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教師と4番打者の自覚

 私は,日本の教育はもっと早く変わるチャンスがあったのに,それが実現できなかった一番大きな原因は,教師たちにあったと考えています。

 それは,教師の力が優秀ではなかったからとか,教師の資質・能力に問題があったからとか,そういう理由ではありません。
 
 問題は,「心がまえ」にあった(ある)のです。
 
 野球にたとえると,私の理想の教師像は,常勝チームの4番バッターのようなものです。

 結果が出れば持ち上げられるが,結果が出せなければ「4番のせいだ」といって叩かれる。

 本物の4番打者は,「勝ち負けは,チーム全体の問題なのだから,俺に言うのは筋違いだ」という当たり前の言い訳など決してしません。

 そして,変に自分を責めるのではなく,「期待に応え続けよう」と努力する。

 批判は,だまって受け入れる。ただひたすら,改善の道を模索する。何をやっているか,やろうとしているのかを説明する。協力を依頼する・・・。そういう当たり前のことができない人がなぜ教育関係者に多いのでしょうか。

 残念ながら,今の教育では,一部の子どもにとって,クリンナップは「塾の先生」になっているのかもしれません。
 学力は高めてくれる,勉強を好きにさせてくれる,学校の友達関係の悩み事の相談には乗ってくれる,楽しい海外旅行の経験の話をしてくれる,・・・
 子どもが求めているのは「点数」だけではありません。

 自虐的な教師たちは,下位打線でもスタメンはスタメンだ,とか,「つなぎができる打者であれば・・・」などと「プレッシャーのかからない位置」を求めていく。

 公立学校の教育現場では,ときどき学級が崩壊して「代打」「代走」が出されることがあるのはよく知られているでしょう。

 ベンチの隅にずっと座っていても,同じ給与が維持できて,2軍に落ちて調整していても,年度が変われば昇給していく,・・・そんなことが許されてよいのか?という「」に,学校現場は「野次だ」といって耳をふさいだり,聞かないふりをしていたりしてきましたが,そのことが,「教育が変わらない」原因の一つになってきたのです。

 「学校は危機的状況にはない」
 「企業のマネジメント理論は学校の役に立たない」
 「企業のマネジメント理論は危機的な状況にある企業をみれば怪しいものであるといえる」

 確かに,今までの学校の教師の中には,何の危機も感じないで生きてこられた人がたくさんいたのでしょう。

 それが,免許更新制度が始まったり,たいした差もつかない成果主義が導入されたくらいで大騒ぎし,「自分の身分保障の危機」ばかりにあわてている現状を見れば,「何が危機だったのか」ははっきり見えてきたはずです。

 教師が地域を取り込み,「改革」に成功している学校というのは,「自分の身分の危機」を心配する前に,「もっと何とかしてあげたい子ども」のことを考え,「よりよい教育」を求めて努力を続けているわけです。

 だから子どもや地域が動くわけです。

 「今のが限界だから,あきらめてもらおう」などとは言わないのです。

 4番バッターが,「私の打撃には限界があります」と言って,3割,30本以上は打てませんと公言しますか。

 仮にそういうとして,「それはそうだな」とうなずいてもらえる数字というのは,どの程度の数字でしょうか?

 「公教育に限界がある」のは当たり前です。

 ただ,「最低保障をすればいい」などといったときの「最低レベル」というのはどんなレベルなのでしょう?

 もし最低保障が「学習指導要領のレベル」だとすると,それは達成されていません。

 もし,「」の教育の機会が潤沢だから,それを活用するのが合理的だという論理があるとしたら,「公教育が公的資金をさいて『私』を活用しないのはなぜか」ということが問題になるでしょう。

 もし「最低保障」を果たすために,「」を活用した方が「公教育」によるものより半分とか3分の1のコストでできるとしたら,政策上どうするのが最適なのか,という話になっていってしまいます。

 「」の活用を「公教育」の側が拒絶しているとしたら,それは自分たちにとって恵まれた既得権益を守りたいだけに他なりません。

 「自分に何がどれだけできるのか」を真剣に考えようとしない教師をどう変えていくのか。

 こういうことを正面きって行っていく主体に行政がなれなかったことも,日本の教育が変わらない原因の一つでしょう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より