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教委制度改革への追い風と足枷 ふり返り366日【08/5/3-3】

 教育委員会という制度が抱えている問題は,「現場と行政」との間の溝より以前に,「行政と行政委員会」との間の溝を何とかしなければならないことを,行政の立場の人間はわかっているようです。行政といっても,直接住民の選挙で選ばれた知事がトップにいる地方自治体の話です。

 今日付けの日経新聞20面「グローカルView」で知事の半数が教育委員会改革を求めていることが示されていました。

 「知事の考え」というと,「教育への政治の介入」という側面が注目されますが,民主主義の世界における政治が,市民のためのものであるか,そうでないかを考慮せずに,「行政委員会」の力だけを強調するのはバランスを欠いている態度でしょう。

 「地方のパワー」が重視されている中で,かつ,行政の仕事の評価に社会の目が向くようになったことは,「制度改革」という流れや動きへの追い風となるはずです。

 それまでは「今まで通りでいいでしょう」という声に,「何も(改革のために)仕事を増やす必要はないでしょう」という声が重なって,「よりよい制度」,公正でかつ効率のよい制度を追究しようとする取り組みは十分に行われていませんでした。

 あとは,地方の政治,地方の改革といったときに,都道府県と市町村という二重構造の問題がどう克服されるか,それが大きな課題として残ることになりそうです。

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08/5/3 現場と行政の間の溝

 「行政は現場を知らない」という趣旨の記事をよく見かけますし、私もそういう趣旨のコメントをしたことがありますが、それは教師の実態の一面であって、別の面では現場の教師たちよりもはるかによくわかっている部分もあります。
 たとえばそれは、具体的な教師の問題行動犯罪の調書の概要とその処分内容、学校に寄せられるさまざまな苦情、管理職が行う教員の評価、学校では主に管理職や教務主任などが処理してしまうさまざまな調査の結果や分析などです。
 一方、行政には、たとえば教育現場の教師の「多忙感」というのは実感がわかないでしょう。
 企業や役所では、昼は必ず休憩時間が確保できて、職場を離れることが可能ですが、学校ではそうはいきません。では、休憩ができないかというと、中学校では空き時間が多い教科の教師を見ていればわかるように、よく職員室でお茶したりおしゃべりしている人もいます。
 職員室に残っている人数が多くなると、教員の立場からよく言えば「情報交換の時間」、しかしこれがもし役所でそういう実態があれば、すぐに「税金泥棒」と非難されることになります。
 「忙しい」が口癖の人はたいてい仕事ができなくて、仕事も集まらない。多忙感も忘れるほど多忙な人は、「忙しい」と口に出すことはなく、そして有能なら次々に仕事が集まってくる。
 別に有能なわけでもないのに、国の仕事、都の仕事、区の仕事、教材会社の仕事、教科書会社の仕事、NPOの仕事を兼ねながら、教務や進路、学年主任、学級担任、部活動の顧問、中体連の専門委員の仕事をしていたときは、今から考えれば忙しかったのかもしれませんが、さすがに出張が連続するようになったときは、「このまま現場にいていいのか」と疑問に思いました。「出張で忙しい」のは、現場の教師からはありがたがられるものではありません。
 行政に入ると、勤務の時間は変わらず、実質的に仕事量は3分の1以下になりましたが、使う神経は3倍以上になりました。
 「多忙状況」は簡単に「仕事量」÷「勤務時間」では求められないので、行政からは把握のしようがありません。
 学力の状況についても、学力調査で国語・算数・数学についてはある程度わかったとしても、その他の教科、道徳、総合などについてはどうでしょう。やるとしたら、指導要録の徹底分析でしょうが、この指導要録自体、今ほとんど存在価値が認められていません。
 上級校には抄本がいきますが、これを熟読する人はいないでしょう。
 観点別学習状況の評価を含め、指導要録の改訂には、困難を極めることが予想されます。
 行政と現場の溝を埋めるために、双方でなすべきことは多いのですが、それを深める努力をしている人が一部にいることは残念です。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より