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人が学ばなくなる原因 ふり返り366日【08/5/16-3】

 教育について何かの話を語ると,その人の人間観と,どのような環境で成長してきたかがわかってしまいます。

 また,教育についての発言に対する批判やそれに対する回答を読んでも,同じことがわかります。

 ネット上の議論では特に,話が極端になりがちです。

 「もっと上をめざす教育を進めよう」という趣旨の発言をすれば,「できない子の気持ちは考えない」と決め付けて発言する人がいたり,「みんな同じように成長させよう」という趣旨の発言があれば,「結果の平等主義は国家の衰退を生む」という反論が出されたり。

 実践者の強みは子どものよい実像がそこにあることで,ただの評論家の弱みは当事者でないために常に「憶測」で話さざるをえないこと。

 反対に,実践者の弱みは子どもの課題がある実像がそこにあることで,ただの評論家の強みはそれを見て「おれの言うとおりだろう」と言えてしまうこと。

 教育に関しては,すべての人に当事者意識が必要であり,個人にとって,集団にとって,社会にとって,国家にとって,それが今の問題を乗り越え,よりよい状況を実現できるようにする手段であるという共通認識をもつことが大切だと考えています。

 そして,その当事者意識を活用できるシステムが重要になってきます。

 学校を支援する組織が,何を核としてつくられるのが最も効果的なのか。

 それが「保護者」では決してないことはもうそろそろ行政側も受け止めて必要な情報を発信していくべきでしょう。

 人が「学ばなくなる」最大の原因は,「当事者意識」が欠如することにあります。
 
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08/5/16 超・学力観に基づく「なぜ日本人は学ばなくなったのか」の答えは?

 教育学者猛烈塾講師、どちらが子どもの学力向上の役に立つか?と問われたら、答えは明白かもしれませんが、どちらに教育政策を考えさせたらよいか?という問いには少し解答をためらうかもしれません。

 「なぜ日本人は学ばなくなったのか」という齋藤孝の本(講談社現代新書)は、対象が限られた「日本人」であるということと、「学ぶ」ことの意味や意義の捉え方が自分流であることから、あまり役に立つ内容ではありませんでした。

 日本人への危機感を煽っていれば本が売れるという国が日本です。

 そして日本のよいところを探して宣伝しようとすると「右翼か」などと言われてしまうのも日本です。

 教科書にそれを載せようとしたり、道徳教材で使おうとするときに浮上する抵抗感は、他国のケースではまず存在しないでしょう。「愛国心教育」の必要性を叫びたくなる人の気持ちはよく理解できます。

 そういう国であることは確かなことですが、日本では同調性傾向が強い(そうでもないという実験結果もあるのでしょうが、「KY」など、空気を重視する文化であることは確かでしょう)ためか、ある一部の対象に限られる話を、なぜか「日本人」全体の枠に広げて議論する傾向があります。

 齋藤孝が主張する「読書」や「学習」の意義は、もちろんそれはそれで正しいことでしょうが、それをすべての日本人がすべきであるかというと、それは?です。

 齋藤孝も本の中で、学校に対して常軌を逸した要求をするモンスターペアレンツを語るくだりで、「教師を頭からバカにして、ホテルのドアマンや百貨店の店員に対するように威圧的な態度をとる」とありますが、教師・ドアマン・店員を著者が同じような日本人であると考えていないことは確かです。

 江戸時代の識字率が他国より高かったとしても、今の若者がニーチェを読まないからといって、現代が江戸時代に劣るとは言えないように、歴史的な変化を語るときにも「自分の見たいものだけしか見えていない」状況になっているのがわかります。

 学力低下問題の解消や教養重視を主張する教育学者にとってつらいことは、このような本を記しても、「そういう著者もこの程度か」と思われてしまうリスクを常にもっていることでしょう。
 「なぜ日本人は学ばなくなったのか」の「日本人」をたとえば小学生、中学生、高校生、大学生に限定すると、その理由は、TVの他、ゲームや携帯電話、マンガやインターネットの普及もあるでしょが、一番大きいのは、教師が学ばせなくなったからでしょう。それにつきます。

 学校の教師は、「学習指導要領で定められてる範囲を逸脱することはできない」という逃げ口上がありますが、塾の講師や家庭教師はその縛りがないので言い訳ができません。学ばせて学力を向上させるしかありません。
 だから子どもにも親にも信頼されるのです。
 夜スペでもなんでも、「学ばせること」ができるかどうか、「学ばせる環境を整えること」ができるかどるかが問われているわけです。
 極端な超・学力観で言えば、「自ら学ぶ意欲」を重視して学ばせるのは、大学院からでよろしい。義務教育から大学までは、学ぶべきであると考えることを学ばせることに専念すればよい。「学ばせる」ことで、興味が持てる子どもには自然に「自ら学ぶ意欲」が育ち、どんどん学力が向上し個性が伸長する。それを全員に求めてはいけないし、強制してもいけない。「学ばせること」だけに専念すべきである。
 このようなことについて、齋藤孝は、読書などの「学び」を「強制」してなぜ悪い、というニュアンスで語っています。
 

必要なのは、刺激であり、機会であり、適度な圧力だ。

 このことには賛成ですが、著者に強制される中身については、ちょっと首をひねりたくなります。
 しかし、どの学校の教員にとっても、「学ばせる」ことは至難な技になってしまっているのでしょう。特に大学では、「圧力」が均等でないと、自分の講座に生徒が全く集まらなくなる恐れが出てきます。やはり生徒迎合型の教師になってしまいやすいのでしょう。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第三巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「晏子」(第四巻)より
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    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より