巨人が優勝できない?のと公立学校がよくならないのは同じ理由? ふり返り366日【08/5/18-2】
原巨人が優勝できない理由・・・週刊新潮6月25日号に出ていた記事ですが,若手を積極的に起用する一方で不調の高額年俸者を使い続けるなど,チグハグ感のある原采配がその原因と思いきや,不調でも使ってもらえる,怪我で試合に出なくても高額の年俸が手に入る・・・そういう主力選手の「サボり癖」(記事からの引用です)が課題である・・・これを読んだ途端,なぜか私は教育現場が念頭に浮かんでしまいました・・・・。
特に公立学校は,条件付採用の1年をクリアすれば,(免許更新が導入するまでは)完全終身雇用でした。
安定性ということで言えば,野球選手の厳しさは比較になりませんが,「複数年契約」という安定性が成績低下・仕事の手抜きを招く・・・まあ,必死で練習している野球選手やフル回転の教師たちには失礼な話ですが,「そういう人も確かにいるな・・・」という実感は確かなものでしょう。
先日の埼玉の私立学校の件は,その教師がどの程度の力量であったのか,どのような授業をしていたのか,ということが一般の人にとっては「興味の的」になってしまっているのは確かなことでしょう。
教師という職業をしていて,一番ショックなのは,単純に自分の授業の批判をされることよりも,「○○先生よりもわかりにくい・つまらない」と他の教師と比較をされてしまうことでしょう。それが特に年配の教師が若い教師と比べて「劣る」と見なされてしまったときには・・・。
教師が授業公開を嫌がったり,そもそも授業に対する評価を嫌がるのはこういう目にあいたくない,そんな理由もあるのでしょう。
日常的に子どもの目にはさらされているのですが,「子どもの評価する目はない」ということにして,不安を紛らわせているだけに過ぎない現場は,少しずつ変わろうとしています。
ほとんどの教師にとって,給与にも何にもほとんど何の反映もされない「指導力格差」が,「子どものためを思って」よい教師の指導法に学んだり,研究・研修に励んだりする自主性によって解消されていくのが理想なのでしょうが,そういう意味で競い合うよきライバル,学ぶ目標・モデルとなる「同僚」が学校の小規模化によってどんどん少なく(特に教科担任制の中高では),限られた範囲になってしまっていることも,指導力が落ちてきている原因の一つかもしれません。
1校に1人しかその教科の専任がいない学校で,教科の指導力を向上させていくのは難しいことでしょう。
ここでもプロ野球と比べてしまいますが,有力選手(実力者,ベテラン教師)がベンチで観戦していられるような規模の学校は,若い選手(若い教師や指導力がまだついていない教師)を鍛える余裕がありますから,全体のチーム力が向上するのも当然です。
公立小中学校の「適正規模」というのは,子どもたちにとっての環境条件という見方のほかに,このような教師側の事情というのも今後はかなり考慮に入ってくるかもしれません。それは,教師側の事情とはいっても,教師の指導力は子どもの成長に直結してくる問題だからです。
08/5/18 自由競争の利点と競争禁止の欠点公教育における「競争原理」の導入が、さまざまな問題を引き起こすことは言うまでもありませんが、だからだめだという主張には説得力がないので、次のようなコメント(一部改変)をさせていただきました。
教師の質が高く、教育の成果に格差が生じていなければ、競争はいりません。
しかし、現実的には格差があり、不公平感を生んでいます。教育以外の公的な機関・・・病院、警察、役所でも、サービスの格差が問題になることがあります。
安い有機栽培の野菜を買える人がいるのに、自分が農薬づけの野菜を高額でも買わされたら当然不満でしょう。しかし、農薬づけの野菜を安ければ買うという人もいれば、高くても有機栽培の野菜を買う人もいます。自由競争の結果が、必ず勝ち負けに直結するとは限りません。
競争相手の長所にどうしても及ばないのであれば、別の能力=個性を伸ばすこと(これを学校では特色ある教育活動とよびます)で、信頼と評価を得られることが可能です。
もし競争が否定され、決められたことしかできない、新たなことをしようとしてもできない、ということになると、公立学校は「選択肢がないから義務として仕方なく通う学校」という存在になってしまいます。
子どもには「よりよい教育を受ける権利」が奪われ、公立学校に通う生徒と国立や私立に通う生徒との格差が広がっていく一方になってしまいます。
教育の成果や結果が数字で表れるものばかりではないことから、競争には、利己的な教師が子どもを荒廃させるのを食い止める効果もあります。「自分のことは後にして,子どものために尽くす」教師の実践が評価されるために、教育にも競争は必要なのではないでしょうか。
要は、目標を何におくかということです。
格差是正が可能な部分、必要な部分は何かということです。
何を評価するのかということが大切なのです。
競争を嫌うタイプの人は、相手が努力して結果を残すと自分も努力しなければならないのが嫌なのでしょうか。
学校によっては、学級だよりを出すことを禁止しているところもあるようですね。○組だけ出すと、親からは当然、なぜ□組はないんですかと言われ、自分も出さざるを得なくなってしまう。だから、「みんなそろって出さない」という選択肢をとる。
学校選択自由化が進んでいますが、これをやるとたとえば中学校では、部活動がさかんな学校への人気が高まる。特定の部活動を強くしたい教師が、やる気のある生徒が他に流れていくのに反発する気持ちはわかりますが、逆に考えれば、教育本来のやりがいが高くなる学校で仕事ができるようになるわけです。
公立学校の教師は、国立や私立学校の教師よりも、「学力を高める」という重要な仕事で成果が残しにくいのは十分に理解できますが、国立や私立学校の教師も決して楽をしているわけではありません。
教師の指導力の意欲・格差が現状以上に拡大しないよう、より高いモラールが必要な立場であり、士気を高めるリーダーが求められているのに、そのエネルギーが行政への反発という方向ばかりに注ぎ込まれてしまっている自治体があるようで、子どもが気の毒です。
« 地域から見た校長 | トップページ | 競争できないとの表明が信頼を生む ふり返り366日【08/5/18-3】 »
「教育」カテゴリの記事
- 教師は子どものために自らを犠牲にするもの(2012.05.21)
- 公立小学校と同じレベルになった国立大学法人(2012.05.20)
- 面接開始後,3秒で落とされる教員志望者(2012.05.19)
- 「授業をやりたい!」という欲望を乗り越えること(2012.05.18)
- 「学べる」人が「教える」人としてふさわしい(2012.05.18)
トラックバック
この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92794/45310253
この記事へのトラックバック一覧です: 巨人が優勝できない?のと公立学校がよくならないのは同じ理由? ふり返り366日【08/5/18-2】:
« 地域から見た校長 | トップページ | 競争できないとの表明が信頼を生む ふり返り366日【08/5/18-3】 »


コメント