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環境の変化への対応が求められる空間づくりの大切さ ふり返り366日【08/5/17】

 「適法」かどうかを判断して行動するレベルと,「適正」かどうかを考えて行動するレベルでは,どちらが高度なのでしょうか。

 「ルールを破っているわけではないのだからいいだろう」という考え方は,何も中学生レベルの子どもがするものとは限りません。

 こういう子どもへの指導法は,それは「正しいことなのかどうか」を考えさせるというものです。

 子どもでも,「~してはいけない」というルールがないことなら,何をしても正しい,とは思わないはずです。

 モラルに関することには,使える指導法です。

 ただし,「正しいこと」という認識には,実は大きな落とし穴もあります。

 教師のなかには,自分の経験上,「正しい指導法」というものをもっている人がいます。

 信念をもって指導する姿勢はよいのですが,その信念の「正しさ」に子どもにもわかるような根拠がない場合,また,普通,そういう指導は適切でないと思う教師の方が多い場合,そこにあるのはただの「私共空間」です。

 教育の場も「私共空間」にしておけば,いくらでも手は抜けるし,好き勝手ができるのですが,そういう教師の姿勢をキャッチする生徒は,自分たちも同じように「私共空間」を構築して,特に違和感を感じすることなく「いじめ」を実行にうつすことが可能になります。

 教育の場を公共空間にすることが,指導上の大前提です。

 私共空間は,ドームや温室のイメージ公共空間は,青空が見えるフィールドのイメージです。

 環境の変化への対応が常に求められるのが公共空間であり,環境の変化とかかわりなく,常に閉じこもっていたい人間が作るのが私共空間です。

 教育の場を私共空間にしてはいけません。

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08/5/17 教師と天気予報士の共通点

 Psycheさんから以下のコメントをいただきました。ありがとうございました。

>力のある先生は迎合する必要などありませんね。人(生徒)に否定されるのが怖いのでしょうか。指導者として弱気な側面が垣間見えます。
 『○○先生に怒られるから、しちゃあかんよ』も、同じケースですね。「オマエが怒れよ!」って感じてしまいます。遅くとも3・4年でそのレベルはクリアしてほしいのですが……。

 日本は、何億円もの予算を投入して製品化されるゲームを、1年に何本も買ってもらって楽しめる子どもが育っている国です。その楽しみの目的を達成するために利用できる目の前の人間は親です。
 教科書が1冊できあがるまでにかかる費用はいくらでしょう。
 授業を行うために、必要な教材の費用は1時間あたりいくらでしょう。
 親がテストでがんばるとか、勉強関係の見返りとしてゲームを買わせているので、「学習」と「娯楽」の「目的」と「手段」の関係がめちゃくちゃになってしまっています。
 教師も、自分の利用のされ方を考える必要があります。充実した学習に利用されるべき教師が、遊びで楽しむために利用されたとき、教育力がない親と同レベルになり、子どもからの人気は高まるでしょう。
 そういう子どもに対しては、教師はまず否定されることから始めなければなりません。

 しかし、学校という場所に子どもが強制されずに集まってこれるのは、親と同じような利用価値のある教師がいてくれるおかげなのかもしれません。

 「○○先生に叱られるよ」という言い方が、自分の親に似ていて心地よいのでしょう。
 そういう指導しか入らない子どもがいかに多いかという問題もありますが、そういう指導しかできない教師が多いことも大きな問題です。

 ほとんどの教師は、自分の教育の失敗を認めたがらないものです。「子ども思い」のつもりでやっていることが子どもの成長に何の役にも立っていないことを自覚させられるのはつらいものだからでしょう。

 最近、教師天気予報士に似ていると思うようになりました。

 その人の仕事によって、未来に役に立つ(考える力や知識をもっていく、傘をもっていく)ことがあるかもしれませんが、何の役に立たなくても(学力がつかなかったり、晴れて傘が必要なくなったり)責任をとらされることはありません
 適当にやって力がついたり当たったりすることもあれば、どんなに研究して時間をかけて準備しても、力がつかなかったり当たらなかったりすることがあります。
 共通点が多い。
 しかし、少なくても天気予報士は天気図を使うなど根拠をもって予想を立てるのに対し、教師はどちらかというと経験や勘にたよる傾向がある(これも実は捨てたものではなく、お年寄りが地元の天気を当てる場合もあるが)のが相違点で、もっと指導の論理性を追究する必要がありそうです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より