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« 高校教師の本領 ふり返り366日【08/5/6】 | トップページ | 観点別学習状況の評価の前に,観点別学習指導状況の評価が必要 »

教師の「全体を見る目」の欠如が学校の致命的な欠点

[組織的] ブログ村キーワード

 公立学校で,一人一人の教師の力量が高くないことそれ自体は,致命的な問題ではありません。
 
 特に若い教師などは,自分の子どもがよほどの目に合わされない限り,保護者も大目に見てくれるのが普通でしょう。

 では,公立学校への不信がどんなときに高まるかというと,教師たちが「組織」として動いていないことが露呈してしまうときです。

 わかりやすく大雑把な表現をすれば,多くの教師たちは,「全体を見る目」に欠けています。

 多くの学校では「職員室」というものがあり,教師たちが顔を合わせて朝の連絡や休み時間での情報交換等を行っていると考えられています。

 しかし,ここで「子どもにとって大切なこと」ではなく,「自分にとって必要な情報」だけを求める教師が多い学校では,「大切な情報発信」が教師の側から行われることがほとんどなくなります。

 授業(教科経営)や学級経営が教科担任,学級担任という一人の教師を核として実施されているため,何か問題があると,その教師が「私に責任があります」と謝罪することが多くなります。

 この言い方は,実は教師にとって「大切な責任」を負っていないということを暴露している証拠にもなるのです。

 「全体を見る目」の欠如は,「責任をいかに小さくするか」への努力を生んでしまうのです。

 問題があったらとにかくまず「謝ること」が優先される日本では,このような態度は普通のことだと思われるかもしれませんが,本当にその教師だけに責任を負わせるような学校だったとしたら,そこは「学校」ではなく,別々の「だれだれ学級」が単に集まっているだけの場所に過ぎなくなってしまいます。

 なぜそのような問題がおこってしまったのかを本人が分析することはもちろん大切ですが,「学校」という組織がそれを怠ることは許されません。

 組織が問題の分析を怠れば,同じ問題がその学校では繰り返されます

 その都度,かかわった担任だけが謝罪するのでは,レベルが低い学級経営の中で育った子どもと同じになってしまいます。

 いじめで生徒が自殺したときに,管理職がマスコミ対応に当たったりもするのですが,学級で実際にどのようなことがおこっていたのか,自殺した子どもがどういう子どもだったのか,ほとんど知らないのではないかという空気が如実に伝わってくることが多いでしょう。

 若い教師の犯す失敗のうち,経験年数が多い教師がしっかりと指導しておいて,精神レベル・技術レベルを向上させておけば,避けられた問題というのがこれまでどれだけあったのか。

 教師集団の中に,「私自身を批判されたくない」から,「他の教師を批判しない」という全く子どものことを無視した悪習が存続していないか。

 学校は組織として,そのような厳しい目を内部に向ける必要がこれまでどれだけ叫ばれていたのか。

 こういう批判をされたくない教師のブログを読んでいると,教育水準の質的向上がいかに難しいかもよくわかります。

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教育」カテゴリの記事

コメント

吉永さま,コメントありがとうございました。
私は講師の方々にも人事考課制度が適用されることを望んでいます。
サラリーマン教師の中には,高い給与を手にしながらも,少ない労働で「給料分は働いている」「一生懸命やっても給料が増えるわけではないから」と指導の改善努力も研究も何もせず,教壇に立ち続けている人もいるでしょう。
国は教師の資質を「卵」である段階から磨いてもらおうと法整備につとめていますが,やはり現場で能力を磨いていく制度が確立していないと,公教育の質を高めるのは難しいでしょう。

私は高校で講師として教えています。やはり、「批判されたくない」「批判して反感をもたれたくない」という気持ちは、皆持っていると思います。そして、これは教師に限らないと思います。しかし、教師というものは、特に「子供たちに手本を見せる」という責を持つ者ですので、積極的に、「互いの知恵を交換し、高めあう」美徳を獲得、実践しなければならないと思います。授業見学の活発化、忌憚のない意見交換と反感の乗り越え、自己改善など、プロセスを設計し、施行してゆくことができると思います。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より