3人(父・母・子)への対応策を練らなければならなくなっています。

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公立中高一貫校の入学選抜の問題点

 公立中高一貫校の問題点を昨日のTV番組で取り上げていたのを,家で録画してくれていたので,目を通してみました。

 ゲストの雑談の中で,6年間メンバーが固定化すると,人間関係で問題があったときにつらいこと,中学校卒業時に,みんながさまざまな進路に分かれていくことを知るだけでも,人間的に成長できるが,中高一貫ではそれが難しいことなどがふれられていました。

 そしてメインのテーマは,受験(適性検査による入学選抜)倍率が高くなり,私立中学校と同じような競争=塾にたよらざるを得ないことがおこっている,そして,それは経済格差を反映するものになり,結局私立の実態と変わらないことになる,そういうものでした。

 公立の入試選抜なので内申点の比重が高いところでは,小学校の評定で「3」ではなく「2」があるだけでかなり合格には不利になり,学校での学習をがんばるという点ではよいのでしょうが,問題は,適性検査に対応できるかどうか。

 公立中高一貫校につとめている先生にお聞きすると,やはり塾で訓練をしてきている子どもは強い,という話でしたので,公立中進学のための塾通いが今後も増え,「ゆとり」どころではない,ということになりそうです。

 ただし,そもそも「ゆとり」自体が目的ではなく,「ゆとりのなかで~の力をつける」ことが目的なので,「~の力」がついていないことには話にならないのですが,「高得点をとるコツ」を知っているか知らないかはかなり合否に影響しそうで,特に国語力,表現力を磨いておく必要があるようです。

 小学校のカリキュラムの中で,このような力をしっかり身に付け,中高一貫校入試に十分対応できる学力をつけること=学習指導要領どおりの力を身に付けさせることを「ウリ」にした学校が今後増えてきてもおかしくないのですが,その成果を競う状況になってしまうと,今度は「評定の不正操作」の問題が浮上してしまいます。

 公立中学校では「成績一覧表」というのを作成する義務があるので,このような不正は防げますが,今のところ,小学校の評定にこのしばりはありません。

 担任が何を書くかで入試の重大な資料が決まってしまいますので,この部分を受験生,家庭,学校,受験校で透明に把握できるような仕組みが今後求められることでしょう。

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観点別評価への観点別評価

 ちょっと古いですが,文科省が実施した平成15年度の「学校教育に関する意識調査」によれば,現行の評価制度は,子ども一人一人をよく見るようになったものの,子どもの成長がこれまで以上に見えるようになったとはいえない,そういう結果が出ていました。

 現行制度への観点別評価を実施するとすれば,関心・意欲・態度は向上したが,その他の能力・技能面は横ばい
 そんなところでしょうか。

 よく見るようになったのに,成長が見えにくくなってしまった原因を探らなければなりません。

 考えてみれば,おかしな話です。

 子どもの何をよく見るようになったのか?そのために逆に見えなくしてしまっているものは何か?

 検討すべき課題でしょう。

 態度がよくなるだけでも,外見上は教師に対する信頼感は向上するかもしれませんが,態度がよくなったのに能力が向上していないのは・・・?

 負担感は,評価対象の子どもの数が少ない(評価項目数は多い)小学校よりも,その逆の中学校の方が重い。当たり前の話ですが。

 文科省での評価の見直しでは,「教師の負担を減らすこと」にも重点が置かれることになるでしょう。

環境の変化への対応が求められる空間づくりの大切さ ふり返り366日【08/5/17】

 「適法」かどうかを判断して行動するレベルと,「適正」かどうかを考えて行動するレベルでは,どちらが高度なのでしょうか。

 「ルールを破っているわけではないのだからいいだろう」という考え方は,何も中学生レベルの子どもがするものとは限りません。

 こういう子どもへの指導法は,それは「正しいことなのかどうか」を考えさせるというものです。

 子どもでも,「~してはいけない」というルールがないことなら,何をしても正しい,とは思わないはずです。

 モラルに関することには,使える指導法です。

 ただし,「正しいこと」という認識には,実は大きな落とし穴もあります。

 教師のなかには,自分の経験上,「正しい指導法」というものをもっている人がいます。

 信念をもって指導する姿勢はよいのですが,その信念の「正しさ」に子どもにもわかるような根拠がない場合,また,普通,そういう指導は適切でないと思う教師の方が多い場合,そこにあるのはただの「私共空間」です。

 教育の場も「私共空間」にしておけば,いくらでも手は抜けるし,好き勝手ができるのですが,そういう教師の姿勢をキャッチする生徒は,自分たちも同じように「私共空間」を構築して,特に違和感を感じすることなく「いじめ」を実行にうつすことが可能になります。

 教育の場を公共空間にすることが,指導上の大前提です。

 私共空間は,ドームや温室のイメージ公共空間は,青空が見えるフィールドのイメージです。

 環境の変化への対応が常に求められるのが公共空間であり,環境の変化とかかわりなく,常に閉じこもっていたい人間が作るのが私共空間です。

 教育の場を私共空間にしてはいけません。

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08/5/17 教師と天気予報士の共通点

 Psycheさんから以下のコメントをいただきました。ありがとうございました。

>力のある先生は迎合する必要などありませんね。人(生徒)に否定されるのが怖いのでしょうか。指導者として弱気な側面が垣間見えます。
 『○○先生に怒られるから、しちゃあかんよ』も、同じケースですね。「オマエが怒れよ!」って感じてしまいます。遅くとも3・4年でそのレベルはクリアしてほしいのですが……。

 日本は、何億円もの予算を投入して製品化されるゲームを、1年に何本も買ってもらって楽しめる子どもが育っている国です。その楽しみの目的を達成するために利用できる目の前の人間は親です。
 教科書が1冊できあがるまでにかかる費用はいくらでしょう。
 授業を行うために、必要な教材の費用は1時間あたりいくらでしょう。
 親がテストでがんばるとか、勉強関係の見返りとしてゲームを買わせているので、「学習」と「娯楽」の「目的」と「手段」の関係がめちゃくちゃになってしまっています。
 教師も、自分の利用のされ方を考える必要があります。充実した学習に利用されるべき教師が、遊びで楽しむために利用されたとき、教育力がない親と同レベルになり、子どもからの人気は高まるでしょう。
 そういう子どもに対しては、教師はまず否定されることから始めなければなりません。

 しかし、学校という場所に子どもが強制されずに集まってこれるのは、親と同じような利用価値のある教師がいてくれるおかげなのかもしれません。

 「○○先生に叱られるよ」という言い方が、自分の親に似ていて心地よいのでしょう。
 そういう指導しか入らない子どもがいかに多いかという問題もありますが、そういう指導しかできない教師が多いことも大きな問題です。

 ほとんどの教師は、自分の教育の失敗を認めたがらないものです。「子ども思い」のつもりでやっていることが子どもの成長に何の役にも立っていないことを自覚させられるのはつらいものだからでしょう。

 最近、教師天気予報士に似ていると思うようになりました。

 その人の仕事によって、未来に役に立つ(考える力や知識をもっていく、傘をもっていく)ことがあるかもしれませんが、何の役に立たなくても(学力がつかなかったり、晴れて傘が必要なくなったり)責任をとらされることはありません
 適当にやって力がついたり当たったりすることもあれば、どんなに研究して時間をかけて準備しても、力がつかなかったり当たらなかったりすることがあります。
 共通点が多い。
 しかし、少なくても天気予報士は天気図を使うなど根拠をもって予想を立てるのに対し、教師はどちらかというと経験や勘にたよる傾向がある(これも実は捨てたものではなく、お年寄りが地元の天気を当てる場合もあるが)のが相違点で、もっと指導の論理性を追究する必要がありそうです。

人が学ばなくなる原因 ふり返り366日【08/5/16-3】

 教育について何かの話を語ると,その人の人間観と,どのような環境で成長してきたかがわかってしまいます。

 また,教育についての発言に対する批判やそれに対する回答を読んでも,同じことがわかります。

 ネット上の議論では特に,話が極端になりがちです。

 「もっと上をめざす教育を進めよう」という趣旨の発言をすれば,「できない子の気持ちは考えない」と決め付けて発言する人がいたり,「みんな同じように成長させよう」という趣旨の発言があれば,「結果の平等主義は国家の衰退を生む」という反論が出されたり。

 実践者の強みは子どものよい実像がそこにあることで,ただの評論家の弱みは当事者でないために常に「憶測」で話さざるをえないこと。

 反対に,実践者の弱みは子どもの課題がある実像がそこにあることで,ただの評論家の強みはそれを見て「おれの言うとおりだろう」と言えてしまうこと。

 教育に関しては,すべての人に当事者意識が必要であり,個人にとって,集団にとって,社会にとって,国家にとって,それが今の問題を乗り越え,よりよい状況を実現できるようにする手段であるという共通認識をもつことが大切だと考えています。

 そして,その当事者意識を活用できるシステムが重要になってきます。

 学校を支援する組織が,何を核としてつくられるのが最も効果的なのか。

 それが「保護者」では決してないことはもうそろそろ行政側も受け止めて必要な情報を発信していくべきでしょう。

 人が「学ばなくなる」最大の原因は,「当事者意識」が欠如することにあります。
 
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08/5/16 超・学力観に基づく「なぜ日本人は学ばなくなったのか」の答えは?

 教育学者猛烈塾講師、どちらが子どもの学力向上の役に立つか?と問われたら、答えは明白かもしれませんが、どちらに教育政策を考えさせたらよいか?という問いには少し解答をためらうかもしれません。

 「なぜ日本人は学ばなくなったのか」という齋藤孝の本(講談社現代新書)は、対象が限られた「日本人」であるということと、「学ぶ」ことの意味や意義の捉え方が自分流であることから、あまり役に立つ内容ではありませんでした。

 日本人への危機感を煽っていれば本が売れるという国が日本です。

 そして日本のよいところを探して宣伝しようとすると「右翼か」などと言われてしまうのも日本です。

 教科書にそれを載せようとしたり、道徳教材で使おうとするときに浮上する抵抗感は、他国のケースではまず存在しないでしょう。「愛国心教育」の必要性を叫びたくなる人の気持ちはよく理解できます。

 そういう国であることは確かなことですが、日本では同調性傾向が強い(そうでもないという実験結果もあるのでしょうが、「KY」など、空気を重視する文化であることは確かでしょう)ためか、ある一部の対象に限られる話を、なぜか「日本人」全体の枠に広げて議論する傾向があります。

 齋藤孝が主張する「読書」や「学習」の意義は、もちろんそれはそれで正しいことでしょうが、それをすべての日本人がすべきであるかというと、それは?です。

 齋藤孝も本の中で、学校に対して常軌を逸した要求をするモンスターペアレンツを語るくだりで、「教師を頭からバカにして、ホテルのドアマンや百貨店の店員に対するように威圧的な態度をとる」とありますが、教師・ドアマン・店員を著者が同じような日本人であると考えていないことは確かです。

 江戸時代の識字率が他国より高かったとしても、今の若者がニーチェを読まないからといって、現代が江戸時代に劣るとは言えないように、歴史的な変化を語るときにも「自分の見たいものだけしか見えていない」状況になっているのがわかります。

 学力低下問題の解消や教養重視を主張する教育学者にとってつらいことは、このような本を記しても、「そういう著者もこの程度か」と思われてしまうリスクを常にもっていることでしょう。
 「なぜ日本人は学ばなくなったのか」の「日本人」をたとえば小学生、中学生、高校生、大学生に限定すると、その理由は、TVの他、ゲームや携帯電話、マンガやインターネットの普及もあるでしょが、一番大きいのは、教師が学ばせなくなったからでしょう。それにつきます。

 学校の教師は、「学習指導要領で定められてる範囲を逸脱することはできない」という逃げ口上がありますが、塾の講師や家庭教師はその縛りがないので言い訳ができません。学ばせて学力を向上させるしかありません。
 だから子どもにも親にも信頼されるのです。
 夜スペでもなんでも、「学ばせること」ができるかどうか、「学ばせる環境を整えること」ができるかどるかが問われているわけです。
 極端な超・学力観で言えば、「自ら学ぶ意欲」を重視して学ばせるのは、大学院からでよろしい。義務教育から大学までは、学ぶべきであると考えることを学ばせることに専念すればよい。「学ばせる」ことで、興味が持てる子どもには自然に「自ら学ぶ意欲」が育ち、どんどん学力が向上し個性が伸長する。それを全員に求めてはいけないし、強制してもいけない。「学ばせること」だけに専念すべきである。
 このようなことについて、齋藤孝は、読書などの「学び」を「強制」してなぜ悪い、というニュアンスで語っています。
 

必要なのは、刺激であり、機会であり、適度な圧力だ。

 このことには賛成ですが、著者に強制される中身については、ちょっと首をひねりたくなります。
 しかし、どの学校の教員にとっても、「学ばせる」ことは至難な技になってしまっているのでしょう。特に大学では、「圧力」が均等でないと、自分の講座に生徒が全く集まらなくなる恐れが出てきます。やはり生徒迎合型の教師になってしまいやすいのでしょう。

プロレスラー・三沢選手の死は過労死?

[プロレス] ブログ村キーワード

 私はプロレスファンではないのですが,新聞で読んだ三沢選手の急死には,大きなショックを覚えました。

 何かのTV番組で知った三沢選手の苦労仕事への意気込み・執念は,すべての職業人が学ぶべきものであると感じ,プロレスラーとしてというよりは,一人の人間として尊敬する選手でした。三沢選手がいるからプロレスファンになったという方が多いのもうなずけます。

 満身創痍の中,無理を押して仕事を続けた三沢選手の死は,ファンのみなさんにとっても本当に悲しいものであると思います。

 プロレスラーが,よくある一つの技だけで即死に近いような致命傷を負うことはまずないと考えれば,試合開始前から状態はよくなかったのだろうことが想像できます。

 普通の企業人で言えば,過労死にあたるものだったのではないでしょうか。

 三沢選手の死は,試合中に偶然起こった事故では決してないのでしょう。

 子どもたちには,プロレスラーも技をかけられて亡くなることもある,という教訓になるかもしれませんが,実際には違うのだと思います。

 子どもがプロレスごっこをして,受身の仕方も知らない相手を倒したり,振り回したりする行為は,殺人行為です。

「競争に負けない」マインドの育成 ふり返り366日【08/5/16-2】

 学校が,「公共空間」としての機能をどれくらい果たしているか?

 この問いには,簡単に答えることはできません。

 まず,一般社会と学校社会は,あまりにも違いがあり過ぎます。

 企業社会と学校社会は,共通点が多く見られますが,やはり違いがあります。

 学校社会で,「競争に負けない」マインドをどのように育てるか。

 こういう発想は,「競争=なんでも悪」論者には無縁というか忌避すべきものでしょう。

 教師の中には,「企業社会で生き抜くような人間を育てるために教えているわけではない」という人も多いのかもしれない(そもそも自分が企業社会に合わないので教育公務員になったという可能性もある)のですが,現実的にはほとんどの子どもが企業社会に入っていくわけですし,企業社会が生み出すサービス抜きには生きていくことができないのが現実社会です。

 「競争」が果たしている大きな役割を知っているのに,また,現実社会が「競争」に勝てない人にどれだけ厳しいかを知っているのに・・・。なぜ競争を忌避するのか?

 「社会的弱者への思いやり」が重要なことも言うまでもありません。

 ただ,「弱者への思いやり」だけで弱者が救われると考えるのは大間違いです。

 全国水平社の宣言が出されたころに新聞の投書欄に載った意見がそういう趣旨を非常によく表現しています。

 理想主義に過ぎない自由主義・共産主義ではない道を探ろうとしている21世紀にあっては,変化に対応しうる現実主義的な人間をどう育てていくかが課題です。
 
 理想主義を語るなというわけでは決してありませんが,理想主義を無理やり通そうとするのは愚策です。

 よく,厳しい社会の現実を知らないまま大人になった人間を「温室育ち」と揶揄しますが,今まで教師は大人であっても「温室育ち」でした。

 新聞に,平均給与が非常に高い地方自治体が紹介されていましたが,こうした「温室」で生活していた人は,退職後も多額の退職金で悠々自適の生活が送れることになります。これはまさに最初の段階でつまずいている共産主義のマイナス面に他ならないことです。

 公務員主権の日本を変えるのは,公務員になるまでの「競争」に血眼になるような人間づくりではなく,公務員になった後で「競争」も経験しながら血眼で住民のために仕事に取り組める人間づくりです。

 随分脱線してしまいました。

 「競争に負けない」マインドの代表格は「向上心」です。

 向上心は,「伝染」するマインドです。

 教師にそれがなければ,子どもに育たないのは当然である,という認識が教師にほしいものです。

 以下の記事にあったような,子どもにふりまわされる教師であってはなりません。

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08/5/16 子ども迎合型教師とルール化のデメリット

 子ども迎合型教師は少なくありません。
 きちんとした論理ではなく「子ども第一主義」とか「自由・個性の尊重」とかいう自己流の信念というか感性で仕事をするので、議論をしても全くかみ合わず、指導の足並みをそろえることが難しくなります。

 生活指導で注意を受ける生徒が、ときどきこのタイプの教師に泣きつき、自己の正当化の道具に使うことがあります。
 たとえば、校内のある場所で、ある行為が禁止されていたとします。
 そこで、そういう行為がしたい生徒は、迎合型教師を利用して、別の場所でその行為ができるようにします。
 ルール化されていない強みを生徒は最大限に生かして好き勝手しますが、それを別の教師が注意してやめさせようとします。しかし、生徒は反発する。

 生徒が反発する根拠は、「○○先生はいいと言った」というものです。

 大切なのは、ある場所でその行為が禁止されている理由、そのルールが必要だと考えられた理由を理解しているかどうかということで、たとえばそれが「危険行為」だった場合、場所が変わってもそれが「危険行為」になっている以上は、やめさせるのが妥当な指導であるわけです。

 「ルールがあるから守らせる」というレベルの指導しかできない教師は、すぐに生徒の餌食になります。

 学校のきまりやルールに限らず、法・法律というのに共通することなのかもしれませんが、何かのケースを想定して「禁止」のルール化を行うと、その条件からはずれた部分では逆に「許可」されているように錯覚してしまう。
 それがルール化のデメリットです。

 生徒に担ぎ上げられて、注意をした教師へ反論に向かわされた教師は、論理の前に大恥をかくことになりますが、教師にも「武士の情け」が必要なので、「その場面を見ていなかった先生には判断できない」程度のコメントで退場願います。
 「ここでその行為をしてはいけないというルールがないから、許可してもよいのではないか」という発想は、「他の場所ではなぜ禁止されているのか」という、ルールの根源になっていることへ思考が働いていないという欠陥からおこるものです。
 しかし、純粋な子ども迎合型教師は、迎合することによってのみ生徒から存在価値を認められるので、生徒から見て利用価値がないと判断されると相手にされなくなる危険性があります。
 子どもは自分の失敗(これは耐え難いもの)より、大人の失敗を見ることで成長しやすい存在だと考えると、迎合型教師の存在価値は大きいのかもしれませんが。
 今回の内容は、「論理追求力不足」という逆コンピテンシーの具体例でもあります。

いじめを単純化して考えたい心性を生む新KEGARE思想 ふり返り366日【08/5/16】

[いじめ] ブログ村キーワード

 いじめの問題を,あくまでも「子ども社会の問題」と捉えてしまうような教師は,自分自身や教師集団の課題に目を向けない典型的な逆コンピテンシーの持ち主であると判断できます。

 今の若い教師や教育実習に来る大学生と話をしていると,いじめをしてきたわけでも,受けてきたわけでもない傍観者としての長い経験を感じさせる言動にふれることができます。

 傍観者の中には,自分が「KEGARE」にふれたくないために,「なかったことにする」という「得意技」を使う人間もいます。

 犯罪のKEGAREも時間が経てば忘れ去られるだろうと考えていた京都教育大の中枢も同じことです。

 教師の中には,「いじめた側を処罰する」ことで指導したつもりになってしまうような人間が少なくありません。

 これは,「いじめ指導」という「ふれたくないKEGARE」を早くはらってしまおうとする姿勢に他なりません。

 「いじめは絶対に許さない」という姿勢を子どもにみせ続ける指導は,常にKEGAREをまとうような指導でもあります。

 いじめる側の人間が自分自身の心に負っていく深い傷に気付く指導,気付かせる指導が求められています。

 単純な厳罰化の発想をしている教師たちに,いじめ問題の根本的な解決を追究する考えが浮かぶことは決してないでしょう。

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08/5/16
「いじめ」と新KEGARE思想

 教育の現場で感じる新種の「KEGARE」意識として、「教師からの指導を受けて不快な気分になること」があげられます。

 このKEGAREをはらうには、「逆ギレする」「無視する」「親に教師を攻撃させる」「他人のせいにする」などという手段があります。

 自力救済系の「はらい」は、「笑われただけでキレる」ような中世の時代の日本人を思わせます。

 他には、「自分の思い通りにならない」というKEGAREもあります。

 これをはらうには、「キレる」「他人を攻撃する」という攻撃的な方法と、「逃げる」「自ら命を絶つ」などの後ろ向きな方法があります。

 「荒れた学校」の時代には、圧倒的に攻撃的な方法が多かったのですが、最近は消極的な態度の方に重点が移ってきています

 「いじめ」という現象がやっかいなのは、同質でない(のが当然なのですが)他人自分の思い通りにならない他人に「KEGARE」を感じ、攻撃を加えて「はらおう」とするのですが、相手が自分の都合のいいようにならない場合、「KEGARE」がさらに増していくことです。
 いじめた側は、相手の「KEGARE」をはらってあげようとしているだけなので、罪悪感がない

 いじめられた側は、自分が「KEGARE」ていることを認めたくないので、初期は「いじめられていること」を認めようとしない
 そして事態が深刻になり、相手から攻撃を受け続け、積もり積もった「KEGARE」が、自分自身の「KEGARE」許容範囲を超えたとき、重大な問題がおこる。

 「いじめ」の問題の根が深い理由は、「新KERGAR思想」にある、というのが私の仮説です。
 では、その解決法ですが、この種の「KEGARE」は存在を否定せずに、教師が指導によって「はらう」しか方法がありません。そのためにはまず、教師自身の「KEGARE」をなくしたいものです。

激しい批判への激しい批判

 日本には,バランス感覚に優れた人が多いような気がします。

 ただ,単にバランスだけを守ろうとすると,こんなことが起こります。

 たとえば,激しい批判への激しい批判

 最近では,逮捕された草なぎ氏に対して激しい批判をした鳩山総務相が激しい批判を受けたような件。

 京都教育大への批判に対する,「悪いのは○○だ」という逆ギレ的な反応。

 教育ブログでも,自分の気に入ったブログへの批判に対して,内容が伴わない「批判返し」を繰り返していた人がいました。

 批判合戦は興味本位で眺めれば見て遊べるものですが,ある問題についての批判を,こっちは悪くない,悪いのはそっちだなどと言い合っていても,解決に結びつくことはまずあり得ないわけです。

 最も関心をもってもらいたいのは現場の「当事者」であって,「内部からの浄化」「内部主導の改善」が求められているのに,いつまでたっても「外部圧力」に変革のきっかけを頼りきっているようではいけません。

リンク: 鳩山邦夫は調子乗りすぎ? - ココログニュース

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京都教育大への抗議はどのようにしたら実るのか?

 ココログニュース「集団強姦 京教大に抗議殺到」(6月12日)を読んでの感想です。

 京都教育大の学生や卒業生の中には,今回のようなことが起きてしまったことへの憤りを強く感じている人たちが大勢いることを願いたいです。

 なぜそのような表現をするかというと,一つは,今回のことについて,被害者を中傷するような態度をとる人が少なからずいること。もう一つは,今の学生や若い卒業生たちに,「母校愛」というものが存在するのかどうか,疑問に思えることが多くあるからです。

 自分の母校である人や,あと少しで母校になる人たちが,その在学生が起こした事件を「全くの他人事に過ぎない」という目で見ている限り,必ず同じような不幸が繰り返されるような気がしてならないからです。

 今までも公にされていない事件が,数多く存在するのではないかという疑念も強く生じています。

 今回のような事件の被害者は,ことが公になることを本当は極端に嫌うはずです。

 そこが加害者の「強み」「利用しがいのあること」であり,いつも必ず今回のように「予想に反したこと」が起こることは限らないのです。

 「予想に反した」と感じているのは,加害者だけでなく,大学側も同じなのでしょう。

 大学側の対応への批判が集中しているようですが,このような抗議はどのようにしたら実るのでしょうか?
 最も有効な手立ては何でしょうか?

 文部科学省の監督権限を強化することでしょうか?

 マスコミを駆使して,徹底的に大学のイメージを低下させることでしょうか?

 私は,学生たちの自治機能の充実こそが真の問題解決にとって必要な条件だと思っています。

 だれに叱られるとか,だれの印象が悪くなるからとか,そういうことでは事件の再発が完全に防げるわけがありません。

 小中学生,高校生にも求めている,人としての「自覚」です。

 マスコミには,どんどん京都教育大の学生に取材を進めてほしいと思います。声を拾ってほしいと思います。

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リンク: 集団強姦 京教大に抗議殺到 - ココログニュース

目標と指導者自身の実像の乖離 ふり返り366日【08/5/15-3】

 「社会性に欠ける社会科教師」というのがある集まりで話題になったことがありました。

 教科の目標としていることを,教えている本人が身に付けていない場合,子どもに目標の実現の見込みはあるのかどうか。

 子どもがある程度,優秀な場合は, 「反面教師」という機能を果たすことができますが,公立学校の場合では,「先生もできないことを私たち生徒に要求しないでよ」という反論が寄せられたり,それに答えることができなかったりという問題が生じます。

 小学校や中学校では,○○の基礎を培う・・・という言い回しが多いのですが,実はこの「基礎」というのが,はっきりしているようでしてません。それを培うとか養うことは,本当に今の指導で実現可能なのかどうか。

 目標が漠然としすぎていたり,抽象的な表現が多いと,その実現状況というのがなかなか把握できません。

 評価が複雑になりそうなところは,教科としてではなく,新たな領域の一部分として解釈していけるような改善も求められるのではないでしょうか。

 私のように「社会科」の「地理・歴史」との分離独立を提唱している人は今のところまずいないでしょうが,「社会参画」を地理・歴史のテーマに掲げられてしまうと,難しい問題が出てくるのです。

 「社会参画」をメインテーマの一つにするくらいの「社会科」という教科があってよいのかもしれません。

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08/5/15 教師と子どもの社会性と社会科

 「今の人生は死ぬまでの暇つぶし」と語った作家がいましたが、学校でも「授業中、どうやって暇つぶしをするか」と、いろいろ試行錯誤している生徒がいました。
 塾漬けで「点数取り技術」を鍛えられている子どもの中には、授業中の雑談や分かりきっている説明・板書には目もくれませんが、「ここ、テストに出そうだな」とピンとくると、急に目の色が変わるのがいます。

 気分が悪いので、そういう生徒が暇つぶしをしている間にさりげなく説明したものについて出題したりと、随分意地の悪いことをしたものです。

 「点数稼ぎ」という目的を達成するにはとても合理的な判断を瞬時に下せていると感心してしまうのですが、「公民的資質の基礎」を養おうとしている社会科では、「個性の尊重」より「社会に生きる人間づくり」に力を入れたいので、「最も社会的でない生徒が最も社会科のテストができる」状況を打破する必要があります。
 「社会性」の欠如が憂慮される大人の代表に、裁判官とか教師がいるのは周知のことです。裁判員制度や企業研修・免許更新制が生まれた背景の一つです。
 小学校では先生から進んで挨拶し、その相手を子どもがしてあげているのが普通の世界のようですが、挨拶を「他者への敬意のしるし、敵意のないしるし」と捉えている中学校では、自ら進んで挨拶ができる生徒を育成しようとしています。
 しかし、なかなかうまくいかない学校が多く、生徒会が「挨拶運動」をやるようなところは、挨拶ができない生徒が多い証拠になっています。
 問題は子どもだけでなく、たとえば大人同士の関係になったときに、まともな挨拶ができない教師というのが確実にいます。
 先日、顧問会を欠席した学校の引率教諭が大会に出場したとき、専門委員に対して挨拶もせず、子どもたちの前で叱られてしまっている場面に出くわしました。この学校の校長は、教育関係の本をよく出している人物です。
 「個性の尊重」というスローガンと「礼儀正しい子どもの育成」というのをうまくマッチさせる方法はないでしょうか。

学力を把握する方法 ふり返り366日【08/5/15-2】

 学力の把握というものは,難しいものではありますが,学習の成果がどれだけ上がっているのか,どんな問題に対処できるようになっているのかを知りたいと思うことは,教師にとってはもちろん,子どもたちにとっても自発的に感じるようなことではないでしょうか。

 学力の把握のために,今のところは,一斉に同じ問題を解かせて,その達成度を測定するのが普通ですが,場合によっては,「自らの学力が把握できる問題や課題」を子どもが選択して,それに取り組ませることで,意欲が高まるだけでなく,能力に見合った形の問題追究,課題追究になるので,さらに学力が伸びていくことが期待できるようになるかもしれません。

 もちろん,そのような形が有効である教科と,そうでない教科もあるでしょう。

 また,学力の把握は1人きりで課題に取り組むのが普通ですが,4人くらいのチームで解決させるような,協調性や調整力,組織的行動力もあわせて測定できる課題もおもしろいかもしれません。

 教員採用試験でも,4人1組で指導案をつくらせ,模擬授業を行って,もう一度指導案を修正させるような方法もおもしろいかもしれません。

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08/5/15 もし来年、国際的な学力調査の結果(順位)が上がったら?

 ふと思ったことがあります。
 もし、新しい学習指導要領が実施される前に、国際的な学力調査の結果(順位)が改善してしまったら、この成果はどこに求めるのでしょうか?
 文部科学省は、「ようやく生きる力の育成をめざした学習指導要領に基づく教育の成果が現れた」と言うのでしょうか。
 そして、新学習指導要領完全実施後に、また順位が下がったら?

キムタク叩きも公然化か?

 キムタクもいよいよ公然と叩かれる対象になったのでしょうか。週刊誌の広告が気になりました。

 ネット上のニュースでも,視聴率が20%をわったとか・・・これは野球でいうと,イチローが4割をわったくらいの数字なのではないでしょうか?

 人気や期待を集めてきた人の「落ち目」には非常に敏感になり,坂を下り始めるといっせいに叩き出す,巨人に移籍した清原が結果を残せずに去っていったときも同じようでした。

 企業では,叩かれるともう浮上することができなくなってしまうような人間が増えてきたということをよく聞きますが,「一流」の人たちは,「叩かれるのも仕事のうち」という感覚をもっているのでしょう。

 叩かれるのは期待されていることの裏返しであり,このブログのように教師の「失敗」に対する指摘について,直接的に批判されることはなくても,「ああ,自分にも当てはまりそうだ」という自覚をもって平常心を保てる人は,期待に応えている自覚がある人でもあるのでしょう。

 このような期待を受ける側ではなく,期待をかける側のたとえば子どもの保護者の立場では,「がんばっている先生になんていうことを・・・」という感情がわいてしまうのも理解できないわけではありません。

 しかし,そういう「先生」が期待に反する行動をとったときに,平常心を維持していくためには,「起こりうること」「現実に起こっているかもしれないこと」に対する想像力を働かせておく必要があります。

 行政の側の人は教育について「成功して当たり前」という感覚がある一方,現場では「目標達成なんてありえない」という感覚があり,その乖離についても話題に取り上げていますが,やはり現場が「成功させる必要がない」というレベルに堕ちてしまうと教育も終わりであり,常に発破をかけ,批判をすることで期待している気持ちを伝え続けることも大事だと思われます。

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教師の子どもにとっての「体罰」の便利さ

 体罰はなぜなくせないか。 

 体罰は要するに,超短時間に完了できる「罰」として認識されている面があるのでしょう。

 悪いこと,いけないことをしたら,罰を受けなければならない,でも,宿題をやらせたり,掃除をやらせたりすると,時間と手間が教師・生徒の両者にかかってくる

 ほとんど「瞬間で終わる」こともある体罰は,その煩わしさを省くという点で,教師は便利に使い,子どもによっては,「まあ,○○させられるよりましか」という感覚で受け止めてしまう

 1時間の説教より,1発で終わる罰の方がまし・・・?

 そんな性質や背景があるのではないでしょうか。

 私の甥っ子の通う学校では,まだ体罰はなくなっていないようです。

 陸上部に所属する上の子は,顧問に足を蹴られて捻挫して帰ってきたことがありました。

 甥っ子も母親も顧問にはさからえなかったようです。

 運動部の顧問は相変わらず絶対主義?の専制君主であるようです。

底が抜けている学校 ふり返り366日【08/5/15】

 教育現場での職の多層化が進められることによって,組織としての安定性は増していくことになるでしょう。

 問題は,トップダウンとボトムアップがそれぞれの長所を発揮し,短所を補いながら組織が機能していけるかどうかにかかっています。
 
 教育現場というところは,実は文科省ー教育委員会ー学校という階層で見たときにはトップダウンがきいているのですが,学校の中のトップダウンというのはあまり機能していなかったところが多いのです。

 すべての教師が知っていなければならない大事なことを,多くの教師が知らない,答えられない,そういうケースもよくあります。

 トップダウンのつもりがスルーして底も抜けてしまっているようでは,成果は積み重なっていかなでしょう。

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08/5/15 上から目線の失敗と下から目線への希望

 伊吹自民党幹事長の「年貢増は当然」コメントは、「国民」=「殿様」が前提なのですが、「お上依存体質」に染まっている人からは当然のように反発を受ける言葉でしょう。
 日本国憲法が「国民」によって確定され、天皇や国務大臣、国会議員などに擁護する義務を負わせているものであることを理解している「国民」は少ないはずです。

 「年貢(税金)を徴収され、統治されている立場である」という実感が強い「国民」を敵にまわしてしまう言葉です。
 本来の「国民」の立場におかせる工夫がほしいものです。

 中川元幹事長の方は、「官僚国家の崩壊」という本を下旬に出版するそうです。
 「劣化したエリート」というフレーズは読む意欲を刺激してくれますが、内部からの声が反映されているかどうか、目次で確かめてから買おうと思います。
 同じ役職につく人間が、180度違うことを言うのは、公務員の世界ではよくあることです。
 社長引退後、会長として残ってしまっている企業ではそうはいかないかもしれませんが、同じ失敗を繰り返すのでは芸がないので、違う失敗を犯す道を選ぶわけです。
 その都度部下は振り回されますが、その経験は自分がその立場になったときに生かされないので問題は繰り返されます。
 失敗しないためにトップが何もしないというパターンは、学校によく見られますが、考えようによってはこちらの方がましかもしれません。
 学校の経営者にも、政治家にも、「説得力」が求められます。
 しかし、一般の公務員の場合は、「上司の命令に従わなければならない」という法令があるので、上司は部下に「説得」する必要がありません(議員を説得する必要はありますが)。これが劣化速度をアップさせる原因の一つになっています。
 「部下」が運営をリードしているような学校の姿が、行政や議員の世界でも見られることが必要になっているのではないでしょうか。

学歴コンプレックスの弊害 ふり返り366日【08/5/14-2】

 どんなに内容がない本でも,売れないからといって全く世に出なくなってしまうのも困りものです。

 特に,特定の職についていた人が著す本には,その職についてみなければわからない,その職自体の問題点が発見されるチャンスがあるのです。

 教育行政で働く事務系の人の中に,学歴コンプレックスが強い人がいることを私は肌で感じていました。こういう人がトップに近い位置にいると,政策がおかしな方向にねじれていくのです。

 都教委に訴訟をおこしている土肥元校長は東大卒ですが,それと両者の長年のいざこざは関係ないと思いますが・・・。

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08/5/14 教育にかかわる困りものの素人たち

 教育書の中には、タイトルにひかれて買ってしまうものの、読んでみたら何の役にも立たない本というのがたくさんあります。書店でなく、amazonで買ってよく大失敗しています。
 ある教育評論家が記した「○○は生まれ変わる」というタイトルの本があります。

 この著書は、教育現場で言うと「事務の人」です。
 教育委員会という組織は「事務の人」が中心にいるということは、保護者だけでなく、教員の世界でもよくわかっている人は少ないでしょう。学校の事務室で文房具を出してくれたりする、あの事務の人です。
 この人たちは教育指導の専門的な知識がないため、教育委員会では教員が「指導主事」としてこの「事務の人」たちを支えることになります。

 私がかかわったいくつかの自治体で、学校事務のお兄さん、お姉さん、おじさん、おばさんが人手不足のためか学校行事の準備にかかわり、先生顔負けの動きをしている様子をみて、事務の人が学校経営にもっとアイデアを出したり、客観的な目で学校評価にも積極的に参加してもらいたいと思うようになったことは、これまでにも日記でふれてきました。

 しかし、経営という面では積極的に参画できても、教育の専門的指導にかかわることはないので、教育改革とか学校改革についてこの人たちが適切なアドバイザーを得ないで考えると、企業経営的にはあり得ることでも、教育の政策としては実現不可能な案を平気で出してしまいます。

 事務の人は限られた教員(処分を受ける人や組合活動に熱心な人など)の実状は詳しくわかっていますが、大部分の教師の実態はわかっていないでしょう。
 勤務時間が終わったら帰宅する人は当然としても、1日のほとんどを自席か会議で過ごす人には、けっして理解できないのが教育現場の仕事です。

 著者は、「学校の本質的な目的は、たった二つ」とし、それを「子どもを『国民』にすることとその『国民』を優秀にすること」としています。
 現役教員との座談会での会話では、「事務処理能力の高い先生が大きな顔をしている」とか、「今では企業でさえ新人を育てようという風潮はなくなりました」とか、「中世から戦国時代にかけての武士は極めて合理的で、主君も平気で裏切る」とか、「大人が子供に価値観を押しつけないで、どうやって道徳律が成り立つと思っているんでしょうね」とか、「教員採用試験から教員免許の要件を外す」など、数多くのハテナ発言を繰り返しています。

 経験や読書から導いてきているのはわかるのですが、その本質は何かということまで知恵が及んでいないことが明らかです。

 この著者が書き記していることは、過去に自分がかかわった教員への不満を解消し、行政での仕事がうまくいっていないことを直視しないですむようにするためのものだと考えられます。
 「授業や学級運営がうまい校長や教頭は大勢いますが、彼らがその地位にあるのは試験に合格したからであり、教諭としての実力が高かったからではありません」とは、行政の立場の人間が言ったら終わりでしょう。
 「校長は原則55歳以上1校限りというルールにでもしておけば、後々の人件費負担もありません」という感覚から、教育について語ることを許容する限度を超えていることが明白です。

 「学校には、明治期の青年のように「志」を持った中堅・若手教員が大勢います。民間から優秀な人材が学校に大量に入り、彼らが一層覚醒すれば、学校は明治期の日本のように大躍進を遂げるでしょう。」としめくくりにあります。
 教員免許はいりませんから、事務室ではなく、入庁後、副担任として教師の仕事に2年ほどかかわってくれれば、教育委員会ももう少しましな人材がつくれるかもしれません。
 教員よりも人材難が深刻なところがよくわかったという以外、得られることがなかった本でした。

紛失物を隠しもつ担任教師 ふり返り366日【08/5/14】

 私の甥っ子が学校で体操着を紛失し,どんなに探しても出てこないので,新しいものを買ったら,一週間後くらいに担任の教師に呼び出されて,「おい,どうして落とした体操着を取りに来ないのか」と言って頭を殴られた,という話を聞きました。

 どうして担任の先生になくなったことを相談しなかったのだろう?という疑問が残る一方,なぜ担任の先生は子どもが必要だとわかっている体操服を,一週間も手元に置いておいたのだろう?という疑問も生まれませんか?

 子どものコミュニケーション能力の欠如と考えるべきか,担任教師のいじわると考えるべきか?

 頭を殴られるほどの理由があることか?

 母親である私の妹が,もし私と性格が同じだったら・・・ぞっとする話でもあります。

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08/5/14 落とし物の「在庫」はなぜ増え続けるのか?

 すずめ先生の記事に、「学校での落とし物の落とし主が現れない悩み」が紹介されていたので、私は以下のようなコメントさせていただきました。
 

落とし物」の中には、単純な「置き忘れ」だけでなく、「誰かに勝手に持っていかれてどこかに放置されていた(隠されていた)のが見つかったもの」もけっこうあるのではないでしょうか。単にだらしないだけの子どももいますが、誰かに取られた(=自分を傷つけようとした他人がいる)事実を認めたくないために、紛失した事実自体をなかったことにするつもりの子どももいるような気がします。しかし、眼鏡、時計といった値のはる品物の持ち主が見つからない私の学校は異常です。「傘」をはじめとした学校における「落とし物」心理学の専門家はどこかにいらっしゃるでしょうか。

 後からじっくり考えても、理由がわかりません。
 落とし物を保管したり、その情報を伝達するシステムがあり、明らかに困っている人がいるはずなのに、なかなか「在庫」が減らず、増えていく一方です。
 ここで私は、現代の新たな「KEGARE思想」が広がりつつあるのではないかと考えました。
 自分の持ち物が、いったん自分の手から離れ、しばらくそのままになる。しばらくして見つかっても、それが「自分の持ち物としての資格」を失っているため、以後、縁を切る・・・・。
 もちろん「自分以外のだれかがさわったことがいやだ」などという低次元の問題ではない、過去の「ケガレ」思想とは異なる、新しいタイプの「KEGARE」認識です。
 また新しいものを買えばいい、という感覚ももちろんあり、まだいくらでも使える鉛筆や消しゴムなども、「落とし物」ではなく「ゴミ」として捨てられてしまうケースもあるでしょうが、「ものを大切にしなくなった」という話とはちょっと次元が違う。ものに愛着を感じていない、というのもありますが、それとも違う。
 「探す努力」も「いやしい行為」であり、「KEGARE」である。
 「きれいに忘れ去ること」が「KEGARE」から逃れる最高の手段である。
 おかしな状況です。
 もしこの仮説に基づいて落とし物の「在庫」を減らす戦略を練るとすると、発想としては「KEGARE」を取り除くプロセスが必要になります。
 たとえば、落とし物に、「名前」をつける。
 日本語名でつけるなら、歴史的な人物。外国の偉人でもかまいません。
 芸能人の持ち物だったことにして、「○○○の傘」「△△△の眼鏡」と呼んでもよい。
 ときどき一覧表を掲示するなどして、「落とし物」への興味・関心を高める。
 そうすると、「忘れ去れた存在」から、「忘れ去ることが困難な存在」になる。
 ろくな案ではありませんね。
 何かうまい解決方法を持っている学校というのはあるのでしょうか。

無法空間から中学に入れば,不適応を起こすのは当然のこと

 「評価や目標をすべてなくしたら新しい授業や学びの豊かな地平が広がってくるような気がする」というわけのわからない教育論?を展開する「学校やその他の場で小・中・高・大学生を教えてきた経験」者の方に,「理想は常識人」さんが批判を加えているのですが,私と同じようにこの方も「やり取りはこのぐらいにさせていただきます」という扱いを受ける結果になりました。

 私が批判したときと同じで,矛盾をつかれると

>「評価」に対する視点の位置が異なっている

という逃れ方をするあたり,政治家向きの教育者でいらっしゃるようです。

 「理想は常識人」さんに対するコメントの中で,

>「評価」が疎外している沃野がある可能性があるのではないかということを言っています

と述べていますが,疎外状態から救う方法としての「評価」という,より高い視点を想定することなく,ただ「評価」が疎外している沃野がある可能性があるから「評価」をなくす・・・こういう主張は「理想は常識人」さんの「評価規準を超えてしまっている」と表現できるのでしょうか?

 目の前の子ども,実際に現場に子どもを預けている保護者の願いを全く考慮に入れない,いわゆる壁の厚い「私共空間」の住人らしい態度が,教育界への不信をどんどん高めてしまうことに,危惧を覚えています。

 目標があって,それを実現するための指導計画があって,指導があって,その指導によってどれだけ目標に近づけたか,どれだけ目標を達成できたかという評価があって,その評価をもとに指導を改善したり,再指導したり,目標の重点や計画を見直したり,そういうことに心を砕かなければならない学校から「目標や評価をなくせ」というのは,どういう主張なのでしょうか。

 私が受け持った子どもの中に,小学校時代,他の教科の学習をつぶして百人一首で遊んでばかりいた学級の子どもたち,新聞づくりばかりやっていた学級の子どもたちがいました。

 「一芸」でもいいのですが,基礎学力に大きな問題を抱えていた子どもが多かったことは,容易に想像されることでしょう。

 まじめに仕事をしていた小学校の教師は,週案のチェックを毎週受けなければならないことに,不満を覚えていらっしゃるでしょうが,たとえ週案を提出しても,全くそれを守ろうとしない教師の存在を考えると,いかに「やりたい放題」がやりやすい職場かがわかるでしょう。

 そういう学級の子どもが,「やりたい放題」できない中学校に入って不適応を起こすのは,残念ながら当然の成り行きです。

学力の把握に適した教科書づくり ふり返り366日【08/5/13】

[小中学校] ブログ村キーワード

 穴埋めプリントばかりやらせている教師が,「どうしたら考える力を身につけさせることができるだろう」という疑問をもっているとしたら,それはガス欠の自動車が「なぜ走らないのだろう」と不思議がっているのと同じことです。

 「子どもの学力をどのように把握したらいいのか」という問いを突き詰めていくと,結局は「どのような指導が学力の把握に最も適しているのか」というところまで到達します。
 
 「学力の把握」に適している指導とは,子どもがその学力を発揮できる指導のことです。

 子どもがその学力を発揮し,教師がその学力を把握できることとは,つまり子どもが教師や他の子どもに対してアウトプットする場面があるということです。

 今までの授業の中で,50分(45分)の授業の中で,子どもが40人いるとして,子どもがアウトプットしている時間はのべ何分くらいになるのでしょうか。1人当たりに換算すると,どうでしょうか。

 「教科書を音読すること」をアウトプットの時間に入れるかどうかは難しい問題ですが,こういう時間を入れないと,1人当たりののべ時間はものすごく少ないものになりそうです。

 そこで,子どもにアウトプットさせることが自然にできる教科書というものの提供がのぞまれるところです。

 私は,市販のワークほどではないにしても,子どもが直接書き込めるような教科書を提案したいところです。イメージはやや「心のノート」に近いものがあります。

 1年間終わったら,ポイと捨ててしまうような「軽い」ものではなく,その成果をずっしりと感じ取れるような「重たい」教科書。教科書代を倍にする程度の予算を確保するのは難しいことではないでしょう。

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08/5/13 社会科教師の逆コンピテンシー その12 新しい教科書モデル

 第12回は、「戦略創造力(④戦略のC創造力)」がテーマです。
 地理や歴史を学ぶとき、あなたは「考えること」「覚えること」「調べること」「自分の考えを述べること」のうちでは、どれを最も重視しますか。
 最も時間を費やしているのはどれですか。
 ・・・という質問を生徒にしたとき、どんな答えが返ってくるでしょう。教師ならどうでしょう。
 生徒のそれぞれの解答に対して、「先生は、そのことについてどのような材料をどのような方法で提供してくれますか」と聞いた場合はどうでしょう。
 知識や理解を中心に、私立大学の入試問題のような穴埋めプリントで教えている教師と生徒との間には、一定の信頼関係が生まれて安定しています。
 穴埋めのところを覚えれば、テストでいい点がとれる

 現行の学習指導要領は、このような社会科教育では目標に掲げる資質は身に付かないので、内容に大きな工夫を加えましたが、結果は失敗に終わろうとしています。
 教師の逆コンピテンシーが、学習指導要領ではなく、生徒・保護者側のニーズに沿っているという理由でコンピテンシーになってしまっている。

 基本的に、教師の教え方を改善させる教育が難しいことは、研修や研究会を飽きるほど見ている自分は強く実感していますが、役所にいるだけの人には理解できないのです。

 では、養成や選抜の段階で・・・という話になりますが、こちらは大学生が受けてきた教育が近すぎて、何が求められているのかを実感するところまでが遠い道のりになっています。

 子どもや保護者の社会科(に限らないかもしれませんが)学習に求める目標=テストでいい点を取ることに、教師が合わせた形というのが、多くの社会科の授業の主流になっていることでしょう。

 教師は子どもに知識が身に付かないことに、大きな危機感、恐怖心を持っていて(それがないと自分の存在意義が否定されると自覚する)、「学び方」「調べ方」「考え方」を身に付けさせることは二の次になっています。

 しかし、そのような背景で教師が子どもに身に付けさせようとやっきになっているのは実は「知識」ではなくて、一種の「条件反射」のようなものでしょう。

 本当にその内容(知識)を身に付けさせたいと強く思っているのかどうか、毎時間の内容に照らして考えてみてはどうでしょう。まさか教師が、これは受験に出そうだからという理由だけで、教えている(こういうのは「教える」ことではなくて「与えている」とでも表現すべきなのでしょうか)情報はないでしょうか。

 「本物の知識を伝えたいのだが、子どもや保護者のニーズがネックになっている」というのなら、ニーズの方向性を変えることで、教師の「教えがい」も変えることができるはずです。

 まずは、定期考査問題を見直したいものです。
 文部科学省に求められる次なる取り組みとして考えられることは何でしょうか。
 学力調査的な問題を一般から多く募集して吟味し、「いい問題」を公開して中学生に解かせてみること。公開しないものを学校に提供して、定期考査に活用させること。
 学習指導要領に基づく指導の「評価」に切り込む施策が必要で、少しでも「目標準拠評価」の信頼性の担保になるものを提供すべきでしょう。
 教科書は無償でも、おそらくほとんどの学校では問題集や資料集などの教材を買わせているはずです。
 「義務教育は無償」という原則を、教材にまで広げるべきかもしれません。ということは、「問題集一体型の教科書」という新しいスタンダードが見えてきます。

試験問題】 定期考査の問題で、生徒の保護者から「習っていない問題が出された」という苦情が寄せられたとき、あなたならどのような話をして保護者と生徒を納得させることができますか。
(余談ですが、ある小学校で、学校では学習していない問題を担任が出題し、「塾で習って知っている人が多いからいいだろう」と言ったという話を聞きました。公立小学校の恐ろしさの一面をまた見ることになりました。)

問題点の発見は手抜きの理由の誕生に ふり返り366日【08/5/12】

 子どもが生まれた家庭の経済格差を学力格差の原因だとしている教育学者がいるとして,その先の話。
 
 だれが,何をするべきか。

 まず,自分ができることをする。仕事中は,そのことに集中する。それしかないでしょう。

 他の人がやるべきことをさして,「それが実現しなければ私にできることはない」といって手を抜こうとする人。

 問題点の発見は,手抜きが安心してできる材料の誕生でもあるということが,注意すべきことです。

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08/5/12 週刊東洋経済の「子ども格差」

 「格差もの」のはやりが続いています。
 週刊東洋経済では、経済格差に重点をおいた教育・福祉(貧困)問題を特集しています。
 この雑誌を定期購読している公立学校の教師は少ないと思いますが、今回の特集を読めば、公立学校における教育が果たすべき役割の重さを改めて実感することができるでしょう。
 しかし多くの教師は、行政の無策に対する批判的姿勢を強めるだけかもしれません。
 さまざまな雑誌で組まれる特集を吊り広告で眺めながら、雑誌というメディアが果たすべき社会的役割は何かなとときどき考えますが、この「子ども格差」についてはどうでしょう。
 このような特集を雑誌が組んで、定期購読ではなく駅やコンビニで雑誌を買おうと思う読者層というのは、やはり「専門・管理職」や「一般ホワイトカラー」(通勤途中で目に触れる条件でもある)が大部分で、一種の優越感を与えたり、「ここまでやっている家もあるのか(家庭教師に月60万円)」とおもしろがらせるのが趣旨ではないかと勘ぐってしまいます。
 「セレブのぜいたく受験術」などほとんどの家庭には縁がない話だと思われてしまいますが、該当する読者もいるのでしょう。
 「年間350万円使った親もいるという小学校お受験の舞台裏」などは、経験した読者もいるのかもしれません。
 「ひとり親の生活保護家庭などの中学生を対象にした勉強会」など、「格差を縮める草の根の取り組み」も一部には紹介され、「格差を生み出すのが教育だとすれば、格差を埋めるのも教育だ。そして、教育や社会保障を誰もが利用できることこそが、子どもたちの未来を希望に導くのである。」と結んでいるものの、片隅の記事で見逃される可能性のある扱いになっています。
 パンク状態の児童相談所や特別支援学校、急増する虐待相談、過酷さを増す生活保護家庭への就労指導、蚊帳の外の日系人教育、授業料滞納問題、学童保育などについては、一定量の取材が行われており、各自治体の議員や国会議員が法案づくりに参考にしてほしい内容になっています。
 読めば読むほど、教育や福祉に十分なお金はかけられていないものだと実感しますが、同時に、お金をかけ出すときりがないなとも思ってしまいます。
 以前に、文部科学省の機能の大部分と厚生労働省の機能の一部、その他を含めて教育省をつくり、「子ども」の明るい未来を保障する機能を!と主張したことがありますが、もっと大胆な方策というのはないのでしょうか。
 「子どもをめぐる悲惨な状況」は、あまり子どもの目に触れさせたくない記事ですが、今後、新聞も取り上げないくらい日常茶飯事の事件・事故が頻発するような時代にはなってほくしないものです。

教科等の再編に向けて ふり返り366日【08/5/11】

 中教審第一次答申(平成8年)が出されてからかなり時間が経過していますが,「早急に検討に着手する必要がある」とされながらも,あまり進んでいないのが「教科の再編・統合を含めた将来の教科等の構成の在り方」です。
 答申には,以下のような文言が見られます。
 
 

学校の教科等の構成の在り方については、学校教育に対する新たな社会的要請、学校教育を取り巻く環境の変化、教育課程に関する最新の学問成果等を勘案し、不断に見直していく必要があるが、この問題は、理論的な検討とともに学校現場での研究実践の積み重ねを行うほか、教員養成等、教科等の見直しに伴う種々の条件整備も考慮した総合的な検討を要する問題である。
このような考えの下に、教科の再編・統合を含めた将来の教科等の構成の在り方について、早急に検討に着手する必要がある。

 私立の学校のように,実技系の科目の時数を思いっきり削って,英語を公立の倍くらい学習させるとか,どこかに重点を置くような措置は行われてきていますが,まだ本格的な「教科等の再編」は議論にもなっていません。

 たとえば,かなり現実味が出てきているものとしては,道徳と教科を統合したようなもの。

 社会科を,道徳や総合的な学習の時間と含めた教科として,高校の公民科と地歴科のように,地理と歴史はそこから独立させる,つまり,社会科の時間と,地理や歴史の時間は別物とする・・・など。

 中学校で言えば,技術・家庭科は,社会科に編入できる部分と,小学校の図画工作のように美術科に編入できるものに解体する(中学校も図画工作でもよい)。コンピュータリテラシーを学ぶ情報科は総合的な学習の時間に学ぶ。

 答申にあるように,教員養成や免許法の改正などがからみますから,そう簡単に実現できるものではないかもしれません。

 発想としては,個々の教科で何を削っていくかというより,教科相互に何が一緒に学べるか,組み合わせて学ぶと学習効果が高そうな題材は何か,などを,総合的な学習の時間の実施成果も踏まえて行っていくのがいいと思います。

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08/5/11 社会科で育てる理性と感性

 「ニュートラルな立ち位置にあること」が自覚できることは教師のコンピテンシーの中で「自己統制力」に入るものかもしれません。
 人間は、ある固定観念に重心をかけると、それに都合のよい情報だけ目に入ってきたり、自分の都合に合うようにその情報を解釈してしまったりします。
 禅など宗教の教えをひくまでもなく、「見えなくなっている自分」への自覚を失うと、人は説得力も失い、いずれは無視か闘争を引き起こすことになります。
 ディベートは、そういう人間のいやらしさを真から実感するために非常に有効的な活動です。
 人間に対する評価、その政策にかかわる評価に対する主張は、ディベートのように賛成か反対か、白か黒か、イエスかノーか、ゴーかバックか、どちらかでないと意味がないような風潮は、単一の答えを求めるのが学習であるという勘違いによって、より強化されています。
 センター試験や私立大学の入試問題はほぼ100%この形式でしょう。
 話は変わりますが、ある俳優がインタビューで、「今、人々は頭が良くなりすぎている。頭で理解して行動する。しかし、心で感じるものをもっと大切にしてもよいのではないか。何を考えるかではなく、何を感じるかをもっと追究すべきではないか」という趣旨のことを述べていました。

 なるほどと思う一方で、感性こそ手に負えないものはないとも感じさせられます。
 社会科の歴史的分野では、多くの時間を「戦争」「争乱」「政治の失敗」にさくことになっていますが、今のカリキュラムでは、子どもたちに「何を感じさせていくのか」という問題への配慮は特にありません。
 それは、授業・教材レベルでの話=教師の力量の問題になってきます。

 「不当な支配への反抗・反発・嫌悪」を中核として授業を構成することもできますし、「権力と戦う人への愛情」を育てることもできるでしょう。
 しかし、「あなたには何ができるのか」を問わない社会科では、「(国際)社会の中で主体的に生きる資質や能力」は育ちません。
 戦略だけでなく、思考や情報の分野でも考えるべき課題になります。

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子どもを直撃する教師の「評価観」の隔たり

[高校受験] ブログ村キーワード

 評価の問題について,「学校教育を考える」というブログにおかしな主張が紹介されていたのですが,私のコメントが書込み禁止になっているので,こちらでその問題点をご紹介しようと思います。

 受験生がいらっしゃる保護者の方にも,学校が作成する「指導要録」というものの存在をよく理解していただきたいと思います。

 上記のブログでは,

>目標なり規準なりが設定されていない事柄については,評価できない
>児童生徒は,教師が予め予期した範囲でのパフォーマンスを求められており,
>その範囲を超えてしまった場合は,たとえそれが優れたものであっても,評価対象とはならない

>教育目標などを離れて一人の人間として児童生徒を見る場合,児童生徒の思いがけない「よさ」を認めることになる。むろん,これは評価とは普通呼ばない。

という「評価の問題」が紹介されているのですが,この記事の内容について,「理想は常識人」さんが以下のように批判していました。
 
 

「指導要録」を作成したことがある教師なら、「総合所見及び指導上参考となる諸事項」として、生徒の成長の状況を総合的にとらえ、以下のような事項などを記入した経験があるはずです(中学校を場合を例に)。

○各教科や総合的な学習の時間の学習に関する所見
○特別活動に関する事実及び所見
○行動に関する所見
○進路指導に関する事項
○生徒の特徴・特技,学校内外における奉仕活動,表彰を受けた行為や活動,知能,学力等について標準化された検査の結果など指導上参考となる諸事項
○生徒の成長の状況にかかわる総合的な所見

 これらの記入に際しては、生徒の優れている点や長所、進歩の状況などを取り上げることが基本となるよう留意することが望まれています。
 したがって、記事中の「目標なり規準なりが設定されていない事柄については,評価できない」「児童生徒は,教師が予め予期した範囲でのパフォーマンスを求められており,その範囲を超えてしまった場合は,たとえそれが優れたものであっても,評価対象とはならない」という話は、虚偽の内容です。

 この批判に対して,

>あなたのコメントがとりもなおさず私のエントリーの内容の妥当性を証明してくれました。

>あなたが,「虚偽の内容」という「評価」を下すのは,あなたがそのようにしか受取ることのできない「評価」の軸,すなわち規準をもっているからに他なりません。

と反論していますが,それは「評価」の軸や規準がちがうという話ではなくて,「指導要録で評価できる」という事実を示しているだけですから,的外れな反論なのです。

>指導要録について丁寧にご説明くださっておられますが,指導要録の総合所見は,自由記述ではありますが,そこに書くべき内容は,自ずから限定されており,子どもの人となりをすべてそこに書き記すわけではありません。

 「指導要録でも評価できない」ことにしたいためか,苦し紛れの言い訳をしていますが,「評価の内容を限定するかどうかは評価者次第」なわけで,結局,この記事を作成した本人は,指導要録に子どもの「よさ」を書いたことがないことを証明してしまったかっこうになりました。

 私がこのブログで問題にしていることの一つに,このような教師に進路指導を受けた子どもと,子どものよさを最大限みとっていき,内申書等でどんどん記述していく教師に指導を受けた子どもとの間で生じる格差の問題なのです。
 そのような指導力格差をなくすために,「評価は全部なくそう」という話になることはありえないことは,言うまでもないでしょう。

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指導要録のことを知らない?教育関係者たち

 学校の教師をしたことがない人は,子どもたちが常に数字で測定できる評価ばかりされていると勘違いしているところがあるようです。

 入試などでは,そのような数値が重視されていることは何となくわかるでしょうが,実は「自己PRカード」の内容など,子どもの学習や行動の成果・進学に対する考え方などが(高校側が数値化して)入試の材料にされているようなところがたとえば都立高校にはありました。

 都立高校の先生からよく耳にしたのですが,子どもの自己PRカードを読むと,指導されているのがよくわかるものと,全く指導が入っていないものがあって,指導されていない子どもは気の毒だと・・・。

 これは,本人が書けばよいことになっているのですが,本人が自覚していない長所だとか忘れてしまっている学校での活動とかを,しっかり文字にして残しているのは担任の教師なので,普通は担任の教師が目を通してあげるのが常識です。

 その指導で,「もっとこういうことをPRしたら」とアドバイスしてあげることは可能なのに,それをしないのは「不親切」でしょう。

 そのような内容は,担任の教師は毎年「指導要録」に記入して,学校に保管しているのです。

 ですから,赴任してきたばかりで中3の担任になったとしても,その記録があるので,「○○さんの1,2年生のころのことはわかりません」とは言えないわけです。
 (私が赴任したとき,まだ前の学年の指導要録が完成しておらず,驚いたことがあります)

 点数ばかりでなく,「もっと子どものをよさを認めてあげたい」という教師ほど,一生懸命具体的に書けるものが「指導要録」なのです。

 口先だけの教師は,そういう努力を怠ります。

 理由は,「書かされるのはいや」「めんどうくさい」というものでしょう。

 現場の経験や知識がないのに,教育評論家のような記事を書いている人,教育関係の記事に批判を書いている人は,どうしても批判のピントがずれてしまいます。
 
 現場の教師がそういう記事を書いてしまうと,ピントがずれた結果,「実は要するに手抜きがしたいのだな」ということがばれてしまいます。

 指導要録のあり方自体については,改善が図れる部分はかなりありそうです。

 できるだけ,透明で公正な評価の徹底を図ってほしいものです。

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国を愛さないことのメリット ふり返り366日【08/5/10-3】

 「国や郷土を愛する心」を育む教育は,それが「何のためか」がセットとして報道されていないために,学習指導要領を読まない教師たちが参加して「反対合唱」をしてしまいます。

 子どもなら,授業中におかしを食べて叱られたとき,「先生も職員室で食べているじゃない」というかわいらしい言い訳ができますが,教師にはそういう言い訳はできません。

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08/5/10 社会科教師の教育の成果

 なっつさんから以下のコメントをいただきました。ありがとうございます。
 

日本は競争社会の中で、勝ち上がるために弱者切り捨ての価値観を身につけていき、結果「人のため」という価値観がすごく下がっていますよね。人のために行動する気持ちが育てば、自然に、まわりの人のため、地域のため、国のため、という気持ちも育つと思います。いきなり「愛国心」とかって言い始めるから抵抗があるだけで。
 だって、官僚、政治家を見ても、愛国心があるように思えないもの。自分たちの保身ばかり考えて。そんな人達に「愛国心」と言われるから、反発が起きるだけだと思いました。

 国家=政府と見る立場からの「愛国心」の押しつけに対する反発は当然のことですね。
 しかし、愛国心=滅私奉公という連想をしてしまうのは、日本独特のかなり狭い歴史観に基づくもので、だからこそ社会科の目標では、「我が国の国土と歴史に対する理解と愛情」のように、「多面的・多角的な考察による理解」に基づく「愛情」を育てたり深めさせたりすることを目標にしているわけです。

 ただご存じのように、社会科の場合はほとんど一面的な歴史認識を子どもに植え付けようとする教師がいますから、そういう教師の思い通りに育った子どもたちは「国家・社会・政府」という文言自体によい印象を持てずに成長していきます。選挙権を行使しようとしない多くの若者に、「どのように成長してほしいのか」を問うことのない大人たちは、政治家が悪い、官僚が悪いという言葉で政治的無関心を片づけてしまいます

 有識者の立場としては、今のままでは「民主的、平和的な国家・社会の形成者」たる人間を育てることが難しいという認識があるので、「日本人としての自覚」を促す文言として訴えかけているわけです。

 なお、教育現場で教師が「愛国心」という生々しい表現を使うことはまずないでしょう。だいたい両極端の立場の人が相手を批判するためかそれに対して攻撃するために使っています

 学習指導要領に「愛情」という文言がある以上、「日本を忌避することになる国土と歴史に対する理解」をゼロにする必要はありませんが、そういう理解を促したら、せめて外国に誇れる日本のよさも理解させる必要があるわけです。それは、自由主義競争に勝っているという経済の面に限ったことでないのは当然のことです。
 安全な水を飲むことができない国の子どもたちは、日本の自然環境をどう思うでしょうか。
 銃によって家族の命が奪われた子どもたちは、日本のように武器携帯を禁止し、治安がよい国のことをどう思うでしょうか。

 一生かかっても遊びきれないほどの趣味や娯楽があふれている日本を、学校すら満足に通えない国の子どもたいはどう思うのでしょうか。
 人間と同じで、別に全面的に愛する必要はなく、「嫌いなところ」があってもかまわないわけです。
 歴史は解釈が修正されることはあるかもしれませんが、歴史的事実は修正されません。
 「国際貢献」や「国際協調」で日本が果たしてきた歴史的事実は何か。
 政府の果たした役割、個人が果たしてきた役割は何か。
 国際社会に生きる人としての自覚をもたせる教育をするのが、社会科教師の醍醐味です。

 日本の国土も、四季があって自然と親しむこともできますが、地震や火山、津波などによって安全が脅かされることもある。四季の楽しみ方、山や海、川での遊び、地震や火山への対策に尽力してきた人々の苦労や工夫などをよく理解して継承することで、自然と愛情に結びつくことをねらいとするのが社会科です。
 これもあくまで社会科教育の一面ではありますが。
 「競争社会」「弱者救済」「公共の精神」など、社会科教育で扱うべき多くの課題がありますが、道徳教育と重なり合う部分が多い題材というのは、よく問題とされますね。

反日教育の最大の効果

 どなたのオリジナルの主張だったか失念してしまいましたが,中国などで反日感情を育ててくれているおかげで,日本への中国人の流入がかなり抑えられている,そんな考え方もできることは意外に思えたことを覚えています。

 もし日本は「理想郷」なんて宣伝でもされようものなら,不法入国・滞在は今の何倍くらいにふくれあがるでしょうか。

 この問題には,日本人が自分の国に対して思うイメージが作用する面も大きいかもしれません。

 ・・・日本に外国人がどんどん流入してくることを防ぐために,「日本の国土や歴史に,伝統や文化を愛する人を育てる」のは反対,と考えている人はいないでしょうが・・・。

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やはり気になる光景二つ

 先日,部活の顧問会議である学校を訪問しました。

 昔の癖か,何気なく廊下ですれ違う先生方を観察してしまうのですが,

 廊下ですれ違っても,まったく目を合わそうとせず,会釈程度の挨拶には反応しない教師

 廊下ですれ違ったとき,挨拶にはこたえてくれるが,目や顔はこちらを向かない教師

が2人ずつくらいで,大体学校で気になる教師が2割をこえると様々な課題を抱えているか,少数の力に頼りきった生活指導をしているか,どちらかであるという経験則から,心配をしてしまいました。

 これが一つ目の気になる光景でした。

 基本的に,部外者が校内を歩いており,胸に「入校証」をつけていないことを確認したら,一応正面から顔を見ておくという習慣がほしいものです。

 挨拶ができるという当たり前のことは,一部の教師たちにはもっとハードルが高い話なのかもしれません。

 二つ目は,コンビニの前で,ゴミを散らかしながら買ったものを地べたに座って食べている父子の光景です。

 4月以降,教室内や廊下にしゃがんでいる生徒を見たことがない,という学校はどのくらいの比率なのでしょうか。

 新型インフルエンザ対策で,手洗いの励行など,衛生管理に力を入れる学校が増えていると思いますが,これを機会に,もう少し活動の範囲を広げていいのではないかと思われます。

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「歴女」が過去のものになる前に ふり返り366日【08/5/10-2】

 8割はつくりごとなのに,それがどうにもこんなにつまらないものなのか。

 これは「歴史は,現在と過去との対話である」と言ったE・H・カーの『歴史とは何か』(岩波新書)の巻頭にある言葉の趣旨です。

 「歴史のつまらなさ」の象徴が,歴史教科書でしょうか。

 入試に出題される用語や事項を網羅し,それを覚えやすくするための構成。

 おもしろくなるわけがありません。

 しかし,「つまらないもの」が,「役に立たない」わけではありません。

 読み物のたとえではないのですが,分厚い取扱説明書でも,役に立つ場合があるのです。

 歴史には,もともと多様な論じ方があります。

 歴史学そのものの光と影もあります。

 ものには両面があり,一見,役に立たないように思えることでも,別の角度から見ればとても「使える」ものだったりする・・・。

 歴史はその典型的なものの一つだと考えられます。

 歴史は,多面的・多角的なものの見方・考え方を習得する材料にあふれています。

 「歴女」の誕生を機会に,学校での歴史学習も一大転換=学習指導要領に準拠して実施することを目指してみたらいかがでしょうか。

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08/5/10 社会科教師の逆コンピテンシー その11 歴史と愛情が結びつかない教師

 第11回は、「戦略立案力(④戦略のB調整・統合力)」がテーマです。
 現行の学習指導要領に改訂されたとき、社会科の目標の文言に「愛情」が入ったことに対して、一部の教師たちが強硬に反発しました(改訂は、教育課程審議会の答申における社会科の改善の基本方針に沿って行った仕事であり、突然湧いて出た言葉ではないのですが)。

 小学校では、「我が国の国土と歴史に対する理解と愛情を育て」ること、中学校では、「我が国の国土と歴史に対する理解と愛情を深め」ることが目標の一部となっています。
 このように部分だけ取り上げ、視野を狭くすると問題に感じる人も多くなるのでしょうが、国への愛情を育てたり深めたりすることは、それが究極目標ではなく、「公民的資質の基礎を養う」ために指導することの一つのであるわけです。

 「公民」とは、「国際社会に生きる民主的、平和的な国家・社会の形成者」となる人間のことです。
 「別に日本国民であることを意識させなくても、国際社会に生きる人間としての基礎は養えるのではないか」という批判も想定できますが、子どもの場合は、「日本の国家公務員はみんな外国人でもかまわないか」という議論をさせると、ようやく「国民」や「国益」、「主権」などという言葉の意味がわかってくるようです。

 「国家」には国民を統治し義務を課す機関であるという捉え方と、国民の生命・安全と財産を守る機関という捉え方があるように、「国民」にも、国家への献身を義務づけられる人々という意味と、国家の主権を担う人々という意味があります。

 社会科教師は、さまざまな教材を通してこの両面をバランスよく子どもに認識させ、単なる「社会」ではなく、「国家・社会」の形成者になる資質の基礎を養ってあげる必要があります。

 しかし問題は、マスコミから流される情報が、商業的な理由もあって「義務(負担)を課せられている国民」「義務を課している国家」「責任をとるべき国家」という面を中心に情報を構成し、「義務を果たす(責任をもつ)べき国民」像を提供しようとしないことにあります。
 社会科教師の中には、そのマスコミの仕事を増幅・強化させるような指導に終始する人もいるので、教育政策ではバランスを保つ意味でも、「義務を果たす(責任をもつ)べき国民」像に重点を置かせようとすることは理解できます。
 ところが、結果としてはそれが逆効果になっており、ますます「反国家」指向の教育を導きやすくなっている。

 たとえばそういう教師が最も力を入れる授業が、戦争の歴史でしょう。
 国家と聞くとなぜかすぐに軍国主義を思い浮かべる教師がいます。

 そういう世代の教師が間もなく現場からいなくなることに一部の人たちは危機感を抱いているようですが、そういうタイプの教師の授業を参観すると、子どもの反応は「またか」「またあの酷いビデオを見せられるのか」などと冷ややかなものです。
 どういう感想を書けば教師が喜ぶかよくわかっているので、教師の「個性」に生徒全体が染まっていく不思議な空間ができあがります。

 「ねらいが理解されていない」点など、危機感はもう少し別のところに持つべきなのですが。
 戦略立案力の欠如は、行政レベルでもそうなのですが、教師としてもよく考えていきたいところです。
 「戦争を忌避する」ことと「平和を愛する」ことはイコールのようで、子どもの感じ方のニュアンスは異なってきますし、それを達成するためのレベルが違いすぎます。
 しかし、「我が国の歴史」に「愛情」という言葉がつながってこない世代の教師にはなかなか指導の改善を促すことが難しい。
 こういう例を挙げるとすぐに「あの教科書を支持しているのか」と言われそうですが、あくまでも「多面的・多角的に考察」するという目標をふまえての考えです。
 中国における日本軍の虐殺行為を取り上げる一方で、ソ連軍による中国東北部などでの「火事場泥棒的」侵略・虐殺行為を取り上げることは、戦争というものの実態をより鮮やかに示す指導なのでしょうが、「戦勝国」の「戦争犯罪」にふれない教師も多い。
 免許更新の試験でこんな時代の歴史観を問う問題などは出題されないでしょうが、もし口頭試問でそんな問題が出されたら、試験官と教員の間でどんなバトルが始まるか目に浮かぶようです。
試験問題】 現行の学習指導要領では、第二次世界大戦を扱うときに、何を理解させることを目標としているか、述べなさい。

【重要提言】学力格差縮小のための評価制度設計

 「具体的で詳細な評価規準を明示してしまうと,そのことだけにとらわれて学習してしまう問題が出てくる」ということが言われます。

 最小限の学習時間で,最大限の効果を上げる効率的」な学習を進めたい人間には,評価規準(いわゆるノリジュン)があるのは助かるのです。
 さらに,どの程度できればAなのかBなのか,という「評価基準」(いわゆるモトジュン)がわかっていれば,「必要以上の努力」をしなくてよくなるので,Aになったと判断した時点で学習をやめてしまうことができるのです。

 自分の評価を上げたい生徒・・・評価が志望校に合格するための重要な資料になるとするならば,その願いを「筋が違う」ということはできません。

 しかし,「自分だけでしっかり自分のためだけに勉強して,試験でいい点をよればよい」という考え方を放置することができないのも確かです。

 そこで,習得と活用・探究を組み合わせた5段階評価にすれば,どんなにペーパーテストで高得点をとっていても(習得面では十分満足でも),それを活用・探究する場面がなければ「3にしかならない」形をつくることができることをお示ししました。

 学習の評価を「自ら学び自ら考える」生徒の育成から,「平和で民主的な国家・社会の形成者」の基礎を育てようとするより大きな目標の達成に役立つように改善していく,そういう発想が必要です。

 習得した知識・技能の活用については,「だれのために活用するのか」という視点を導入するのです。

 現在の想定では,自分の言葉で説明するとか,自分なりの解釈を加えて論述するとか,個人の能力を高めることばかりに注意が向かっていますが,「説明」や「論述」も「だれのためにするのか」という発想で考えれば,人のため,社会のため,・・・身近なところでは「同じ学習集団に所属する生徒のため,特に習得の部分が十分でない生徒のため」であると考えることもできます。

 生徒が「自分の言葉で表現する」ことの価値は,ただその生徒の中でしっかりと噛み砕かれた理解を確認できるという利点だけでなく,教科書の文章や教師の話という「大人の言語」では分からなかったことが,同じ年代の子どもの言葉でなら分かるようになるかもしれないという可能性を含むものです。

 習得が十分満足に進んだ生徒が,それが十分に進んでいない生徒に自分の知識や技能を使って習得に近づけていくような学習のイメージは,今までも様々なところで論じられてきています。
 
 自分の活用力も向上し,他の生徒の習得度も向上すれば,一挙両得です。

 かつての相対評価のように,だれかの成績が上がればだれかの成績が下がるという,ゼロサムではもちろんだめですが,絶対評価という制度も指導や規準,基準のぶれによって公正なものが作りにくいという最大の欠陥がありました。

 今後は,習得が進んだ生徒が,不十分である生徒に対して自分の成果を披露し,両者の能力・評価結果が向上していくというプラスサムな関係が学校で展開されていくことを望んでいます。
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「体育教師」に対する疑念

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 京都教育大の「体育教師の卵」の一件があったので,「体育教師」に対するイメージについて考えるために,YAHOO!検索で調べてみると,二番目に以下のような質問とそれに対する回答のページが掲載されていました。
 質問の一部を改変して引用すると,以下の通りです。

1.高校の体育教師が他の教科担当の先生に比べて同じレベルの存在には到底思えないのですが、こう思っているのは私だけでしょうか? (体育教師が教頭ましてや校長になったなんて聞いたことがない,大学も知識も格下である)

2.実際の学校生活では体育教師は他のどの先生よりも威張っている気がします。これはなぜなのか。

3.教官室があるなど,特別扱いされる意味がわかりません。他の教科の先生とは共存できないからわざと隔離しているのですか?血の気の多い彼らと、できるだけ接したくないからですか?

 よく頭の中も筋肉でできていると呼ばれる(自称したりもする)体育教師ですが,他の教科と比べて,生徒に対して強い態度を取ることが,経験上もやりやすい立場であることは確かだと思われます。

 私の認識では,体育教師のほとんどは専門にしているスポーツがあり,大学時代は競技者としてそれなりのレベルで活躍しているのが普通です。いわゆる体育会に所属し,厳しい先輩ー後輩の関係で育てられ,育ててきた経験とそれに培われた力量が,学校という教育の現場で生かされる部分は非常に大きいわけです。

 以前にも,「大学時代に人を叱った経験がある人はどのくらいいるのか」という記事を書いたことがありましたが,体育会というところは叱られる経験,叱る経験をしやすく,「責任感」というものを実感をもって理解しやすい環境であるわけです。

 このような力量を買われて,現場の教師になったら,部活動の指導はもちろん,生活指導にも大車輪の活躍を期待されるのが体育教師です。

 2の質問が生まれるような背景,そのように見えてしまう事情は理解しやすいでしょう。

 体育の教育実習生を見ていていつも笑ってしまうのですが,体育会の世界では「大学4年生=天皇」なので,いつも必ず「肩で風を切る」ような歩き方をする学生が必ずいます。

 さて,問題は,1と3の質問に関連する体育教師の力量の問題です。

 結論から言うと他の教科の教師と全く同じで,その力量には非常に大きな個人差があります。

 出身大学名だけでだいたいその個性や力量が分かるといったものがあるかもしれませんが,基本的に「力量はバラバラ」です。
 
 管理職試験のことで言えば,義務教育の話ですが,私の所属していた自治体には,体育の管理職がたくさんいました

 生活指導を核として,体育教師が学校の核になる可能性が小中学校では高いのです。

 もちろんその実績だけで管理職にはなれませんから,法令の知識や目指す学校像などがしっかりしていて,一般教養だけでなく経営管理についての資質・能力も問題ないと判断されて,副校長・校長に昇任しているわけです。

 数学や社会科という教科についても,それそれの教科の教師より専門性が高いとか,そういうレベルにはないでしょうが,体育には体育の理論や実践研究がしっかり構築されているわけで,そういう勉強・研修をしっかりしている教師たちには,他教科の教師も敬意をもって接しています。

 ただ逆に,例えば高校や大学といったところの体育教師になると,自分が手を抜こうと思えばいくらでも抜ける,それが他教科よりも,よりやりやすい,そういう職場環境になるのは確かでしょう。

 教官室があれば,真昼からこっそりビールを飲んで休むこともできるわけです。

 競技についての指導も,クラスの中にその競技を専門にしている部の生徒がいれば,その生徒を中心に授業を展開することも可能になります。

 私が荒れた学校に赴任したとき,異動した体育の教師は,50分授業のうち半分くらいは体育の準備室でごろごろしていて,子どもが遊びつかれたときに校庭や体育館に向かう,という人がいたそうです。

 サッカーとかバスケットボールとかいってもただゲームをするばかりで,傍目には休み時間とほとんど変わらない(変わるのは体操着に着替えていることだけの)光景だったとか。

 生徒の目から見て,いわゆる「実技教科」を教える教師たちが,受験と関係ない教科の教師というくくりで,甘くというか低く見られる傾向は,高校などでは強いかもしれません。

 中学校では実技教科の内申点が入試がない分,5教科より高く設定される傾向が,このような見方から救っているという面もなくはないでしょう。

 大学入学時点の学力云々と言い出すときりがないでしょう。

 体育教師が,「勉強が苦手だった」という身の上話を子どもに聞かせるのもいいのですが,データを重視したり,物理学や生理学,工学など,学問の成果を取り入れたりそのような視点から追究するような体育なりの「勉強のおもしろさ」を伝えてくれることが,おかしな固定観念から解放されるきっかけになるものだと考えています。 

 「あの人は,体育だから・・・」と体育教師を特別視しようとする,現場の差別的ムードは簡単に子どもに伝わります。他教科の教師にとっても配慮すべきことがらです。

2世批判の背景にあるものは・・・

 歌舞伎など伝統芸能の世界の話とは次元が異なりますが,芸能人政治家教師地方公務員・・・「2世」「3世」の登場やその仕方の問題について興味本位の報道,批判的なムードを隠した報道,批判そのものの報道などが繰り返されています。

 このような報道に注目が集まることには,社会全体に広まっている「子どもの就職への不安」も背景にあるのだと考えられます。

 私がよく知るのは教師の世界ですが,教師の子どもが教師を目指すケースは少なくありません

 しかし,なかなか教師になれないという話を多く耳にします。

 大分の件があるずっと前から,校長などを経験した教師の子どもがすんなり教師になってしまった後,その資質・能力の欠如が明らかになってしまうと,すぐに「疑念」が生じることになっていたでしょう。

 ただ,単なる「世襲=悪」という観念がない(というよりは,子どもが親の背中を育って育ち,親を尊敬して,親と同じような職業につくのを願うことに対しては,プラスの価値観の方が大きい)日本では,甘めの評価を「2世教師」にしてしまうことがあります。

 教職志望者が減っていることもあり,親が本当に現場で苦労して子どもたちを支えてきた教師の子どもなら,親の苦労をしりながら「よく教師を目指してくれた」と評価されることもあるでしょう。

 一方で,大学に進学しても,サークルとバイトと夜の遊びで生活の大部分が消化されてしまう子どもを見るにつけ,その将来に不安を抱えている教師の親ももちろん多いわけです。

 その不安が「一家にとって」ではなく,こういう大学生たちが・・・と「将来の日本にとって」の不安として認識されるようであれば,別に他人の2世がどうなろうと問題ないのかもしれませんが,自分の子どもがまさにどうなるかわからない親にとって,「ぬくぬくと2世が職につく」ことは生理的に許されないことなのでしょう。

 いずれにせよ,子どもは親の背中を見て育っているわけです。

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いよいよ始まる「評価」の見直し

 文科省による「子どもの評価」の見直しが,いよいよ始まろうとしています。

 HPには来週月曜日に「教育課程部会 児童生徒の学習評価の在り方に関するワーキンググループ(第1回)」が開催されることが示されていました。

 論点は,いまだに定着していない「観点別学習状況の評価」を見直すこと,

 習得ー活用ー探究モデルが新学習指導要領に示され,言語活動の充実が求められたことで,「観点別学習状況の評価」で対応できない「一体的・総合的な活動」をどう評価するか,考えること。

 さしあたって,上記2点が中心課題です。

 もし観点別学習状況の評価を存続させるとしたら,はっきりと「これは学習過程における形成的評価として活用すること」を明言すべきです。

 そして,総括の評価は,たとえばレポート,たとえば定期考査の結果などから,「一体的・総合的に判断」するべきです。

 総括の評価の観点は,以前にも述べたように,「習得レベル」と「活用・探究レベル」の2つに分けるだけで十分です。

 評定の基準は以下の通りです。

 習得が十分でかつ活用・探究も十分満足・・・5
 習得が十分で活用・探究はおおむね満足・・・4
 習得が十分だが活用・探究は満足できない・・・3
 習得はおおむね満足で,活用・探究もおおむね満足・・・3
 習得はおおむね満足だが,活用・探究は満足できない・・・2
 習得すら満足できない(活用・探究が満足できないのは当然)・・・1

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京都教育大事件と茨木市教育委員会がつながるとは・・・

 マスコミによる徹底した「教育」関連叩きでは,思いもよらない情報が提供されるものです。

 まさか,事件関係者(容疑者)の父親の職業(だけでなく立場も)が明らかにされるとは・・・。

 そして,不正ではないのかもしれませんが,大分をイメージさせることを教育委員会の事務方が自分の子どもに対してやっていたこととは・・・。

 停学の理由も知っていながら,採用してあたらせていた仕事がよりにもよって学童保育の臨時指導員とは・・・。

 「京都教育大 茨木市教育委員会」による検索で記事を読むことができます。

 昔,議員の口聞きで区域外の学校にどんどん指定校変更を出していた教育委員会に不信感をもっていました(現在は選択自由化でその心配もなくなりました)が,「コネがすべて」といういやらしさ丸出しの組織はどうしたら変革できるのでしょうか。

 「変革嫌い」の人たちでも,この変革にはいい方法が見つかれば賛成していただけるのでしょうが・・・。

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受験本位モデルVS習得ー活用ー探究モデル ふり返り366日【08/5/10】

 習得ー活用ー探究モデルが提起される前から,子どもや保護者による「受験本位のモデル」は厳然と存在していました。

 テスト・入試で問われるような知識・技能を習得→テスト・入試の場で活用→全く別のことを探究

 未履修問題にしろ,中学生,高校生の授業の受け方にしろ,受験のための「効率」を重視した戦略を実行する子どもが多くなります。

 塾の教師は子どもや親が採用しているこの「受験本位モデル」に合わせて仕事をすればいいのに対して,学校の教師は,この「受験本位モデル」を覆すような授業をしなければならないわけです。

 なぜなら,教師が目指している「目標」が子どもや保護者のそれと異なっているからです。

 子どもに,「この能力はテストでは測定できないだろうな」「自分のこの能力を教師にわかってほしいな」という実感をもたせ,「では授業やレポートで力を発揮しよう(評価してもらおう)」と思わせることができるかどうか。

 ここでいう「評価」は,点数化のことではなくて,「優れた能力があってすばらしいな・・・他の子どもにも同じような力を付けさせてあげるにはどうしたらいいだろう」と思うことです。

 受験対応なら覚えさせるか理解させればそれでOKですが,学習指導要領に示された目標を達成するためには,生徒をよく理解し,教材研究をし,発問をしっかり練ったり,子どもの活用場面の段取りを考えたりと授業の組み立てをととのえ,実践する・・・そして評価に基づいて不十分な過程を見直していく・・・そういう取り組みが必要になります。

 「教材研究をする」とあっさり書きましたが,これにかかる労力は尋常なものではありません。

 「この本(資料)を一斉に読ませればいい」という単純な話ではありません。

 ほとんどの教師が行き詰るか不十分なのが「教材研究」で,それができずしびれをきらすと楽な「受験本位型指導」を行ってしまうのです。

 受験本位型指導を貫徹している学校では,受験科目ではない教科等でたとえ眠っていたり,他の教科の学習をやっていたとしても,決して注意してはいけないことなども徹底されているのでしょう・・・。

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08/5/10 社会科教師の逆コンピテンシー その10 登頂ルートが見つけられない教師

 第10~12回は、「④戦略」の分野になります。
 教育の分野では、「戦略」は「教育方法」に近い概念でしょうか(「教育原理」などもう少し広い面がカバーできる概念のような気もします)。
 この分野では、「生徒に指導のねらいや意図を理解させることができず、目標を自覚して学習させることができない」という教師の逆コンピテンシーが課題です。

 今回のテーマは、「戦略遂行力(④戦略のA実行力)」です。
 たとえば中学生の問題行動に対して指導を行うのに、導くべきゴールへのルートを想定せずに、叱責だけに終始してしまう指導がかつては多く見られたと思います。

 なぜ「かつては」かというと、今の子どもはすぐに逆ギレして、そういう指導は成立しなくなったからです。逆ギレするのは子どもだけではありません。

 「叱り方が気に入らない」という苦情も学校には多く寄せられます(相手が名乗らない場合は、管理職が対応して終わり。対象の教師に話をもっていかないケースも多い)。

 「その子によくなってほしい」という強い意思、熱い思いが「強い指導」で教師から生徒に伝わるという時代は終わりました。

 生活指導では「自己肯定感」「自己効力感」「成功体験による満足感」を味わわせることが重要であると言われますが、問題行動への指導でも、日常の授業における学習指導でも、その実現に向けての戦略的指導が欠かせません。

 改めて、1時間1時間の授業に、「導入」「展開」「まとめ」の次元を設定して、上記の3点セットを実感させてあげる50分にしてあげたいものです。
 生活指導にも、「導入」「展開」「まとめ」があり、それは1時間のお説教でも、1学期間の活動でも、3年間の活動でも、きちんと設定してあげるべきでしょう。
試験問題】 あなたの授業で、子どもに味わわせることができた最高の成功体験とそのときの教材について述べなさい。その体験によって、社会科という教科指導におけるどのような目標が達成されたか、説明しなさい。

新型インフルエンザと管理職の「恐怖心」

 大きな事件・事故が校内で起こったとき,管理職はマスコミの前で「謝罪のかたち」をきちんと示すことが求められます。

 その「かたち」がきちんとしていないと,マスコミだけでなく,個人のブログをはじめ様々な媒体で徹底的に叩かれます。

 いかにもマスコミ受けするような演技派の管理職よりも,「どうしえていいかわからない」といった印象が伝わってくる管理職の方が,「本物」っぽく見えてしまうのはこわいものです。

 京都教育大のような問題のケースですが,テレビは,あまりにも型どおりの「」にこだわる一方,「不適切な対応」が出れば視聴率が確実に高まる「ネタ」になるせいか,それを願って待っているような,あるいはわざと失言を引き出そうとするような取材時の様子を見るにつけ,「えげつないな」と感じさせられます。

 「わざとらしく,オーバーアクションで,正義に燃えているふりをしている」テレビよりも,ネット上で自分の憤りを表現する人の方がよほど信頼できるような状況にもなりつつあります。

 ただ,情報ソースが不明確だったり,捏造されている可能性もありますから,鵜呑みにできない情報であることは確かです。テレビもやらせが常識だと思ってしまえば,「引き算でとらえる」というセオリーが確立します。

 マスコミ対応と言えば,現在は,「新型インフルエンザの患者がうちの学校からでたらどうしよう」とハラハラしている管理職が多いでしょう。特に複数の患者が発生した場合,衛生管理がどうとか,活動の場に目が行き届いていたのかとか,普段は各教師に任せっきりで管理職が見もしないところまで目を配る必要性を感じているのではないかと思います。

 そのあせりを紛らわすためか,やたらと新型インフルエンザ関係の情報を集めて発信している管理職もいます。

 ぜひ「たたかれること」に過剰反応せずに,問題解決への道筋を淡々と整備していくようなゆとりがほしいものです。

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教育の「技術」と「本気」 ふり返り366日【08/5/9-2】

 自分を忘れて人のため,子どものために・・・教育の「本気」度は,相手に簡単に伝わります。

 「本気」は,決して単なる「まじめさ」だけでは生まれません。

 「まじめにやってくれているのはわかるんだけど,気持ちがこもっていない」ように見える多くの人たちは損しています。

 この「本気」が相手に伝えられるかどうかというのも「資質」の問題でしょうか。

 ビジネスの世界でも,「説得力」がある人は成功し,ない人は成果が得られません。

 教育の場合は「説得」というより「指導」というのが一般的ですが,技術的には満足のいく水準でも,全く子どもが変わらない,動かない,というケースはよくあります。

 教育を「技術」としてとらえるレベルというのは,教師としてはせいぜい3年くらいで卒業してほしいと思います。

 「本気」になれる最大のコツは,常に手を抜かずにやるべきことに取り組み,やるべきことがどんどん増えていくのにもめげず,やれるところまでやる,そういう経験をすることでしょう。

 簡単に言ってしまえば,本当の苦労を知っている人が,「本気」になれて,それが相手に伝わるのでしょう。

 「技術でどうにかなる」という発想は危険なものであり,一度それで成功したか,成功したつもりになってしまっている人は,なかなか本物にはなれないで教師生活を終える結果になるでしょう。

 学生時代に,「いくつかの本で調べたり,ネットで検索したりすれば何とかなる」と思い,それを実践し,本当に何とかなってきてしまった人には,「授業づくり」の大変さも楽しさも,奥の深さも理解できないかもしれません。

 「本気」が伝わらない教師に教わった子どもは不幸なものです。

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08/5/9 無限の認識力への極意

十牛図ー8 人牛倶忘(にんぎゅうくぼう)
 十牛図の第八図は、完全な空白になりました。あるのは円だけです。
 牛だけでなく、牧人もいなくなり、その他のすべてが空白になりました。この空白とは何か。
 自分・事物・自然・宇宙などが「空」であること、「ゼロ」であることの認識は、小中学生には難しいことかもしれませんが、次のような言葉で訴えかけるものはあるかもしれません。
 「自分」が存在すれば、その「自分」が見聞する範囲にしか認識が及ばない。しかし、「自分」がまったく忘れられ、なくなったときは、すべての存在に認識が及ぶことになる。
 有名な和歌や俳句の中には、そのような境地をうたったものが多いことに気付かされます。

「覚えさせる」ことと「分からせる」こと ふり返り366日【08/5/9】

 「分からせる」ことではなく,「覚えさせる」ことが仕事だと勘違いしている教師がいます。

 「覚えさせる」のも,「覚え方」を分からせるのも簡単ですが,本当に「分からせる」のは簡単なことではありません。

 困難なことから逃げない大人の姿勢や本気さが,大切なことを子どもに「分からせる」ことになります。

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08/5/9 社会科教師の逆コンピテンシー その9 目標を超えられる教師と目標が理解できない教師

 第9回は、「成果創造力(③成果のC創造力)」がテーマです。
 教師も子どもも「創造」のレベルに達するには相当の土台が必要になります。
 このコンピテンシーは、学習指導要領で示された目標を達成しつつ、その枠にとらわれない新たな課題意識を子どもが持ち、主体的な学習を促す指導力のことです。
 現行の学習指導要領でいうと、地理的分野の学習については、目標を理解できないでいるためか、目標はわかっても指導の方法がわからないために、その内容について批判が出され、新学習指導要領ではまた大きく内容が変わることになりました。
 教師の指導力が目標の実現に追いつけないための改訂です。
 元小学校教師がTVで披露していた批判は専門家たちには笑いモノになっていましたが、多くの人たちは簡単にだまされたでしょう。
 「これでは子どもは外国のことを覚えられない

 「何を覚えさせたらいいのかわからない。」というレベルの指導力では、現行の改訂にいたった背景すら理解できないでしょう。
 「教科の専門性」という言葉がありますが、小学校は別として、中学校社会科もかなり危ういものがあるのが実態です。
 テストで何かを出題したとき、その出題のねらいを具体的に説明できるかどうかが専門性のレベルを判断する基準になります。「その7」の試験問題が参考になります。
試験問題】 小学校社会科と中学校社会科の目標に共通してみられる文言を挙げ、その目標を実現するために小中で共通して使える教材を一つ紹介しなさい。また、その教材を小学校で扱うときの留意点と、小学校で学んだことを踏まえて指導すべき中学校での重点について述べなさい。

「教育」の価値暴落を呼ぶ京都教育大の「教育的配慮」

[教育現場] ブログ村キーワード

 京都教育大の一件のおかげで,「教育的配慮」という言葉に対する怪しいイメージが定着してしまいました。

 子どもの中にも,「経営への配慮だろう」という見方が生まれているようです。
 そう読みかえてくれると教育現場の人間としては助かるのですが・・・。

 いずれにせよ,教員養成大学としてのイメージの悪化は計り知れないものがあるでしょう。
 今回のケースでは,はじめから警察に届け出て,公にしていても,マイナスイメージの大きさには変わりはないでしょうが・・・。

 荒れた学校では,問題行動を起こす生徒に対する「教育的配慮」のために,まじめに学びたい生徒たちにとって大切な教育環境が失われることがありました。

 「問題そのものを存在しなかったことにしたい」教師たちは,「教育的配慮」という名のもとで,問題を隠蔽するだけでなく,害を被る子どもたちを放置したがる傾向をもっています。

 いっそのこと「教育」という用語を「廃棄処分」にして,「教室」は「学習室」,「教員」も「学習指導員・生活指導員・進路指導員・部活指導員」などと呼び,「教育基本法」は「学習基本法」へ,「教育立国」から「学習立国」へ,・・・変えてみても,やはり要は携わる人間次第なのかもしれません。

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子ども集団がもつ潜在的教育力 ふり返り366日【08/5/8-2】

 昔,年中無休の問題行動を誇って?いた生徒がいました。

 否が応でも,教師の目を引いてしまいます。

 しかし,それがその生徒の「ねらい」だったりもするのです。

 近年,「落ち着いている学校」と言われるところの中に,このような生徒を完全に排除してしまうところが増えているのではないかと心配しています。

 いわゆる「面倒見のいい」教師が多い学校は,いつもだいたい荒れているのですが,それは年中無休の子どもにとっては「学校で荒れる=甘えることができる」恵まれた環境だからなのかもしれません。

 中学校くらいの年齢では,子どもが急激に「荒れ」に突入するのは,「両親の不和」に対する子どもなりの意思表示が可能になったタイミングであることが多いようです。

 こういうときは,教師が子どもに注意を呼びかけても,悪いのは両親だと思っていますから,目を覚まさせる指導をするには大きなリスクを伴います。

 三者面談を組んだりすると,いきなりの修羅場になる可能性もありますから,下手に原因を取り除こうとするのも難しい。

 また,日本では攻撃性が内向きになる性質をもっている人が多い(自殺が多いのがその証拠)のも,指導を躊躇させる原因の一つです。

 親に捨てられた子どもとか,虐待で苦しむ子どもの話を武器にしている教師もいますが,正攻法は「自由」や「自立」「自律」に関する教材で意識を変革させることでしょう。

 教師集団,大人集団よりも子ども集団が視界に入るようになれば,問題の解決にはあと一歩という状況になります。

 そういう意味で,最も高い潜在的教育力を持っているのは,子ども自身,子どもたちの集団であると断言することもできます。

 しかし,当然,その力を顕在化することができるのは教師の力量です。
 
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 ↑「学習失敗学から学習創造学へ」では,「知の筋力強化ー5 歴史を学ぶ意義」をUPしました。

08/5/8 連休明けの問題行動のパターン

 これは指導困難校(実質は教員の指導力不足校)での話ですが、連休明け後、いつも手を焼いている子どもたちの表情が、若干柔らかいものになっていると感じたことがあり、毎年この時期は子どもの表情をよく観察するようになりました。

 いつも問題行動を繰り返す子どもでも、連休後には、食事をしているときに見られる穏やかな表情と似た雰囲気があるのです。

 しかし、中には連休前より悪化している子どももいます。
 科学的な分析ではないのですが、表情が豊かになった子どもは、連休中に、普段あまり接することができない親の愛情にほんの少しでも接することができたのではないか。
 普段は会えない、離婚して親権を失った方の親に会えたりしているのではないか。
 しかし、連休中ですら人の愛情に触れられず、似たもの同士が群れになって慰め合っていたような子どもは、まわりの表情の変化に耐えられず、またその不満のはけ口を探す・・・・。

 怠そうな子ども、気の抜けたような子ども、動くのもめんどうくさくなっている子ども、生活のリズムが崩れて眠たそうな子どもなどは指導で変えることができますが、愛情不足を指導で補うことは非常に難しい。
 学校では、変に教師に甘えてくる子どもというのは家庭での赤信号を示していると言われるように、ほどよい突き放し方をしないと、自立できない人間を生んでしまいやすい
 子どもの変化に対応できず、学校を休み出す教師が増える時期でもあります。
 新学期が始まって1ヶ月足らずでやってくる大型連休前後の指導の切り替えというのは、案外重要なツボになっていると思われます。
 学校の組織力、成果統合力は、たとえば年間指導計画で、道徳や特別活動を通してこの時期に何をどう指導することになっているかで評価できるでしょう。

学校の指導に疑問が湧いたら ふり返り366日【08/5/8】

 小学校でだれだれという歴史上の人物をことを調べる活動をしたとして,どのようなことができるようになったら,「人物を調べる力がついた」と言えるのでしょう。
 
 また,具体的には,「人物調べ」というのは,その人物の何をどのように調べることで,何ができたら「目標達成」なのでしょうか。

 学校の教育活動の中には,「ねらい」がよくわからないまま行われていることがたくさんあります。

 子どもが授業で最も戸惑うのは,教師の質問の意味ばかりでなく,その「ねらい」がわからないときです。

 子どもの成長を願うタイプの教師なら,「何のためにそれを指導しているのか」を見直すだけで,そのねらいを達成するためには別の手段もあるのではないかと考えるようになります。

 ただ目の前のことを片付けているだけの教師なら,「去年と同じでいい」という発想でただ記憶に残っていることを繰り返しているだけで,指導の改善は期待できません。

 ねらいがわからないまま行われている教育活動は,その成果を評価することはできません。

 なぜなら,評価とは,ねらいとしていたことのどれだけが実現できたかを明らかにする活動だからです。

 「これは何とかしてほしい」と思った教育活動があった場合,「やめてください」とは言わずに,「このねらいは何ですか」と問うのが賢い方法です。

 それにまともに学校がこたえた場合,「では,この方法の方が適切ではないですか」と切り返すことが可能になるからです。

 目標ー指導ー評価の一体化を要望するのは,子どもや保護者にとって当然の権利です。

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08/5/8 評価以前の指導の問題

 評定の問題に関する批判記事を読んでいると、新聞記者もそれを批判している人も目標に準拠した評価のことが十分に理解できていないことがわかります。

 問題は、目標に準拠した評価をする以前に、目標そのものが理解されていないことと、その当然の結果として目標に準拠した指導が行われていないことなのですが、新聞記者が仮に教員免許を持っていても、そのことを理解している指導者に批判された経験がなければわからないことでしょう。

 中学校社会科で言えば、「多面的・多角的に考察」というのが教科の目標にあるわけですが、たとえば歴史の授業で、「源頼朝が鎌倉に幕府を開いた理由は何か」を考察させるときに、「防衛上の利点」だけを見て十分満足とするような指導の実態があります。
 それは軍事面から見た理由であって、「防ぎやすい地形の場所は他にいくらでもあるではないか」という問題に対応する準備ができていない教師もいます。
 子どもからそのような疑問を引き出すのが教師の仕事であって、これに限らずいかに一面的な社会の見方で授業で展開しているかは「テスト問題が簡単に予想できるかどうか」で容易に判断できます。

 評定に関する根本的な原因はいわゆる新学力観で登場した4つ(国語は5つ)の観点別の評価で、明らかに誤った評価方法が延々と続けられているところに、それらを合成して評定を出すという二重の失敗を重ねていることです。

 入学選抜はその影響をもろに受けているわけです。しかし、入試は評定の出し方が正しいという前提で初めて成立するものなので、学校側から「今までのは間違っていました」ということはできないのです。入試はやり直しがききません評価が正しかったことにしておかないといけない。「成績一覧表調査」などは、中学校側のインチキ防止と、一定の公平性の担保に実施しており、特異な学校が600分の1とか2という数字で見つかりますが全体としてやはり評価が甘いことは、入試得点で容易に想像できます。

 マスコミがこの問題に切り込もうとしたら、学校の評定とたとえば学力調査の間にいかに相関が成り立たないかとか、入試得点と評定との相関が弱いことを分析して証明すればよいのです。
 気をつけなければならないのは、入試問題が問うている学力が、4観点のうちの知識・理解に極端に偏っているということです。学校側は逆にそのことで逃げることもできます。
 ペーパーでは観点別で言うと非常に偏った学力しか見られない分、評定も換算して入試得点に合計するのが一般的ですが、上位校が評定点の割合を低くする傾向は、いかに評定があてにならないものかを物語っているわけです。
 評定の出し方、評価の方法の見直しは、「今までの苦労は何だったんだ」という現場の反発を買いますが、「改善されるなら歓迎する」と後には評価されることになるでしょう。
 今の教師たちが行っている評価は、指導が十分に満足できるものでない分、余計にたいへんなのです。

教師の「資質」が疑問視される事件ばかり・・・

 ほとんど毎週のように報道されている教師による犯罪だけではありません。

 たとえば京都教育大の学生が起こしたような問題は,「教師の資質」に対する国民の疑念を高めるものです。

 日本では個人の責任よりも,そういう問題を起こした集団の質を問うような傾向が強いですから,大学側が問題を公表しなかったことなども,「何のためであるか」非常にはっきりしています。

 「教師の卵」という言い方があるように,大学生のうちは,あるいは,教師として教壇に立つまでは,まだ教師としての「誕生」前なので,日本語の「資質」はしっくりくるものです。

 教員養成課程の中で,もともと持っているよいものを育てていくことができれば,「教師としての資質」に恵まれた教員が誕生させられる,そういうイメージです。

 多くの教師は,教育実習の期間に,「教師として生きていく夢」を膨らませることができたように,「優れた教師」を育てていくための機会は,直接子どもと接することができる場である必要があります。

 初任者という「0歳児」の教師も,「実績」がなく,まだ教師として信頼されることが難しい面があるので,まだそこでは「資質」を磨くという取り組みが可能です。 

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コメントを拒否する教師・批判を許さない学校

 私がコメントを拒否された教育ブログの中で,文月さんが間に立って相手の理解を得ようと努力されていたのをたまたま発見いたしました。
 
 そのブログは,「教育に関する失敗」の宝庫と言ってもよく,批判にどう答えるかが教師としての存在意義になるのに,論点が違うとか論旨と関わりがないという理由で回答を拒否し,都合が悪くなると口を閉ざすという「失敗」を重ねていたのがそれ以前の経緯でした。

 学校には,批判を「モンスター」扱いし,「正義の味方」「スーパーマン」でないと解決できないようなイメージを拡大することで,無責任と呼ばれるのを回避する傾向がありますが,パターンは全く同じです。

 ブログの中では「片手落ち」という不適切な表現を用いるなど,相手を批判する割には非常に脇が甘いのが特徴で,それだけ突っ込みどころが多い記事が目立っています。

 私自身が最も嫌う教師のイメージは,子どもに対する好き嫌いをはっきり面と向かって表すようなタイプで,気に入ったコメントが入れば「おっしゃるとおりです」と浮かれ,気に入らないコメントが入ると,表現の自由を制限するために「この件に関するコメントはお控えください」と返してくるセンスはとても不快なのですが,仮にこのような教師と同僚になったとしたら,まさか不快な表情をその教師に向けたまま仕事をするわけにはいきませんから,できるだけ問題を起こされないように根回しをしながら,付き合っていくしかないのでしょう。

 ところが,期待を込めて仲立ちになられようとした文月さんに,「某氏と手を取り合うつもりなど全くありません」という宣言をするのは,まるで闘争・対立している組合に入っている教師に向かって叫んでいるような態度です。

 教育現場には,このように立場・考え方・態度が全く異なる教師が共存しているからこそ生まれる「良さ」があるのですが,異なる立場・考え方を全く受け付けないような教師の存在は本当に厳しいものがあります。

 これは,「資質」の問題なのかもしれません。

 こういうタイプの教師たちは,「組織」としての学校の動きのために・・・と言われても,全くピンと来ない人が多いので,自然と共同作業を伴わない分掌の部署専属になってしまい,ますます「孤立化」を深める傾向にあるのです。

 ただ,学校は何とかその「資質」が役に立つ場面を必死に考えながら,全体として矛盾のないように動かしています。

 私は書き込みしたコメントが削除されても問題がないように大事なコメントは記事の中で紹介したり貼り付けたりしていますが,それらをまとめてみると,両者の言い分がはっきり見えてくるかもしれませんね。

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「英才教育」の中の当然のこと

 ドラマの影響か,今後ますます「脳の科学」に類する番組が増えてきそうです。

 昨日は英才教育に関する番組をやっていました。

 小さい子どもに,「ストップ」といったら動作をやめさせる習慣をつけることがポイントの一つになっていました。

 これは特別な子どもを育成するためではなく,学校でも指示を徹底したり基本的なことを理解させるために欠かせない指導の一つになっていますが,このような当たり前のことが指導上おろそかになっていないかどうか,そういうことの見直しが教師たちにも求められているのかもしれません。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より