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ゴレンジャーと教師のオーラ ふり返り366日【08/5/4-2】

 長寿シリーズの代表格,スーパー戦隊シリーズものは,私が子どものころ観ていた「ゴレンジャー」から始まったようです。
 ウィキペディアで調べると,たいへん詳しい内容が紹介されているのがわかります。
 スーパー戦隊シリーズのパロディーなどは,聞いたことのないものばかりでした(シリーズそのものも自分のときや子どもが小さいときに一緒に観ていたものしか知りませんが)。

 赤いコスチュームに身を包んだキャラクターがリーダーであることは一般的だったような気がしますが,「カラー」別の具体的な個性については,ウィキペディアの記事を読むまでは具体的に知る機会がありませんでした。

 色が持つイメージからキャラクターづくりを行っている歴史が長いため,ステレオタイプ的な人間理解を定着させてきた役割については,研究の対象にしてもよいかもしれません。

 アカレンジャー・・・「優れた決断力と統率力を持ったリーダー義理人情に厚い熱血漢で、時には大人の余裕も見せる。正々堂々とした立ち振る舞いを好み、騙し討ちなどの卑怯な手段を使う者に対しては激しい怒りを見せる。」
 
 赤という色のイメージから連想される人間の特徴がよく表現されています。

 アオレンジャー・・・「メカの操作、各種乗り物(車両は言うに及ばず、船舶・航空機も)の操縦に長けている。人間嫌いな故にメカを愛するクールな二枚目だが意外と子供には優しい一面も持っている。

 青がもつ「クール」なイメージから,「人間嫌い=機械好き」「機械好き=人間嫌い」(逆に,「機械が嫌い=人間味がある」なども・・)というステレオタイプが生まれたのでしょうか。

 キレンジャー(初代)・・・「精密機械や通信関係のスペシャリストで、相手を撹乱する作戦ではその実力を発揮する。戦闘時は得意な柔道を駆使して相手を投げ飛ばす、また自身の怪力や頭突きを武器とした格闘戦を挑むことが多い。性格的には純朴で女性や子供にも優しい面が強いが故に敵にそこを突かれて策略に嵌り捕獲される事も多い。カレーに関しては目が無く・・・・」「なぞなぞは苦手なようで、太郎や明日香になぞなぞを出されると「何じゃらホイ。」とゴンや他の人に振っていつもゴンに馬鹿にされている。」

 キレンジャー(2代目)・・・「カレーが大好物の大岩に対してあんみつなど甘いものを好む。趣味は釣り。相撲が得意な肉弾派で猪突猛進気味の性格。」

 黄がもつイメージは,力技中心で頭脳的でない。気は優しくて力持ち・・・西遊記で言えば猪八戒が身につけて似合うという色でしょうか。

 モモレンジャー・・・「父がスイス人、母が日本人のハーフ。・・・武器開発と爆発物処理を得意とする紅一点。お嬢さま。非常に落ち着いた性格で明日香(ミドレンジャー)の抑え役に廻る事も度々ある。」

 女性はピンクというのは代表的なステレオタイプ。

 ミドレンジャー・・・「動物や自然をこよなく愛する。しかし格闘能力は高く、持ち味のスピードを駆使して遠近用万能武器ミドメランを使用して戦う。挿入歌によるとなぞなぞが得意なようで、本編でも時々大岩になぞなぞを出している。」

 緑と言えば自然,ということでしょうか。確かに,壁が緑色の火力発電所とかは似合わないですが・・・。

 教育現場では,カラーで子どもをコントロールするわけではありませんが,それぞれのカラーを連想させるようなオーラをもつ教師が存在すると,子どもの生活にも張りがでてくるのでしょう。

 あるいは,一人の教師がさまざまなカラーのオーラをコントロールできるような能力をもっているともっとおもしろそうです。 

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08/5/4 教師の自信と「オーラ」の源泉

 教師の自信とは何でしょう。
 教師は自信を持っていないとすぐに生徒に見破られ、存在意義を認めてもらえなくなります。
 生徒指導や部活動の指導には自信はなくても、教科の指導にだけは自信をもっていてもらいたいものです。
 教師のブログを見ると、失敗談を語っているにしてもそこには教育への自信があふれていたり、見え隠れしているのが普通でしょう。
 しかし、教師にとっての本当の自信とは、どんなに失敗したり、授業がうまくいかなかったり、指導が通らなかったりしても、決して生徒のせいにするのではなく、自分の能力不足であることをしっかり自覚し、くじけず、真摯に教育に正対し続けられることへの自信でなければなりません。
 私はリーダーを担っていたり、リーダーを目指したりしている子どもにハッパをかけるとき、よく「オーラが足りない」と言います。
 教師には七色のオーラが必要ですが、せめて学級委員には、クラスをまとめて盛り上げる赤のオーラと、けじめをつけ集中すべきときは集中させる青のオーラが必要です。
 教育実習生には、「教材」という最強の武器によって生徒を攻撃したり、「話術としぐさ」という防具によって生徒を包んだりできるように指導します。
 教師という職業の場合は、最強のオーラの部分が実は最大の弱点になっていたりして、常に勝者ではあり得ません。子どもを勝者にするために、何かを犠牲にするのです。
 まれに現場を離れて評論家になってしまったり大学の先生になる人がいますよね。そういう犠牲者になると、どんなオーラが最も失われるか、本人たちはよくわかっているでしょう。オーラの源泉は教育をすべき子どもたちにあるのであって、紙やパソコンの画面にある文字はあくまでも触媒としてとらえておいてほしいと思います。~GAKUさんへ~

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より