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だめであることはわかっているが・・・

 文月さん,以下のコメントありがとうございます。
 後半のおふざけの部分は別として,「ユニフォーム」に関しては話は尽きませんね。

 「金儲け」には関係のない,たとえば警察官とか作業着風の貸与服がある役所の職員などにもあてはまる話ではないでしょうか。このような「」の人たちと,「中学生」にはどのような違いがあるのでしょうか。

 あの新庄選手が「個性的」なユニフォームの着方をして,ファンは喜んでも球団や協会がまったをかけることがありました。今の日本では,「まったをかける」感覚の方が,一般的な見方なのでしょう。

 だらしのない着方をしている生徒たちも,入学試験会場,面接会場には,そのままの格好ではいきません

 それは子どもたちが「そういう格好ではだめ」であることが十分にわかっているからでしょう。

 大事にすべきなのは,「だめであることはわかっているのにやってしまう」子どもに「だめだ」と言ってとめてあげられる大人ではないでしょうか。
 
 中には,「本気でだめだと思っていない」子どももいるかもしれませんが,私の場合,親も子どもも「本気」なら,あきらめるしかないか・・・と思うことはあります。

 気の毒なのは,「本気」ではなく,「だめだとはわかっている」のに,「合わせていかないといじめられる,友達でなくなってしまう」という理由で「だめなこと」をしている(させられている)子どもです。

 そういう子どもは守ってあげなければなりません。

 とてもうるさい存在ですが,「世界一テレビ漬け」の子どもに,「もう寝なさい」と言ってくれる親は必要でしょう。

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kurazohさんお久しぶりです。文月です。 初コメントです。

>なぜ学校社会ではそれが許されてしまうのか。

私は、金儲けが目的の企業と金儲けが目的ではない学校との違いだと思っています。
企業では「だらしのない着方」をすれば、金儲けに支障が出るから(労働者にとっては給料が減る)から、
きちんとした着かたをする。
学校ではミニスカートをはいても、金儲けに支障がでない(生徒は給料はもらわない)から、
「だらしのない着方」も許容される。
以上のように考えています。
私は、だらしのない着方、たとえば「ミニスカート」などでも問題ないと考えています。
それぞれの個性を大切にしてあげたいです。
なので、私が教師であっても、この件に関しては熱心に生徒指導はしませんのであしからず。
内心は生徒応援していることでしょう。
学校では、生徒の服装・髪型がどうであれ、企業と違って、直接金儲けに支障が出ないから、
人権を尊重して問題ないと思っています。(「ミニスカート」でも問題ないと)
お金を取るか、人権をとるかで、お金を優先したのが企業でしょうね。
学校は人権を優先したからさまざまな服装が許されるのだと思います。
許されるのはとってもいいことだと思っています。
本来は企業でも許されるべきだと思いますが、お金儲けのため、許されていないのでしょうね。
性同一性障害と認定された方も企業ではお金儲けのために、不自由な目にあわされていました。
企業はお金儲けがすべてなので、人権がないがしろにされていますね。

kurazohさん、いつの日か自由な校風を実現してくださいませ。
応援していますから。自由と権利の保障された学校にしていってくださいね。

・・・教師が「制服」になるのはおそろしい話ですが・・・。
あら、そうなのですね。私は案外いいかもと。内心では楽しいかもと思っていらっしゃるのでは?
男女問わず、美人な先生のセーラー服姿とか見たいです。素敵です。
kurazohさんの制服姿も見たいです。kurazohさんのズボン姿もスカート姿も両方とも見たいです。
スカート制服姿とか可愛いかもと思います。生徒にも人気かも。

kurazohさんは、学生の頃、スカート制服とか着用したい思ったことはないですか?
私はありますよ。美人スカート制服男子になりたいです。
でも私はこれまで生きてきて、女性の衣服を身にまとったことは実はまだ一度もないのです。
kurazohさんはどうですか。ありますか?ないですか?
あれば、ご指南をお願いいたします。
なければ、もし変身したいと思われたときはぜひご一報を。
そのときはこっそりと(笑)、一緒に見た目「男の娘」になりましょう!!きっと楽しいと思います。
女装デビューは皆でぜひ一緒に!ネットで交流のある方々も誘ってやれたらいいなと思います。
だれかお手本となるニューハーフさんとか女装娘さんとかがいてくれたらいいのだけど・・。
まずろさんに化粧をおしえてもらうとか。すずめさんに化粧をおしえてもらうとか。
すずめ先生、お元気かなあ・・。心配です。早くお元気になられるといいですね。

kurazohさんは、色々と面白い方、楽しい方だなと思っています。思えば長い付き合いですね。
生徒たちにやさしい・甘いkurazohさんでいて下さいね。
kurazohさんは相当な頑張りやさんだと思われますので、
たまには力を抜いてのんびりと違った人生を楽しまれるのもいいと思いますよ。
基本的に私は、人にやさしい・甘い人間です。色もピンクとか赤とか甘い色が好きです。

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教育」カテゴリの記事

コメント

こんにちは。私は制服・ユニフォームはとても好きです。
それが、自分の感性に合うもの。かっこいいもの、かわいいものならなおさらです。
たとえへんなユニフォームであってもそれも興味の対象です。
警察官や役所の職員と,「中学生」とのちがいですか。
ありきたりですが、公務員とそうではない国民との違いなどかと。
kurazohさんのおっしゃったことは、もっともなことであり、
そういう子は守ってあげたいと私も思います。
後半部分は、おふざけではなく、けっこう本気です。
私は、男性を演じていると不必要につかれます(苦笑)
真面目に演じている今日この頃です。
たまには弾けるのもいいでしょうかね☆新たな世界が広がるかも・・。楽しそうです☆
kurazohさんと楽しく生きられたらいいなと思います。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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    「歴史の活力」より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より