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子どもの学習意欲を高める「教師の関心」 ふり返り366日【08/5/4】

 教師の「教えたい意欲」「分からせたい欲求」が空回りしている場面をよく目にします。
 
 ジェスチャーゲームで,よく分からないジェスチャーを見せられて困っている解答者が生徒であるというイメージです。

 高いテンションを維持して子どもたちを引っ張っていく,そういう手法もありますが,子どもの学習意欲の高め方として,最も「高級」なのは,子どもが「学び甲斐」「考える意義」を感じ取れるように導く方法です。

 では,どんなときに子どもは「学び甲斐」「考える意義」を感じ取れるのかというと,これにも「高級」なもの,「低級」なものがあります。
 「モノでつる」のが最も「低級」であることは間違いないでしょう。

 「高級」なものに分類されるのは,「自己肯定感(あるいは自信)が得られる」「達成感が得られる」場合などがあります。

 ただ,自己肯定感や達成感は,子どもの学力レベルや性格などによって非常にまちまちなものなので,40人の一斉授業,グループを活用した授業では,限界があります。ただ,それも乗り越えなければならない壁であることは確かです。

 発想を変えて,教師として,「教え甲斐のある内容」とは何か,を考えようとすれば,これは結局,どのくらい深い教材研究と子ども理解に基づいて,どの程度,子どもに力をつけさせることができたか,に尽きます。

 「浅く広い」教材研究なら,教育雑誌レベルのものを読めばよいわけですが,「深い」研究となると,専門書にも手を伸ばす必要が出てきます。

 一日何時間くらい教師は勉強できるのでしょうか,という問いをまじめに向けられたら,多くの教師は戸惑ってしまうのではないでしょうか。
 この回答として,少なくとも,授業をしている時間は「勉強」に集中している,と答えられることを目標にしてみたいと考えています。その「勉強」とは,子どもから学び取るという姿勢を示しています。ただ,やはり見て学ぶことには限界があるので,「そのときに表現したこと(ノートに書いたこと)」に後で目を通す,という方法になるでしょう。

 教材研究と同じように大切なのは,教材で変容していく子どもの姿を理解していくことです。

 できれば教材研究と同じくらいの比重で,子どもが表現したものの分析・検討の時間を確保したいものです。

 教師が子どもの表現やその変容に高い関心を持っていくということが,子どもの学習意欲を高める上で大きな効果をもっていることを実感しています。

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08/5/4 社会科教師の逆コンピテンシー その6 学習への意欲を高める「しかけ」

 第6回のテーマは、「対人変革力(②対人のC創造力)」です。
 「対人変革力」不足は社会科の授業という観点から言えば、戦略力などの貧困が原因なのでしょうが、学習に対する意欲を高めることができない教師学力を向上させたいという願いが生徒に伝わらない教師は、かなり高い割合を占めていると思います。
 単純に、「テストで高い点をとらせたい」という気持ちは伝えることができても(脅しという方法も含めて)、具体的にこういう力を今、身に付けてほしいこういう力を今、発揮してほしいという願いが伝えにくい原因は、社会科という教科の特性にあるのかもしれません。このことについては、多くの側面からの分析が必要です。
 そもそも人の意識を変えさせることは、容易ではありません

 社団法人公共広告機構が、公共のマナー環境問題などをテーマに視聴者に語りかけるCMを提供していますが、その効果のほどというのはどれだけでしょう。
 広告会社は、人の意識を変えさせ、購買意欲を高める広告をつくるのが仕事なのでしょうが、そこには数多くの「騙し」のテクニックがあることはよく知られています。
 手段を選ばずに、さまざまな「しかけ」を用いて、人の意識改革を目指す。企業でも、たいへんな苦労をしているようです。

 教育行政も、教師の意識改革を目指して、次々に施策を打って出ていますが、もらっているのは「反感」ばかり。方法が方法だからでしょうが。
 横道にそれますが、日本のテレビCMは、「一段落CM」よりも、「ヤマ場CM」の方が多いのだそうです(日本は40%、アメリカは14%、イギリスは6%、フランスはゼロ・・・竹内一正著「グーグルが日本を破壊する」PHP新書より)。

 ドラマやクイズ番組でも、大事な場面でCMが入り、見ている方は非常にイライラします。
 ただ、日本人は「弱気の遺伝子」が強いらしく、そういうCMを流す会社の商品を買わないとか、テレビ局に苦情の電話を入れるとか、リモコンを投げつけるとか、そういう行動はあまりおこさない。だまってCMが終わるのを待っている。そういう側面もあるのですね。
 社会科で身に付けさせようとしている知識・技能は、世の中にあふれている膨大な情報・ルールの中のごく一部です。しかし、それを知りたい、集めたい、解決したいと思わせるきっかけになるしかけは、教科書の中には十分にありません。
 たとえば、「フランスでは見られないヤマ場CMが日本で多い理由は何か?」という問いは、教師が問うわけではなく、聞き手が勝手にそういう疑問をもつように「しかける」のが社会科の授業です。
試験問題】 社会科という教科を好きにさせるために、あなたが指導できる、とっておきの教材とは何ですか。また、その教材が多くの生徒を魅了した理由は何でしょうか。

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kurazoh先生。昨日はご訪問とコメントを有難うございました。コメントの返信を私のページのほうで書きましたので、ついでの折にご覧下さい。この後、kurazoh先生のブログのクリックをします。今後ともご指導・ご鞭撻、宜しくお願い申し上げます。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第四巻より
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    「歴史の活力」より
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    「侠骨記」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より