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学校の指導に疑問が湧いたら ふり返り366日【08/5/8】

 小学校でだれだれという歴史上の人物をことを調べる活動をしたとして,どのようなことができるようになったら,「人物を調べる力がついた」と言えるのでしょう。
 
 また,具体的には,「人物調べ」というのは,その人物の何をどのように調べることで,何ができたら「目標達成」なのでしょうか。

 学校の教育活動の中には,「ねらい」がよくわからないまま行われていることがたくさんあります。

 子どもが授業で最も戸惑うのは,教師の質問の意味ばかりでなく,その「ねらい」がわからないときです。

 子どもの成長を願うタイプの教師なら,「何のためにそれを指導しているのか」を見直すだけで,そのねらいを達成するためには別の手段もあるのではないかと考えるようになります。

 ただ目の前のことを片付けているだけの教師なら,「去年と同じでいい」という発想でただ記憶に残っていることを繰り返しているだけで,指導の改善は期待できません。

 ねらいがわからないまま行われている教育活動は,その成果を評価することはできません。

 なぜなら,評価とは,ねらいとしていたことのどれだけが実現できたかを明らかにする活動だからです。

 「これは何とかしてほしい」と思った教育活動があった場合,「やめてください」とは言わずに,「このねらいは何ですか」と問うのが賢い方法です。

 それにまともに学校がこたえた場合,「では,この方法の方が適切ではないですか」と切り返すことが可能になるからです。

 目標ー指導ー評価の一体化を要望するのは,子どもや保護者にとって当然の権利です。

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08/5/8 評価以前の指導の問題

 評定の問題に関する批判記事を読んでいると、新聞記者もそれを批判している人も目標に準拠した評価のことが十分に理解できていないことがわかります。

 問題は、目標に準拠した評価をする以前に、目標そのものが理解されていないことと、その当然の結果として目標に準拠した指導が行われていないことなのですが、新聞記者が仮に教員免許を持っていても、そのことを理解している指導者に批判された経験がなければわからないことでしょう。

 中学校社会科で言えば、「多面的・多角的に考察」というのが教科の目標にあるわけですが、たとえば歴史の授業で、「源頼朝が鎌倉に幕府を開いた理由は何か」を考察させるときに、「防衛上の利点」だけを見て十分満足とするような指導の実態があります。
 それは軍事面から見た理由であって、「防ぎやすい地形の場所は他にいくらでもあるではないか」という問題に対応する準備ができていない教師もいます。
 子どもからそのような疑問を引き出すのが教師の仕事であって、これに限らずいかに一面的な社会の見方で授業で展開しているかは「テスト問題が簡単に予想できるかどうか」で容易に判断できます。

 評定に関する根本的な原因はいわゆる新学力観で登場した4つ(国語は5つ)の観点別の評価で、明らかに誤った評価方法が延々と続けられているところに、それらを合成して評定を出すという二重の失敗を重ねていることです。

 入学選抜はその影響をもろに受けているわけです。しかし、入試は評定の出し方が正しいという前提で初めて成立するものなので、学校側から「今までのは間違っていました」ということはできないのです。入試はやり直しがききません評価が正しかったことにしておかないといけない。「成績一覧表調査」などは、中学校側のインチキ防止と、一定の公平性の担保に実施しており、特異な学校が600分の1とか2という数字で見つかりますが全体としてやはり評価が甘いことは、入試得点で容易に想像できます。

 マスコミがこの問題に切り込もうとしたら、学校の評定とたとえば学力調査の間にいかに相関が成り立たないかとか、入試得点と評定との相関が弱いことを分析して証明すればよいのです。
 気をつけなければならないのは、入試問題が問うている学力が、4観点のうちの知識・理解に極端に偏っているということです。学校側は逆にそのことで逃げることもできます。
 ペーパーでは観点別で言うと非常に偏った学力しか見られない分、評定も換算して入試得点に合計するのが一般的ですが、上位校が評定点の割合を低くする傾向は、いかに評定があてにならないものかを物語っているわけです。
 評定の出し方、評価の方法の見直しは、「今までの苦労は何だったんだ」という現場の反発を買いますが、「改善されるなら歓迎する」と後には評価されることになるでしょう。
 今の教師たちが行っている評価は、指導が十分に満足できるものでない分、余計にたいへんなのです。

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» ネットを使う社会の宿題 [モニママの教育日記]
モニカの宿題で、 歴史上の人物について調べるというのが毎週のように出る。 でも、そんなことは、 小学生レベルの理解に合わせた形で、 学校教材である教科書と資料集に既に載っている。 これって、何の意味があるんだろう? というか、何が教育目標なんだろう?... [続きを読む]

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より