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子ども集団がもつ潜在的教育力 ふり返り366日【08/5/8-2】

 昔,年中無休の問題行動を誇って?いた生徒がいました。

 否が応でも,教師の目を引いてしまいます。

 しかし,それがその生徒の「ねらい」だったりもするのです。

 近年,「落ち着いている学校」と言われるところの中に,このような生徒を完全に排除してしまうところが増えているのではないかと心配しています。

 いわゆる「面倒見のいい」教師が多い学校は,いつもだいたい荒れているのですが,それは年中無休の子どもにとっては「学校で荒れる=甘えることができる」恵まれた環境だからなのかもしれません。

 中学校くらいの年齢では,子どもが急激に「荒れ」に突入するのは,「両親の不和」に対する子どもなりの意思表示が可能になったタイミングであることが多いようです。

 こういうときは,教師が子どもに注意を呼びかけても,悪いのは両親だと思っていますから,目を覚まさせる指導をするには大きなリスクを伴います。

 三者面談を組んだりすると,いきなりの修羅場になる可能性もありますから,下手に原因を取り除こうとするのも難しい。

 また,日本では攻撃性が内向きになる性質をもっている人が多い(自殺が多いのがその証拠)のも,指導を躊躇させる原因の一つです。

 親に捨てられた子どもとか,虐待で苦しむ子どもの話を武器にしている教師もいますが,正攻法は「自由」や「自立」「自律」に関する教材で意識を変革させることでしょう。

 教師集団,大人集団よりも子ども集団が視界に入るようになれば,問題の解決にはあと一歩という状況になります。

 そういう意味で,最も高い潜在的教育力を持っているのは,子ども自身,子どもたちの集団であると断言することもできます。

 しかし,当然,その力を顕在化することができるのは教師の力量です。
 
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08/5/8 連休明けの問題行動のパターン

 これは指導困難校(実質は教員の指導力不足校)での話ですが、連休明け後、いつも手を焼いている子どもたちの表情が、若干柔らかいものになっていると感じたことがあり、毎年この時期は子どもの表情をよく観察するようになりました。

 いつも問題行動を繰り返す子どもでも、連休後には、食事をしているときに見られる穏やかな表情と似た雰囲気があるのです。

 しかし、中には連休前より悪化している子どももいます。
 科学的な分析ではないのですが、表情が豊かになった子どもは、連休中に、普段あまり接することができない親の愛情にほんの少しでも接することができたのではないか。
 普段は会えない、離婚して親権を失った方の親に会えたりしているのではないか。
 しかし、連休中ですら人の愛情に触れられず、似たもの同士が群れになって慰め合っていたような子どもは、まわりの表情の変化に耐えられず、またその不満のはけ口を探す・・・・。

 怠そうな子ども、気の抜けたような子ども、動くのもめんどうくさくなっている子ども、生活のリズムが崩れて眠たそうな子どもなどは指導で変えることができますが、愛情不足を指導で補うことは非常に難しい。
 学校では、変に教師に甘えてくる子どもというのは家庭での赤信号を示していると言われるように、ほどよい突き放し方をしないと、自立できない人間を生んでしまいやすい
 子どもの変化に対応できず、学校を休み出す教師が増える時期でもあります。
 新学期が始まって1ヶ月足らずでやってくる大型連休前後の指導の切り替えというのは、案外重要なツボになっていると思われます。
 学校の組織力、成果統合力は、たとえば年間指導計画で、道徳や特別活動を通してこの時期に何をどう指導することになっているかで評価できるでしょう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より