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2009年5月

いじめ「傍観者」を防げない理由 ふり返り366日【08/5/7】

[いじめ] ブログ村キーワード

 いじめの問題では,「傍観者もいじめに加担していると言える」という指導が一般的です。

 しかし,その言葉が子どもの心に届かない学校があるのはなぜか。

 簡単な話です。

 「傍観者」である教師が学校にたくさんいるからです。

 すべての教師たちに「学校を動かしている当事者」としての意識があれば,ある問題を教師がおこしたときに,他の教師から「それは私たちの問題です」という言葉が出されて当然のことになります。

 現場をご存じない方には難しい表現かもしれませんが,学校によって教師の「空気の密度」には大きな差があります。

 教師集団の「同じ空気の密度」が高い学校は,指導に一貫性があり,子どもの動きも教師をならって「矛盾」に対する目が厳しくなります。

 しかし,学習指導,生徒指導に対する教師の「同じ空気の密度」が低い学校では,子どもは安心して「何でもあり」という前提で問題行動を繰り返します。

 教師は「裁量権」という言葉を使って足並みの乱れをごまかそうとしていますが,仮に一人の教師に負わせる責任を重くしたとして,責任をとってすぐに辞めさせることができるようになったとしても,結果として子どもに対する被害が生まれてしまうのであれば,その方法は意味がないものだと言えます。

 「別々の空気があってそれが交じり合わない」ことを徹底した「個人主義」「自由主義」を重視する教師が主張し,勝手な行動を繰り返す空間を,私は「私共(わたくしども)空間」と呼んでいます。

 それが子どもから「公共の意識」を高める機会を奪っているのが,現在の学校教育の最大の問題なのです。

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08/5/7 子どもが発揮できる「成果統合力」=当事者意識(自治意識)の涵養

 教師たちは、自分たちが学校を担うチームの一員であるという自覚をどれだけもっているのでしょうか。
 学校運営連絡協議会で、いきなりこんな質問をぶつけられたら、どのように答えられるでしょう。

 成果統合力のある教師なら、その問いにいきなり分掌組織や学年経営の話から入らずに、生徒会活動や学級委員指導をたとえにして「自治的・自律的な活動」の実態とその指導のあり方を説明し、保護者がそこにどうかかわるべきかを自覚できるようにもっていくところまでいくでしょう。

 「問い」をもらえば、そこが相手の自覚や自発的行動を促すチャンスであると認識し、時機を逃さず成果統合の場に引き入れられる力が教師のコンピテンシーの一つです。

 教師集団の動きに成果統合力が適用されていれば、間違いなく子どもたちにもその力を身に付けさせたり、そういう志向性を持たせたりするように指導できるはずです。
 生徒会や学級委員会がかざりではなく、本当に自治の主体になっているかどうか。

 その実態から教師集団の力も推し量ることができるでしょう。
 荒れた学校では、学級委員でも自覚を促すよう指導するだけで「なぜ俺だけ言われるんだ」とキレてしまうのでしょうが、学級委員に「朝の学年集会」を企画・運営してもらい、遅刻やエスケープ、飲食・喫煙などの報告や提言を行ってもらった後は、学級委員も問題行動の当事者たちも、ようやくそれが「他人事」ではないことに気付いていくはずです。いつも遅刻してくる生徒たちも、この場で何がどう議論されているのか知らないのは不安なようで、体裁のため?わざと少し遅れて集まった後は、話によく耳を傾けていました。

 女子のミニスカート指導でも、授業中の携帯いじりに対して、「教育の当事者」であろうとしない「優しい」教師たちは、冒頭の問いを直接会議の場で受けたとき、どう答えるつもりなのでしょう。
 子どもたちは「当事者」と「傍観者」を容易に見分け、「傍観者」のいる社会で欲望を満たしていきます
 「いじめ」の「傍観者」も加害者と同様の扱いを受けるようにようやくなりつつありますが、教育の場全体にはその考え方がまだまだ広がっていかないようです。
 思えば社会にはあふれるほどの「傍観者」がおり、そういう人たちで構成される「居心地」のよい社会に、次々に同様の人間を送り込んでいるのが教育界なのでしょうか。

観点別学習状況の評価の前に,観点別学習指導状況の評価が必要

 中学校や高校の教師が面倒くさがるものに,「観点別学習状況の評価」というのがあります。
 高校では,実際,ほとんど機能していないところもあるようです。

 組織的な教科経営がなされておらず,完全に自己流の「学習指導要領」にのっとって指導されている限り,「目標に準拠した評価」自体も完全に個別のものになります。

 以前にも述べたように,この評価はせいぜい小学校でまじめに取り組む効果がある程度のもので,中学校や高校では目標に見合う指導が行われていないのに,評価だけ出ているとしたら,それこそ「虚偽」の記載を延々と行っているようなものです。

 目標に準拠した評価は,目標に準拠した指導があって初めて成立するものであり,指導をしていないのに評価しているそのデータには,信頼性がまるでありません。

 実施から10年たっても定着しない制度は見直しを加えるのが当然のことでしょう。

 観点別学習状況の評価の前に,観点別学習指導状況の評価が必要になります。

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教師の「全体を見る目」の欠如が学校の致命的な欠点

[組織的] ブログ村キーワード

 公立学校で,一人一人の教師の力量が高くないことそれ自体は,致命的な問題ではありません。
 
 特に若い教師などは,自分の子どもがよほどの目に合わされない限り,保護者も大目に見てくれるのが普通でしょう。

 では,公立学校への不信がどんなときに高まるかというと,教師たちが「組織」として動いていないことが露呈してしまうときです。

 わかりやすく大雑把な表現をすれば,多くの教師たちは,「全体を見る目」に欠けています。

 多くの学校では「職員室」というものがあり,教師たちが顔を合わせて朝の連絡や休み時間での情報交換等を行っていると考えられています。

 しかし,ここで「子どもにとって大切なこと」ではなく,「自分にとって必要な情報」だけを求める教師が多い学校では,「大切な情報発信」が教師の側から行われることがほとんどなくなります。

 授業(教科経営)や学級経営が教科担任,学級担任という一人の教師を核として実施されているため,何か問題があると,その教師が「私に責任があります」と謝罪することが多くなります。

 この言い方は,実は教師にとって「大切な責任」を負っていないということを暴露している証拠にもなるのです。

 「全体を見る目」の欠如は,「責任をいかに小さくするか」への努力を生んでしまうのです。

 問題があったらとにかくまず「謝ること」が優先される日本では,このような態度は普通のことだと思われるかもしれませんが,本当にその教師だけに責任を負わせるような学校だったとしたら,そこは「学校」ではなく,別々の「だれだれ学級」が単に集まっているだけの場所に過ぎなくなってしまいます。

 なぜそのような問題がおこってしまったのかを本人が分析することはもちろん大切ですが,「学校」という組織がそれを怠ることは許されません。

 組織が問題の分析を怠れば,同じ問題がその学校では繰り返されます

 その都度,かかわった担任だけが謝罪するのでは,レベルが低い学級経営の中で育った子どもと同じになってしまいます。

 いじめで生徒が自殺したときに,管理職がマスコミ対応に当たったりもするのですが,学級で実際にどのようなことがおこっていたのか,自殺した子どもがどういう子どもだったのか,ほとんど知らないのではないかという空気が如実に伝わってくることが多いでしょう。

 若い教師の犯す失敗のうち,経験年数が多い教師がしっかりと指導しておいて,精神レベル・技術レベルを向上させておけば,避けられた問題というのがこれまでどれだけあったのか。

 教師集団の中に,「私自身を批判されたくない」から,「他の教師を批判しない」という全く子どものことを無視した悪習が存続していないか。

 学校は組織として,そのような厳しい目を内部に向ける必要がこれまでどれだけ叫ばれていたのか。

 こういう批判をされたくない教師のブログを読んでいると,教育水準の質的向上がいかに難しいかもよくわかります。

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高校教師の本領 ふり返り366日【08/5/6】

 中学校の教師と高等学校の教師では,子どもの発達段階が異なるため,生活指導に温度差があるのは仕方がないと思われます。

 ただ,増える中高一貫校内で,このあたりの問題に直面して苦労している方々には気の毒なことです。

 中学校側と,高校側のどちらの言い分が正しいのか。

 ただ,結果として,「指導がラク」な方に流れることの危険性には,注意を払っていただきたいと思います。

 私の経験を総合して考えると,高校の教師には,「教師の責任」という言葉が大嫌いな人が多そうです。

 小中学校よりも,「勉強は自分でするもの」「成績が悪いのは本人のせい」という意識が強いのではないかと思われます。

 教育ブログでもそのような趣旨ばかりを記事にしている教師がいます。

 苦労して高校進学を実現させた生徒たちを次々に「切り捨てられた」経験を持つ私は,高校の教師にはどうしても厳しい目を向けてしまいます。

 「勉強する気がないなら,やめろ!

という言葉を15歳に簡単に投げかけられる教師にとっては,「やる気のない人間が減っていくこと」の方が,「やる気のある人間が増えていくこと」よりもずっと大切なことなのでしょう。

 学習面はさておき生活面では,高校進学後,生徒たちは中学校の遺産で生きていきます。
 禁止されていたことが伸び伸びと自分の責任の範囲で行動できるようになるのも,中学校時代にきちんと責任のとれる範囲を限定して規律の正しい生活を送ってきたことが基礎になるのです。

 私の通っていた高校は「生徒でもっている」と教師が公言していた学校でしたが,たしかに行事や部活動の運営は基本的に生徒だけの力で行っていました。

 公立高校の一部には,生活指導がたいへんなところもあるようですが,「最後は切り捨てればよい」という選択肢があるせいか,あるいは,義務と違って高校は学校ごと廃止して,新しいタイプの高校に作り直し,倍率を上げて再建するという荒業が可能なせいか,どうも「生徒の自主性を尊重する」という「教師の存在意義は無視する」宣言でラクをしている面が強く見えてしまいます。

 最近は公立高校も進路指導・進学指導に力を入れるようになっていますが,進路指導・進学指導についていっても,「何で私たちがそこまでする必要があるの?」という声も多そうです。

 「義務教育ではない」という理由で「やる気のない生徒は来ないでいい」という逃げ,「予備校ではない」という理由で「大学の受験勉強は勝手にやれ」という逃げ,「生徒の主体性が大事」という理由で「教師は指導しない」という逃げ・・・。

 私の極論は,それらすべての課題を帳消しにする武器は,「授業」である・・・というものですが,果たして教師個人の最後の砦である「授業」の実際はどうなのでしょうか。

 残念ながら私が参観させていただいた授業はすべて,予備校の存在価値の高さを痛感させられるものでした。

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08/5/6 「叱らない」で済む指導をする理由

 親野智可等著『「叱らない」しつけ』(PHP研究所)には、著者の小学校教諭時代の苦い経験が公開されています。
 新学期の担任の発表で、他のクラスでは子どもが大喜びし、自分のときは冷たい反応

 原因は、ご自分のそれまでの指導法にあったと書かれており、「叱らなくて済むシステム」という話に続くのですが、中学校の立場からすると、子どもの前で担任名が発表されるという方法、そして発表後に反応させてしまうシステム自体が大きな間違いです。

 傷つくのは教師だけではなく、子どもたちの心にも傷は残っていくのです。
 思い起こせば、自分の小学校時代もそんなことがあった気がします。
 厳しい先生なのでショックを受けましたが、発表後のクラスメイトの反応にもショックを隠せませんでした。

 中学校では、全体の前で発表があるケースでも、「反応しないように」「それはなぜか」という話から入り、それでも大騒ぎしだす子どもにはさらに指導しなければいけないわけです。
 教師の人気が測定できてしまうようなシステムは、言葉がきついですが、いじめを公認しているようなものです。

 高校教師の場合は、初めから叱ったり指導したりするつもりのない教師がいるのが気になります。
 ある都立高校では、遅刻指導の甘さが学校運営連絡協議会で話題になったそうです。(日経の記事「遅刻に甘い学校~信頼裏切るいい加減さ~」より)

 保護者からの問いかけに、
 生徒は、「みんな遅れてくる。先生は優しいから大丈夫
 教師は、「大学へ提出する書類には遅刻の欄がないので心配はいらない

 「学校に来るだけまし」「遅刻指導をして来なくなるのがこわい」ということでしょうか。
 携帯電話の学校持ち込みが、小学校と高校ではOKで、中学校でだけ禁止されているのはおかしい、という声もあります。 
 小中高の生活指導の連携は学習指導の連携以上に難しそうです。

教師の空しさと子どもとのつながり

 いつもより早い電車に乗った今日は,20代半ばになっている卒業生に駅で声をかけられました。

 以前にも何度か会っていて,彼とは直接言葉を交わすことなく,いつも目と目を合わせてうなずき合う程度なのですが,そこで交わされているメッセージは互いに通じ合っている・・・と,私の方は思っています。

 今朝も同じでした。
 
 よく卒業生からは「たくさん教え子がいるのに名前を忘れないものですか」と聞かれますが,名前を忘れないどころか,生活指導の細かい場面までがすぐに脳裏に浮かぶものです。

 長く生きていればいるほど「思い出」は増えていくものですが,昨日の良かったことなどより,10年以上前でもたいへんな思いをした記憶の方が鮮明に残っています。

 今日会った生徒は,授業中に抜け出し,近くのコンビニで買ってきたカップラーメンをトイレで食べており,私が教室に戻るように促したら廊下で暴れだして授業中のクラスの壁を蹴りだしたので,やむを得ず体の自由を奪い,無人の校長室に引っ張っていき・・・

 この後,今まで級友のわがまま放題の行動を黙殺してきた「正義感」の強い生徒がその職員室に入ってきて・・・

 いくつかの意味で,学校の転機になった一日でした。

 子どもの学校生活における「満足感」というのは,自分の好きなことを自由気ままにやっていれば得られるものとは限りません。

 荒れていたその学校では,子どもが不満に思いながら生活し,その不満を形に表しても状況が全く変わらないのに,それでも不満を表現し続けていてくれたことが,根っこから腐るのを防止してくれたような気がしています。

 荒れていない学校の中には,子どもが心に抱いている不満を表面に出さずに,隠し続けているために,見えにくいところから腐食が始まっているところがあるかもしれません。

 思い当たる節がある教師はたくさんいるでしょう。

 こういうタイプの学校は,表面に何かが現われたら,実はそれがもう「終わり」のときだったりします。

 子どもたちにとってもし,家庭を離れて接している数少ない大人である教師が,社会を構成している人間として心から尊敬に値するような存在であったとしたら。

 逆に,家庭を離れて接している数少ない大人である教師が,社会を構成している人間として敬うことができないような存在だったら・・・。

 教師の子どもに対する影響力より,マスコミが子どもに与えている影響力の方が強いだろう・・・という人もいると思いますが,リアルの世界の影響力が空疎なものであったとしたら,教師ほど空しい職業はないでしょう。

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党首討論で登場した小学校へのプレッシャー

 党首討論で民主党鳩山由紀夫代表から少人数指導を実施している小学校名が出されたのは,やはり日教組への配慮でしょうか。

 自民党側は,日教組のような公務員の組合から支持を受けていて,公務員改革ができるのか,という批判を読売新聞で行ったようです。

 民主党側の戦略として,「実情」を語るのは危険なので「理念」で一貫していくのは当然でしょう。

 「友愛社会」の実現を否定したい人などどこにもいないわけです。

 教育に関しては,民主党が日教組の言いなりになっているわけではなく,たとえば「教師の資質・能力の向上がより求められていること」を踏まえた政策を真剣に提言できるような基盤があれば,教育界にとっては大きなプラスとなり得るのですが。

 それにしても,「抽象論」批判への対応として鳩山代表が具体的な小学校名を公表してしまったことについては,後に問題になりそうな気がします。文科省の整備事業を受けているようなので,官僚批判との兼ね合いも難しいところです。
 共同が伝えた討論の内容からは,その部分はカットされていました。

 関係者に余計なプレッシャーがかからないことを切に望みます。 

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「お茶の間解説者」型教師の見分け方 ふり返り366日【08/5/6-2】

 どの学校にも一人くらいは,「評論家」のような教師がいるものでしょう。

 プロ野球の「お茶の間解説者」のようなものです。

 冷静に状況を説明してくれるこのような教師は,情熱型で行動優先型の教師の行動を適度に抑えてくれる働きをしてくれたとしたら,存在価値もあるのでしょうが,たいていは批判に終始してしまうので「壊れたラジオ」と呼ばれています。

 一応,仮にも「教師」と呼ばれているわけですから,「頭はよさそうだな」というのは伝わってきます。

 しかし,このような教師が子どもに与えている「大人不信」の,あるいはすでに深く根をはった「大人不信」の木への肥料の影響は,「頭がよさそうな人」から発信されているものなので,無視できないくらいの大きさがあります。

 学校訪問をしたり,研究授業に参加したりすると,このような教師の存在は(発言を待つまでもなく)ひと目でわかります。共通点があるからです。

○廊下で挨拶をしてもまともに反応できない。
○話をするときに目をそらす。
○協議会中,腕組みをしている。
○椅子に深く腰掛けていない。
○筆記用具をもたずに会議に参加する。
○会議中,メモをとらない。
○終始,気難しそうな顔をつくっている。
○校内でスリッパを履いている。
○スーツを着ていない。

 教師集団にとって気の毒なのは,ただでさえ「管理職嫌い」でモチベーションを失いがちな人がいるのに,このような教師の態度で輪をかけてやる気が失せていく,そんなことがあるからです。

 今も,「あと1年(2年)の辛抱だ」と自分に言い聞かせている教師がたくさんいることでしょう。

 しかし残念ながら,3年間しかいない子どもたちの中には,その期間の多くの部分をそのような教師と過ごさざるを得ないのです。

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08/5/6 社会科教師の逆コンピテンシー その8 傍観者とマスコミ化した教師

 第8回は、「成果統合力(チーム成果志向性)(③成果のB調整・統合力)」がテーマです。
 教員の業績評価に反対する人の中に、「教員の仕事はチームによるもので、個人の能力に左右される部分もあるが、個別に評価することはできない」というものがあります。

 しかし、この批判は明らかに教科指導の評価にはあてはまらないのと、チームの中でも教員以外のゲストが中心になるならまだしも、チーム内の役割は個別にあるわけで、それも評価できないというのはおかしいわけです。
 チームとしての仕事が評価できないなら、子どもの特別活動の評価もできないことになってしまいます。
 このタイプの業績評価に反対する人への説明は簡単なことで、「あなたの個人目標の中に、チームによる成果を極大化するためにあなたがすべきことを入れてください」とお願いすればよいのです。

 生活指導の場面を見れば子どもでもわかるように、明らかな「傍観者」が教師の中にはいます。「嵐が過ぎるのを待て」と後輩にアドバイスする教師もいました。

 授業中に爆竹が鳴って職員室を飛び出したら、現場に立っているのは自分だけで、抜け出していた生徒たちに囲まれるという孤立無援の事態を経験して初めて、傍観者の教師には「チームで動くルールを決めておかないと何もしない」ことに気付かされるのかもしれません。

 前回の「遅刻に甘い教師」のように(あれは学校全体の問題でしたが)、「優しい先生」がチームに混じっていると、正負の数のかけ算のようなもので、他が全部正の数でも1つ負の数が混じれば成果はマイナスになってしまいます。

 「チームによる活動だから個別に評価してはいけない」とは、「自分がチームの足を引っ張っているのが明らかなので、自分だけマイナス評価になるのがいやだ」という意味なのでしょうか。

 「厳しい指導」の原則は、単に「怖い」「どなる」ことなどではなく、指導に一貫性継続性があることで、「譲れないところは絶対に譲らない」という粘り強さがあることです。

 その意味がわからない教師たちは、一部の「怖い」教師に生徒指導を任せきって、自分は常に安全圏にいて、教育に達観した指導者面をしている。そんな現場はないでしょうか。

 さて、教科指導の面では、たとえば社会科の場合、共産党支持者自民党支持者が社会科教師にいる場合(それに限ったことはではありませんが)、極端なことで言えば、指導学年が異なればいっさい会話をしないなどということが公立中学校ではあり得ます。

 教科指導の面で、成果統合力がない逆コンピテンシーの好例です。
 教科会を定期的に設け、指導案検討研究授業を実施しているか。
 年間指導計画を教科会で検討しているか。
 定期考査の問題を互いに検討し、その内容を吟味しているか。
 研究推進校にでもならない限り、それぞれの教師がそれぞれ勝手に「社会科」授業を展開しているのではないでしょうか。
 ひどい話では、「○○先生の言うことは国家よりで、間違っている。市民社会の原則はこうだ」と指導の否定から入る教師もいる。
 昔は、子どもの話を封殺・攻撃し、不登校にさせ、保護者からの苦情に対して逆ギレのプリントを全部の生徒に配付した教師までいました。
 理想や理念を強い情熱で生徒に伝えたい熱意はよく理解できますが、手段を選ばない強引さは「教育」ではなく「闘争」そのものです。
 「教壇では何をどう指導してもよいという権利をもっている」と強く信じている教師がいるのは社会科に限ったことではありませんが、生徒から見て「この社会の先生は社会に出てやっていけるのだろうか」と思われてしまうのが最大の逆コンピテンシーでしょう。
 自治体ごとに、教科の研究会が(発足は組合系だったとしても)あり、情報交換や勉強の機会は保障されていると思いますが、そこでも学ぼうとしない教師。
 社会科教師なら、自分が持つさまざまなネットワークが指導の各所で生かされていくはずです。それが特定の政党や組合活動にしかつながっておらず、「マスコミ化」してしまっている教師は多くないのでしょうか。
 「フィールドワーク」が社会科教師の原点の一つにありますが、同じ学校の他の社会科教師が何をどう考え、どう教えているかを調査することが最も身近なフィールドワークです。
 「授業を見られるだけで、批判されている気になる」という逆コンピテンシーがあれば、早く治療しなければなりません。

試験問題】 学習指導や生徒指導で、あなたが過去に犯した失敗から学べたことで、その後の指導の改善に最も役立っていることは何か、述べなさい。

試験問題】 あなたが実施した研究授業の中で、授業後の研究協議で得た批判から学べたことは何ですか。その批判を今、授業の中で、どのように生かしているか、述べなさい。

試験問題】 同僚の教師の授業を参観して、あなたが学んだことは何ですか。また、そのことを自分の授業でどのように生かしているか、述べなさい。

「自分らしさ」の氾濫 ふり返り366日【08/5/5-2】

 「個性」という言葉が徐々に輝きを失い,その代わりに登場したキーワードは「自分らしさ」でした。

 一見すると「自分らしく生きる」というのは「個性的な生き方をする」のと意味が似ているように思えてしまいますが,決してそうではありません。

 「個性」にはどうしても「他の人にはない良さ」という響きがあり,ある程度自分なりに苦労したり努力したりして身に付いていく「長所」というイメージがありますが,「自分らしさ」というのは,「モデルとなる人物の真似」していてもそれがその人の選んだ「自分らしさ」に合っているだけで成立してしまう,そんな「手頃さ」がうけているのでしょうか。

 協調性・同調性への圧力が強い日本社会にあって,「自分らしさ」には「人と無理して同じことをする必要がない」「社会に縛られない」というニュアンスが含まれているようにも思います。

 「自分らしさ」の氾濫は,決して100人の人の「自分らしさ」が100通りになるとは限らないことも意味しています。

 規範意識を持たなければならないという心的プレッシャーからの逃避としての「自分らしさ」が生まれないことを願いたいと思います。

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08/5/5
個性重視はどこで保障されているか?

 今日の日経一面のトップ記事は、マイクロソフトがヤフーの買収を断念したというものでした。
 世界のネット検索はグーグルが一人勝ちの状況ですが、日本ではヤフーが逆にトップなので、マイクロソフトがやろうとしていることの意味が取り違えられているかもしれません。
 企業価値を向上させるためにさまざまな戦略がとられる世界を横目に、「競争が悪」の論理で旧態から抜け出すことが拒否されている学校・教育現場の気楽さ。
 教育の世界では、どの世界との提携が想定されるのでしょうか。
 学習塾との提携は高校を中心にかなり進んでいるようですが、今後はどうでしょう。
 提携には、Win-Winの関係になることが必要ですから、学校側だけ都合のいいことを言っていても成立しません。
 ところで、グーグルが「総合型」であり、「教科型」のヤフーに日本で勝てない理由は何でしょうか。
 日本では、「個性重視」と言いながら、本当の個性が把握し評価されることを拒もうとする心理が子どもにも教師にもあります。
 けっこう多くの人が、検索履歴や購入履歴から、機械が分析した自分の好みの商品の広告が送られてくること=プライバシーに踏み込まれているかのような不安感を抱いてしまうのではないでしょうか。
 教育の受け手が、あまりきめ細かな「能力に応じた教育」を期待しているわけではなく、あくまでも「一律・同一の教育」を求める傾向があれば、提供する側も難しい選択をせまられるわけではなく、同調することが可能です。
 日本の初等・中等教育では、「能力に応じた教育」は、学校単位ではなく、公立とか私立、国立、中高一貫校といった、学校の種類ごとに行われていると認識されているようです。

授業の禁断症状

 教育実習生に授業をしてもらって1週間もたってくると,「禁断症状」というのが現われてきます。
 
 行政に入ったときは,緊張と仕事が重なり合って襲ってくるためにその症状が現われるまでかなりの時間がかかりましたが,授業が行われている場にいると,「待った」が効かない状況になります。

 しかし,こういうときには,思いもよらない収穫も得られるもので,今年は子どもの我慢強さと,ノートの取り方の上手さが際立っていました。

 一方で,学習成果が上がらない子どもの共通点も多く発見できることができ,個別にアドバイスする機会が来るまでそちらもよく分析しておこうと考えています。

 中学校1年生を見ていると,小学校の6年間でほとんどしつけらしいしつけを教室で受けたことがない子どもによく出会います。いちいち確かめているのですが,やはり小学校では活発に発言したり身を乗り出して参加するような「見た目の意欲」がある子どもばかりが評価されて,人の発言にしっかりと耳を傾けながらじっくりと自分の思考に入るような子どもは相手にされなかったのがはっきりしています。

 小学校における「関心・意欲・態度の評価」の最大の悪影響が中学校で表面化していることを,データを蓄積して整理しておこうと思います。

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成功している成果主義に学ぶ

[成果主義] ブログ村キーワード

 日経ビジネス5月11日号に紹介されている「花王流成果主義『7つ』のポイント」とは,すべて「制度ありき」ではなく,「絶え間なく改善しようとする運用のあり方」にかかわるものです。

 成果主義を批判したい教師が,その制度や運用によって「何がばれるのかこわいか」は,7つのポイントを知ることで「見える化」することができます。

1 会社の目標と社員の目標との関連を「見える化」する

 学校の場合は「教育目標」とその他の指導目標などの概念図,構造図がこれに当たります。
 「子どもや保護者」など「外向け」のものだと勘違いしている人がいるかもしれませんが,これは教師が共通理解をもって,協働実践するための基本方針になります。あくまでも自己流で好きなようにやりたい教師にとっては,これが障害となる可能性があります。

 学校の教育目標は,教育基本法や学校教育法などを踏まえて,学習指導要領に基づき,各学校の地域や子どもの特色に応じて設定していきます。
 ですから,特に異動してきた教師に対しては,「学校」の教育目標を理解してもらうことが大切で,「自己流で組織的な動きが阻害される」ことのないようにしなければなりません。
 せっかくの「有望選手」「期待のニューフェース」として異動しながら,上手に実力が発揮できない教師の多くが,「今ままでの教育」と「今そこで行われている教育」のギャップにうまく対応できないという問題に陥っているのです。ただ,表面的には違う面があっても,実質的に同じことをしているのだとわかれば,すぐ戦力に加わることができます。

2 人材の育成と一体のものとして運用する

 50歳代の教師は,コンピュータの活用が十分にできないことが課題になっています。
 「人材の育成」は,何も若い世代に限ったものではありません。
 30年選手も1年目の新人も机を並べて仕事をする職場が学校ですから,退職まで「成長の限界」を自ら設定しない教師であることが求められています。
 もちろん,「他の教師の育成」という役割を担ってもらうことも必要であり,そのような成果を適切に評価することは,だれにとっても決してマイナスのことではないでしょう。

3 結果だけで評価せず,報酬にも極端に差をつけない

 結果だけの評価では,「もうだめに決まっている」と思っている人間がマイナスのオーラをふりまき,子どもだけでなく他の教師たちにも悪影響を与える危険性があります。
 結果よりも過程を重視するという意味は,職務内容によって,短いスパンと長いスパンのものをうまく組み合わせて,短いスパンの内容のPDCAサイクルをきちんと行うことを意味しています。
 途中に何のはたらきかけもしないで,「あなたは提出物を出していませんからCですね」と宣言されても困るでしょう。学校には,このようなタイプの評価が案外多いことはあまり知られていないかもしれません。

4 自社や部門の実情に合わせてカスタマイズする
5 他社を真似せず,コンサルタントの言いなりにもならない

 学校の教育課程は,法令等に基づき,守るべきものは守りながらも,それぞれの地域や子どもの実態に応じて編成していくものです。
 「うちの地域を一番よく知っているのはうちの先生方です」と管理職が言い切れる学校かどうか。
 そうでなければ,当たり前のことですが,地域だけでなく,さまざまな専門家の声を聞いていく必要があります。

6 経営環境の変化に応じて制度をカイゼンし続ける
7 企業理念を社内に浸透させる目的にも利用する

 「変化への対応」というと,その意味も知らずに「不易と流行」(「流行」という言葉にマイナスイメージがあることを利用して)という言葉を使って,「不易」の部分がおろそかにされているというレベルの反応をする人がいますが,たしかに「不易」の部分すらまともではない学校は何とかしてもらいたいのですが,大事なのは「将来の子どもに必要なものは何か」という,未来の人材を育てる発想で目標や計画を練ることです。
 「昔はよかった」ということばかり言って,具体的な成果が上がる「」の指導をしっかりやってくれるならいいのですが,「子どもや親が変わったらだめなのだ」と責任逃ればかりしているような教師に「その生き方・考え方の問題」を認識してもらうためにも,このポイントが重要なのです。
 子どもに要求していることは,自分たち自身にも要求していく,そういう最も基本的な姿勢が定着するだけで,学校は随分変わっていきます。 

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若手医師と教師の教育

 5月24日の日経新聞の医療面に,若手医師の育成(教育)に関するコラムが掲載されていました。

 医師や教師は「」という語を後ろにつけてよばれる職業名ですから,そもそも「尊敬されるべきもの」「かかわった人が恩を感じる対象」という意味合いが強いのですが,それは「力量」「実力」があって当たり前という前提があるのに,「いかがなものか」という医師や教師が増えたため,それはそれで結果的にはよいことなのですが「新人教育」の重要性が叫ばれるようになってきています。

 医師を教師に読み替えながら,コラムの内容を引用します。

 人が医師(教師)となり,他人の病を治す(他人を教え育てる)という仕事につくことは容易なことではない。とりわけ医療(教育)が高度,多様化する中で医師(教師)がプロフェッショナルとして患者(子ども)を治療(教育)できるようになるには長い年月を要する。“病気を治す(子どもに学力を身につけさせる)のも,悪くする(学力を身につけさせない)のも,医師(教師)の技量次第”というちまたの声にこたえるべく,若し医師(教師)は極力高いところにハードルを置き,研修に身を注がねばならない。

 話は,「人の病を治すことは単に臓器の治療だけでなく,精神面を含めた・・・」という内容に続きます。

 教育でも,テストができればそれでよい,というものではなく,心や体の健全な成長が基礎になって,子ども全体を育てていくわけです。

 教育と医療と,どちらの仕事の方が,より専門性を要するか,どちらの方がより大変か・・・・などと言っても,単純な比較ができるようになるわけではありません。
 どちらも専門性が重要であり,仕事も激務なわけです。

 しかし,たとえば,医師のペーパー免許をもっている人が少ない割に,教師の方はあまりに多い教員免許の重さが軽すぎる,だれでも取れてしまうのはおかしい,などという声が徐々に高まってくるのは間違いないでしょう。

 フィンランドのように,高度な専門性を身につけている教師が多い国では,信頼性も高いため,教師個人の裁量が大きくなっています。そういうレベルを日本の教師にも求めたい,というのは,公立の現場に子どもを預けている多くの保護者の願いではないでしょうか。

 日本のように,「就職先が見つからないからとりあえず大学院に行く」という人が「学歴が高いから」という理由で教師に採用されても,結果を出すのは難しいでしょう。

 解決策としては,教師教育のカリキュラムをより充実させ,本当に教師になりたい人には本物の基礎を身につけさせる,そういう下地ができていかないと,「教員の質の向上」は難しいように思います。

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修正成果主義の成功に学べること ふり返り366日【08/5/5-3】

 日経ビジネス5月11日号は,「成果主義の逆襲」というタイトルで,成果主義の反転攻勢の「狼煙」をテーマに掲げています。

 成果主義に対する不満は現在でも高く,そのことで「成果主義は失敗だ」「企業で失敗しているのだから行政でも導入すべきではない」(なぜか,企業でうまくいっているから行政でも導入すべきだとは聞かれないのですが,企業でうまくいっていないから行政でもうまくいかないという主張は耳にします)という声が聞かれます。

 「成果主義反対派」にとっては都合が悪いことに,「修正成果主義の成功」によって,成果主義が社員の士気を高めるだけでなく,業績を好転させる突破口になることが提言されています。

 成果主義に対する反対理由で多いのは,制度そのものの問題よりも,運用上の問題があることです。

 成果主義による弊害として上位に挙げられている内容は,

1 評価の妥当性を欠く(成果が明確に数字などで表せない職種なので)
2 長期的な仕事に取り組みにくい(目標設定が半年~1年と短いので)
3 チームワークが悪化した(個人の実績が重視されるので)
4 部下や新人の指導育成がおろそかになった

などというものです。
 
 過去の記事でもふれた教育現場での成果主義の導入上の課題と全く同じです。

 そして,原因がはっきりしているので,どう運用すべきかもすでにふれていました。

 企業の場合,成果主義を改善したのは32%改善していないのは67%

 改善したという企業の改善内容は,

1 結果に至るプロセスを評価するウエートを高めた
2 部下指導やほかのメンバーへの協力なども評価するようになった
3 評価基準にチームの成果を加えた
4 評価者の数を増やした

 これらも,すでにブログ内で述べたことと同じです。

 修正成果主義は,企業だけでなく,学校現場でも浸透していくことでしょう。

 政策実行が振り子のようにブレやすい日本の「改革」は,「全否定」「なかったことにすること」が好きだからかもしれません。

 これは,「ケガレ思想」の現代版で,「失敗した(と考えられる)政策にはもう触れることもけがらわしい」と思ってしまう心性が背景にあるのかもしれません。

 そういう前近代的な問題の認識ではなく,どこがなぜ課題なのかを一つ一つクリアしていくことで,「改革」は成功していくと思われます。
 
 そもそも,今まで言われてきた「改革」は,その変化のレベルからいって「修正」に過ぎないようなものが様々なあるのに,「ケガレ思想」によって「修正」では「前段階の悪いものが落ち切れていない」という観念が強く,成功へのインセンティブにならないのかもしれませんが,そこを乗り越えられる社会の智恵がほしいところです。

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08/5/5 社会科教師の逆コンピテンシー その7 指導の「赤字」

 第7~9回は、「③成果」の分野になります。
 この分野では、「生徒が学力の向上を実感できず、学ぶことに充実感がもてない、力がつかない」状況を生んでしまう教師の逆コンピテンシーが課題です。
 今回のテーマは、「成果追求力(③成果のA実行力)」です。逆コンピテンシーは、「成果を問われることに反発する」こと、「子どもの学習成果は問うが、自分の指導の成果は問わない」ことなどです。
 企業の世界では言うまでもなく「成果」がすべてですので、業績にしろ、社会貢献にしろ、「どういう結果が残せたか」が多方面から問われることになります。

 しかし、教育の世界では、「成果」が問われることに対する教師からの反発が非常に大きい。定期考査や入学試験、夏の大会や新人戦などによって必ず「成果」が問われている生徒とは対照的に、量的に測定することが困難な教師の「指導の成果」には、長い間、社会の目も甘かったと言えるでしょう。

 学校内でも、「学校評価」は必ず実施され、どの教育活動がどれだけの成果を収められたのか、残された課題は何かなどを考える仕組みは昔からありましたが、同じ失敗をいつも繰り返していたり、何年経っても成果が出なかったりしたことが放置されていました。
 結局それは、「組織力」の評価であって、個別の教師の問題を浮き彫りにするものではなかったのが最大の原因でしょう。

 それが、学力調査や外部評価、自己申告(業績評価)などによって、否が応でも自分の能力と職務行動に直面せざるを得なくなって、ようやく「子どものできが悪い、勉強をしない」という無責任な見方から、「子どもに身に付けさせたい力を身に付けさせていない、目的に応じた学習をさせていない」自分自身に目が向くようになりました。

 「どうして○組の清掃は毎週毎週こんなにいい加減なのでしょう」「どうしてこのクラスだけ、教室移動が遅いのでしょう」「どうしてこのクラスだけ、忘れ物が多いのでしょう」などという声に、「しっかりやれと指導しているのですが・・・」と答える教師はいませんか?

 それが答えになっていないことに気付かない教師はいませんか?

 学習指導も全く同じです。

 自分の授業が成立しないことを、学級担任のせいにしている教師はいませんか?
 「なかなか実力が上がらなくて・・・」「どうしてこうも今の子どもは勉強が嫌いなのでしょう・・・」
 「成果」に目が向かないと、教師が何のためにいるのかすら自覚できない人をつくってしまうわけです。
 企業での研修でそのことにようやく気づき、「自分がすべきこと」に目が向くようになる教師もいます。
 そういう自覚をもってすら、教育というのは(目標にもよりますが)成果を残しにくいものですので、「成果を給与に反映させるのは反対」という声は、教育の力を過信しすぎている証拠です。本当に成果を出せた教師(チーム、学校)には、成果というより企業で言うところの「赤字」を出してしまった人たちより報われる部分があってもよいでしょう。
 逆に、今まで教師たちは、成果があまりにも出ないことで、自己の防衛機制のために、成果に対する関心から離れていたのかもしれません。

試験問題】 別刷りの冊子は、ある学校の教師が定期考査で出題した問題の一部です。この問題から、教師が生徒に身に付けさせようとした(と考えられる)能力を箇条書きでいくつか挙げなさい。また、この問題の「問題点」について、気が付いたことをいくつか挙げなさい。
試験問題】 あなたのこれまでの教育実践の中で、数字で示せる具体的な成果をいくつか挙げてください。また、数字では表すことのできない成果もいくつか挙げなさい。

「おばちゃん」の最終ページに見る「異動」の意義

 よく読ませていただき,コメントのやりとりも行わせていただいていた「現役おばちゃん教師 日教組の何が悪いのよ!!」という教育ブログの更新がとだえてから2ヶ月が経過し,時期から考えて「異動が原因だろう」と予想していたら,それが的中していたことがわかりました。

 「おばちゃん」は,いわゆる「良い学校」に異動されたわけです。

 ブログで紹介された学校像を引用させていただくと,「荒れとは無縁の学校」だそうです。

 なぜその学校が「荒れとは無縁」であるか,ということについて,「おばちゃん」は学校から「教師の絶え間ない努力・指導の一貫性で維持されてきている」と聞かされ,「同じようにやらなくてはならない」ことの息苦しさに体調をくずされてしまうところまで追い込まれているそうです。

 現場の実態をくわしくリポートするタイプの教育ブログで,一番やりにくいのは「学校が落ち着いていること」でしょう。

 そのような学校現場の中には,組合の教師が中心になって「がんばっている」ところもあるでしょうが,場合によっては「足をひっぱるな」というプレッシャーが組合の教師を直撃するような現場もあるかもしれません。

 何か書こうとすれば,今までは子どもや親に対する問題提起がたくさんできたのが,「研究・研修ばかりで忙しい」とか,文科省の方針がどうとか,学校や行政の方針に対する不平・不満ばかりになってしまいます。疲れを知らない,指導力のある教師に読ませる記事を書くのは難しいものです。

 しかし,「本物の組合活動」「学校とのたたかい」をテーマにしたブログをタイトルどおりに続けてほしいという要望も強いのではないでしょうか。

 私はこのブログの中で,いかに教師の自己中心的・我流の教育活動が「子どもに力をつけさせないでいるか」を述べてきました。

 もし,「おばちゃん」が異動された学校が,「自己流を廃し,本当に子どもの力がつけられる指導を追究し,教師が切磋琢磨しながらよりよい姿を目指している」ところであれば,その「良さ」を伝えていただくという選択肢がとれるのかもしれませんが,それがもし組合を軽視しているようなものであれば,書けなくなるのも致し方ないのでしょうか。

 私個人としては,「良いと思って一枚岩でやっている指導の問題点」の指摘の方が,よほど有益だと思われます。

 「おばちゃん」の紹介された内容からは,「荒れはない」と言っても,それは「力で押さえつけているからだろう」とか,「不登校が多いだろう」とか,「管理」=「悪」教育観の持ち主はすぐに想像するかもしれません。

 しかし,「管理」が子ども本来の力を伸ばし,適切な秩序の中で生き生きして過ごしているのが普通の学校の姿です。「力で押さえつけてでもいいから,とにかく秩序を回復してほしい」と要望されている学校も一部にはあるでしょうが。 

 教師の中には,「荒れている学校の方がやりがいがある」=「教師が子どもに(これは苦しみを抱えている子どもにかなり限定されてしまうのですが)どんどんかかわれる」=「自分が役に立っているという実感が得られる」というタイプの人もいます。

 当たり前のことを当たり前にしているだけで,子どもがみんなすくすく成長していってしまうところでは,「やりがい」はないのかもしれません。
 ただ,「当たり前のことをどう当たり前にやるか」がどれだけ難しいことなのかは,そのような学校に異動しないとわからないものです。

 ぜひ,違うタイトルで,またおもしろい記事を書かれる日をお待ち申し上げております。

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学校の休業日分散のアイデア ふり返り366日【08/5/5-1】

[夏休み] ブログ村キーワード

 学校や自治体の裁量権が拡大し,授業時数を確保しさえすれば,長期休業日の中止休業日の分散化の自由が認められた場合,どのような休みの取り方が可能になるのでしょうか。

 この場合の基本的な考え方は,教師や保護者など,大人は基本的に仕事がある日で,子どもにとって,授業が行われない日をどう設定するか,という問題になります。

 2期制の学校は,夏休みを減らした分,学期間の休み(秋休み)をとることができるようになります。

 あるいは,中学校や高等学校の場合,定期考査の後,教師が採点や評価を出す時期に,休みをとることも考えられます。

 新型インフルエンザで休校になった地域のように,「子どもが繁華街にあふれ出す」おそれもありますが。

 まとまった休みが学校によってある程度分散化することで,ゴールデンウィークとか夏休みの行楽地の混雑が緩和されるようになるかもしれません。

 あるいは,関東で教師をしていると,5月とか6月の修学旅行で京都・奈良を訪れるチャンスは多いのですが,なかなか紅葉のシーズンには行けません。

 夏休みは「お盆休み」だけとか,冬休みを「正月休業」,秋の休みを「紅葉狩り休業」などと,ネーミングも観光などに結びつくようなものを自由に考えられるとおもしろそうです。

 もちろん,休業日中の取り組みとして,高校の体験入学ができるとか,博物館などでの体験学習を行うとか,今通っている学校の教師以外の学習指導が受けられる仕組みも必要になってくると思います。

 体育連盟で音頭をとって,学校の休業日を合わせて「春季(夏季)大会週間」をとるなども・・・。

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08/5/5 「夏休み(夏期休業日)」の名称変更

 公立学校でも、普通教室へのエアコン完備が進むと、ますます教師による「夏期講習」「夏期補習」の設定が増える可能性があります。
 学習塾にとっては強敵の出現ですが、教師の必然性のない「自宅研修」が厳しくなっている面もあり、「どうせ学校に出ているんなら遅れている子に勉強を見てあげられるのは今しかない」ということで、子どもはどうかわかりませんが家でごろごろされて困っている保護者も喜ぶ活動になります。
 「先生は日頃忙しいのはわかるが、夏休みがあるのがうらやましい」・・・という世間の目もあります。
 研修や部活、プール指導などの仕事ももちろんあるわけですが、夏休みに毎日帰宅が夜中になるということはあり得ません(自宅の電気代の節約のため、学校のクーラーを使って涼しく過ごす人はいるかもしれませんが)。
 土曜授業が復活すれば、学期中の平日にとれない休日をまとめどりする方式も復活せざるを得ず、有給休暇も大量に取得できる「夏休み」は「夏休み」で全然かまわないと思います。
 学校での「夏期講習」「夏期補習」が常態化すれば、当然、土曜授業と同じように、カリキュラムに組み込まれていくことも考えられます。
 「総合的な学習の時間」のまとめ取り方式なども考えられます。
 土曜なしで時間割を組もうとすると、平日の過密化・行事(とその準備)の削減が進み、子どもも教師も負担感が増すばかりでしょう。
 削られた生徒会行事の復活、特別活動とは別枠の「自治の時間」の創設など、「柔軟な教育課程編成」が最も容易な「特色ある学校づくり」になります。
 校内暴力の嵐が吹き荒れた世代の子どもが中学生になってきています。
 新学習指導要領実施によっておこる問題を想定すると、再度「ゆとり」を目指したとき、使える場所は土曜日と長期休業日しかありません。
 そのときに備えて、「長期休業」というネーミングからまず変えておくべきでしょうか。
 学校で授業が行われていないだけなので、「学習が休み」であるわけではありません。教師にとっても「休日」ではありません。
 「ゆとりと探究の夏」「夏の個別指導期間」「オープンサマースクール」「サマータイム学習」「夏期道場」・・・こういうのが平常の教育課程でとれるゆとりがほしいのですが・・・。
 土曜授業は7~8割の保護者の念願です。夏休みの使い方についてはいかがでしょうか。
 塾関係者の危機感は?

「とりあえず謝罪しておく」態度しかとれないから問題が再発する

 問題が発生しても,「私には責任はない」という開き直りが見られる一方で,「とりあえず謝っておく」という態度をとる教師がいることが,ブログの中でも紹介されています。

 責任のあるなしということ以前に,

 そもそも起こった問題はどういう性質のものなのか

 だれが関わっているのか

 どのような経緯で起こったものだったのか。

 原因は何だったのか。

 教師はどのように関与していたのか(しなかったのか)。

 どのような被害があったのか。その状態は。

 その場で教師はどのような対応をしたのか。

 まわりにいた子どもはどうだったのか。

 問題は解決に向かっているのか。悪化しているのか。

 いつごろどのように解決できそうなのか。

 問題の再発防止のため,どのような対策・態度がとれるのか。

 ・・・・責任については,以上のようなことを明らかにしたうえで,考えることができるものです。

 とりあえずの「ごめんなさい」で思考停止していては,問題の再発は防げないでしょう。

 日本の社会の特質に,責任の所在を明らかにする前に,感情的になっている被害者を慰める,おさめることが優先される場合が多いことがあげられます。

 学校で起こっている問題は,感情的になった被害者に対して火に油を注ぐような行為をしてしまうこと,問題が繰り返される原因は,「謝罪して被害者の感情がおさまったらそれで終わり」になってしまっていることです。

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ありのままの姿が評価される時代

 「昔は教師が尊敬されていたのでよかったが,今はそうではないので指導が難しい」

という声が,教育ブログの中でもときどき見られることがあります。

 ある教育雑誌に,同じような50歳代教師の言葉が載っていました。

 たしかに今から20~30年前くらいまでは,まだ教師ならだれでも尊敬すべき対象」として見られていたのかもしれません。

 しかし,「尊敬すべき対象」として見られていた時代の教師たちの中には,残念ながら,「勘違い」したまま時間だけがたってしまった人がいるようです。

 私の子ども時代も,教師の間違いを指摘するのには,小学校,中学校くらいまでは,結構な勇気がいりました。

 「教師のプライドを傷つけることはいけないことだ」

という暗黙のプレッシャーがあったような気がします。

 しかし,それがマイナスに働く結果になることは,当時としては想像することもできませんでした。

 研究授業を拝見していると,「教師に対する思いやり」を感じることが今でも少なくありません。それは,参観者によるものというより,子どもによるものです。

 本人が気付いていない場合は,気は引けますが指摘せざるを得ないのですが,「大きな勘違い」をお伝えした後,「そんな大事なことを指摘してくれる人は今まで一人もいなかった」という声をいただいたりすると,人間の成長を支えるのは「褒めること」だけではないことを深く実感させられます。もともと子どもが本当に好きで,その成長を強く望んでいる教師の場合は特にそうです。

 指導がうまくいかず,挫折して苦しむ経験がいかに大事かを,教育実習のような機会に知ることができれば,教育公務員として恥ずかしくないスタートがきれるはずなのですが,初任者の段階でもそういう経験ができないまま「思いやり」に囲まれて年だけたってしまうと,「気付いた」ときのショックは大きくなってしまうようです。

 教職一年目から,「尊敬」の対象になってしまうような立場がいかに危ういものか,強く感じています。

「つまらないけど学びやすい」教育が蝕む「学び」の未来 ふり返り366日【08/5/4-4】

 独立行政法人となった「旧国立大学」について私が抱いている危惧は,「人員削減」が教師に対してまで及ぶようになることです。

 よく知られている通り,私立大と国立大では,入学試験の問題の質が異なります。

 私立大の入試は,予備校の模擬テストと同じようなもので,大量に受けてもらって儲ける仕組みのもの。

 国立大では,センター試験である程度の人数に絞り,経費や効率はあまり考慮に入れないで,質の高い問題で選抜を行うようなものでした。

 国立大の入試問題のレベルが下がると,学習指導要領の教育の理念が定着せずに,崩れていきます。

 「つまらないけど学びやすい」教育の流行は,「やりがいがあるけど学びにくい」教育を浸透を妨害します。

 「つまらないけど物で子どもをつることもできて学ばせやすい」教育の流行は,安易な方法で稼ぐことができる教育産業を助け,「やりがいがあるけど具体的な成果がすぐについてこない」教育や学習の楽しさ・おもしろさを蝕んでいきます。

 全入時代の大学で,学ぶことより遊ぶことに必死になる大学生を「学び」にひきつけることは,きっと中高生より難しいでしょう。

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08/5/4 ヤフーVSグーグル=私立大VS国立大?

 EストアーというECショップ支援の企業が公開している検索エンジン利用者別属性調査の結果、普段よく利用する検索エンジンがグーグルの人とヤフーの人を比べると、私立大学出身の人はどちらも40%程度で変わらないのですが、大学に行っていない人の割合は、グーグルで4割、ヤフーで5割であったそうです。国立大学出身者はグーグルが2割、ヤフーが1割
 有意の差であるかどうかわかりませんが、入学試験のあり方を見てみても、教科型のヤフー総合型のグーグルの違いはここにも見られるということでしょうか。
 総合的な学習の完全実施以後の大学生が今後増えていきますから、この差が開くようだと・・・・。

「聴かせる指導」の功罪 ふり返り366日【08/5/4-3】

 どうでもいいことをもったいぶって大切そうに話すのが得意な大人を見てか,同じような行動をとる子どもを見かけることがあります。

 それは一概に悪いとは言えず,どうでもいいことでもしっかり聴くべきときは聴く習慣をつけておかないと,「聴かない」という判断ミスが命取りになる場合もあるので,そういう大人も「聴かせる」指導も必要であると言うことができます。

 ただ,「試験に出しやすい」という理由でただただ羅列される退屈な情報にさらされ続ける子どもは,その反動でいつしか「真新しい刺激」ばかりを求めてネットやTVに没頭するようになります。

 私は,学校教育が果たしてきた「子ども破壊」の仕組みをそろそろ大々的に明るみにし,「新しい教育の創造」に踏み切ることが迫られている時代に来ていると実感しています。

 それは,やはり情報化の急速な進展が危険度を高める触媒になっており,「子ども破壊」が加速度的に進む恐れが増しているからです。

 ネット業界の動向からは目が離せません。

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08/5/4 教育の世界のグーグル(総合型)VSヤフー(教科型)とマイクロソフト(学習塾)

 竹内一正著「グーグルが日本を破壊する」(PHP新書)で、検索連動型の広告によって経営を成り立たせているグーグルの現状と課題を知ることができました。
 この本の中で、世界全体の検索シェアで60%を占めているグーグル(ヤフーは14%)が、日本で勝てないのかを扱っている部分がありました。
 そこで私は教育の世界と同じことだと直観して、ヤフー=教科型グーグル=総合型であり、「総合的な学習」が日本で伸びていかなかった原因と、ウェブのスタートページにグーグルが設定されない原因は同じであると考えました。
 事業化の目標は、ヤフーがウェブサイトの階層型ガイドブック(買い物→スポーツ→野球→ボールのように絞り込まれていく)づくりだったのに対し、グーグルはウェブとウェブを結ぶ被リンク数にもとづく検索エンジンづくりでした。
 教育の世界では、学ぶべき対象が限定され、「テストには何がでるか」がわかっている教科が「つまらなくても学びやすいもの」であり、総合のように、正解はなく、「おもしろいかもしれないが学びにくいもの」は特に守備範囲が広くなる教師には扱いにくいものになりました。
 学習指導要領に示される教育の方針は個性尊重から生きる力の定着にシフトされましたが、すべての生徒に学力を定着させるためには、やはり個々の生徒のもっている能力・興味や関心などに対応した指導が必要なわけです。
 20~30年後の教育は、たとえば算数や数学の学習なら、個々の生徒が身近に感じやすい題材が個別に活用されたり、社会科の学習なら、各生徒の好きな人物と時空の旅をしたり現実社会を生きたりするシミュレーションソフトが活用されているかもしれません。
 グーグルも個人が複数の語句で検索してくれないとその人の趣味が把握できないように、教育でも個々の生徒の特性をもっと生かせる学び方が工夫されてよいはずです。
 しかし、入学金(パソコン本体)をとり、教材(OSやプレインストールソフト)を買わせてかつ講習(アプリソフト)でも多額の授業料をとる、学習塾(=マイクロソフト)のようなビジネスモデルが一番儲かるし、消費者も利益を得やすい時代はしばらく続くのでしょう・・・。

公開できない指導ネタ

 今日は,昨年夏に研究会で発表したある指導法を,実際に試していただいた先生からお電話をいただいて,調査資料の運用のことについてお話しする機会がありました。

 この指導法はネット上でも公開されておらず,関連図書もないために,迷ったときには直接問い合わせていただくしかないというものなのですが,このように,教育現場では「広める効果はあるがデメリットもある」ネタというものが存在します。

 子どもがそのからくりを知ってしまうというのが最も困った状態で,その状況でも楽しませることができるようになるにはかなりのデータの蓄積と「自信」が必要になります。

 子ども理解・生徒理解には「これでいける」という方程式はありません。

 ただ,経験によって「これなら動かせる」という「言葉」を編み出すことはできます。

 単なる知識よりも,理念をお伝えすることができたことをうれしく思えた一日でした。

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子どもの学習意欲を高める「教師の関心」 ふり返り366日【08/5/4】

 教師の「教えたい意欲」「分からせたい欲求」が空回りしている場面をよく目にします。
 
 ジェスチャーゲームで,よく分からないジェスチャーを見せられて困っている解答者が生徒であるというイメージです。

 高いテンションを維持して子どもたちを引っ張っていく,そういう手法もありますが,子どもの学習意欲の高め方として,最も「高級」なのは,子どもが「学び甲斐」「考える意義」を感じ取れるように導く方法です。

 では,どんなときに子どもは「学び甲斐」「考える意義」を感じ取れるのかというと,これにも「高級」なもの,「低級」なものがあります。
 「モノでつる」のが最も「低級」であることは間違いないでしょう。

 「高級」なものに分類されるのは,「自己肯定感(あるいは自信)が得られる」「達成感が得られる」場合などがあります。

 ただ,自己肯定感や達成感は,子どもの学力レベルや性格などによって非常にまちまちなものなので,40人の一斉授業,グループを活用した授業では,限界があります。ただ,それも乗り越えなければならない壁であることは確かです。

 発想を変えて,教師として,「教え甲斐のある内容」とは何か,を考えようとすれば,これは結局,どのくらい深い教材研究と子ども理解に基づいて,どの程度,子どもに力をつけさせることができたか,に尽きます。

 「浅く広い」教材研究なら,教育雑誌レベルのものを読めばよいわけですが,「深い」研究となると,専門書にも手を伸ばす必要が出てきます。

 一日何時間くらい教師は勉強できるのでしょうか,という問いをまじめに向けられたら,多くの教師は戸惑ってしまうのではないでしょうか。
 この回答として,少なくとも,授業をしている時間は「勉強」に集中している,と答えられることを目標にしてみたいと考えています。その「勉強」とは,子どもから学び取るという姿勢を示しています。ただ,やはり見て学ぶことには限界があるので,「そのときに表現したこと(ノートに書いたこと)」に後で目を通す,という方法になるでしょう。

 教材研究と同じように大切なのは,教材で変容していく子どもの姿を理解していくことです。

 できれば教材研究と同じくらいの比重で,子どもが表現したものの分析・検討の時間を確保したいものです。

 教師が子どもの表現やその変容に高い関心を持っていくということが,子どもの学習意欲を高める上で大きな効果をもっていることを実感しています。

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08/5/4 社会科教師の逆コンピテンシー その6 学習への意欲を高める「しかけ」

 第6回のテーマは、「対人変革力(②対人のC創造力)」です。
 「対人変革力」不足は社会科の授業という観点から言えば、戦略力などの貧困が原因なのでしょうが、学習に対する意欲を高めることができない教師学力を向上させたいという願いが生徒に伝わらない教師は、かなり高い割合を占めていると思います。
 単純に、「テストで高い点をとらせたい」という気持ちは伝えることができても(脅しという方法も含めて)、具体的にこういう力を今、身に付けてほしいこういう力を今、発揮してほしいという願いが伝えにくい原因は、社会科という教科の特性にあるのかもしれません。このことについては、多くの側面からの分析が必要です。
 そもそも人の意識を変えさせることは、容易ではありません

 社団法人公共広告機構が、公共のマナー環境問題などをテーマに視聴者に語りかけるCMを提供していますが、その効果のほどというのはどれだけでしょう。
 広告会社は、人の意識を変えさせ、購買意欲を高める広告をつくるのが仕事なのでしょうが、そこには数多くの「騙し」のテクニックがあることはよく知られています。
 手段を選ばずに、さまざまな「しかけ」を用いて、人の意識改革を目指す。企業でも、たいへんな苦労をしているようです。

 教育行政も、教師の意識改革を目指して、次々に施策を打って出ていますが、もらっているのは「反感」ばかり。方法が方法だからでしょうが。
 横道にそれますが、日本のテレビCMは、「一段落CM」よりも、「ヤマ場CM」の方が多いのだそうです(日本は40%、アメリカは14%、イギリスは6%、フランスはゼロ・・・竹内一正著「グーグルが日本を破壊する」PHP新書より)。

 ドラマやクイズ番組でも、大事な場面でCMが入り、見ている方は非常にイライラします。
 ただ、日本人は「弱気の遺伝子」が強いらしく、そういうCMを流す会社の商品を買わないとか、テレビ局に苦情の電話を入れるとか、リモコンを投げつけるとか、そういう行動はあまりおこさない。だまってCMが終わるのを待っている。そういう側面もあるのですね。
 社会科で身に付けさせようとしている知識・技能は、世の中にあふれている膨大な情報・ルールの中のごく一部です。しかし、それを知りたい、集めたい、解決したいと思わせるきっかけになるしかけは、教科書の中には十分にありません。
 たとえば、「フランスでは見られないヤマ場CMが日本で多い理由は何か?」という問いは、教師が問うわけではなく、聞き手が勝手にそういう疑問をもつように「しかける」のが社会科の授業です。
試験問題】 社会科という教科を好きにさせるために、あなたが指導できる、とっておきの教材とは何ですか。また、その教材が多くの生徒を魅了した理由は何でしょうか。

観光バス型・新幹線型の授業 ふり返り366日【08/5/3】

 授業を自動車教習所の教官と生徒になぞらえて説明する例があります。

 「説明一辺倒の授業」とは,教習所の教官が運転席に座り,生徒が助手席に座るパターン。

 「生徒を主体とした授業」とは,教官が助手席に,生徒が運転席に座るパターン。

 ただ,これだと,生徒のたくさんいる学校の授業のイメージとしてはしっくりきません。

 人数で言うと,観光バスを例にとってみたらいかがでしょうか。

 「説明一辺倒の授業」とは,寝ている人がいようがおしゃべりしている人がいようが,ただしゃべり続けるガイドさんのイメージ。あるいは,ただ黙々と運転している(=板書している)運転手さんのイメージでしょうか。

 まだ,「右の景色をご覧ください」(次の資料をみて下さい)といったときに,魅力のあるものがあれば,コントロールがきいている状態といえます。

 ただ,やはり「反応ができる生徒」「答えることができる生徒」とそうでない生徒とは,かなり距離が離れています。

 学習が子ども主体で伸び伸び進んでいるイメージに近いのは,時々アナウンス(指示や説明)が聞こえてくる,新幹線の車内のようなものでしょうか。バスとは異なって席を向かい合わせにすることができ,グループで意見交換をしやすい。景色も眺めやすく,変化に富んでいる。

 ただ,新幹線の場合は,行き先はもちろん決まっており,寄り道や遠回りができないという問題がありますが・・・。

 発問や指示が次々に繰り出されるような授業も「飽きない」内容ならもつのでしょうが,メモも取れないと「その場限り」になる可能性が高く,うまい具合に知識や技能が「転移」できなくなるおそれがあります。
 
 行き先と到着時間だけをしっかりと示して,多様な寄り道をし,楽しみながら力をつけ,ゴールに到達できるような授業ができると子どもにとってはおもしろいでしょうね。そこに助け合いや学び合いがあればより学校らしさが生まれるでしょう。

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08/5/3 社会科教師の逆コンピテンシー その5 発問のねらい

 第5回のテーマは、「対人指導力対人サポート力)(②対人のB調整・統合力)」です。
 「対人関係力」不足の教師に「対人指導力」は期待できません。
 いきなり余談で申し訳ありませんが、近隣の女子校の生徒のスカート丈が短くなってきていることに注目しています。
 女子の服装指導・・・多くの学校の悩みでしょう。
 近隣の女子校の場合、指導の放棄が始まった現れです。
 指導の中心となっていた教師が異動したか退職したか、事情はよくわかりません。ときに指導が生徒本人や保護者の反感を招き、苦情でつぶされる教師もいますから、「強い指導」を安全のために避けたがる気持ちはわかりますが、現状はとても惨憺たるものになっています。
 服装指導が甘くなっている現状について、最も喜んでいるのは誰でしょうか?
 このブログをちょくちょくご覧になっていただいている方には、簡単に予想できる問題ですね。
 服装指導など、だれも好きこのんでやりたがる類のものではありません。
 生徒に嫌われるのを避けるため、「生徒指導部ではないから」などという理由で、担任であっても指導できない教師がいます。こういう教師は、「指導できない」と見られるプレッシャーをいつも持っていますから、指導しない教師がまわりに増えれば増えるほど、気が楽になって生き生きし始めます
 子どもも教師も生き生きする、「いい学校」の女子たちが、みんな自主的に晒し者になっていくわけです。
 スカート丈と相関がとれる学校情報・生徒情報とは何でしょうか。文化人類学者にでも分析してもらいたいものです。
 さて、授業では、教師の発問の意図が非常に不明確であり、それが原因で生徒が発言できないでいるケースをよく目にします。
 こういうとき、教師は発問に手を加えることで、発言を促すようにするのですが、それがますます混乱を招く場合も多い。何に答えたらよいのか、子どもがどんどんわからなくなってくる。
 過去にも述べましたが、私はこれを「北風発問」と呼んでおり、反対にどんどん答えや新しい問いを生む「太陽発問」力を磨くことを心がけているわけです。
 発問し、生徒が答えたらそれで終わり、ではなく、発言内容を要約したり、要旨を確認したり、そこから新たな問題を促すコメントを入れたりと、対話になっていく形が「太陽発問」になる一つの条件です。理解を促し、理解を深めるだけでなく、わからない部分というのがあることをわからせる。それが発問のねらいです。
 教師の逆コンピテンシーとして、時間内に単元の指導を終わらせるために、生徒の理解度をいっさい確認せずに、一方的に授業を進める人がいます。
 自分は「ああ、時間内に終わった」と満足しているのですが、子どもたちが消化不良のまま、おいていかれている。しかし、教師が満足そうなので、それでいいのだと勘違いし、学力がつかないことが常態化する・・・・。これもよくあるケースでしょう。
 指導力ではなくて、「時間内に終わらせる」発表力でしかありません。
試験問題】 生徒が意味を取り違えることのない明確な発問をするために、あなたが心がけていることは何ですか。その発問が明確であると言える根拠もあわせて述べなさい。
試験問題】 あなたの隣のクラスの担任は、服装や生活態度の指導をほとんどしません。そのため、あなたのクラスの生徒が、さまざまな不満をぶつけてくるようになってきました。「どうしてうちのクラスだけ厳しいの?」こういう声に対して、あなたならどのような指導を展開しますか。

批判ができない現場が不治の病を生ずる ふり返り366日【08/5/2-3】

 教師に限った話ではないと思いますが,問題についつい目がいってしまうタイプの人と,問題が見えないか問題から目をそらしてしまうタイプの人がいます。

 企業の場合,消費者が前者で生産者が後者だとすぐ問題が表面化します。

 しかし,学校の場合は,「消費者」に対応するのが「子ども」であるために,問題が「問題」として(気付かれてはいても)扱われることがなかなかなく,「問題」になる場合にはたいていが「大問題」に発展しています。特に,食品偽装のように「ばれにくい」問題は,一度「ばれる」と壊滅的な打撃を受けますが,他を選択する余裕のない学校は,そのまま存続します。

 このような問題の発生防止策としては,「大人」が現場を見る機会をつくるのが一番よいのですが,なぜ内部の「大人」ではだめなのか?

 簡単な話,フラット型組織の最大のデメリット,「お互いの悪口は言わない」「内部の批判は許さない」という空気が学校を覆っているケースが多いからです。

 教育ブログでも,「現場の批判はするな」という主張をしている,典型的な隠蔽体質を見かけることができます。

 現場では,教科指導や生活指導にとどまらず,部活動指導については輪をかけて「干渉しない」空気が強くなります。子どもの側の深刻な被害が生まれる場の多くが部活動であることを考えればわかりやすいでしょう。

 管理職がその空気に屈している学校では,「不治の病」が生じ,「死ぬわけではないのだからよいだろう」と放置されることとなります。

 教師の中には,本当は問題に気付いていることが多いのに,自分を犠牲にしてまで子どもを優先に教育を考えるゆとりがないために,「空気」に打ち勝てる人は少数派です。

 神戸の学校には批判が集中しているようですが,「子どもを優先にしているつもり」が,最悪の環境に子どもをおく結果になってしまうのは,「内部で批判をしない癖」に侵されていることが原因でしょう。
 
 問題に目がいくか,問題が見えないか,問題を避けようとするか・・・研究授業などのとき,教師がどのような生徒の顔をよく見ているかでだいたいその傾向は判断できます。

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08/5/2 社会科教師の逆コンピテンシー その4 教師の視線

 第4回は、「②対人」の分野になります。
 ②対人(子どもや保護者、他の教師に向き合う教師)の分野は、「○○先生はあまり発言をさせてくれない、あまり褒めたり適切な助言をしてくれたりしない、自分の考えを発表しにくい」と生徒が感じてしまう逆コンピテンシーです。
 今回のテーマは、「対人関係力関係構築力)(②対人のA実行力)」です。この力が不足しているかどうかは、授業中の教師の視線を分析すればよくわかります。
 黒板と教科書や資料を往復してばかりで、生徒観察ができない限られた数の発言者にしか目が向いていない。こういう教師は少なくありません。
 目が向いていないということは心が向いていないわけで、指導中に生徒からもれる声を拾うこともできず、発表に対して満足のいくコメントも出せない。
 子どもにとっては目の前で繰り広げられていることが、テレビの中のことと同じに見えてくる。
 だから、順番に答えさせるような指導をし出すと、迷惑がる
 「自分たちは視聴者であって、役者ではないはずだ・・・」「内職のじゃまをするな・・・」
 こういう教師が多い学校では、生徒同士の関係も同じようなものになっていきます。
 さすがに小学校ではごく少数でしょうが、一日6時間も「関係構築力」の不足している状況に置かれれば、「社会性」が育まれる可能性はどんどん小さくなっていくでしょう。
 昔は、「社会性」がほとんどないのに、「社会科」の成績だけはよい、という子どもがいたかもしれません。
 社会科の目標がいかに指導者の側に認識されていないかが象徴的に見られる事例です。
 【試験問題】 あなたが学級経営の中で、「共感的な人間関係を築く」という目標を掲げた場合、それを実現するためにあなた自身が心がけようと思うことは何ですか。また、その心がけがなぜ生徒たちの共感的な人間関係を築くことに結びつくのですか。述べなさい。

ゴレンジャーと教師のオーラ ふり返り366日【08/5/4-2】

 長寿シリーズの代表格,スーパー戦隊シリーズものは,私が子どものころ観ていた「ゴレンジャー」から始まったようです。
 ウィキペディアで調べると,たいへん詳しい内容が紹介されているのがわかります。
 スーパー戦隊シリーズのパロディーなどは,聞いたことのないものばかりでした(シリーズそのものも自分のときや子どもが小さいときに一緒に観ていたものしか知りませんが)。

 赤いコスチュームに身を包んだキャラクターがリーダーであることは一般的だったような気がしますが,「カラー」別の具体的な個性については,ウィキペディアの記事を読むまでは具体的に知る機会がありませんでした。

 色が持つイメージからキャラクターづくりを行っている歴史が長いため,ステレオタイプ的な人間理解を定着させてきた役割については,研究の対象にしてもよいかもしれません。

 アカレンジャー・・・「優れた決断力と統率力を持ったリーダー義理人情に厚い熱血漢で、時には大人の余裕も見せる。正々堂々とした立ち振る舞いを好み、騙し討ちなどの卑怯な手段を使う者に対しては激しい怒りを見せる。」
 
 赤という色のイメージから連想される人間の特徴がよく表現されています。

 アオレンジャー・・・「メカの操作、各種乗り物(車両は言うに及ばず、船舶・航空機も)の操縦に長けている。人間嫌いな故にメカを愛するクールな二枚目だが意外と子供には優しい一面も持っている。

 青がもつ「クール」なイメージから,「人間嫌い=機械好き」「機械好き=人間嫌い」(逆に,「機械が嫌い=人間味がある」なども・・)というステレオタイプが生まれたのでしょうか。

 キレンジャー(初代)・・・「精密機械や通信関係のスペシャリストで、相手を撹乱する作戦ではその実力を発揮する。戦闘時は得意な柔道を駆使して相手を投げ飛ばす、また自身の怪力や頭突きを武器とした格闘戦を挑むことが多い。性格的には純朴で女性や子供にも優しい面が強いが故に敵にそこを突かれて策略に嵌り捕獲される事も多い。カレーに関しては目が無く・・・・」「なぞなぞは苦手なようで、太郎や明日香になぞなぞを出されると「何じゃらホイ。」とゴンや他の人に振っていつもゴンに馬鹿にされている。」

 キレンジャー(2代目)・・・「カレーが大好物の大岩に対してあんみつなど甘いものを好む。趣味は釣り。相撲が得意な肉弾派で猪突猛進気味の性格。」

 黄がもつイメージは,力技中心で頭脳的でない。気は優しくて力持ち・・・西遊記で言えば猪八戒が身につけて似合うという色でしょうか。

 モモレンジャー・・・「父がスイス人、母が日本人のハーフ。・・・武器開発と爆発物処理を得意とする紅一点。お嬢さま。非常に落ち着いた性格で明日香(ミドレンジャー)の抑え役に廻る事も度々ある。」

 女性はピンクというのは代表的なステレオタイプ。

 ミドレンジャー・・・「動物や自然をこよなく愛する。しかし格闘能力は高く、持ち味のスピードを駆使して遠近用万能武器ミドメランを使用して戦う。挿入歌によるとなぞなぞが得意なようで、本編でも時々大岩になぞなぞを出している。」

 緑と言えば自然,ということでしょうか。確かに,壁が緑色の火力発電所とかは似合わないですが・・・。

 教育現場では,カラーで子どもをコントロールするわけではありませんが,それぞれのカラーを連想させるようなオーラをもつ教師が存在すると,子どもの生活にも張りがでてくるのでしょう。

 あるいは,一人の教師がさまざまなカラーのオーラをコントロールできるような能力をもっているともっとおもしろそうです。 

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08/5/4 教師の自信と「オーラ」の源泉

 教師の自信とは何でしょう。
 教師は自信を持っていないとすぐに生徒に見破られ、存在意義を認めてもらえなくなります。
 生徒指導や部活動の指導には自信はなくても、教科の指導にだけは自信をもっていてもらいたいものです。
 教師のブログを見ると、失敗談を語っているにしてもそこには教育への自信があふれていたり、見え隠れしているのが普通でしょう。
 しかし、教師にとっての本当の自信とは、どんなに失敗したり、授業がうまくいかなかったり、指導が通らなかったりしても、決して生徒のせいにするのではなく、自分の能力不足であることをしっかり自覚し、くじけず、真摯に教育に正対し続けられることへの自信でなければなりません。
 私はリーダーを担っていたり、リーダーを目指したりしている子どもにハッパをかけるとき、よく「オーラが足りない」と言います。
 教師には七色のオーラが必要ですが、せめて学級委員には、クラスをまとめて盛り上げる赤のオーラと、けじめをつけ集中すべきときは集中させる青のオーラが必要です。
 教育実習生には、「教材」という最強の武器によって生徒を攻撃したり、「話術としぐさ」という防具によって生徒を包んだりできるように指導します。
 教師という職業の場合は、最強のオーラの部分が実は最大の弱点になっていたりして、常に勝者ではあり得ません。子どもを勝者にするために、何かを犠牲にするのです。
 まれに現場を離れて評論家になってしまったり大学の先生になる人がいますよね。そういう犠牲者になると、どんなオーラが最も失われるか、本人たちはよくわかっているでしょう。オーラの源泉は教育をすべき子どもたちにあるのであって、紙やパソコンの画面にある文字はあくまでも触媒としてとらえておいてほしいと思います。~GAKUさんへ~

小学校の教師が誤解している「学習意欲」

 教育雑誌を読んでいると,「ハイハイ」とほとんど全員が手を挙げて発言の機会を得ようとしている授業を「よい授業」と捉えたり,そういう子どもたちの「学習意欲」が高いと判断しているような実践紹介に出会います。
 
 それは「学習意欲」ではなく,「教師に指名されるという,解答の権利を得ようとする意欲」のことです。

 そしてその意欲は何に由来しているかというと,「教師に自分を認めてもらいたい」という欲求です。

 その証拠に,「解答の権利を与えられなかった」子どもは,正しい解答にたどりついていたにもかかわらず,不満げな表情を浮かべ,「なぜあててくれなかったのか=私に権利を与えなかったのはなぜか」と訴えでもするような目をすることがあるでしょう。

 また,正解や自分の答えを教師に伝える目的で挙手したわけではない子どもがいることは,指名すると「わかりません」と答えることでもわかります。

 教師は,問いによっては,たった一人の子どもに「喜び」を与え,他の子どもには「失望」を与えているに過ぎません。

 このようなシステムは,「教師の権威」をつくり出すことでしか「学級内での学習環境」を維持できない学校・教師特有のものです。

 教師がもし一人ひとりの子どもに対するまじめな問いを発しているのであれば,全員にノートに書かせて互いに意見交換させたり,それをもとによりよい解答を追究させるなどの工夫ができるはずです。

 それをしないのは,学級内で唯一「指名権」をもっているという,教師の既得権益を守るためでしょう。

 「自分を認めてもらいたい」という欲求は高校生になっても続きますが,「授業中に指名される」程度のことで満足できる欲求ではないことがわかってきているので,「解答可能な質問」であっても挙手をすることがまれになってきます。

 「挙手をする」=「学習意欲が高い」という固定観念と相対評価の概念で授業を展開している教師が,「挙手をしていない」=「学習意欲が乏しい」と誤解してしまうと,教室の中は,「挙手をしている生徒と挙手をしていない生徒」=「学習意欲が高い生徒と低い生徒」という誤った二つのグループだけに分けられてしまいます。

 しかし,大切なのは,「理解ができて表現することが可能になっている子ども」と,「理解はできているが表現することができない子ども」と,「理解ができていないので表現することができない子ども」がいることを想定することと,それぞれの子どもにどのような指導を行うかということです。

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最悪のM教師とは?

 文月さんから以下のコメントをいただきました。

その教員養成系大学の先生にお伝えしたいものですが、 ちなみに、私は優秀ではありませんが、私が教師になろうとしなかったのは、教師に対するバッシングが原因ではなく、 問題教師たちの存在が大きいです。問題教師たちと一緒に仕事を続けることができないと思ったからです。 問題教師たちにより、退職に追い込まれる危険を感じているからです。 本当に悪いのは教師バッシングをする保護者ではなく、バッシングされる教師のほうであることも多いと 感じているからこそ、教師になろうとしない若者も多いのだろうと私は思っています。 学生の頃、問題教師たちに、暴行などで人権侵害されつづけて、それでもその教師たちと仕事がしたい若者などいるのか! と考えれば答えは見えてくるはずなのに、その大学の先生はそういう視点で考えられていないのでしょうかね。 私は、学生時代に長い間、問題教師たちに悩まされてきました。 そういう背景もあり、kurazohさんによる問題教師批判は、たいへん意義のある素晴らしいことだと思っています。 これからも教師の悪いところを批判すべきは批判して、問題教師根絶に向けて教育界を浄化していって下さいね。 公教育が良くなることを願っています。
   バッシングが原因でその職業に就きたくないと思うような人間は,就くべきではありませんね。

 また,「教師は尊敬されるべき存在なのに,尊敬されていない現状はおかしい」などと,教師にまだなってもいない人間が言うのもおかしな話です。現役の教師も同じですが・・・。

 問題教師・・・いわゆるM教員には,さまざまなタイプがいます。

 多くの子どもや保護者の側からすると,体罰を行使してでもルールを守らせよう,規律正しい生活を送らせようとする教師は,「M教師」ではなく,「指導熱心な教師」に分類されてしまいます。

 人に暴力をふるったり,ものを隠したり盗んだり,暴言を吐いたり,勝手気ままな行動をとって迷惑をかけたりするような子どもが放置されているような学校より,教師が力でそれらを押さえつけて学習が成立するような環境を望む子どもや保護者は多いものです。

 しかし,その手段を「腕力」に頼ってしまうと,表面上は沈静化しているような問題も,実は次の噴火のためにマグマをためているような状態になり,「腕力」のない教師集団になったときに一気に爆発する恐れが出てしまいます。

 ですから,もしも「緊急措置」としての「腕力」に頼っているような学校があれば,早く「授業力」「人間力」に重心をおいた「指導」が実現できる学校に「変わる」べきです。

 私が考える救いようのない「M教師」は,「問題」が見えていない教師です。

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「学習意欲」とは何に対するどんな意欲? ふり返り366日【08/5/2】

 校内で研究授業を行う場合は,普通,何かの「テーマ」があります。

 よくあるのが,「学習意欲を高める授業の工夫」など。

 これについては,裏返して考えれば,「学習意欲を高める授業ができていない」ということ。

 もう少し別の角度から見れば,子どもがもっている「学習意欲」の正体が見えていないということ。

 あるいは,その原因として,どのような「学習」に対する「意欲」を問題にしているかがはっきりしていないということ。
 
 多くの教師は,学習意欲を「ある学習対象・学習内容を理解して身につけていこうとする意欲」と考えていますが,「生きる力」を育成する観点から言えば,「課題を見つける意欲」「表現によって自分の考えや気持ちを相手に伝える意欲」などというのも子どもには身につけてほしい「意欲」の一つです。

 あまりに広範囲な対象を扱っていては,深い「研究」にはなりません。

 「広くかつ深い」教養を身につけるために教師がすべきことについても考えていく必要があるでしょう。
 
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08/5/2 社会科教師の逆コンピテンシー その3 研究授業

 第3回は、「自己変革力(①自己のC創造力)」不足による問題です。
 ごくまれに、優れた教師に教育を受けたおかげで、初任者として教壇に立ってすぐに優れた授業ができる人もいるでしょうが、多くの教師は経験を重ねるとともに成長していきます(成長していくはずです)。

 ただ、校務には慣れていっても、「新採のころの方が指導案を書いていただけ、まだましだった」・・・などという教師がいます。そもそも免許更新制の導入は、こういう教師をなくすことが主眼であると映ることでしょう。
 中学校の場合は、過去に自分が実施した研究授業の回数を経験年数で割り算したとき、1に満たない教師が多いことでしょう。

 その研究授業というのも、実質「お疲れ様でした」という感想しかでない「持ち回りの不幸の時間」であっては何の意味もありません。
 「研修のための研修」「研究のための研究」ではなく、「子どものために指導力を向上させる研修・研究」であるべきことは言うまでもありません。

 半端な自信をもっていて、研究授業に臨もうとしない社会科教師の多くは、生徒ではなく教師(自分自身)の「学習発表会」をし、生徒を聞き役にしているだけです。
 どういう課題をもっているにせよ、それを克服しようとしない姿勢が忌むべき逆コンピテンシーです。
 また、「自己変革力」は教師だけでなく、子どもにも求めていくべきコンピテンシーでしょう。その力を促すための「魔法の言葉」を駆使できるのが理想の教師像として想定できます。
試験問題】 あなたが教師をしていて、「この言葉かけが生徒を変えた!」と自信をもって言えるものをいくつか挙げ、その言葉によってどのように生徒が変わったのか、またそれはなぜか、述べなさい。

授業の中の「つなぎ」の効果 ふり返り366日【08/5/1】

 授業の展開の中で,「つなぎ」用の話というのが単元ごとにいくつかあります。

 子どもの発言から「つなげる」ものや,逆に何も発表されない場面で「つなぐ」ためのもの,単純に意識が遠のいた子どもを「取り返す」ために「つなぐ」話題など,さまざまです。

 この「つなぎ」には,全然違う背景の中に画像を溶け込ませるための「ぼかし」のような効果があるものもあり,そもそも「授業化」のために無理をして構成している教材の「違和感」をなくし,「すわり心地」をよくする効果をもっています。

 ここで「それが出てくる」ことの必然性を生徒が感じられるような教材は,優れた教材であり,そこに意外性が加われば,教師の腕が信頼されるきっかけになるのです。

 つなぎに適した教材や発問のパターンが分析できるとおもしろいと思われます。

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08/5/1 社会科教師の逆コンピテンシー その2 導入・展開・まとめ

 第2回は、「自己展開力(①自己のB調整・統合力)」不足による問題です。
 一見すると、社会科教師には「自己展開力」が抜群だと評価されてしまう人がいます。
 よく「独演会」と批判される教師主導の授業をする人です。
 教師主導でも、それが子どもの学習を導いているなら問題はないのですが、流しっぱなしのテレビをみるように子どもが授業に臨んでいるタイプの授業はいただけません
 子どもに「自己展開力」を身に付けさせることが教師の仕事であり、教師の話芸を見せつけるだけで終わってしまっては、学習に主体的に臨むことができない子どもを生んでしまいます。
 50分の時間中、笑いが絶えない授業がときにはあってもよいのでしょうが、子どもを「お客さん」のように扱って満足させて終わりでは、教科の目標は達成できないでしょう。
 授業での指導過程には「展開」という中核部分がありますが、その前に位置づく「導入」の使い方、そして授業の最後の「まとめ」の使い方の巧妙さが、50分の授業を実のあるものにするコツであると言われています。
 (このコンピテンシーは、「戦略遂行力」とも関連があります。)
試験問題】 ○○の単元を扱うとき、次のいくつかの資料のうち、導入・展開・まとめで活用すると効果的なものを2つずつ選び、その根拠と具体的な活用法を述べなさい。

観点間の相対評価は行われていないか? ふり返り366日【08/4/30】

 私は,「授業への緊張感」を保つ能力が,多くの教師にとって失われているのだと考えています。

 観点別学習状況の評価が行われるようになって,教師としてつらいのが,「関心・意欲・態度」で「C」をつけることです。
 教師にとって,「C」をつけたということは,その単元の学習の「おもしろさ」「楽しさ」「充実感」を子どもに持たせることができなかったことを証明する評価でもあるからです。

 教師として醜いのが,「関心・意欲・態度」で「C」がつかないようにするために,「ものをあげる」行為をすることです。自分の態度が「もの」に交換される仕組みを子どもが学ぶと,学習の「目的」が変わってきてしまうおそれがあります。

 学習の中で,この観点は最も子どもの主体性の部分を評価することになるので,ある見方からすれば,これで「A」をとることは本来,非常に困難な観点であるはずなのです。

 5段階評価が1か2の生徒で,「関心・意欲・態度」が「A」の生徒がいるとしたら,これはもうまず間違いなく,「目標準拠評価」ではなく,「観点間の相対評価」に他なりません。

 「思考・判断」とか「知識・理解」は劣るけど,それに比べれば,「関心・意欲・態度」では評価できる・・・というのは,目標準拠評価ではなく,相対評価です。

 また,赤点取ると居残りさせるとか脅して,無理やり「知識・理解」を上げさせる教師がいるかもしれませんが,子どもの自主性も主体性もなく嫌々やらせるだけでも,テストの点が取れるようになれば,高い評価をつけることができるようになります。「関心・意欲・態度」を評価する場面が全くなくても,「耐えられた態度」を評価してしまう場合もあるでしょう。

 おかしな話です。
 
 観点別評価が有効な点を一つだけ上げれば,それは教師の指導力を問うことができる評価だということです。

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08/4/30 社会科教師の逆コンピテンシー その1 授業への不安

 ①自己(教師自身)の分野は、「○○先生と学ぶ社会科は、楽しくないし、充実しているとは言えない」と生徒が感じてしまう逆コンピテンシーです。
 今回はそのうち、「自己統制力(①自己・A実行力)」不足による問題です。
 「生徒に対して威圧的である」と言われる私などはこれにあてはまる素質が強いのですが、具体的には、教師の立ち振る舞い、言葉遣いなどのせいで、生徒が安心感をもってのぞめない授業が展開されていることです。
 「安心感」は「信頼感」という言葉で置き換えてもいいかもしれません。
 他の逆コンピテンシーと複合的に表れるこの問題は、戦略でカバーできる可能性もありますが、生徒に苦痛を与えていることを考えれば、すぐにでも改善したいことです。
 社会科の場合、ありがちなのは、「この先生は右と左、どちらに偏っているのか?」ということに生徒が関心を持ち、場合によっては、それに合わせた論理を展開していかないと、成績に差し障るケースがある。
 このような偏りは見えやすいので生徒も対処の方法がありますが、難しいのは、「自信がない」ことが見えてしまう教師の場合、子どもがどこまで思いやりの目で見られるか、ということです。
 あまり誤字や脱字が板書で多かったり、難読地名や人名などが読めなかったりすると、その専門性が疑われ、たちまち信頼を失ってしまいます。
 ただ、この逆コンピテンシーには「逆の意味のよい効果」・・・「(間違ったことを教えられている可能性があるので)教科書や参考書をきちんと読んでおかなければいけない」という学習への自覚を高める効果もありそうです。
 【試験問題】 できる生徒はよりできるようになるのはよいにしても、できない生徒はできないまま、という結果にならないようにするには、どうしたらよいのでしょうか。

「教科書」ではなく「学習書」の無償配布を ふり返り366日【08/5/3-2】

 社会科の話で言えば,多くの公立学校では,教科書の他に,資料集やワークなどを保護者負担の教材費で購入し,授業等で活用しています。

 教科書だけでは学習が定着しない,あるいは,充実した学習が展開できない,学習が完結しない,などというのは一般的な認識であるように思います。

 一人当たりの教材費が教科ごとに1000円を超えないあたりがおおむね妥当だと思われている学校が多いのではないでしょうか。

 ということは,年間1000円までは買ってもらうのが当たり前ということで,そうすると教科書と同じくらいの金額が教育にはかかっていると考えることができます。

 もし,教科書の内容が今の2倍くらいになったらどうでしょうか。

 もちろん,練習問題発展課題なども含んだ量です。

 厚くなると重くて持ち運びがたいへんなので,いくつかの分冊になるのでしょう。

 教材作成会社が困らないように,現状は続くのでしょうが・・・。

 学習の主体をあくまでも子どもにおき,「教科書」ではなく,「学習書」を無償でもたせるという発想の転換がほしいものです。

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08/5/3 教科書の革新が学力向上への切り札か

 教育費の内訳を、公立中と私立中で比較すると見えてくるものがあります。
 公立は年平均で47万円、私立は127万円
 学習塾代は、公立が18万円で私立は12万円
 教育費に占める学習塾代の割合は、公立では37%、私立では9%
 公立では、教育費の3分の1以上が学校外の学習のための費用となっているわけです。
 この学習は補習、受験対策など、目的はさまざまなでしょうが、学習塾に通っていない子どもも多いことを考えると、通わせている家庭の出費はかなり大きいものであることが考えられます。
 学習塾の費用対効果の分析結果というのがあるのかどうか、わかりませんが、それなりに効果があるものであるとすると、学力格差が生まれる原因(格差が縮小する原因でもあるわけですが・・・)の一つに、学習塾での学習というのがあるわけです。
 「学力格差」を問題視する人でも、「学習塾を廃止せよ」と主張する人はごくわずかでしょうが、学習塾自体が少ない自治体で、学校にその機能をもたせようとする発想が生まれることは不思議ではありません。
 学力は、学校での教師の指導力で身に付いているのか、子どもが塾で身に付けたのか、通信添削のテキストやテストで身に付けたのかは、実際のところわかりません
 私立の子どもでも、公立の子どもの3分の2は学習塾代として支出しているわけなので、同様のことが言えます。
 学習指導要領(そこで示されている授業時数)に基づいて学習時間がどうこうという議論がありますが、ここには学習塾等でのカリキュラム、学校や学習塾の宿題にかける時間量なども含めて考える必要があります。
 文科省の学力調査でもかなりつっこんだ質問もありますが、塾関係・教科別の質問項目は「文科省は塾での学習を勧めているようだ」と捉えられかねないので、実際には出せません。
 「量より質」といいますが、単なる量でも実態調査は難しいものです。 
 いずれにせよ、「主たる教材」として無償で配付される教科書が、現在のレベルのものではなく、学習塾の優れた教材の分析も行って、「塾でも使えるテキスト」になれば、学力向上の近道になると私は考えています。
 教科書は持ち運びが「重くなる」ことを理由にページ数も限定されていますが、家用と学校用の二冊を配付するのがポイントです。

教師バッシングでの「ふるい落とし」は有効 ふり返り366日【08/5/2-2】

 間もなく教育実習が始まる時期になります。
 1年前にコメントいただいたGAKUさんは,今頃どうしていらっしゃるのでしょう。

 大学のプロジェクト研究のなかにも,教師教育の充実というテーマがあり,その中で教育実習の重みがよく話題になります。

 教育実習の経験を通じて,自分の教師という職業への向き・不向き情熱のあり方,今までの学習・研究の成果や課題,年齢が離れた子どもたちとのコミュニケーション能力などがある程度,自己評価できるようになります。
 
 最近,教員養成系大学の先生からは,なかなか優秀な学生が教師になろうとしないという嘆きの声がきかれ,その原因は教師に対するバッシングにある,というお話を伺いましたが,私にしてみれば,まだバッシングがきているうちに,教師教育も充実させた方がよいと考えられるわけです。

 バッシングがふるい落としになるのなら,柔道で言えば「有効」ぐらいにあたるでしょうか。

 ある方は,このブログの主張を「信用失墜行為」だと明言されているようですが,「同情ください」系の主張にしろ,「問題はありません」系の隠蔽癖にしろ,教師としては「情けない」の一言に尽きます。

 教育実習生には,教育の仕事の困難さを嫌というほど感じてもらい,バッシングに左右されない強い意志をもって子どもの成長のために尽くす一生懸命な姿の尊さを実感してほしいと思っています。
 そういう経験をした教師だけでなく,保護者が増えることが,「学校教育」などという狭い枠にとらわれない,本物の教育が語れる社会ができていくと考えられます。
 
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08/5/2 教育実習生を評価する想定レベル

 教師を志望されているGAKUさんから以下のコメントをいただきました。ありがとうございます。
 
>教育実習の際では「学習発表会」と言う名の研究授業を多く見ました。疑問を感じていたのですが、多くの先生方は絶賛及び、お疲れ様ですと言う感じでした。

 教職希望の方や、自信のない現場の教師が読むブログとしては適切ではないかもしれませんが、免許更新などでは実現しきれないレベルアップを現場(=子どもが主体)の意地で達成してほしいという願いをこめて書いています。
 さて、多くの教師の授業が、生徒の学習発表と大差ないレベルにあることは今まで何度かふれてきました。
 まだ生徒よりましな発表なら問題はないのですが、教育実習だと「教えてわからせる」という要素を入れようとする分、より「わかりにくくなる」ケースが多くなります。
 指導者の「評価」の基準も非常にさまざまで、
 1歳児のボール投げを褒めるレベル、
 小学生低学年のキャッチボールを褒めるレベル、
 中学生のコントロールを褒めるレベル、
 高校生の球威を褒めるレベル、
 大学生のピッチングの組み立てを褒めるレベル、
 イチローを抑えたピッチャーを褒めるレベル
と、対象にかける期待と連動して変わってくるわけです。

 教育実習なら、どのレベルでしょうか。
 口では褒め、評価はCというのもざらにあるでしょう。
 指導者=評価者の力量にも大きく左右されます。

 たとえば普通の公立で教育実習を実施する場合、私なら、まず大学の指導教官が現場に出向き、指導にあたる教師の授業力を評価した上で大学生を預け、3週間後には、何をどのように指導されたか、学生の何がどう成長したか(指導教官の指導力)をチェックすべきだと考えています。
 ペーパー免許のためのイベントの一種と考えている実習生には、ボールが届くだけでも十分評価してあげていいかもしれませんが、授業を受けた生徒がその時間内に学び損ねたものを認識して去っていってもらう必要があるので、結果としては厳しい自己評価となる指導となります。
 以前に紹介したかもしれませんが、以下に示す8項目は、私が指導助言したことがある教師の指導案を学生に読んでもらい、課題としてあげてもらったものですが、自分がこの課題を克服して授業づくりをする側になると、結局うまくいかなかった、となるケースが多くあります。
1 主題やねらい、目標があいまいである。
2 導入・展開・まとめがうまくつながっていない。
3 「考えを深める」ための資料(教材)がない。
4 「関心を高める」ための資料(教材)がない。
5 教師が一方的に説明する内容の量が多い。
6 発問が少ない。
7 生徒に作業させる時間の配分が少ない。
8 評価内容が指導内容と一致していない。
 この8項目を満たす指導案づくりというのはけっこう難しいものです。
 ある実習生が、「社会科は、先生が話したことと板書したことを暗記する教科だと思っていた」が、「子どもが自ら課題意識をもって考えることのない授業は、学習とはいえないことがわかった」という趣旨の感想を残してくれました。
 逆コンピテンシーの明確化、具体的な把握が、こういう自覚を生み、成長は、ここから始まるわけです。

 

教師と4番打者の自覚

 私は,日本の教育はもっと早く変わるチャンスがあったのに,それが実現できなかった一番大きな原因は,教師たちにあったと考えています。

 それは,教師の力が優秀ではなかったからとか,教師の資質・能力に問題があったからとか,そういう理由ではありません。
 
 問題は,「心がまえ」にあった(ある)のです。
 
 野球にたとえると,私の理想の教師像は,常勝チームの4番バッターのようなものです。

 結果が出れば持ち上げられるが,結果が出せなければ「4番のせいだ」といって叩かれる。

 本物の4番打者は,「勝ち負けは,チーム全体の問題なのだから,俺に言うのは筋違いだ」という当たり前の言い訳など決してしません。

 そして,変に自分を責めるのではなく,「期待に応え続けよう」と努力する。

 批判は,だまって受け入れる。ただひたすら,改善の道を模索する。何をやっているか,やろうとしているのかを説明する。協力を依頼する・・・。そういう当たり前のことができない人がなぜ教育関係者に多いのでしょうか。

 残念ながら,今の教育では,一部の子どもにとって,クリンナップは「塾の先生」になっているのかもしれません。
 学力は高めてくれる,勉強を好きにさせてくれる,学校の友達関係の悩み事の相談には乗ってくれる,楽しい海外旅行の経験の話をしてくれる,・・・
 子どもが求めているのは「点数」だけではありません。

 自虐的な教師たちは,下位打線でもスタメンはスタメンだ,とか,「つなぎができる打者であれば・・・」などと「プレッシャーのかからない位置」を求めていく。

 公立学校の教育現場では,ときどき学級が崩壊して「代打」「代走」が出されることがあるのはよく知られているでしょう。

 ベンチの隅にずっと座っていても,同じ給与が維持できて,2軍に落ちて調整していても,年度が変われば昇給していく,・・・そんなことが許されてよいのか?という「」に,学校現場は「野次だ」といって耳をふさいだり,聞かないふりをしていたりしてきましたが,そのことが,「教育が変わらない」原因の一つになってきたのです。

 「学校は危機的状況にはない」
 「企業のマネジメント理論は学校の役に立たない」
 「企業のマネジメント理論は危機的な状況にある企業をみれば怪しいものであるといえる」

 確かに,今までの学校の教師の中には,何の危機も感じないで生きてこられた人がたくさんいたのでしょう。

 それが,免許更新制度が始まったり,たいした差もつかない成果主義が導入されたくらいで大騒ぎし,「自分の身分保障の危機」ばかりにあわてている現状を見れば,「何が危機だったのか」ははっきり見えてきたはずです。

 教師が地域を取り込み,「改革」に成功している学校というのは,「自分の身分の危機」を心配する前に,「もっと何とかしてあげたい子ども」のことを考え,「よりよい教育」を求めて努力を続けているわけです。

 だから子どもや地域が動くわけです。

 「今のが限界だから,あきらめてもらおう」などとは言わないのです。

 4番バッターが,「私の打撃には限界があります」と言って,3割,30本以上は打てませんと公言しますか。

 仮にそういうとして,「それはそうだな」とうなずいてもらえる数字というのは,どの程度の数字でしょうか?

 「公教育に限界がある」のは当たり前です。

 ただ,「最低保障をすればいい」などといったときの「最低レベル」というのはどんなレベルなのでしょう?

 もし最低保障が「学習指導要領のレベル」だとすると,それは達成されていません。

 もし,「」の教育の機会が潤沢だから,それを活用するのが合理的だという論理があるとしたら,「公教育が公的資金をさいて『私』を活用しないのはなぜか」ということが問題になるでしょう。

 もし「最低保障」を果たすために,「」を活用した方が「公教育」によるものより半分とか3分の1のコストでできるとしたら,政策上どうするのが最適なのか,という話になっていってしまいます。

 「」の活用を「公教育」の側が拒絶しているとしたら,それは自分たちにとって恵まれた既得権益を守りたいだけに他なりません。

 「自分に何がどれだけできるのか」を真剣に考えようとしない教師をどう変えていくのか。

 こういうことを正面きって行っていく主体に行政がなれなかったことも,日本の教育が変わらない原因の一つでしょう。

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だめであることはわかっているが・・・

 文月さん,以下のコメントありがとうございます。
 後半のおふざけの部分は別として,「ユニフォーム」に関しては話は尽きませんね。

 「金儲け」には関係のない,たとえば警察官とか作業着風の貸与服がある役所の職員などにもあてはまる話ではないでしょうか。このような「」の人たちと,「中学生」にはどのような違いがあるのでしょうか。

 あの新庄選手が「個性的」なユニフォームの着方をして,ファンは喜んでも球団や協会がまったをかけることがありました。今の日本では,「まったをかける」感覚の方が,一般的な見方なのでしょう。

 だらしのない着方をしている生徒たちも,入学試験会場,面接会場には,そのままの格好ではいきません

 それは子どもたちが「そういう格好ではだめ」であることが十分にわかっているからでしょう。

 大事にすべきなのは,「だめであることはわかっているのにやってしまう」子どもに「だめだ」と言ってとめてあげられる大人ではないでしょうか。
 
 中には,「本気でだめだと思っていない」子どももいるかもしれませんが,私の場合,親も子どもも「本気」なら,あきらめるしかないか・・・と思うことはあります。

 気の毒なのは,「本気」ではなく,「だめだとはわかっている」のに,「合わせていかないといじめられる,友達でなくなってしまう」という理由で「だめなこと」をしている(させられている)子どもです。

 そういう子どもは守ってあげなければなりません。

 とてもうるさい存在ですが,「世界一テレビ漬け」の子どもに,「もう寝なさい」と言ってくれる親は必要でしょう。

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kurazohさんお久しぶりです。文月です。 初コメントです。

>なぜ学校社会ではそれが許されてしまうのか。

私は、金儲けが目的の企業と金儲けが目的ではない学校との違いだと思っています。
企業では「だらしのない着方」をすれば、金儲けに支障が出るから(労働者にとっては給料が減る)から、
きちんとした着かたをする。
学校ではミニスカートをはいても、金儲けに支障がでない(生徒は給料はもらわない)から、
「だらしのない着方」も許容される。
以上のように考えています。
私は、だらしのない着方、たとえば「ミニスカート」などでも問題ないと考えています。
それぞれの個性を大切にしてあげたいです。
なので、私が教師であっても、この件に関しては熱心に生徒指導はしませんのであしからず。
内心は生徒応援していることでしょう。
学校では、生徒の服装・髪型がどうであれ、企業と違って、直接金儲けに支障が出ないから、
人権を尊重して問題ないと思っています。(「ミニスカート」でも問題ないと)
お金を取るか、人権をとるかで、お金を優先したのが企業でしょうね。
学校は人権を優先したからさまざまな服装が許されるのだと思います。
許されるのはとってもいいことだと思っています。
本来は企業でも許されるべきだと思いますが、お金儲けのため、許されていないのでしょうね。
性同一性障害と認定された方も企業ではお金儲けのために、不自由な目にあわされていました。
企業はお金儲けがすべてなので、人権がないがしろにされていますね。

kurazohさん、いつの日か自由な校風を実現してくださいませ。
応援していますから。自由と権利の保障された学校にしていってくださいね。

・・・教師が「制服」になるのはおそろしい話ですが・・・。
あら、そうなのですね。私は案外いいかもと。内心では楽しいかもと思っていらっしゃるのでは?
男女問わず、美人な先生のセーラー服姿とか見たいです。素敵です。
kurazohさんの制服姿も見たいです。kurazohさんのズボン姿もスカート姿も両方とも見たいです。
スカート制服姿とか可愛いかもと思います。生徒にも人気かも。

kurazohさんは、学生の頃、スカート制服とか着用したい思ったことはないですか?
私はありますよ。美人スカート制服男子になりたいです。
でも私はこれまで生きてきて、女性の衣服を身にまとったことは実はまだ一度もないのです。
kurazohさんはどうですか。ありますか?ないですか?
あれば、ご指南をお願いいたします。
なければ、もし変身したいと思われたときはぜひご一報を。
そのときはこっそりと(笑)、一緒に見た目「男の娘」になりましょう!!きっと楽しいと思います。
女装デビューは皆でぜひ一緒に!ネットで交流のある方々も誘ってやれたらいいなと思います。
だれかお手本となるニューハーフさんとか女装娘さんとかがいてくれたらいいのだけど・・。
まずろさんに化粧をおしえてもらうとか。すずめさんに化粧をおしえてもらうとか。
すずめ先生、お元気かなあ・・。心配です。早くお元気になられるといいですね。

kurazohさんは、色々と面白い方、楽しい方だなと思っています。思えば長い付き合いですね。
生徒たちにやさしい・甘いkurazohさんでいて下さいね。
kurazohさんは相当な頑張りやさんだと思われますので、
たまには力を抜いてのんびりと違った人生を楽しまれるのもいいと思いますよ。
基本的に私は、人にやさしい・甘い人間です。色もピンクとか赤とか甘い色が好きです。

変わらなくてよい学校とは?

[教師] ブログ村キーワード

 学校のあり方を問おうとするとき,「不登校が減ってきているからいい」とか,「暴力行為がおこってない学校だからいい」とか,「今,現在」の姿だけを見てどうこう言うような,せまいスパンの問題設定の仕方で,「教育」を語ることができるのでしょうか

 教育は,「国家百年の計」と言えた時代は,去ってしまったのでしょうか。

 教育が直面している最大の問題は,「百年」などという長いスパンでは想像もできないほどの速さで社会が変化していることにあるのかもしれません。

 それこそ企業なら,極端な話,一寸先は闇の世界です。

 ソースコード問題のように,一年先の大問題にどうそなえるかが課題になっているIT関連企業もあります。

 それに対して,今,教育を受けている子どもは,「現時点」において「一寸先は闇」の状態にはありません

 免許更新制度ができたとはいえ,ほとんど絶対的な身分保障がある公立の教師も,そういう意味で,「子どもと同じ」です。

 資本主義社会では,子どもの多くは将来,競争社会で生きていくことになるわけです。
 それに対して,教師は,「子どものときのまま」です。

 教師になった人はそう感じていない人が多いのかもしれませんが,一般の人たちが,みんな「かつて受けてきた公教育で十分満足であった」「今の公教育にも不満はない」と思っているわけでは決してありません。

 子どもも同じでしょう。

 子どもたちは,より能力を開発し,個性を伸ばしてくれる,明るく楽しい学校生活を求めています。
 
 「」の側で保障された生活にどっぷり漬かっている人たちに,「」の世界で強く生き抜く力が育成できるのか,そういう疑問が今,公務員である教師たちに問われているわけです。

 国会議員による,官僚がコントロールする仕組みへの挑戦が始まっています。

 民主主義の国ならではの挑戦です。

 身分保障が困難な議員にも,世襲が多いという問題はありますが,それは不安定な地位ならではの問題であるともいえます。不安定な地位の中,危険をおかしてでも将来の国民のためにやれることをやる。そういう政治家像が広まれば,投票率も上昇するでしょう。

 それに対して,選考で通ってしまえば一生安泰という公務員が,自らの権利・利益を維持しようと努力している姿がいかに醜いものであるかということが,ようやく社会・一般に知られるようになりました。

 「新しい仕事はしたくない」「同じ給料で仕事を増やされたくない」という愚痴は,「収入を求めて新しい仕事にチャレンジしたい」「仕事をたくさんして給料分のはたらきをしたい」という意欲に比べ,どれだけみっともないものであるか。

 「学校は変わらなければならないのか

 ・・・子どもや社会の声を無視して,今のままで十分だという認識の学校は,変わらなければならないでしょう。
 
 「学校は変わらないのか」などという投げかけが起こり得ないほどの努力をしている学校は,そのまま変わらなくてよいのです。

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簡単にできる「血のにじむ」努力

[教師] ブログ村キーワード

 「血のにじむ」努力は簡単にできますが,「血のにじむような」努力はだれでもできるものではありません。

 野球では,バットをたくさん振り込むと,手のひらにマメができ,それが破れて血が出ます。

 「よくない握り方,振り方をしているからそうなるのだ」と言われます(イチローの手のひらはきれいであることはよく知られています)が,「よい振り方」「よい握り方」を探るためには,コーチからのアドバイスだけではだめで,たくさん振らなければなりません。

 振り込みといっても,1000回も振らないうちに,マメができ,血が出ることがあります。

 文字通りのままでいうと,これは「血のにじむ」努力をしているように思えてしまいますが,このような行動は「血のにじむような」努力とは言わないわけです。

 「一生懸命な姿がいちばん美しい」とは野村監督の言葉ですが,そういう言葉をかけることができるのは,努力を見ている側で,努力をしている側が口に出すことではありません

 教育界は,「仕事がたいへんだ」「苦労ばかりだ」とPRするのが得意です。

 特に変化に対応できない人たちは,「変化は必要ない」と訴えたがり,「不易と流行」を全く考えずに「今までどおり」のことを繰り返そうとします。

 「今までどおり」のどこが問題であるかはまた改めて記事にしていこうと思いますが,教師たちには「血のにじむ」努力ではなくて,「血のにじむような努力」が求められていることを忘れずに,特に自らに発破をかけるようなつもりでいこうと思います。 

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1番・坂本というチーム状況

 5月に入っても打順がほとんど定まらない巨人でしたが,とうとう4割バッター坂本の1番起用という日がやってきました。

 そして飛び出したサヨナラHR。

 サヨナラHRが飛び出した直後の原監督と伊原ヘッドコーチの握手の場面には,伊原ヘッドの提案で1番・坂本が実現したのではないかと思わせる雰囲気がありました。

 弱いチーム,負けが込んでいるチームでは,調子のよいバッターを上位にまわす,という作戦がとられることがあります。

 坂本1番という打順は,6日の横浜戦の結果からはオーライでも,「他に1番を任せられる選手がいない」というチームの危機を物語っているものとして私はとらえています。

 それにしても,坂本という選手は,想像以上に頭を使って野球をしている選手だということが,ヒーローインタビューからもうかがうことができました。

 また,自分の野球のスタイルをもっているだけでなく,1番打者として求められる資質への対応も見事に4打席目で果たすことができました。

 敵チームから,「意外性」ではなく「実力」を警戒される選手に成長していく4月・5月を目の当たりにしています。

 篠塚コーチも喜んでいることでしょう。

 巨人の連覇のキーマンになったことは,間違いありません。

機能を果たしていない「ユニフォーム」 ふり返り366日【08/5/1-2】

[制服] ブログ村キーワード

 私立高校と公立高校,私立中学と公立中学を生徒を比較して,大きく異なっている部分があるのは,「制服の着方」でしょう。

 私立の学校へはたいてい電車かバスで通学するのでしょうから,制服を身につけた生徒は変な言い方ですが「歩く広告塔」になっています。
 制服以外にも,指定のカバンや校章のように,学校を特定できる情報がありますが,有名な学校は制服で大体判断ができるでしょう。

 ですから,通学途中で人に迷惑がかかった場合,本人に直接注意したわけでなく(学校名を聞かれたわけでもなく)「おたくの生徒が・・・」と学校に苦情の電話がかかってくる場合があります。
 あるいは,「最近の生徒は・・・」と卒業生や退職した教師が連絡をよこしてくる場合もあります。

 「制服をどのように着ているか

でだいたいその生徒の学校に対する愛着とか責任感所属意識,本人の自覚,自信などが現われてくるものです。

 昔から,私立学校の選択上,「制服がかわいくないから行きたくない」という判断がありました(今もあるでしょう)。学校側にとっても,人気を上げるために制服を変えてみたり,バリエーションを増やして選択制にしてみたりと,けっこう神経を使う部分です。

 女子の場合は,スカートが短くできるかどうか=「かわいく」見える(自分や仲間内で思い込んでいるだけですが)スタイルをとれるかどうかが命という生徒もいますから,「指導の厳しさ」も学校選びの要素に入ってきます。

 公立高校の場合,そもそも制服がないところもありますが,校内に部外者・不審者が入ってきても気付かないというリスクを犯してでも,「自由」を優先するメリットは,「指導をしなくてすむ」ことです。

 公立中学校の場合,「荒れ」は頭髪・服装で「確信型」に昇格してしまいますから,何とか指導で正規の状態を維持しようとします。ただ,それでは「願望型」を「潜伏」させるだけの効果しかない場合もありますから,根気がいる仕事になります。結局,公立高校に進学すれば,やりたい放題になるのは目に見えているわけですが・・。
 最近は,服装・頭髪指導で学校を立て直そうとする公立高校も増えてきているかもしれません。

 いやらしい話ですが,「伝統校」の中には,「だらしなく制服を着る特権」のようなものを謳歌している生徒もいるようです。「伝統」に胡坐をかいていられる学校はごく少数なのでしょうが・・・。

 バイトにしろ,就職した後にしろ,「制服」で仕事をする職場というのはけっこうあるものです。

 そのような職業社会の現場では,「だらしのない着方」はまず見ることはありません。(映画では,ある国のある機関の人が,上のボタンをはずして仕事をさぼっている場面を見かけることがありますが・・・)

 なぜ学校社会ではそれが許されてしまうのか。

 ・・・教師が「制服」になるのはおそろしい話ですが・・・。
 

08/5/1
戦慄の「大人かわいい」と本物の主役

 「かわいい」はまだ流行語としての命を持ち続けているのでしょうか。
 身近ではそういう会話を耳にすることがほとんどないのでわからないのですが、「ムカツク」「KY」「キモイ」などのマイナス感情を示す言葉を連呼するよりは、プラスイメージの言葉を繰り返していた方が精神衛生上もよいのではないかと考えていました。
 しかし、「大人かわいい」といって、40代の女性がピンクのミニスカートをはいて「かわいく」している姿がテレビで特集されているのを見て、「こんなさらしもの扱いはあっていいのか?」と驚きました。
 インタビュアーのつっこみも意に介さず、あきれ顔のコメンテーターは営業妨害にならないように口をつぐみ、挙げ句の果ては家族総出演で・・・。
 女性の勇気は賞賛すべきもので、まさに「個性尊重」の時代にふさわしいことなのでしょうが、細部にこだわるおしゃれ心ではなく、そこまで大胆に服を着られると、実は主役は人間ではなくて、ピンクの洋服なのではないかと思い至りました。
 女子中学生にとって、アクセサリー、キーホルダーなどのファンシーグッズ、髪型、ミニスカートなどは破壊力の強い生活指導上の強敵です。
 ピンクの髪どめのゴムなど、細部から浸食されていく子どもの姿を見て、そこには実は「人間」が存在しているわけではなく、自分の目に見える「かわいい」グッズが主役であり、「人」ではなく「モノ」を褒められて満足するレベルの人格というものがよく理解できました。

野村監督のような校長は存在する?

[野村監督] ブログ村キーワード

 野村監督率いるチームを「野村再生工場」と最初に呼んだのはだれなのか,本を読んでいないので知らないのですが,選手は「工業製品」ではないのでちょっと抵抗があります。

 しかし,成功を手にした選手にとって,その「工場」で働くことには,かなりの意義があるでしょう。

 何が「再生」のきっかけになったのでしょうか。
 
 ミーティングや現場で選手を野村監督が直接指導する場面もあるかとは思いますが,基本的にはコーチとかトレーナーとか,選手を取り巻く環境が実力UPや実力の復活を可能にしているのだと考えられます。

 話を学校に移しますが,教育現場というところは,「引退」したくてもできない教師,「引退」させたくてもできない教師,昔は力を発揮していたはずなのに,いつまでたっても覇気がなく,成長できない教師など,もし「再生工場」があるのなら,そこへの派遣を希望する人もいるだろうという世界です。

 ただ,そこの工場長=校長コーチやトレーナー役の副校長や同僚などで,本当に「再生」が実現できる人は,どのくらいいるのでしょうか。

 そもそも,教師の「再生」は可能なのでしょうか。

 「教師は子どもに育てられるもの」と言った人がいました。
 
 野球選手にたとえれば,「プロ選手はファンに育てられるもの」に近いのでしょうか?

 今,教師としての成長が実感できていない教師は,まさか子どものせいにすることはないと思いますが,プロの選手が「ファンに喜んでもらうため」と考えるのと同じように,「子どもに喜んでもらるため」に日常的な努力を行っているでしょうか。

 職業人としての「厳しさ」については,プロ野球選手と学校の教師とでは,いろいろな意味で全く比較にならないという批判もあるでしょうが,職業に対する「自覚」という面では教師も野球選手に負けたくないものです。

 野村監督の,他の監督にはない「監督らしさ」とは,このような職業人としての厳しさを最も強く選手に要求する面にあると考えています。
 公立学校の校長で,帰宅後,公に向かってぼやいている人はいないかもしれませんが,どこか真似ができるところはないでしょうか。

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相性の良し悪しから長所・欠点が分析できるか?

 プロ野球の世界では,チームとチーム,打者と投手の相性の良し悪しというのがよく話題になります。同じチーム内でも,だれだれが投げる時は点が入りにくい,なんていやなジンクスまであります。

 「お得意様」とか,昔は貯金(勝数-敗数)が稼げるので「○○銀行」と呼ばれるチームもありました。

 対戦成績というデータに基づいて,首脳陣が判断している印象というものもあるでしょうし,たとえば投手自身,打者自身が認識している場合というのもあるでしょう。

 短い期間でも,巨人の内海は,阪神の金本からよく打たれているという印象があります。

 配球が読まれやすいキャッチャーのリードという影響があるかもしれませんが,何でもない場面でたくさん打ちとっているのに,大事な場面で打たれると,「打たれている」という印象が強まるのが「観戦者」から見た印象です。

 あまりそういう研究やデータを聞いたことがないのですが,ときどき,「特異」なケースというのがあります。

 左投手を苦手にしているはず打者が,ある左投手からだけはヒットをたくさん打っているとか・・・。

 こういうケースを分析していくと,ピッチャーの欠点とか,バッターの特徴がデータとして取り出せないでしょうか。

 それはバッターを研究するピッチャーの側で言うと,逆にそのバッターを打ちとるヒントが得られる可能性があるのではないかとも考えられます。

 どの選手か監督だったか,「負けること」「打たれること」を多く経験したおかげで,それが今の成功をもたらすきっかけとなる「有力な情報」を発見する鍵になったと・・・。

 野村監督が最初に言ったわけではないと思いますが,「負けるときは必然」「勝つときは偶然」という言葉には,印象の世界での確率的にはなるほどとうなずける面はあっても,「計算して勝っていく」ことを実践しているチームにとっては,やはりデータの分析力というのが問われてくることでしょう。

 人によっては,「考えてやっている野球」よりも,「本気でがむしゃらにやっている野球」の方がおもしろい,という見方をされることもあるのでしょうが,当事者たちは練習はがむしゃらにやっていても,本番となると考えざるを得ない,そんなものなのでしょう。

 教育の世界でも,知識だけ豊富に身に付けていても,「基礎体力」がなければ現場では使い物にならないわけです。本物の体力はもちろん,「知的筋力強化」も重要な練習メニューに入ります。

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教委制度改革への追い風と足枷 ふり返り366日【08/5/3-3】

 教育委員会という制度が抱えている問題は,「現場と行政」との間の溝より以前に,「行政と行政委員会」との間の溝を何とかしなければならないことを,行政の立場の人間はわかっているようです。行政といっても,直接住民の選挙で選ばれた知事がトップにいる地方自治体の話です。

 今日付けの日経新聞20面「グローカルView」で知事の半数が教育委員会改革を求めていることが示されていました。

 「知事の考え」というと,「教育への政治の介入」という側面が注目されますが,民主主義の世界における政治が,市民のためのものであるか,そうでないかを考慮せずに,「行政委員会」の力だけを強調するのはバランスを欠いている態度でしょう。

 「地方のパワー」が重視されている中で,かつ,行政の仕事の評価に社会の目が向くようになったことは,「制度改革」という流れや動きへの追い風となるはずです。

 それまでは「今まで通りでいいでしょう」という声に,「何も(改革のために)仕事を増やす必要はないでしょう」という声が重なって,「よりよい制度」,公正でかつ効率のよい制度を追究しようとする取り組みは十分に行われていませんでした。

 あとは,地方の政治,地方の改革といったときに,都道府県と市町村という二重構造の問題がどう克服されるか,それが大きな課題として残ることになりそうです。

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08/5/3 現場と行政の間の溝

 「行政は現場を知らない」という趣旨の記事をよく見かけますし、私もそういう趣旨のコメントをしたことがありますが、それは教師の実態の一面であって、別の面では現場の教師たちよりもはるかによくわかっている部分もあります。
 たとえばそれは、具体的な教師の問題行動犯罪の調書の概要とその処分内容、学校に寄せられるさまざまな苦情、管理職が行う教員の評価、学校では主に管理職や教務主任などが処理してしまうさまざまな調査の結果や分析などです。
 一方、行政には、たとえば教育現場の教師の「多忙感」というのは実感がわかないでしょう。
 企業や役所では、昼は必ず休憩時間が確保できて、職場を離れることが可能ですが、学校ではそうはいきません。では、休憩ができないかというと、中学校では空き時間が多い教科の教師を見ていればわかるように、よく職員室でお茶したりおしゃべりしている人もいます。
 職員室に残っている人数が多くなると、教員の立場からよく言えば「情報交換の時間」、しかしこれがもし役所でそういう実態があれば、すぐに「税金泥棒」と非難されることになります。
 「忙しい」が口癖の人はたいてい仕事ができなくて、仕事も集まらない。多忙感も忘れるほど多忙な人は、「忙しい」と口に出すことはなく、そして有能なら次々に仕事が集まってくる。
 別に有能なわけでもないのに、国の仕事、都の仕事、区の仕事、教材会社の仕事、教科書会社の仕事、NPOの仕事を兼ねながら、教務や進路、学年主任、学級担任、部活動の顧問、中体連の専門委員の仕事をしていたときは、今から考えれば忙しかったのかもしれませんが、さすがに出張が連続するようになったときは、「このまま現場にいていいのか」と疑問に思いました。「出張で忙しい」のは、現場の教師からはありがたがられるものではありません。
 行政に入ると、勤務の時間は変わらず、実質的に仕事量は3分の1以下になりましたが、使う神経は3倍以上になりました。
 「多忙状況」は簡単に「仕事量」÷「勤務時間」では求められないので、行政からは把握のしようがありません。
 学力の状況についても、学力調査で国語・算数・数学についてはある程度わかったとしても、その他の教科、道徳、総合などについてはどうでしょう。やるとしたら、指導要録の徹底分析でしょうが、この指導要録自体、今ほとんど存在価値が認められていません。
 上級校には抄本がいきますが、これを熟読する人はいないでしょう。
 観点別学習状況の評価を含め、指導要録の改訂には、困難を極めることが予想されます。
 行政と現場の溝を埋めるために、双方でなすべきことは多いのですが、それを深める努力をしている人が一部にいることは残念です。

一教師の「待ちの姿勢」を学校が「待ちの姿勢」で見られる限界 ふり返り366日【08/4/29-2】

 [小中学校] ブログ村キーワード

 中学校では,学年やクラスによって,その雰囲気,「カラー」というのものが大きく異なっている場合があります。

 おそらくそういう現象の原因を「まじめ」に研究したことがある人は少ないでしょう。

 そもそも「異なる」ことを認めないことが「正しい指導」に結びつくという信仰がある学校では,研究課題設定時点でブーイングがおこるかもしれません。

 あるいは,その原因が「担任による学級経営のあり方」にあるのではないかという「空気」がある学校では,「つるし上げ」になる可能性があるので,これも「遠慮しろ」というプレッシャーがかけられるパターンです。

 ただ,このような「学年や学級による違い」があるとして,「よくない学年・学級」と言えるところに所属している生徒にとって,「改善するきっかけ」「改善策」はどういうところに見出したらよいのでしょう。

 昔,担任が問題行動をその場で見ていても全く「注意しない」「指導しない」態度をとっていた学級があって,そのために学級の会や帰りの会などが収集がつかない状態で,あまりの混乱を見かねて隣のクラスの担任が指導しに入ってくるというケースがありました。

 授業中の態度も学年の中で最も落ち着きがなく,成績も不振になり,学年で状況を検討せずにはいられないところまで来てしまったのは,担任の「待ちの姿勢」に学年が「待ちの姿勢」でいられる限界を超えたからです。

 それ以後,他のクラスの担任の顔色や気配を感じ取るようになってからは,授業の態度はましになったのですが,今度は「生気を失った重苦しい雰囲気」が学級を覆うようになりました。

 学校の中で,数少ない「楽しみ」を奪われてしまって「望みを失った」かのような「子ども」があふれているクラスでした。

 「子どもと担任」の相性という話が,中学校で聞かれることがありますが,これがほとんどの時間を一緒に過ごさなければならない小学校の担任と子どもとの関係だったらどんなことが課題になりそうでしょうか・・・。

 小学校にしろ,中学校にしろ,子どもが学級担任,教科担任を選べないというのは当然ではありますが,だからこそ,教師がどうあるべきかを学年・学校単位でしっかり考えておかなければなりません。

 今までの学校では,子どもが所属する学級は,少なくとも一年間は固定でした。

 もし小学校で,学期ごとに学級が変わる(担任が変わる)という仕組みが現われたら,どんなメリット・デメリットがあるでしょうか

 中学校ではどうでしょうか。

 ・・・何ていう問題が「教員免許更新講習」の論文で出たらどうでしょう・・・。

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08/4/29 社会科教師の逆コンピテンシー特集 ~免許更新講習修了認定の試験対策~

 教員免許状更新講習の内容として、現在のところ、次の2つが示されています。
 ①教育の最新事情に関する事項・・・「教職についての省察」「子どもの変化についての理解」「教育政策の動向についての理解」「学校の内外での連携協力についての理解」で12時間以上。
 ②教科指導、生徒指導その他教育内容の充実に関する事項・・・各教科の指導法やその背景となる専門的内容、生徒指導など、幼児・児童・生徒に対する指導に係る各論的な内容で18時間以上。
 関心のある先生方が知りたいのは、「試験はどんな問題が出るのか?」ということです。
 開設者が作成して実施し、「文部科学大臣が告示する到達目標に掲げる内容について最低限の理解が得られていると認められる場合」に、講習の修了認定がおりることになっています。
 そもそもこの制度は、不適格教員の排除を目的とするようなイメージが強かったのですが、現在では、「最新の知識技能を身に付けることで、教員が自信と誇りを持って教壇に立ち、社会の尊敬と信頼を得ることを目指すもの」ということになりました。
 この目的は何を語っているかというと、教師の中に、「自信や誇りを持たずに(持てずに)教壇に立っている者がいる」「社会の尊敬と信頼が得られていない者がいる」ことに他ならないわけですが、文部科学省はそうは言えません。
 しかし、文科省が示す「最低限」程度の知識・技能があれば、社会の尊敬と信頼が得られるのか?・・・と単純に思ってしまいますね。
 講習を受けることによって、ますます自信や誇りをなくす教員が増えないことを祈るばかりです。
 これから連続して、教師が自信をなくす可能性が高い「逆コンピテンシー」特集を組もうと思います。
 想定は社会科教師ですが、モデルとしてある程度の汎用性はあると思います。
 逆コンピテンシーを解消し、理想に近づける方策は何なのか・・・・これが私が想定する試験問題です。

巨人・坂本の「右狙い」は好調維持への秘訣か・不調の始まりの予兆か?

 今日の巨人VS阪神戦で最も気になった1シーンが,4割打者・坂本ライトフライでした。

 坂本は基本的に引っ張りのバッター。

 内角低めを苦にしない坂本に,阪神バッテリーは「得意ゾーンの周辺部は苦手」という裏をかく方法で攻めるも,連日打たれている,そんな印象がありました。

 私は今まで,絶好調のバッターが「急に打てなくなる」きっかけになるシーンを幾度か見てきました。

 多くは顔(頭)近くのボールを投げられたり,当てられたりしたとき。

 坂本は,広島戦でその原因によって打撃不振に陥るかと思いきや,阪神線では好調を維持してきました。

 「急に打てなくなる」きっかけで別のパターンは,「ヒットを狙って振りが小さくなる,変に右方向を狙ったりする」=「自分のスイングでないスイングを始めたとき」というものです。

 今日のライトフライが,そんなきっかけにならないことを祈っています。

「きっかけ」待ちではない改革の推進を ふり返り366日【08/4/29】

 いよいよ遊んでいる時間もなくなりました。
 今月から,新しい事業への参画がスタートします。

 1年前のブログの内容と現状を比較しても,あまり行政の方は前進していないようです。
 
 行政にはとりあえず,各学校が主体的に取り組んだ具体的な「移行」の内容を集約してくれることを望みたいと思います。

 文科省レベルの改革は,結局のところ,誰がトップかによって踏み込み具合も,急がせ加減も変わってきますので,悲しいことに,大きな変革のスタートは「次なる大事件待ち」といったところでしょう。

 それが,子どもの命にかかわるような事件ではないことを切に祈ります。

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08/4/29 移行期間に完了すべき改革とは?

 裁判官の見る企業への目が参考になりました。(日経ビジネス「有訓無訓」)
 裁判官の判断というものは、確定した過去の事実や判例などを前提とした静止的なもの
 これに対し、企業の経営判断というものは、将来の事態を予測して計画などを立てるものであって、絶えず修正可能な極めて動態的なものであると言います。
 しかし、実際の裁判事例では、企業の静止的な経営判断にふれる機会がとても多い
 これは、たとえば名物経営者が敷いた路線を否定できず、踏襲しがちである体質がうかがわれます。
 特定の事業の判断は、何年たったら見直すべきか。また、何年で全面的な見直しをするか。
 企業の場合は、これを2~5年という短いスパンで繰り返さなければならないのかもしれません。
 教育はどうか。
 学習指導要領は、10年が基本的な見直しのスパンになっています。
 しかし、スパンが長い上に、「新しい学力観」の呪縛が残り、さらに「生きる力」路線は継続する。
 文部科学省には、「わかりやすく刷新できるもの」がない。
 10年に一度の改訂なのに、学力の国際比較データなど、いかにも目先のことにふりまわされていることや、後手後手にまわる問題解決の姿勢がありありと見える。
 教育には、不断の問答が欠かせません
 観点別学習状況の評価から評定へという課題の多い総括方法。
 土曜授業。
 学校規模や実態を考慮に入れない諸政策。
 ・・・・観点別学習状況の評価の「思考・判断」「資料活用の技能・表現」と、新学習指導要領がいう「活用」の違いは?
 土曜日の補習授業が増えているのはなぜか。
 なぜ保護者は土曜授業の復活を希望しているのか。
 土曜日の使い方は理念通りに実施できているのか。
 教員が週5日勤務するとき、休業を土・日だけにこだわるのはなぜか。
 実態として規制緩和状態にある国立・私立の教育をなぜ保護者は求めたがるのか。
 教務主任・生活指導主任・進路指導主任が主幹として上司になっても、実態としてその「上役」がいる場合はどうするのか。
 こういうものにすでに答えを出している学校に、何を学べるか。
 移行期間に完了してほしいものです。

上級生が教師に教える学校 ふり返り366日【08/4/28】

[教師] ブログ村キーワード

 選択教科が中学校からなくなることは,国語・社会・数学・理科の教師にとっては負担の軽減になり,実技教科の教師にとっては,ますます生徒から遠ざかっていく,そんな印象があるでしょう。

 学力向上へのプレッシャーは今後もしばらく続くと考えると,実技教科ではその存在意義や学ぶ価値の相対的な低下を防ぐために,それぞれ独自の工夫が必要になってきます。存続の危険も感じておく必要があるでしょう。

 将来的に再編があり得るのは,教科だけでなく,道徳や特別活動,総合的な学習の時間も同じです。

 放課後のクラブ活動や,行事などの準備や実施のために使う特別活動の時間は,その意義を教師だけでなく子どもたちも共通に認識しているものであり,最も「学校らしさ」「学校の独自性」が味わえたり発揮できたりする場になっています。

 「学校らしさをもっている学校」かそうでないかを判断する上での最もわかりやすい指標は,「異動してきて(あるいは新規採用の)1年目・2年目の教師」が,まだ生徒たちにとって「お客さん」のような存在であるかどうかです。

 「~はこういうものだ」ということを,上級生が「生活経験の浅い」教師に教えられるかどうか,それが特別活動総合的な学習の時間が充実している学校の姿です。

 私が理想としているのは,国語や数学,社会や理科のような教科についても,子どもたちが新しい教師や後輩たちに,「この学校の社会の授業・学習はこういうものだ」ということを「教える」ことができる学校です。

 その先に,本当の意味での教科等の再編が見えてくるはずだと信じているからです。

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08/4/28 次の次の教育政策

 今まで10年先を見通して物事を考えるくせをつけていたつもりでしたが、たとえば「教員免許更新制」「観点別学習状況の評価の見直し」「土曜授業」「教師の逆コンピテンシー分析」など、自分が考えていたことがもうすぐそこまでせまっているようなので、「その次」を考え始めることにしました。
 最大の課題は「教科の再編」「管理職や指導主事のあり方」ということになりますが、それを創造する前に、過去や現在のさまざまな失敗状況を見直しておかなければなりません。

行き着く先は階層化 ふり返り366日【08/4/27】

 よく仕組みを聞いてみれば,行政が学校に導入しようとしている「成果主義的な要素を入れた賃金体系」は,生涯賃金では格差が見られるものの,本物の「成果主義」と比べれば,「たいした違いではない」のが実情です。
  
 それがうまくいかなくなると,階層を増やしていく流れというのは目に見えている話で,それは時流に逆らってというわけではなく,「大衆の考え」を受けての改革実施ということになるわけです。
 「事務方と同じような仕組みにするだけ」と言えばそれまでですが・・・。

 「大衆の考え」では管理職より高い給料の教員がいるのはおかしな話で,仕事ができる給料が安い人が仕事ができない高い人に命令を下しているというのは「矛盾」として感じられるのは当然のことでしょう。

 問題は,同年齢で力量の違いがある,あるいは,分掌の仕事などで軽重がはっきりしている,こういうときの給与はどうあるべきかということです。
 
 力量のある教師がそろっている(あるいは,求められる力量が少なくてすむ)学校では,教師の職の階層化には何の得もなく,ただ年功序列に拍車がかかるだけの話です。

 力量の違いが非常にはっきりしている学校で,階層化がどのように機能するかということを検証するのが,改革の推進者としての任務ということになるでしょう。
 最大の問題は,その検証がやりきれるかどうかということです。

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08/4/27 学校における「会社ごっこ」の限界

 行政が指導する公立学校での「会社ごっこ」に盲点があることは、すでに何度か指摘しました。
 現場を知らない人間は学校を一つの単位として見てしまいますが、小学校なら学級数だけ、中学校なら学年の数だけ違う「学校」があります。
 小学校は学級担任が校長であり、中学校では学年主任が校長である。
 管理職はPTAと役人の接待係である。
 ・・・子どもの目、経験の浅い教師の目から見ると、「学校」とはそういうものです。
 子ども1人で年間100万円かけられている教育費のうち、教師の給料に85万円かかっていることからも、管理職の権限がいかに小さなものかがわかります。
 仮に管理職が学校に全く姿を見せないという状況を想定してみても、授業者さえいれば、学校はいくらでも動いていけるわけです。教師がさぼりはじめて、無断欠勤や遅刻が頻発する事態にでもならない限り、事務職で代用できてしまう仕事は何%くらいあるのか
 教育委員会から校長・副校長に渡される文書を、処分に関する個人情報を除いてすべてオンラインで公開し、一度管理職が担っているものを丸裸にしてみれば、最後に残るその存在意義とは何になるのでしょう。
 もし行政が教育を変えようとして「会社ごっこ」を続けるとしたら、管理職の実際の一年間を徹底的に分析してみることです。校長の一日は、何に何分ずつ費やされているのか。一年間で合計何時間の授業観察を行っているのか。パソコンをいじっている時間はどのくらいなのか。管理職の指導によって学校の何がいつどのくらい変わったのか。
 藤原元校長が著書『校長先生になろう!』(日経BP社)で紹介しているので、それを読めばわかる部分も多いですが、例えば藤原元校長なら、原稿を書く時間、講演をする時間、会議の時間、出張に費やされる移動時間はどのくらいだったのか。
 管理職批判が的はずれなものが多いのは、その仕事が理解されていないことが最大の原因であり、その情報を少しでも開くことが、学校改革の近道かもしれません。
 教員は授業と生活指導に集中して職務をまっとうする。では、管理職は何に自分の資源を集中させるべきなのでしょうか

子どもの屈折と大人の言行不一致

 学校現場で生きていると,「屈折した人」や,「屈折していく人」たちに出会うことになります。
 
 教育ブログの世界でも,ブロガーやコメントを入れる人など,屈折した人にたくさん出会うことができます。

 だいたい,超多忙な時間を過ごしている現場の人間に,ブログを続ける暇などないとも考えられるわけで,「屈折しているからできること」と言えなくもないでしょう。

 人間が「屈折」してしまうパターンの中で多いのは,「信じている人,応援している人に裏切られる,あるいは,信じている人,自分が尽くしているつもりだった人から評価されない」ことによる深い失望感が原因になっているものです。

 この失望から立ち直れるかどうかは,「もとはこちら」という認識をもてるかどうかにかかわっています。

 自分の失望を相手のせいにしてばかりいる人からは,相手が変わらない限り何も変化が起こらないわけですから,常に「相手待ち」の状態になり,イライラは募るばかりです。

 自分だけイライラしているのはイライラを募らせる原因になりますから,相手もイライラさせたくなる衝動にかられるようになり,困ったことに,実行に移す人もでてきます。

 「負けず嫌い」の性格の人なら,つい挑発に乗ってすばやい反応を見せたりするのですが,それがブログを閲覧する人の楽しみになっているところもあります。

 大人の中には,自分が「屈折」している自覚をもち,そしてそれが過去の経験によるものであること,たとえば,子ども時代の教育にあったと公言している人もいます。

 特に,戦後,教科書に墨を塗った経験のある方々は,思想や心情までが一変した教師という人間に(このように教師は社会の矛盾を子どもから一身に背負う立場になる場合があるわけですが)よる「屈折」の影響を感じているようです。

 子どものことに話を移すと,日本はおそろしいほど多くの人たちが「家庭教育がなっていない」という認識をもっている国です。
 教育どころか,「安全や生存」が脅かされている子どももたくさんいるくらいですから,子どもをもつ「親」に向けられる目は非常に厳しい。

 学校での行動の「荒れ」も,「糖度または汚染度が高い,あるいは溶解度が低い」家庭教育の影響を受けたものが多いため,子どもの「屈折」した性格や行動の原因をストレートに「」に向ける教師が多いのです。

 しかし,仮に子どもが何かの原因で「曲がって」いたとしても,それを「屈折」させる効果が学校にはあるわけです。

 「屈折」によって「正常な姿」に見えるようになる場合があるのはおいておき,問題となるのは学校独自の学習や生活の中で正常な子どもが,あるいは,ただ「曲がっている」だけの子どもが「屈折」する場合です。

 教育現場において,子どもの屈折の原因となる境界面とは何か。

 現場の教師として常に留意しておくべきことは,言行一致です。

 言行不一致の瞬間が,屈折の境界面となるからです。

 いつも子どもに「助け合い」「支え合い」の大切さを教えている教師が,お互いにそれを実行できなかったら,子どもの大人不信が固定化していくことになります。

 学校は,一教師の主義・主張や言動ですべてが動いているわけではなく,管理職が責任を負って公開しているさまざまな原理や原則,方針に従って動いているわけです。

 今までは,「一教師の主義・主張や言動」に振り回されてきた経緯をもつ学校でしたが,管理職がしっかりと責任を負えるような体制が整いつつあります。
 もし「同僚性」をより重視したいと主張する学校なら,一教師の言動にすべての教師が責任を負うべきです。

 特に親の不和によって大きな不安を抱えている子どもにとっては,どんな場であれ同じような不和の現われには敏感なものです。「大人」がより「大人」らしくあることが強く求められているわけです。

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「ゆとり世代」たたき関連報道の本格化

 日経ビジネス5月4日号の「時流超流」の中に,「ゆとり世代の配属が本格化~“新5月病”発生で現場は四苦八苦?」という記事がありました。

 「ゆとり世代」たたき,あるいは「教育失政」たたきの一貫としてのニュースづくりが徐々に見られてくることでしょう。

 「なぜだめなのか」という理由を探す上で,国民的な認知度のあり,関連が深そうな「キーワード」があると,それが徐々に「固定観念」「前提となる共通認識」になっていきます。

 記事を読んでいると,「ゆとり世代」と言われる若い人たちは,新学習指導要領によって,「自ら学び,自ら考え,主体的に行動する『生きる力』」を育まれてきたはずだ・・・というイメージではなく,「ゆとりの中で甘やかされて,困難にさしかかると簡単にあきらめる世代」「変化に対応できない世代」として描かれていました。

 そもそも誤解からスタートした若者像が,現実の姿から「正解」へと変異してしまう典型的な例が今後も見られそうです。

 「変化の激しい世界に生きる力」をどう育成するかが教育の課題でしたが,ほとんど変化しなかった学校現場で生活してきたことが原因ともいえるし,そもそも学校などで「変化に対応できる人間は育成できない」として批判することも可能です。授業時数が減って,「教えられている内容が少なくなっている」というのは塾に通っていなかった人にとってはとりあえず真実であるともいえます。

 今年の新入社員は,就職活動中は景気がよくモテモテだったのが,入社時は状況が一変していました。
 急速な景気悪化によって想定外の状況になっても,どのように対処していけるかを学べれば,よい体験になるとも考えられますが,「あくまでも自分の都合中心」で生きてきた人にとってはつらい日々が待っていることでしょう。

 例年,5月から伸びる「悩み相談」の増加のペースが加速しそうだという予想がありますが,どうなるでしょうか。

 学校や役所ならばそんな心配はいらなかったのに・・・という状況も変わりつつあるわけですが・・・。

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朝の占い

星座占いなどは,なぜか,1~3位のときと,最下位のときだけ,コメントをチェックするという習慣があります。

 とりあえずいい気分で1日をスタートさせるためでしょうか?

 最下位のときもチェックするのは,今日がどん底であることを知っていれば,ちょっとした良いことがおこると,他の日にもっと良いことがおこりそうな予感がするからか・・・?

 占いを気楽に見られるのは,それが悪いときには得てして良いことがおこり,占いで良い予想のあるときには,平凡な一日で終わることが多いからでしょうか。



コネタマ参加中: つい見てしまう朝の占い。気にする? 気にしない?


 

大手塾出身の教師が増加していくと・・・

 ある方のブログを読んでいたら,担任の教師から,子どもの進路について,「○○(大手の塾)に通っているので心配いらないでしょう」というコメントをもらっていたことが紹介されていました。

 この担任の教師は,その大手の塾での勤務経験があるので,言葉にも信頼性があるということでした。

 大手の塾の教室数が増え,講師経験者が増加していくということは,そのような人が教師に採用されるようになっていくということが考えられます。

 私もそうでしたが,受験のことを知り抜いている教師は,何をどの程度できればどれくらいの問題でどれだけ取れるかがわかるため,受験を想定した授業というものに走りがちになります。

 入試問題の大枠が頭に入っているため,そこから逆算するような指導計画作りというのも可能になり,子どもや保護者からも歓迎されるかもしれません

 そういう教師が現実にいるとすると,学習指導要領は全く読まなくても,ニーズを果たせてしまうことになります

 単純に,たとえば全国学力調査の結果がよかったり,入試で難なく志望校に進学させる実績を重ねたりしているうちに,そのような目的を達成するのにより「効率的」な授業というのを展開していく人が増えてきそうな気もしています。

 一昔前は,このような授業が抱える課題というのが,研究会などでも,真剣に議論されていたように思います。

 しかし,今は,それが課題になるようなレベルまで達していない授業があることが,課題になっています

 したがって大手の塾の存在感は,今後しばらく増すばかりで,学校本来の存在理由(学習指導要領に示されていること)の影が薄くなっていくような予感がします。

 学習指導要領に書かれていることを原点として考えていければ,今の教育改革について抱かれている疑問も解消されていくはずなのですが。

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教師は何を「信頼」して教育活動を行っているか? ふり返り366日【08/4/26】

 「学校を信頼している

というときの「信頼」とは,どのような意味でしょうか。

 「公立学校は信頼できない

というときの「信頼」はどうでしょう。

 歴史モノを読むと,失敗する人,没落する人の多くは,信頼すべき人物を信頼せず,信頼すべきでない人物を信頼してしまったことが原因になっているような気がしています。

 信頼すべき人物とは?

 信頼すべきでない人物とは?

 どのような人物のことでしょう。

 この二つの問いは,表裏一体の関係にあると言えそうです。

 教師に対して次のように問うてみたら,どのような答えが返ってくるでしょう。

 「あなたは自分のことを,子どもが信頼すべき人物だと言えますか。また,それはなぜですか。」

 なぜ公立学校が「信頼されていない」状態にあるのかは,現場を見れば明らかでしょう。

 教師たちは,自分たちのことを「信頼を受けるべき対象」だとは思えていません。

 教師たちが「信頼している」ものは何なのでしょう。

 そこに,問題の根っこがありそうです。

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08/4/26 結果責任が問われない公立学校という「安心社会」

 「ルールというのはその通り守る人が損をするもの」と考えているのはどういう国のどんな人でしょうか。
 そういう人たちによって構成されている社会は、「騙しあい空間」となるのでしょう。
 他者との緊張関係があるタイプの「私共(わたくしども)空間」です。
 中国では、「きれいな言葉」で表現される政治的スローガンに対する不信感が根強く残っており、現在でも「理想」「理念」「善意」が信じられなくなっている風潮があると言われます。
 もし、公立学校の教育課程の実現状況を、我が子を鏡にして分析したとき、「子どもは騙されている」「とうてい届きようのないところに導くと嘘を言っている」と真剣に訴える親が出てきたら、学校はどのように説明してあげるのでしょう。
 育児書でも何でも、読者はタイトルにつられて本を買ってしまう、ということがよくあります。
 「売るためのコピー」は専門家たちがよく考えてつくっています。
 そして本を読み、実践して、そこから得られる成果はどれほどのものなのでしょう。
 日本人にはまだ、他者に対して「安心」している部分があり、「信頼」できるかどうかを考慮しない傾向があると言われます。
 「人を信頼してはいけない国」になる心配はないかもしれませんが、すでに「安心していられない国」になるつつあり、「相手が信頼できるかどうかをじっくり考える必要のある国」に移行する過渡期にあるような気がします。
 表面化した毒物混入、偽装表示関連商品には厳しい目を向けるものの、現在の基調は「安心」社会です。
 教育についても、結果の責任はたとえば公立学校には問われていません
 「信頼」社会へ移行することで、公立学校は非常に肩身の狭い思いを常にせざるを得ない場所になりそうですが、どんな条件の中でも「信頼」されることをめざす、という気概をどのくらいの学校がもてるでしょうか。

騙しあいと勘違い ふり返り366日【08/4/25】

 本当に「正直」で,「本当のこと」しか言えない人は,もしかしたら教師には向かないかもしれません。
 教師に限らず,公務員として生きていくのはつらいことになるでしょう。

 「本当のこと」を言うということは,場合によっては相手の考えや意見を否定する結果になりますから,なぜ否定されるのかがわからないレベルの子どもには,あまり歓迎されない教師ということになります。

 ただ,逆に,常に「本当のこと」を言われないで育っている子どもというのも,考えようによってはたいへん気の毒な存在です。

 「意志が強い」と言われ続けた子が,調子に乗ったまま社会に出て,「頑固者」として相手にされなかったり,

 「粘り強い」ことを信条に生きてきた子が,大人になって「あきらめが悪い」と非難されたり・・・・

 「うそ」とは言えないかもしれませんが,
 
 「生意気」と書けない教師が「堂々として自己主張ができる」と表現したり,
 
 「反応が鈍い」「感受性の面で課題がある」ことを「物事に動じない」と表現したりと,

 子どもの「よい面」を積極的に評価しようとする教師が,重い課題と受け止めるべき場面でこのような「言い換え」を続けていると,下手をすればその課題をより重くし,解決をより困難にしていく手助けをすることにならないとも限りません。

 もちろん,リフレイミングの効果は以前も取り上げたことがあるので,有効性を考えて,使うべきときに使うことが教師には求められているわけです。

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08/4/25 教育の世界の騙しあい

 児童・生徒をよく褒める教師がいます。
 褒められて嫌な気になる子どもはいませんから、そういう声かけはごく自然なコミュニケーションを生むための手段として有効なのは言うまでもありません。
 しかし、中学生になると、単純な子どもも当然たくさんいますが、「先生はみんなにそういうことを言ってるんでしょ」という反応もおこってきます。「褒める」バーゲンセールをしている、「安っぽい」と反抗してみせる。
 「信頼関係の問題」という言葉では片づけられない、現代の「子ども」特有の傾向が見えます。
 気に入らない生徒のことを教師が褒めているだけで、その教師を敵視する生徒
 事実がどうであるかは全く問題ではなく、自分の子どもの言うことを教師が信じないことに腹を立てる親
 褒め言葉をうわべのものと決めつけ、管理職や主幹の指示にしたがって動こうとする教師や、法令や答申、教育長の意向に沿って教育を導こうとする指導主事を『犬』扱いしてなじる教師。
 こうした「子ども」対策として、コミュニケーションスキルといったレベルの問題で解決しようとしても、無理がありそうです。
 しかし、「気配を消す」ことだけでみんなが自分を守りに入ってしまっていては、教育はいっこうに前進しないでしょう。
 今は、「毅然とした態度」が原因で不登校、最悪の場合は自殺を招くことを想定した指導をしなければならず、「気配消しの名人」であることが生き残る極意であると感じている若い教師もいそうです。
 日下公人・石平の『日本と中国は理解しあえない』(PHP研究所)のまえがきで、「理解しあうことを求めるのは良いことではあるが、実現を焦ってたいていは騙される」という趣旨の言葉がありました。
 理解しあえない国と国とは、損得だけで交際するのもいいのでしょうが、一部の管理職が説得に使ってしまう、「これをするとだれにとって得、しないと損」などという会話は教育の現場では耳にしたくないものです。
 学校の教師同士が騙しあいを演じている現場は本当に歯がゆい。
 子どもにはいくら騙されても、子どもを騙してはいけません。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より