いじめ「傍観者」を防げない理由 ふり返り366日【08/5/7】
いじめの問題では,「傍観者もいじめに加担していると言える」という指導が一般的です。
しかし,その言葉が子どもの心に届かない学校があるのはなぜか。
簡単な話です。
「傍観者」である教師が学校にたくさんいるからです。
すべての教師たちに「学校を動かしている当事者」としての意識があれば,ある問題を教師がおこしたときに,他の教師から「それは私たちの問題です」という言葉が出されて当然のことになります。
現場をご存じない方には難しい表現かもしれませんが,学校によって教師の「空気の密度」には大きな差があります。
教師集団の「同じ空気の密度」が高い学校は,指導に一貫性があり,子どもの動きも教師をならって「矛盾」に対する目が厳しくなります。
しかし,学習指導,生徒指導に対する教師の「同じ空気の密度」が低い学校では,子どもは安心して「何でもあり」という前提で問題行動を繰り返します。
教師は「裁量権」という言葉を使って足並みの乱れをごまかそうとしていますが,仮に一人の教師に負わせる責任を重くしたとして,責任をとってすぐに辞めさせることができるようになったとしても,結果として子どもに対する被害が生まれてしまうのであれば,その方法は意味がないものだと言えます。
「別々の空気があってそれが交じり合わない」ことを徹底した「個人主義」「自由主義」を重視する教師が主張し,勝手な行動を繰り返す空間を,私は「私共(わたくしども)空間」と呼んでいます。
それが子どもから「公共の意識」を高める機会を奪っているのが,現在の学校教育の最大の問題なのです。
08/5/7 子どもが発揮できる「成果統合力」=当事者意識(自治意識)の涵養教師たちは、自分たちが学校を担うチームの一員であるという自覚をどれだけもっているのでしょうか。
学校運営連絡協議会で、いきなりこんな質問をぶつけられたら、どのように答えられるでしょう。成果統合力のある教師なら、その問いにいきなり分掌組織や学年経営の話から入らずに、生徒会活動や学級委員指導をたとえにして「自治的・自律的な活動」の実態とその指導のあり方を説明し、保護者がそこにどうかかわるべきかを自覚できるようにもっていくところまでいくでしょう。
「問い」をもらえば、そこが相手の自覚や自発的行動を促すチャンスであると認識し、時機を逃さず成果統合の場に引き入れられる力が教師のコンピテンシーの一つです。
教師集団の動きに成果統合力が適用されていれば、間違いなく子どもたちにもその力を身に付けさせたり、そういう志向性を持たせたりするように指導できるはずです。
生徒会や学級委員会がかざりではなく、本当に自治の主体になっているかどうか。その実態から教師集団の力も推し量ることができるでしょう。
荒れた学校では、学級委員でも自覚を促すよう指導するだけで「なぜ俺だけ言われるんだ」とキレてしまうのでしょうが、学級委員に「朝の学年集会」を企画・運営してもらい、遅刻やエスケープ、飲食・喫煙などの報告や提言を行ってもらった後は、学級委員も問題行動の当事者たちも、ようやくそれが「他人事」ではないことに気付いていくはずです。いつも遅刻してくる生徒たちも、この場で何がどう議論されているのか知らないのは不安なようで、体裁のため?わざと少し遅れて集まった後は、話によく耳を傾けていました。女子のミニスカート指導でも、授業中の携帯いじりに対して、「教育の当事者」であろうとしない「優しい」教師たちは、冒頭の問いを直接会議の場で受けたとき、どう答えるつもりなのでしょう。
子どもたちは「当事者」と「傍観者」を容易に見分け、「傍観者」のいる社会で欲望を満たしていきます。
「いじめ」の「傍観者」も加害者と同様の扱いを受けるようにようやくなりつつありますが、教育の場全体にはその考え方がまだまだ広がっていかないようです。
思えば社会にはあふれるほどの「傍観者」がおり、そういう人たちで構成される「居心地」のよい社会に、次々に同様の人間を送り込んでいるのが教育界なのでしょうか。
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