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観光バス型・新幹線型の授業 ふり返り366日【08/5/3】

 授業を自動車教習所の教官と生徒になぞらえて説明する例があります。

 「説明一辺倒の授業」とは,教習所の教官が運転席に座り,生徒が助手席に座るパターン。

 「生徒を主体とした授業」とは,教官が助手席に,生徒が運転席に座るパターン。

 ただ,これだと,生徒のたくさんいる学校の授業のイメージとしてはしっくりきません。

 人数で言うと,観光バスを例にとってみたらいかがでしょうか。

 「説明一辺倒の授業」とは,寝ている人がいようがおしゃべりしている人がいようが,ただしゃべり続けるガイドさんのイメージ。あるいは,ただ黙々と運転している(=板書している)運転手さんのイメージでしょうか。

 まだ,「右の景色をご覧ください」(次の資料をみて下さい)といったときに,魅力のあるものがあれば,コントロールがきいている状態といえます。

 ただ,やはり「反応ができる生徒」「答えることができる生徒」とそうでない生徒とは,かなり距離が離れています。

 学習が子ども主体で伸び伸び進んでいるイメージに近いのは,時々アナウンス(指示や説明)が聞こえてくる,新幹線の車内のようなものでしょうか。バスとは異なって席を向かい合わせにすることができ,グループで意見交換をしやすい。景色も眺めやすく,変化に富んでいる。

 ただ,新幹線の場合は,行き先はもちろん決まっており,寄り道や遠回りができないという問題がありますが・・・。

 発問や指示が次々に繰り出されるような授業も「飽きない」内容ならもつのでしょうが,メモも取れないと「その場限り」になる可能性が高く,うまい具合に知識や技能が「転移」できなくなるおそれがあります。
 
 行き先と到着時間だけをしっかりと示して,多様な寄り道をし,楽しみながら力をつけ,ゴールに到達できるような授業ができると子どもにとってはおもしろいでしょうね。そこに助け合いや学び合いがあればより学校らしさが生まれるでしょう。

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08/5/3 社会科教師の逆コンピテンシー その5 発問のねらい

 第5回のテーマは、「対人指導力対人サポート力)(②対人のB調整・統合力)」です。
 「対人関係力」不足の教師に「対人指導力」は期待できません。
 いきなり余談で申し訳ありませんが、近隣の女子校の生徒のスカート丈が短くなってきていることに注目しています。
 女子の服装指導・・・多くの学校の悩みでしょう。
 近隣の女子校の場合、指導の放棄が始まった現れです。
 指導の中心となっていた教師が異動したか退職したか、事情はよくわかりません。ときに指導が生徒本人や保護者の反感を招き、苦情でつぶされる教師もいますから、「強い指導」を安全のために避けたがる気持ちはわかりますが、現状はとても惨憺たるものになっています。
 服装指導が甘くなっている現状について、最も喜んでいるのは誰でしょうか?
 このブログをちょくちょくご覧になっていただいている方には、簡単に予想できる問題ですね。
 服装指導など、だれも好きこのんでやりたがる類のものではありません。
 生徒に嫌われるのを避けるため、「生徒指導部ではないから」などという理由で、担任であっても指導できない教師がいます。こういう教師は、「指導できない」と見られるプレッシャーをいつも持っていますから、指導しない教師がまわりに増えれば増えるほど、気が楽になって生き生きし始めます
 子どもも教師も生き生きする、「いい学校」の女子たちが、みんな自主的に晒し者になっていくわけです。
 スカート丈と相関がとれる学校情報・生徒情報とは何でしょうか。文化人類学者にでも分析してもらいたいものです。
 さて、授業では、教師の発問の意図が非常に不明確であり、それが原因で生徒が発言できないでいるケースをよく目にします。
 こういうとき、教師は発問に手を加えることで、発言を促すようにするのですが、それがますます混乱を招く場合も多い。何に答えたらよいのか、子どもがどんどんわからなくなってくる。
 過去にも述べましたが、私はこれを「北風発問」と呼んでおり、反対にどんどん答えや新しい問いを生む「太陽発問」力を磨くことを心がけているわけです。
 発問し、生徒が答えたらそれで終わり、ではなく、発言内容を要約したり、要旨を確認したり、そこから新たな問題を促すコメントを入れたりと、対話になっていく形が「太陽発問」になる一つの条件です。理解を促し、理解を深めるだけでなく、わからない部分というのがあることをわからせる。それが発問のねらいです。
 教師の逆コンピテンシーとして、時間内に単元の指導を終わらせるために、生徒の理解度をいっさい確認せずに、一方的に授業を進める人がいます。
 自分は「ああ、時間内に終わった」と満足しているのですが、子どもたちが消化不良のまま、おいていかれている。しかし、教師が満足そうなので、それでいいのだと勘違いし、学力がつかないことが常態化する・・・・。これもよくあるケースでしょう。
 指導力ではなくて、「時間内に終わらせる」発表力でしかありません。
試験問題】 生徒が意味を取り違えることのない明確な発問をするために、あなたが心がけていることは何ですか。その発問が明確であると言える根拠もあわせて述べなさい。
試験問題】 あなたの隣のクラスの担任は、服装や生活態度の指導をほとんどしません。そのため、あなたのクラスの生徒が、さまざまな不満をぶつけてくるようになってきました。「どうしてうちのクラスだけ厳しいの?」こういう声に対して、あなたならどのような指導を展開しますか。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第四巻より
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    「春秋の名君」より
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    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より