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いじめを単純化して考えたい心性を生む新KEGARE思想 ふり返り366日【08/5/16】

[いじめ] ブログ村キーワード

 いじめの問題を,あくまでも「子ども社会の問題」と捉えてしまうような教師は,自分自身や教師集団の課題に目を向けない典型的な逆コンピテンシーの持ち主であると判断できます。

 今の若い教師や教育実習に来る大学生と話をしていると,いじめをしてきたわけでも,受けてきたわけでもない傍観者としての長い経験を感じさせる言動にふれることができます。

 傍観者の中には,自分が「KEGARE」にふれたくないために,「なかったことにする」という「得意技」を使う人間もいます。

 犯罪のKEGAREも時間が経てば忘れ去られるだろうと考えていた京都教育大の中枢も同じことです。

 教師の中には,「いじめた側を処罰する」ことで指導したつもりになってしまうような人間が少なくありません。

 これは,「いじめ指導」という「ふれたくないKEGARE」を早くはらってしまおうとする姿勢に他なりません。

 「いじめは絶対に許さない」という姿勢を子どもにみせ続ける指導は,常にKEGAREをまとうような指導でもあります。

 いじめる側の人間が自分自身の心に負っていく深い傷に気付く指導,気付かせる指導が求められています。

 単純な厳罰化の発想をしている教師たちに,いじめ問題の根本的な解決を追究する考えが浮かぶことは決してないでしょう。

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08/5/16
「いじめ」と新KEGARE思想

 教育の現場で感じる新種の「KEGARE」意識として、「教師からの指導を受けて不快な気分になること」があげられます。

 このKEGAREをはらうには、「逆ギレする」「無視する」「親に教師を攻撃させる」「他人のせいにする」などという手段があります。

 自力救済系の「はらい」は、「笑われただけでキレる」ような中世の時代の日本人を思わせます。

 他には、「自分の思い通りにならない」というKEGAREもあります。

 これをはらうには、「キレる」「他人を攻撃する」という攻撃的な方法と、「逃げる」「自ら命を絶つ」などの後ろ向きな方法があります。

 「荒れた学校」の時代には、圧倒的に攻撃的な方法が多かったのですが、最近は消極的な態度の方に重点が移ってきています

 「いじめ」という現象がやっかいなのは、同質でない(のが当然なのですが)他人自分の思い通りにならない他人に「KEGARE」を感じ、攻撃を加えて「はらおう」とするのですが、相手が自分の都合のいいようにならない場合、「KEGARE」がさらに増していくことです。
 いじめた側は、相手の「KEGARE」をはらってあげようとしているだけなので、罪悪感がない

 いじめられた側は、自分が「KEGARE」ていることを認めたくないので、初期は「いじめられていること」を認めようとしない
 そして事態が深刻になり、相手から攻撃を受け続け、積もり積もった「KEGARE」が、自分自身の「KEGARE」許容範囲を超えたとき、重大な問題がおこる。

 「いじめ」の問題の根が深い理由は、「新KERGAR思想」にある、というのが私の仮説です。
 では、その解決法ですが、この種の「KEGARE」は存在を否定せずに、教師が指導によって「はらう」しか方法がありません。そのためにはまず、教師自身の「KEGARE」をなくしたいものです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より