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国を愛さないことのメリット ふり返り366日【08/5/10-3】

 「国や郷土を愛する心」を育む教育は,それが「何のためか」がセットとして報道されていないために,学習指導要領を読まない教師たちが参加して「反対合唱」をしてしまいます。

 子どもなら,授業中におかしを食べて叱られたとき,「先生も職員室で食べているじゃない」というかわいらしい言い訳ができますが,教師にはそういう言い訳はできません。

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08/5/10 社会科教師の教育の成果

 なっつさんから以下のコメントをいただきました。ありがとうございます。
 

日本は競争社会の中で、勝ち上がるために弱者切り捨ての価値観を身につけていき、結果「人のため」という価値観がすごく下がっていますよね。人のために行動する気持ちが育てば、自然に、まわりの人のため、地域のため、国のため、という気持ちも育つと思います。いきなり「愛国心」とかって言い始めるから抵抗があるだけで。
 だって、官僚、政治家を見ても、愛国心があるように思えないもの。自分たちの保身ばかり考えて。そんな人達に「愛国心」と言われるから、反発が起きるだけだと思いました。

 国家=政府と見る立場からの「愛国心」の押しつけに対する反発は当然のことですね。
 しかし、愛国心=滅私奉公という連想をしてしまうのは、日本独特のかなり狭い歴史観に基づくもので、だからこそ社会科の目標では、「我が国の国土と歴史に対する理解と愛情」のように、「多面的・多角的な考察による理解」に基づく「愛情」を育てたり深めさせたりすることを目標にしているわけです。

 ただご存じのように、社会科の場合はほとんど一面的な歴史認識を子どもに植え付けようとする教師がいますから、そういう教師の思い通りに育った子どもたちは「国家・社会・政府」という文言自体によい印象を持てずに成長していきます。選挙権を行使しようとしない多くの若者に、「どのように成長してほしいのか」を問うことのない大人たちは、政治家が悪い、官僚が悪いという言葉で政治的無関心を片づけてしまいます

 有識者の立場としては、今のままでは「民主的、平和的な国家・社会の形成者」たる人間を育てることが難しいという認識があるので、「日本人としての自覚」を促す文言として訴えかけているわけです。

 なお、教育現場で教師が「愛国心」という生々しい表現を使うことはまずないでしょう。だいたい両極端の立場の人が相手を批判するためかそれに対して攻撃するために使っています

 学習指導要領に「愛情」という文言がある以上、「日本を忌避することになる国土と歴史に対する理解」をゼロにする必要はありませんが、そういう理解を促したら、せめて外国に誇れる日本のよさも理解させる必要があるわけです。それは、自由主義競争に勝っているという経済の面に限ったことでないのは当然のことです。
 安全な水を飲むことができない国の子どもたちは、日本の自然環境をどう思うでしょうか。
 銃によって家族の命が奪われた子どもたちは、日本のように武器携帯を禁止し、治安がよい国のことをどう思うでしょうか。

 一生かかっても遊びきれないほどの趣味や娯楽があふれている日本を、学校すら満足に通えない国の子どもたいはどう思うのでしょうか。
 人間と同じで、別に全面的に愛する必要はなく、「嫌いなところ」があってもかまわないわけです。
 歴史は解釈が修正されることはあるかもしれませんが、歴史的事実は修正されません。
 「国際貢献」や「国際協調」で日本が果たしてきた歴史的事実は何か。
 政府の果たした役割、個人が果たしてきた役割は何か。
 国際社会に生きる人としての自覚をもたせる教育をするのが、社会科教師の醍醐味です。

 日本の国土も、四季があって自然と親しむこともできますが、地震や火山、津波などによって安全が脅かされることもある。四季の楽しみ方、山や海、川での遊び、地震や火山への対策に尽力してきた人々の苦労や工夫などをよく理解して継承することで、自然と愛情に結びつくことをねらいとするのが社会科です。
 これもあくまで社会科教育の一面ではありますが。
 「競争社会」「弱者救済」「公共の精神」など、社会科教育で扱うべき多くの課題がありますが、道徳教育と重なり合う部分が多い題材というのは、よく問題とされますね。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第四巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より